僕が初めて仕事としてカレーに携わったのは15年ほど前のこと。川崎市のオフィスビルの一角で今も営業を続けているその店は、「エリックカレー」というお店です。インドカレーやタイカレーを日本人にも食べやすくアレンジしたその店は、ありがたいことになかなか順調でした。しかしそれで気を良くしてその後、都内と岐阜に出店したふたつの支店はさっぱりでした。メニューも味も全く一緒だったにもかかわらず、です。店は立地が大事であり、最初の店はたまたまそれに恵まれていたのだということを痛感しました。
そんな時、また新たな出店依頼をいただきました。2010年頃のことです。場所は東京駅直結の八重洲地下街。うまく行かなかった2店に比べれば好立地です。一方で家賃は高く競合店も多い。正直僕は全く自信がありませんでした。しかし結局そのオファーは受けることに決めました。あるひとつの計画があったからです。
その計画とはその店を、「カレー屋」という体裁を取りつつ、実質「南インド料理専門店」にしてしまうというもの。カレー屋と南インド料理店は似て非なるものではありますが、いずれにせよお客さん側から見たメニューの中心はあくまでカレーです。ならばそんな「偽装」も許されるだろう、という考えでした。
しかしそのアイデアは社内では全く理解されませんでした。幸い社長だけは「好きにやったら」と面白がってくれましたが、当時の主要スタッフ達は皆、
「なんでわざわざそんなことをするんですか? 場所もいいんだし普通にカレー屋やったらいいじゃないですか」
と、怪訝な顔。しかし僕にはどうしてもそれをやりたい理由がありました。
カレー屋さんであるエリックカレーは「お客さんに可愛がってもらえる店」でした。値段は安く、気軽に利用しやすく、そして多少好き嫌いは分かれるにしても味の評判は悪くない。実際、週に2回、3回と利用してくれる常連さんもいました。可愛がってもらえるというのはとても、とてもありがたいことです。
しかし支店での失敗も踏まえ、僕は「可愛がってもらえるだけではいけない」ということも同時に感じていました。可愛がってもらいつつも同時に「リスペクト」されなければならない、そうでないと疲弊するばかりで店は続かない、というのが僕のたどり着いた結論だったのです。
正直なところ当時の僕は、お客さんの側として「どハマり」していた南インド料理店を自分でもやってみたい、という密かな願望がありました。そしてその八重洲地下街の店はそれを実行する千載一遇のチャンスという身勝手な動機があったことも否定できません。しかし同時に、本格的な南インド料理を提供すればそこには絶対に「リスペクト」が生まれ、それが店を成功に導くという確信めいたものもありました。
なぜなら僕は、当時通っていた、まだ東京にも数えるほどしかなかった南インド料理店の全てをリスペクトしていましたし、好きが高じて現地にまで赴いた南インドの食文化そのものもリスペクトしていたからです。
それまでも、僕は現地で学んだ南インド料理を度々提供する機会を持っていました。エリックカレーのうまく行っていない支店のひとつである岐阜店が、あまりにいつも閑古鳥が鳴いていたのをいいことに(?)、そこで定期的に南インド料理を提供するイベントを開催していたのです。そこでは南インド式の定食である「ミールス」を中心に、毎回少しずつテーマを変えて様々な南インド料理を用意しました。宣伝は基本的に当時始めたばかりのSNSのみです。世の中には少数だけど熱量の高い南インド料理ファンが一定数存在していて、僕もそんなコミュニティの一員でした。
月イチくらいで開催していたその南インド料理イベントには、ただでさえあまり寄り付いてくれない地元のお客さんは更に寄り付かず、僕の友人たちを除けばSNS経由の人々しかいませんでした。その中には、わざわざ新幹線を使って東京や大阪から来訪してくれる人々も少なからずいました。
僕が作る南インド料理なんて当時てんで未熟なものだったはずですが、それでも、食事代の数倍の交通費をかけて来訪してくれるお客さんがいる。その熱量の凄まじさを僕は身をもって体験したのです。
「この味なら東京でも充分やっていけますよ。ぜひ東京に出店してください」
そんな嬉しいことを言ってくれるお客さんもいました。僕はそれをすっかり真に受けてしまったとも言えます。
周囲の人々をなんとか折伏しつつ、南インド料理店「エリックサウス」はなんとか開店に漕ぎ着けました。看板には「カレー屋」という体裁を一応は維持するために「南インドカレー」という惹句も付け加え、メニューブックもとりあえずカレープレートを最初に大きく載せつつ、その後ろに小さく「ミールス」や「ビリヤニ」といった知る人ぞ知るような料理の数々を付け加えました。
開店初日、オープン前から店頭には10人ほどの行列ができました。僕はその光景が既に感動的でちょっぴり目頭が熱くなっていたのですが、その時立ち会っていた幹部スタッフのM氏は「え? どうして初日からいきなり行列が?」と訝しんでいました。
しかも開店時間になって席についたその人々が、当時まだ日本では知名度ゼロに等しかった「ビリヤニ」を次々と注文するのです。M氏は呆気に取られていました。初日数食しか用意していなかったビリヤニはあっという間に売り切れ、その後来た人々はミールスを注文してくれました。そんな中、通りすがりにたまたま入ってくれたお客さんたちは「チキン」や「キーマ」なんかのカレーライスを注文する。エリックサウスの初日は、そんな感じでまずまずの滑り出しでした。
営業終了後、片付けと明日の準備を終えて深夜、事務所(と言っても、それは郊外のボロアパートの一室ですが)に戻ると、先に戻っていた幹部スタッフM氏はパソコンで食べログの画面を眺めていました。そこには既にいくつかのレビューが並んでおり、ありがたいことに概ね高評価で、なおかつどれも熱量に溢れた長文でした。そして何より嬉しいことに、そこには確かに「リスペクト」のニュアンスがありました。
M氏は缶ビールを啜りつつそれを見ながら、
「イナダさんが何をやろうとしていたのか、これを見てようやく完全に理解しました」
と言ってくれました。
(だからそれは前から何度も説明してるじゃん)
と、心の中で思いつつ、ニヤニヤしながら僕も缶ビールを開けました。
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稲田俊輔
料理人・飲食店プロデューサー。鹿児島県生まれ。京都大学卒業後、飲料メーカー勤務を経て円相フードサービスの設立に参加。和食、ビストロ、インド料理など、幅広いジャンルの飲食店の展開に尽力する。2011年、東京駅八重洲地下街に南インド料理店「エリックサウス」を開店。現在は全店のメニュー監修やレシピ開発を中心に、業態開発や店舗プロデュースを手掛けている。近年は、食についての文章も多く発表しており、最新刊『おいしいものでできている』(リトルモア)が話題に。著書に『人気飲食チェーンの本当のスゴさがわかる本』(扶桑社新書)、『南インド料理店総料理長が教える だいたい15分!本格インドカレー』『だいたい1ステップか2ステップ!なのに本格インドカレー』(いずれも柴田書店)がある。Twitter: @inadashunsuke
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とは
はじめまして。2021年2月1日よりウェブマガジン「考える人」の編集長をつとめることになりました、金寿煥と申します。いつもサイトにお立ち寄りいただきありがとうございます。
「考える人」との縁は、2002年の雑誌創刊まで遡ります。その前年、入社以来所属していた写真週刊誌が休刊となり、社内における進路があやふやとなっていた私は、2002年1月に部署異動を命じられ、創刊スタッフとして「考える人」の編集に携わることになりました。とはいえ、まだまだ駆け出しの入社3年目。「考える」どころか、右も左もわかりません。慌ただしく立ち働く諸先輩方の邪魔にならぬよう、ただただ気配を殺していました。
どうして自分が「考える人」なんだろう――。
手持ち無沙汰であった以上に、居心地の悪さを感じたのは、「考える人」というその“屋号”です。口はばったいというか、柄じゃないというか。どう見ても「1勝9敗」で名前負け。そんな自分にはたして何ができるというのだろうか――手を動かす前に、そんなことばかり考えていたように記憶しています。
それから19年が経ち、何の因果か編集長に就任。それなりに経験を積んだとはいえ、まだまだ「考える人」という四文字に重みを感じる自分がいます。
それだけ大きな“屋号”なのでしょう。この19年でどれだけ時代が変化しても、創刊時に標榜した「"Plain living, high thinking"(シンプルな暮らし、自分の頭で考える力)」という編集理念は色褪せないどころか、ますますその必要性を増しているように感じています。相手にとって不足なし。胸を借りるつもりで、その任にあたりたいと考えています。どうぞよろしくお願いいたします。
「考える人」編集長
金寿煥
著者プロフィール
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- 稲田俊輔
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料理人・飲食店プロデューサー。鹿児島県生まれ。京都大学卒業後、飲料メーカー勤務を経て円相フードサービスの設立に参加。和食、ビストロ、インド料理など、幅広いジャンルの飲食店の展開に尽力する。2011年、東京駅八重洲地下街に南インド料理店「エリックサウス」を開店。現在は全店のメニュー監修やレシピ開発を中心に、業態開発や店舗プロデュースを手掛けている。近年は、食についての文章も多く発表しており、最新刊『おいしいものでできている』(リトルモア)が話題に。著書に『人気飲食チェーンの本当のスゴさがわかる本』(扶桑社新書)、『南インド料理店総料理長が教える だいたい15分!本格インドカレー』『だいたい1ステップか2ステップ!なのに本格インドカレー』(いずれも柴田書店)がある。Twitter: @inadashunsuke
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