10月16日(金)
例によってまた間が空いている。まあ、そういうものだ。ほんとはもっとたくさん書きたいんだけど、仕事が忙しくてね。
「仕事が忙しくて」って、自分の好きな仕事しかしてないんだけど。
にゃにゃにゃ
にゃーにゃにゃ
にゃにゃにゃー
おさい先生がメークしながら何か歌っていた。
よく聞くと「犬神家の一族」のテーマだった(※文末に追記しまし
なんでそんなもん鼻歌で歌うんだろう。
あの、あれ面白いですよね、Twitterで、犬神家の一族と八つ墓村を間違ってるひとを、淡々と無言でRTするアカウント。
ああいうのがほんとのTwitterだと思う。
で、こないだなぜかおさい先生と一休さんの話になって、あれ確か天皇の隠し子か何かだよな、と、おぼろげであやしげなうろおぼえの話をしていた。
え、そうだっけ。
たしかそうだったはず。
じゃアレやん。ぜんぜんとんちで切り抜けてへんやん。
うん、そうやねん。
あれ実は、まわりの人たちもみんな、一休さんのとんちでギャフンってなってるかんじだけど、ほんとはみんな天皇の隠し子だって知ってて、わざとギャフンってなってるフリしてるだけなんじゃないか。
実はぜんぜんとんちで切り抜けてなかったんじゃないか。
みんな忖度してた。
忖度さん。
思わぬところで一休さんの孤独に思いを馳せた。
ほんとに隠し子だっけ。違ったかな。
これ違ったらもうぜんぜん話が成り立たないな。
まあいいや。
これ、まわりの人間もけっこう辛いよね。天皇の隠し子だから気を使っている、ということすら出してはいけない。あくまでも純粋に、一休さんの自称「とんち」それ自体に心から感心して笑っている演技をしないといけない。
辛すぎる。
一休さん孤独やな。
俺みたいやな。
違うか。
10月17日(土)
冷たい雨。秋も深まってまいりましたな。日も短くなった。いま朝9時で、コーヒー飲んでる。おはぎも起きてきて、もういちど一緒に寝ろと騒ぐので、おさい先生がソファに横になると、おさい先生と背もたれのクッションのあいだの隙間に入って、そこでゆったりとしている。おはぎはここに挟まれるのが大好きで、ソファに誰もいないときでもここで寝て私をクッションで挟めと要求する。あーはいはい、と、仕事中でもソファ まで行って横になってやると、うれしそうに隙間に挟まって寝る。
静かだな。
住宅密集地なので、隣の家の瓦に当たる雨の音がよく聞こえる。
10月18日(日)
朝から豚まん。スーパーで買ってきた安い豚まんでも、ちゃんと蒸し器で蒸すとたいへん美味しい。
蒸し器で何かが蒸されているところを見るのが好きだ。湯気が弱火にしゅうしゅうと沸いていて、その湯気が朝日にあたって白く光って、静かに踊っている。幸せだなと思う。
そういえばこないだTwitterでうっかり551の蓬莱のことを肉まんと言ってしまい、多数の大阪人のみなさまからツッコミをいただく。
なんで肉まんなんて言っちゃったのかなって思ったんだけど、たぶんアレだな、さいきんコンビニで肉まんよく買うからだな。
冬のコンビニの肉まんはうまい。
よく散歩の途中に歩きながら食べる。
コンビニの肉まんも、関西圏は豚まんっていえばいいのにね。
ていうか大阪人ほんまうるさいわ……
豚まんでも肉まんでもどっちでもええがな……
12月14日(月)
まためっちゃ間があいた。
おさい先生と「まうまう団」を結成したのだ。仕事に行き詰まったときに「まうーまうー」と叫ぶことが主な活動である。
けっこう気が晴れるからみんなもまうまう団に入ってください。
とか言うてたら、こないだ夜中におはぎが「まうーまうー」って言った。
よしよしおまえもまうまう団に入れてやろう。
おはぎはよく喋る。どうも長毛種の猫はみんなよく喋るみたいだ。そのかわりいままで一度も「にゃー」と言ったことがない。
「わんわん」とか「ぬあう」とか「あぬーなんなん」とか、そういう感じでよく喋る。
一度など、非常に明瞭に「8時半」と言った。
いや、そう聞こえたのではなく、たしかに「8時半」と発音したのである。
おはぎ、賢いぞ。
さすがまうまう団。
まうーまうー。
2021年1月12日(火)
間が空いてもええやないか。
しかしほんと誰とも会ってないし、街にも出てないから、おさい先生としか喋ってない感じする。
あとは対面授業と対面会議で。
教授会のときに立岩真也が黒いマスクしてる。黒いマスクにもじゃもじゃのロン毛なのでまるきりウィンターソルジャーである。
ソ連で洗脳されたのか。
あの読みづらい文体のなかに暗号が隠されている。
あんまり立岩さんのことばかり言うてるとそのうち叱られるな。
ファンやねん。まじで。
同僚をファン言うのもおかしいけど。
なんていうか、先端研来るまで面識なかったけど、そりゃもう若い頃から憧れておりました。
紙背から天才のオーラが出とるね。
文章読みづらいし。
結局そこか。
会議も授業も対面で、ほんまに対面やってええんかなと思う。
こないだ1コマだけやってる学部の授業で、喋りながらなんとなく腰に手をあてたら、ベルトがぐるっと一ヶ所ねじれてた。
なんかベルトがメビウスの輪みたいになってる……。無限に太ったらどうしよう……。
って言ったけどまったく受けなかった。
こないだも、
ああ僕ももう53歳ですよ。キミらからしたらもうほぼ死体やろ。
って言ったけどほんとうに受けなかった。
って友だちにぼやいたら「さいきんの学生さんはみんな上品やから、そういうギャグでは笑わない」とご指摘いただいた。
人生なにごとも勉強である。
ちゃんと真面目に授業もやってます。
夜中にとつぜん、オウムの声で「オウム返し! オウム返し!」って叫んだらおさい先生がゲラゲラ笑ろてた。
あと猫なで声で「猫なで声ぇ〜〜ん」って言ったり、犬の遠吠えの声で「負け犬ぅううううう。負け犬ぅううううう」って言ったりとかしてた。
そういう毎日。
これって赤いフォントで「赤」って書いたり、緑色のフォントで「緑」って書いたりするようなもんかな。
1月13日(水)
これまでいろんなクソリプくらってるんだけど、わりと印象に残ってるのが、
あーどっかに猫をなでるだけの仕事ないかな。贅沢は言わない。年収500万ぐらいでいい
って書いたら、
いまどき年収500万円なんて贅沢すぎませんか!?
みたいなのが来て、あれはほんとうに、どう言えばいいかわからなかったな。「ツッコむところはそこじゃない」っていうレベルじゃない。
じゃあ猫をなでる仕事はあるのかよ。
こないだ「ほえづらかくな!」っていうときの「ほえづら」ってどういう顔だろう、という話になって、じゃあやってみて、と言われて、顔をあげて目をむいて口を大きく縦に開けてみたのだが、自分でもこれは何か違うんじゃないかと。
よく考えたらそれは「ホエザル」のイメージである。
ホエザルとほえづらは違うやろ。
1月15日(金)
2016年まで在籍した前の大学で、教務課ていう、授業関係の担当部署にさんざん迷惑をかけてたんだけど、その部屋の外が吹き抜けになってて、2階まで壁が高くそびえてたんだけど、その壁の高い高いところに、トンボが止まってた。
ぜんぜん動かない。
来る日も来る日も、教務課ですみませんすみませんこんどハンコ持ってきますと頭を下げて謝りながら、ああまた今日もトンボおる、あれまた今日もトンボおるなと思って見ていた。
あ、あれ、死んでるんか。
そのままずっと、半年ぐらいそこにいた。
いつのまにかいなくなった。
教務課に行くたびに壁を見上げて、死んだトンボがそこにいるのをいつも見ていた。あのトンボは俺だな、と意味なく思ってた。
打越正行が一時期、手作り弁当を作って軽のワゴン車で沖縄国際大学の前で売ってたっていう話が好きだ。
何したって人間飯食っていけるもんやな、と思う。まあ、そんな簡単な話じゃないこともわかってるんだけど。どっかでそう思う。
俺もジャズミュージシャン→バーテン→日雇い労働者→塾講師バイト→大学講師というコースで、まあ、いろいろやりました。
1月17日(日)
「体が目当てだったのね!」とか「俺の財産が目的だったのか!」とかよくありがちですが、誰しも何らかのものを目当てにはするんじゃないかと思う。
優しさとか。人格とか。
優しさ目当て。
「お前は俺の優しさが目当てだったのか!!」
「結局お前は俺の人格しか見てなかったんだな……」
どこかでも書いたけど、人柄が好きっていうのは、それはそれでしんどいやろなと思う。ずっと優しくしていないといけない。
重いんじゃないかそれ。
顔が好き、って言われるほうが楽だよね。自分は何もしなくていい。
まあそれはそれでしんどいかな。
いずれにせよ、人から好かれるというのも重くて、しんどい。
よくSNSで「ああ酒飲みたいな」って言ってるひとがいて、俺もしょっちゅう書くけど、そういうときはだいたいさみしいときだよね。
大北栄人さんのネタで「冷蔵庫をなんとなく開けて閉めることの意味のなさ」っていうのがあったけど、あれもたぶんちょっとさみしいときなんだろう。
1995年の1月17日から26年。
途中でタバコ屋が、つぶれて、焼けて、がれきになってるところの、家の前をおばちゃんが掃除しとったんですわ。
あれは忘れんわ。
家の前にようけタバコ落ちてるんですわ、散乱してて。
おばちゃん、これお金置いとくさかい、ひとつもらうでって言うたら、お金いらんからなんぼでも持ってって。ぜんぶ持ってって、って。(引用元:「雨すごかったですな」)
1月18日(月)
カート・ヴォネガットが生きてたら、いまのアメリカの政治状況を見てどう思うだろうか。
1月31日(日)
朝帰りっていつからしてないかな。最後にしたのは何年前だろう。あの自己嫌悪と罪悪感と疲労と眠気と、楽しかった満足感の混ざった独特の気持ちがなつかしい。
そして家に帰って寝るんだけどそんなに夕方まで寝る体力はもうなくて、3時間ぐらい寝たらもう次の日の普通の日常が始まって、しぬほどしんどい。結局その夜は早く寝て、そのまた次の日になるまでリセットできない。
学部の仕事から離れて大学院にうつったこともあり、オールで飲む友達もだんだんいなくなって、そういう店も少なくなり、自分自身も年老いていって、死ぬ間際に「あああれが最後の朝帰りだったな」とはじめて気づくんだろうけど、それがいつか思い出せない。その朝帰りの最中に「これが人生で最後の朝帰りだ」と気づくことは不可能で、そしてあとから思い出すこともできず、結局「最後の朝帰り」はもう、この宇宙のどこにも存在しない。
とかいってまたやるかもしれんけど。
しかしさすがに50すぎたらあかんやろ。
そういえばよく学生さんたちが、3回生ぐらいになると「もう私ら年やんな、もうオールとかできひんな」って言ってたけど、いやそんなハタチかそこらで歳をとるはずがなく、いやそれはたぶんオールっていう遊びに飽きちゃっただけやで、といつも答えていた。
しかしもう本当に、なにもかもすごいスピードで頭の後ろに過ぎ去っていくな。飛び去っていく。何も残らない。
きなこを見送って、次はおはぎだろうかと思う。毎日愛しくて可愛くて溺愛してるけど、永遠には生きない。
2月1日(月)
パソコン、とくにノートパソコンを使ってると、自然に首が前に出る。あごを突き出す感じになって、肩がこってしゃあない。
意識的に、頭と首を後ろに引くようにしている。あごが上にあがる。首がラクだ。
でもそうするとなんか、パソコンを上から見下ろして「ああん!?」って喧嘩売ってるみたいになる。
上から目線で見下してごめんな、MacBookよ……。
これからはMacBookに寄り添って、その気持ちを理解するようにしたい。
でもそうすると肩がこるんだよね。
他者理解は難しい。
2月2日(火)
何回も同じこと書くようだけど、むかしのことをどんどん忘れていってて、ほとんど何も覚えてない、ぼんやりとした景色とか音とかしか思い出せないんだけど、そういうことを私のかわりにおさい先生が全部覚えてて、なんか文章を書くときに「あれ、ほら、あれいつどこで誰だっけ」っていうとだいたい「あれあれやで、あのときあそこで、誰さんがおったで」と答えてくれる。
外付けハードディスクみたいだ。俺の記憶のバックアップ担当。
ただし同期はできない。いちいち聞くしかない。
おさい先生が亡くなったら俺の記憶もぜんぶなくなるのだ。
それでよい。
こないだそのおさい先生が突然「リアリズム・マジック!」と叫んだ。
ラテンアメリカの文学は「マジック・リアリズム」という言葉で語られることが多い。ガルシア=マルケスとかね。
それを逆にしたらしい。
リアリズムにもとづく手品である。
人体切断とか、えらいことになる。
「さあ、いまからノコギリで胴体を切断します!」
「キャー!」
とかいって、何のタネもなくノコギリで切断する。
阿鼻叫喚である。
血と内臓が……
2月3日(水)
こないだYouTubeでオタマトーンがバズってて、たまらんくなって思わず注文したのである。
そしてめちゃめちゃハマってる。
だから書類の締め切り守れないのは僕のせいじゃありません。
オタマのせいです。
しかし癒されるなオタマトーン。
めちゃ楽しい。
弾いてるとき、自分の顔とオタマの顔がシンクロする。おもわず自分もオタマの顔になるのだ。
ヤザワの顔みたいな感じ。
そういえばヤザワをカラオケで歌うおっさんは全員ヤザワの顔になるよね。
で、いま我が家で、「オタマトーンの真似」が流行っている。
自分の手でほっぺたをはさんで押さえて、口を開けて「ぷわ〜」と叫ぶ。
これ意外に癒されるのでおすすめです。
こういう意味のないことをして生きていきたい。
大学辞めてオタマトーンで飯食われへんかな…………
2月4日(木)
こないだ何かの映画観てて、コールドスリープは寒そうでイヤやな、という話になった。とくにおさい先生は冷え性なので、冬眠するときもコールドスリープしたくないと主張した。
たしかに目が覚めたとき体が冷え切ってそうだよね。
まあ、当たり前だけど。
で、コールドスリープよりホットスリープのほうがいいよね、という話に。
しかしよく考えたら、毎日布団の中におはぎが入ってきて一緒に寝ている。布団のなかはいつもホカホカである。
知らなかった。知らないうちにホットスリープをしていた。
おはぎときなこを拾ったのは2000年だ。
ホットスリープをしているうちに、いつのまにか21世紀になっていた。
猫を飼うとタイムワープできるな。
気がつくと俺も50を過ぎている。
わーい。
※公開後に「もしかして……」と思ってあらためて調べてみたら、
最新情報
岸さんが書いた大阪を舞台にした最新小説集『リリアン』(新潮社刊)は2月25日発売です!
-
-
岸政彦
1967年生まれ。社会学者。著書に『同化と他者化─戦後沖縄の本土就職者たち』『街の人生』『断片的なものの社会学』(紀伊國屋じんぶん大賞2016受賞)『愛と欲望の雑談』(雨宮まみとの共著)『質的社会調査の方法─他者の合理性の理解社会学』(石岡丈昇、丸山里美との共著)『ビニール傘』(第156回芥川賞候補作)『図書室』など。最新刊は『リリアン』(2/25発売)。
この記事をシェアする
「にがにが日記―人生はにがいのだ。」の最新記事
MAIL MAGAZINE
とは
はじめまして。2021年2月1日よりウェブマガジン「考える人」の編集長をつとめることになりました、金寿煥と申します。いつもサイトにお立ち寄りいただきありがとうございます。
「考える人」との縁は、2002年の雑誌創刊まで遡ります。その前年、入社以来所属していた写真週刊誌が休刊となり、社内における進路があやふやとなっていた私は、2002年1月に部署異動を命じられ、創刊スタッフとして「考える人」の編集に携わることになりました。とはいえ、まだまだ駆け出しの入社3年目。「考える」どころか、右も左もわかりません。慌ただしく立ち働く諸先輩方の邪魔にならぬよう、ただただ気配を殺していました。
どうして自分が「考える人」なんだろう――。
手持ち無沙汰であった以上に、居心地の悪さを感じたのは、「考える人」というその“屋号”です。口はばったいというか、柄じゃないというか。どう見ても「1勝9敗」で名前負け。そんな自分にはたして何ができるというのだろうか――手を動かす前に、そんなことばかり考えていたように記憶しています。
それから19年が経ち、何の因果か編集長に就任。それなりに経験を積んだとはいえ、まだまだ「考える人」という四文字に重みを感じる自分がいます。
それだけ大きな“屋号”なのでしょう。この19年でどれだけ時代が変化しても、創刊時に標榜した「"Plain living, high thinking"(シンプルな暮らし、自分の頭で考える力)」という編集理念は色褪せないどころか、ますますその必要性を増しているように感じています。相手にとって不足なし。胸を借りるつもりで、その任にあたりたいと考えています。どうぞよろしくお願いいたします。
「考える人」編集長
金寿煥
著者プロフィール
-
- 岸政彦
-
1967年生まれ。社会学者。著書に『同化と他者化─戦後沖縄の本土就職者たち』『街の人生』『断片的なものの社会学』(紀伊國屋じんぶん大賞2016受賞)『愛と欲望の雑談』(雨宮まみとの共著)『質的社会調査の方法─他者の合理性の理解社会学』(石岡丈昇、丸山里美との共著)『ビニール傘』(第156回芥川賞候補作)『図書室』など。最新刊は『リリアン』(2/25発売)。
連載一覧

ランキング
ABJマークは、この電子書店・電子書籍配信サービスが、著作権者からコンテンツ使用許諾を得た正規版配信サービスであることを示す登録商標(登録番号第6091713号)です。ABJマークを掲示しているサービスの一覧はこちら