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2018年10月9日 緊急寄稿

緊急掲載

「文藝評論家」小川榮太郎氏の 全著作を読んでおれは泣いた

著者: 高橋源一郎

 9月21日・金曜日の夜、「新潮」編集部から電話がかかってきた。おかしいな、と思った。今月は締め切りがないはずなんだが。イヤな予感がした。おれは、少しの間ためらった後、電話に出た。案の定だ。「新潮45」問題について書いてくれ、というのである。確かに、おれは、その問題についてツイッター上で少しだけ発言をした。それだけだ。面倒くさいし、何のためにもならない。一晩考えさせてくれ、といっておれは電話を切った。でも、おれは引き受けることになるだろう、と思った。「面倒くさくて何のためにもならないことは引き受けろ」は、高橋家の家訓なのである。
 書くことを引き受けてすぐ、「新潮45」の休刊が決まった。この問題については、考えなければならないことが多すぎる。休刊の是非、雑誌や出版社、あるいは著者のあるべき姿、休刊の直接的な原因となったであろう小川榮太郎氏の論文の問題点、当該特集号の各投稿それぞれが抱えている異なった問題、そもそも、特別企画のもとになった「杉田水脈」論文の中身、さらにいうなら、同じような特集や発信を繰り返す、いわゆる「右派」論壇(誌)のイデオロギーの本質、さらに……。いや、それらすべて引き受け、考える時間など、もとよりあるわけがない。そして、それらの問題については、おれなどより遥かに適任者がいて、その人たちがやってくれるはずである。おれの出番じゃない。
 おれが気になったのは、「政治は『生きづらさ』という主観を救えない」という、画期的な論文(かな?)を書いた小川榮太郎氏の肩書が「文藝評論家」だったことだ。
 その論文のすごさはみなさんが勝手に確かめてくださるようお願いしたい。もうすっかり有名になってしまったが、「テレビなどで性的嗜好をカミングアウトする云々という話を見る度に苦り切って呟く。『人間ならパンツは穿いておけよ』と」という冒頭部分から、「嗜好」じゃなくて「指向」じゃないのかなあ、といきなり躓くよね。それ、LGBTについて書くならいちばんやってはいけない間違いじゃないのかなあ。もちろん、小川さんは断固として「嗜好」を貫く。最後まで読んでみた限りでは、どうも「嗜好」と「指向」の違いを知らないのではなく(というか「知るつもりもない」らしい)、「嗜好」の方が画数が多いので使っているみたいだ。意味の違いなど気にしない方なのかもしれない。たぶん、文章を書く上でこだわっているポイントが、一般の書き手とは異なっているのだろう。
「LGBTという概念について私は詳細を知らないし、馬鹿らしくて詳細など知るつもりもないが、性の平等化を盾にとったポストマルクス主義の変種に違いあるまい」というのも類を見ない発想だ。他の雑誌でも「詳細を知らないが」と前置きして書いているのを見かけるので、あえて「知らない」ままで書くのがお好きな方のようだ。おそらく、その方がフレッシュな気持ちで書けるからだろう。とにかく、小川さんに「事実と違う」と指摘するのは意味がないのではあるまいか。だって「知らない」っていってるんだから。しかし、これ、いい作戦かもしれない。おれも、「詳細を知らないし、馬鹿らしくて詳細を知るつもりもない」と前置きして書くことにしようかな。それで文句をつけられたら、「おれの文章をきちんと読め! 知らないっていってるだろ」といえばいいわけだ。でも、それでは、「新潮45」を読むような善男善女の読者はびっくりしたと思う。ふつうは、ある程度、意味を知って書いているはず、と思いこんでいるからね。
 しかし、なぜ、小川さんは、そのようなハジケた、というか、いささか乱暴な文章を書かれたのか。「文藝評論家」であるのに。それが、おれにとって、最大の疑問だったのである。おれは小説を読むのも好きだが、「文(原文では傍点)評論」(すまん、おれ、画数が多い字が苦手なんだ。というか漢字よりひらがなの方が好きなんだけど)はもっと好きだ。家には、やたらと「文評論家」のみなさんの本もある。なのに、小川さんの本が一冊もないのである。いったいなぜなんだろうか。
 この文章を書くことに決めて、おれが最初にやったのは、アマゾンで手に入れることができる小川さんの著作をすべて購入することだった(もちろん自費)。そして、入手できた以下の著作、『徹底検証「森友・加計事件」』『徹底検証 テレビ報道「嘘」のからくり』『最後の勝機チャンス』『天皇の平和 九条の平和』『一気に読める「戦争」の昭和史』『『永遠の0』と日本人』『国家の命運 安倍政権 奇跡のドキュメント』『約束の日 安倍晋三試論』『小林秀雄の後の二十一章』『民主主義の敵』(杉田水脈氏との共著)『宣戦布告』(足立康史氏との共著)『保守の原点』(宮崎正弘氏との共著)と5冊の雑誌を、23日から26日にかけて読んだ(上念司氏との共著は手に入らなかった)。かなり疲れた。その中で、はっきりと「文藝評論家」の仕事といえそうなのは、542頁ある『小林秀雄の後の二十一章』(幻冬舎)だけではないかと思った。その感想を書く前に、もう一つ、おれがふだん励行している「論じる、もしくは、話をする前に、その相手の全著作を読んでおく」システムについて触れておきたい。よく、「なんでそんな馬鹿なことするんだよ」といわれる。同感だ。だが、それは、おれにとって最低限の、相手へのリスペクトの表現なのである。おれはいまNHKラジオで「すっぴん!」という4時間近い生番組のパーソナリティをやらせていただいている。でもって、毎週ゲストを迎える。もちろん原則として「全著作(作家以外の方は全作品)」をチェックする。金も時間もかかる(基本、自費。なので、ギャラより資料費の方がかかるときだってある)。でも、いくら頑張っても無理なときはギブアップする。だから、角野栄子さんや谷川俊太郎さんのように著作が400冊オーヴァーの方、岩下志麻さんのように出演映画が100本以上ある方には正直に「全部チェックするのは無理でした。すいません!」と謝ることになる。いや、この「全作品を読む・見る・聞く」システムは、相手をリスペクトする以上の意味がある。相手を理解し、好きになることができるのである。以前、元大阪府知事・市長の橋下徹の言動にむかついて、批判してやろうと思い、やはり彼の全著作を取り寄せた。そのかなりの部分が絶版になっていたが、努力して集め、そして読んだ。そしたら、すっかり橋下氏が好きになってしまったのだ……。書かれた言葉には(どんなにひどくても)、その個人の顔が刻印されている。全部読んだら、もう知り合いだ。憎む理由がなくなってしまうのである。おれは、ヘイトスピーチに象徴される憎悪の連鎖を止めるヒントはそこにあるのではないかと思っているが、まあ、その件は、いまはおいておこう。
 正直にいう。おれは、小川さんのことを、「新潮45」論文のような文章を書く方だと思っていた。だが、まるで違うのである。小川さんが「私の人生そのものである」という『小林秀雄の後の二十一章』の中の小川さんは、ひとことでいうなら、「文学が好きで好きでたまらない、いい人」だ。いや、小林秀雄と並んで、小川さんが深く敬愛する江藤淳に触れた文章では、「私自身の不器用な生き方にも通じる」とか「だが、この人の野心、そして病ゆゑの焦り、しかし、もし假に、病でなかつたとしても、焦慮の中で己の身を焦し、その焦熱の爲に自滅したかとさへ思はれる子規の人間の精彩と悲慘とは、どこか、私の半生に重ならぬこともないやうである」とか「私は、石村ら、文學の志を同じくする何人かの人間と商賣を始め、麹町の汚いビルに雜魚寢をしながら、先の見通しもまるでないまゝ、文學をやる爲だけに、生にしがみついてゐた。見えない希望に齒を噛みながら力みかへつてゐた」と書いている。小川さんの青春が透けて見えるような文章だ。おれより十五も若くて、こんな純粋な文学青年がいたのかと思うと、ほんとに泣けてくる。他人事ではない。おれだって、小川さんと同じような文学青年だったんだから。江藤淳、勝海舟から、ルソーにドストエフスキー、フルトヴェングラーから平野啓一郎まで、小川さんの文学愛が炸裂するような重厚な文章がこれでもかと押し寄せてくる。正直にいって、自分の文章に陶酔しすぎ、という側面が感じられないわけではない。でも、過剰なほどの文学への愛に免じて、おれは目をつぶるつもりだ。そして、これは、もしかしたら無意識で書いているのかもしれないが、小川さんは、実によく自分のことを理解しているのである。
「强がつてゐなければ、彼らは、外側から容赦なく襲ひかゝる侮蔑と、內側から來る自尊心の崩壞に、耐へられない」(小川榮太郎「ドストエフスキー『死の家の記錄』」より)
 いや、もっと驚くのが、こちらだ。
「その最大の懸念の一つが、匿名の私語を公的に流通させられることから來る、他者感覺の鈍痲であるのは、間違ひない。他者性への畏れや慮りを忘れゝば、人々の內面は、たとへやうもなく荒廢し始める。我々が、實際の言語生活で、他者へのどれ程の配慮を必要としながら生きてゐるかを、考へてみるがいゝ。相手との關係や狀況により言葉の所作にその都度氣を配る、さうした慮りを拔きに、他者と共にあることは、どんな無神經な、どんな傍若無人な人でも、決してできない」(小川榮太郎「平野啓一郞『決壞』」より)
「新潮45」の文章を読んでから、この文章を読んで(逆でもいいけど)、驚かないやつはいないだろう。同じ人間の文章とは思えない。「他者感覺の鈍痲」がダメって書いてんのに、「他者感覺」が完全に鈍痲した文章を書いてる……って、まるで二重人格ではないか。その通り。おれは、小川さんの全著作を読み、ここに、ふたつの人格があるように思った。ひとりは、文学を深く愛好し「他者性への畏れや慮りを忘れ」ない「小川榮太郎・A」だ。そして、もうひとりは、「新潮45」のような文章を平気で書いてしまう、「無神經」で「傍若無人な」「小川榮太郎・B」だ。まるで藤子不二雄のようではありませんか。あの場合は、ほんとうにふたりで書いていたわけだけれど。
 この本の中に収められた「川端康成『古都』――亀裂と抒情」は、実は2003年の「第三十五回新潮新人賞」評論部門の最終候補に残っていたという。その候補作「川端康成の『古都』」について、選考委員の福田和也氏は「冒頭の(……)文章は、もちろん滑稽、諧謔として書かれているのだろうが、そうだとしても失笑をしか誘わない(……)批評文としても、完成度がきわめて低い」とし、同じ選考委員の町田康氏は「乙にすました文章が、なんでそんな言い方をするのか分からず」としている。小川さんは、書き直したようだが、おれの受ける印象も、15年前の選考委員諸氏のそれとあまり変わらない。結局、この文章は受賞を逃すのである。
 それから、小川さんが、どのように生きていたのかはわからない。小川さんが、はっきりと姿を現すのは、それから9年後、2012年のことだ。デビュー作となる『約束の日――安倍晋三試論――』(幻冬舎)をひっさげて登場し、以降、怒濤のように本を出し、右派論壇の寵児となるのである。その『約束の日』は、安倍晋三氏への愛に満ちた本だ。文学以外でも、こんなに愛情深く書くことができるのだ、と思うと、なんだかおれは胸が熱くなった。そして、この本は、安倍氏の政治団体が数千冊買い上げたことでも有名になった。そのことを、小川さんは、どう思ったろうか。
『小林秀雄の後の二十一章』のあとがきで、小川さんは、本が出来た由来について書いている。
「あれは、今から二年八ヵ月前、平成二十四年の十月のことだつた。
 忘れもしないその日、私は京都北山のコンサートホールで、クリスティアン・ティーレマン指揮シュターツカペレ・ドレスデンのブラームスを聽いてゐた。山襞に美しい秋の陽が差すその幕間に、電話が鳴つた。
 幻冬舍の見城徹社長からの御電話だつた。
『小川さん、色々評論を書いていらつしやるんでせう? もし宜しければ、うちから纏めて出しますが、如何です?』
 望外のことだ。
 いや、望むことさへ無理だと思つてゐた私は、最初、見城さんの御申し出の意味が、殆ど理解できない程だつたと言つていゝ。幾ら何でも、私の文藝批評などといふ、時流と餘りにも交はらない仕事を本にしてくれる――いつかどこかで必ず出したいとは思つてゐたが、全く當てはないのが正直な所だつたのである」
 平成二十四年十月というと、同じ幻冬舎から、『約束の日』を出した翌月だ。「色々評論を書いていらつしやるんでせう?」というぐらいだから、見城徹氏は、小川さんの評論は読んでもいなかったのだろう。ということは、おれなら「これ、前の本のご褒美だな」と思う。小川さんは、どう思ったのかな。そのことを考えると、おれはまた、胸がしめつけられるような気がしたのである。
 小川さんは敬愛する「小林秀雄の文業を繼ぐこと」を示すために、この本を作った。だから、造本も、小林秀雄の『本居宣長』を踏襲している。それほどまでに、小林秀雄への愛は深かったのだ。そんな小川さんが、『本居宣長』も小林秀雄全集も出版している新潮社へ初めて寄稿することになった。というか、かつて自分を新人賞で落とした新潮社の雑誌に、である。どんな思いで、書いたのだろう。しかも、求められたテーマは、愛してやまない文学とはなんの関係もなかったのだ。なんだかとても寂しいことだ。
「小川榮太郎・A」と「小川榮太郎・B」は、お互いのことをまるで知らないように存在している。同じ人間だと知ったら、内部から崩壊してしまうことに薄々気づいているからだろうか。その構造は、ジョージ・オーウェルが『1984年』で描いた「二重思考」にもよく似ている。あれは、強大な権力に隷従するとき必要な、自らの内面を誤魔化すための高度なシステムだったのだが。おれは、憎しみのことばを吐き散らす人たちの内面も、こんなふうに悲しく分裂しているのではないかと思うことがある。そう思うと、おれは、彼らを、簡単に責めることができないのである。

 2018年9月28日

(「新潮」2018年11月号より転載)

※文中の一部は、原文では旧字です。

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何かについて考え、それが「わかる」とはどういうことでしょうか。

「わかる」のが当然だった時代は終わり、平成も終わり、現在は「わからない」が当然な時代です。わからないことを前提として、自分なりの考え方を模索するしかありません。

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“Plain living, high thinking”(シンプルな暮らし、自分の頭で考える力)*を編集理念に、Webメディア「考える人」は、わかりたい読者に向けて、知の楽しみにあふれたコンテンツをお届けします。

*産業革命後に急速な都市化が進むロンドンで、イギリスの詩人ワーズワースが書き遺した言葉。

 

 

「考える人」編集長
松村 正樹

著者プロフィール

高橋源一郎

1951年生まれ。1981年『さようなら、ギャングたち』で第4回群像新人長篇小説賞優秀作受賞。1988年『優雅で感傷的な日本野球』で第1回三島由紀夫賞受賞。2002年『日本文学盛衰史』で第13回伊藤整文学賞受賞。著書に『ニッポンの小説』、『「悪」と戦う』、『恋する原発』『ゆっくりおやすみ、樹の下で』『今夜はひとりぼっちかい?』他多数。


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