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「反東大」の思想史

2018年12月28日 「反東大」の思想史

第5回 「反・学問のすすめ」の裏にあった大構想

著者: 尾原宏之

市場原理と教育

 明治20年代に入った頃、『時事新報』の官学批判は、政治に対する「学問の独立」という観点から、民業圧迫の有害性という観点にシフトする。なぜ目下の私学教育がお粗末かというと、予算がないためであり、なぜ予算がないかというと、高い学費を徴収できないからである。なぜ高い学費を徴収できないかというと、競争相手の官学が安い学費で最高度の教育を提供しているからである……といった具合である。官学を「全廃」すれば、それまで圧迫されていた私学は自由に学費を値上げして設備を整え、高度な教育を提供できるようになる。その背景には、すでに1870(明治3)年の「慶應義塾学校之説」で指摘されていたように、官学は「俗吏」が多いので「冗費」も非常に多く、同様の費用なら私学のほうが大きな成果をあげられるという自負があっただろう。国民が学問の価値を知らなかった時代には、「文明の木鐸ぼくたく」として官学は必要だった。しかし、いまや士族のみならず平民も子弟の教育に熱中する時代であるから、用済みである(「教育の経済」『時事新報』1887年7月14〜16日)。

東京帝国大学の赤門(明治37年頃)

 官学が全廃されれば、教育は市場原理に委ねられることになり、高いレベルの教育には高値がつき、低いレベルの教育には安値がつくというごくごく当たり前の現象が発生する。福澤は、「学問教育も一種の商売品」なのだから、それでよいと考えるようになっていた。次のような批判が即座に寄せられることは、もちろん百も承知である。
 第一に、高い学費を払えない者は進学を諦めるので、就学者数が減って「学問の衰微」を招くのではないか。第二に、貧乏人を学問と教育から排斥するのは、許されないことなのではないか。
 これらの批判に対する福澤の回答は、実に明瞭である。第一の点に関して。教育熱は社会全体に及んでおり、景気が悪くなっても生徒数は増加の一途なので、学問が衰退するおそれはまったくない。たしかに慶應義塾の入塾者数を見ると、徴兵令改正(第2回参照)が行われた翌年の1884(明治17)年こそ前年比108名減の223名に落ち込んでいるが、その後は順調に回復し、1887(明治20)年までの3年間で271名、435名、514名と飛躍的に増えている(坂井達朗・松崎欣一「解題」『福澤諭吉書簡集』第4巻)。就学熱を肌で感じていたからこそ、学費値上げによっては冷え込まないと確信できたのだと思われる。
 次に、第二の点に関して。貧乏人が教育から締め出されることについては、明確にこれを肯定した。
 「銭ある者は上等の衣食を買ふて衣食す可し、銭なきものは下等の衣食に満足せざるを得ず。簡単明白の数にして、今の人間万事この法則に洩るゝものあるを見ず。故に教育も亦この法則に洩るゝこと能はずして、富家の子弟は上等の教育を買ふ可く、貧生は下等に安んぜざるを得ず」(「官立公立学校の利害」『時事新報』1888年3月26日)
 金持ちがよい服を着てよい物を食べる一方で、貧乏人は粗末な衣食で満足せざるを得ない。これが世の中の常態である。教育とて、この法則から逃れることはできない。金持ちの子弟が高度な教育を受け、貧乏人は低いレベルの教育で満足するのが当たり前なのだ。
 こう断言した後、官立公立学校がすぐれた教員陣や施設を整えつつ、学費を安くして「貧家の子弟」に門戸を開放していることを批判した。
 なぜ貧乏人に高度な教育を安価で提供することが批判されるべきなのか。福澤によれば、官立公立学校が税金で開設され、運営されているからである。多くは篤志家による資金提供で運営される私学と違い、官立公立学校は、金持ちと貧乏人とを問わず強制徴収した税金によって設立され、運営されている。つまり、それらの設立・運営費には食い詰め者から徴収した税金も含まれている。その一方で、「盛大高尚」な官立公立学校の恩恵を受けるのは、貧しい家庭の出ながら、学業成績が優秀な書生だけである。もちろん貧乏でも才能のある者はいる。彼らを見捨てることは忍びないが、「公共経済」の観点から見て、限りある税収で無数の「天下の貧才子」を養うことはできないのでやむを得ない。
 この議論は、1877(明治10)年、東京大学の前身である開成学校で、生徒ひとりあたりに投入されている国費の大きさを説いて官学の拡大を望まないと語った演説の延長線上にあるといえる(第4回)。その時福澤は、政府が小規模モデル校を開設することに関しては認めていたが、それから10年を経て、その役割すら終わったと考えているようである。
 このような経済・財政的観点からの官学廃止論は、国庫や地方費で助成する教育を読み書き算盤の初歩といった「最下等」のものに限定し、しかもそれすら現時においては「強迫教育」(義務教育)として行うべきではない、というレベルにまで徹底されていた。公的に助成する教育は、文盲のゆえに落伍して犯罪に走るといった「社会の悪事」を予防する程度にとどめるべきだという(「公共の教育」『時事新報』1888年5月24〜26日)。「政府の権威」による義務教育に賛同していた1883(明治16)年の『学問之独立』からも大きな変化が見られる。

〈反・学問のすすめ〉?

 加えて、この時期の福澤は、貧者に対して一定レベル以上の教育を与えること自体が「天下の禍源」になりうるとまで主張するようになっていた。教育を受けた者は、知識を得て精神を発達させるので、どうしても「気位」が高くなる。その状態にいたった人間は、「知識相応の地位」を渇望するようになるので、「貧賤に居るの不幸」に耐えることができない。常に不平不満を感じるようになるのである。現に、小学校程度の教育ですら、父母と一緒に農耕に従事することや、郷党の仲間と一緒になることを嫌がるようになる者を生み出している。中学教育や大学教育を受けた者ならなおさら、高尚なことばかり考えるようになり、商工業や社会改良、果ては政治改革にいたるまでアイディアだけは泉のごとく湧き出るが、それを実現できる資本も地位もないという鬱憤を抱えることになる。「凡そ人間社会の不都合は人の智力と其財産と相互に平均を失ふより甚だしきはなし」。智力だけが成長してもそれを実地に活かせる地位や財産がなければ「憂患」となるだけであり、就学する貧者の数が増えるほど「社会の安寧」を脅かす原因も増えることになる。それを防ぐためにも、官立公立学校を全廃するか、公的資金の投入をやめて学費を値上げするかして、貧困書生を「淘汰」し、「富んで志ある者」の子弟のみに門戸を開くのがよい(前出「教育の経済」、「教育組織の改革を祈る」『時事新報』1888年3月28日)。こういった主張が、帝国議会開会前の社会的政治熱や、その熱源である「壮士」の母体としての書生集団に対する警戒と強く結びついていることにも、注意が必要である。
 かつて福澤は、『学問のすゝめ』初編(1872年)で、読み書き算盤にはじまり地理学、究理学(物理学)、歴史、経済学にいたる「実学」の意味を説いた。それに比べれば、これらの『時事新報』論説は明らかに〈反・学問のすすめ〉である。
 福澤は、この極論をどこまで本気で唱えていたのだろうか。たとえば、経済・財政的観点からの官学廃止論は、そこまで説得力のあるものではない。1887(明治20)年の政府総歳出のうち、文部省が占める部分は1.5%にすぎず、道府県の歳出を見ても教育費は7%にすぎない。教育費が重荷になっているのはむしろ町村部である(『明治大正財政詳覧』)。また、貧者に対する教育が「社会の安寧」を脅かすという主張も、のちに大きく変化する。この10年近く後の論説では、教育を受けた農民の子弟が政治に熱中し、ついには家を破滅させるという「教育過度」を訴える論者に対して、国家としても個人としても教育に金を惜しむべきではないと反論するようになっていた(「教育費」『時事新報』1896年1月9日)。

学問には凝らないほうがよい

 この〈反・学問のすすめ〉の真意は、福澤自身が慶應義塾でどのような教育を実践しようとしたかを見ることで、明らかになるように思われる。『時事新報』に掲載された福澤の慶應義塾の塾生に対する演説を読み返すと、意外なことに熱心に勉強せよ、学問に没頭せよという論調ではなく、むしろ学問に過度に集中することを戒めるものばかりであることに気がつく。福澤は教育を養蚕にたとえて説明することがあった。
 「養蚕の目的は蚕卵紙たねがみを作るに在らずして糸を作るに在り、教育の目的は教師を作るに在らずして実業者を作るに在り」(「慶應義塾学生諸氏に告ぐ」『時事新報』1886年2月2日)
 養蚕を営む目的は絹糸を得ることであって、カイコガに卵を産みつけさせる蚕卵紙を作ることではない。同じように、教育の目的は学校の教師を養成することではなく、商工業などで活躍する実業家を生み出すことである。こう福澤は説いた。つまり、少なくとも慶應義塾では、「一芸一能に達したる専門の学者」を養成し、研究や教育に従事する者を養成することを第一義的な目的としていないのである。
 福澤によれば、日本では「教育さへ行届けば文明の進歩、一切万事、意の如くならざるはなしと信じて、却て其教育を人間社会に用るの工風を忘れたる」風潮がある。〈教育さえ行き届けば文明が進歩し、すべてがうまく行く〉、という考えが、教育を社会に活かす方法を編み出すことを忘れさせるのである。
 そのことは、学問に没頭するあまり「人間世界」のことを軽蔑し、「学校世界」に引きこもってそのまま教師を目指す者の増加に帰結した。しかし、これはカイコガが卵を産みつける蚕卵紙をひたすら作っているようなもので、本来の目的である絹糸、すなわち日本の「文明富強」そのものを生み出しているわけではない。
 慶應義塾はそうではない。西洋の学問を修めつつも、その一面で「学問教育を軽蔑する」、つまり学問を神聖視せずに通俗的に利用する姿勢で臨んできた。あらゆる俗事を学問に取り込み、英語、物理学、数学、地理、歴史、簿記、商法、経済学などを広く学ぶ。卒業後は、学校の教師になりたいとか、役人になりたいとか情けないことはいわず、すぐに「工商社会」に飛び込むか、資本があれば起業するか、実家に帰って家業を継ぐべきだと、福澤は説いた(「慶應義塾学生諸氏に告ぐ」)。
 福澤自身は、幕末維新の開国と動乱にめぐりあわせたおかげで、翻訳や著述で財をなすことができた。だが、明治も20年がすぎようとしている日本では、もはやその「僥倖」はありえない。若い学生は「今の学問は目的にあらずして生計を求るの方便」と心得て、「成学即身実業」の道に入らなくてはならない(「成学即身実業の説、学生諸氏に告ぐ」『時事新報』1886年2月18日)。

慶應義塾本館(明治24年)

 この姿勢は1890(明治23)年、慶應義塾に大学部が設けられてからも変わらなかった。その始業式では「学問に凝る勿れ」、「大学の学問も亦是一芸なれば、之を脩めて業を卒りたらば、深く之を内に蔵めて、外は活発に世務に当り、天下無数の俗物と雑居」すべきと説いた(「学問に凝る勿れ」『時事新報』1890年1月30日)。学問に過度に没頭せず、役人になりたがらず、東京で政治活動に熱中せず、卒業したら家業がある者は故郷に帰り、ない者は商工業界に身を投ぜよ。これらは、福澤が塾生に繰り返し説いたことである。
 福澤は、学問に向かう人間を三種に分類したこともある。第一が、学問を本職とし、書物を著し、教育に従事し衣食を得るいわゆる「学者」。要するに、研究者や教員、著述家などのことである。第二が、化学や土木、法律などを学び、製造業や鉄道、法廷業務などの実務に応用する「学術の実業家」。つまりエンジニアや法曹などである。そして第三が「普通学者」。つまり高度な学問を行うのでも専門技術を使うのでもないが、「智識見聞を博くして物理学人事学の要略を知る」者である。慶應義塾に多く在籍する「地方富豪の子弟」が、旧態依然とした商売のやり方では通用しなくなっていくなかで家産を守るためには、知識と見聞を広くして、学問の要所を知る「普通学者」にならなければならないと説いた(「慶應義塾学生に告ぐ」『時事新報』1889年4月22〜23日)。
 要するに、大方の塾生に対して呼びかけたのは、「実業」ありきの「学問」、「学問」を基礎とした「実業」のすすめ、ということになる。いうまでもなく、実業とはつまるところ金儲けである。学問それ自体への没頭を戒め、「成学即身実業」を説くということは、要するに学問を活用して金儲けをしろ、ということである。

「拝金宗」教祖の実像と虚像

 このことは、すでに見てきた福澤の「官尊民卑」批判と強いつながりを持っている。1885(明治18)年、福澤は『士人処世論』のなかで、封建社会の「士尊民卑」に源流を持つ「官尊民卑」を、日本の若者が患っている〈官吏になりたい病〉の元凶と見なし、「断じて官途の事は思ひ止まり、一日も早く他の独行私立の営業に身を転ずべき」「尋常普通の商売工業に従事せよ」と説いた。しかし、世の中で最も偉いのは〈官員様〉で、民間の事業は男子のすることではない、という風潮が蔓延している以上は、いくら笛を吹いても無駄である。
 この頃の福澤は、『時事新報』紙上でさかんに金銭の威力を説くようになっていた。同年に発表された「西洋の文明開化は銭に在り」(4月29日)、「日本は尚未だ銭の国に非ず」(5月1日)、「日本をして銭の国たらしむるに法あり」(5月2日)などがそれである。これらの論説では、「(西洋では)銭あれば政治家たる可し、又公侯伯子男たる可し。一切万事、西洋社会運動の根本は銭の一物に在り」(「西洋の文明開化は銭に在り」)というように、金銭こそが西洋世界を動かす力であり、金銭さえあれば政治家にもなれるし、貴族にもなれる、快楽も栄誉も体面も思いのままであると説かれていた。西洋とは逆に金銭を軽視する日本も、やり方次第では金銭を尊び殖産を重視する「銭の国」になれる。
 そのひとつが、財産が多いか少ないかを人物評価の基準とすることである。従来型の、政府が作った官職や位階で身分の尊卑が決まるやり方から趣向を変えて、財産を持つ者ほど世間の尊敬を集める仕組みを作る。そうすれば、栄誉や権勢はひとえに金銭次第になるので、人々は殖産に邁進するはずである(「日本をして銭の国たらしむるに法あり」)。
 かなり露悪的な金力の強調である。こうした言動によって、福澤は「拝金宗」「学商」などと呼ばれ、悪評を買うようになった。慶應幼稚舎の舎長を務めた坂田実は、「(福澤)先生は明治十四年の政変以来、慶應義塾出身者を、官途に向け難きを悟り、民間事業に就かしめんとして、非常に金儲け論を吹聴せしより、後来先生を拝金宗などと評する者が出来たのである」(「坂田実直話」『福澤先生を語る 諸名士の直話』)と回想している。だが、十四年政変による慶應系官僚の下野と、その後の卒業生の官途が困難になったことだけが〈拝金〉の理由ではないだろう。政治の過度の重視とその反面の民間蔑視、すなわち「官尊民卑」を打破するためには、政府の権威と権力に打ち勝てるだけの力が必要である。そこで福澤が見出した力が、金銭にほかならなかったからである。
 政治がほかの領域を圧倒している現状を変えるためには、多少露悪的になったとしても、金銭の威力と魅力は強調しておいたほうがよい。アメリカ合衆国大統領、閣僚から知識人にいたるまで人生の希望はただ富の一辺倒、富以外には希望なし、とまで説くこともあった(「社会の人心は其尚ぶ所に赴く」『時事新報』1893年3月14日)。
 福澤にとって、実業を軽視・蔑視して学問に没頭することは、「官尊民卑」に基づく仕官熱、政治熱と表裏一体現象であった。「官尊民卑」は、「家に定額の世禄ありて衣食を求るの労なく、其心身を用る所は専ら国事」つまり、世襲の俸禄があって衣食に困ることがなく、殖産のことなど考えたこともない「政治専門の人」=武士が威張る封建社会の風習に起源を持つ。だから明治の時代になっても政治に関係する者は、朝野を問わず実業や殖産を軽視する「空理虚談」に走りやすい。政治を志す若者もそれに習うので、負のサイクルはとまらない(「政治の思想一方に偏す可らず」『時事新報』1885年5月11日、「二十年来教育の結果如何」同1889年6月12~13日)。
 つまり、「拝金宗」と「成学即身実業」は、「官尊民卑」を打破し、巨大な政府の力を抑制し、官学の隆盛を阻止し、商工業をベースに明治日本を作り変える(「尚商立国」)の手段なのである。福澤に貼られた「拝金宗」のレッテルを剥がそうという試みは、丸山眞男以来、脈々と続けられてきた(『「文明論之概略」を読む』など)。だが福澤にとって、実業を通して得られる金銭の魔力は、なににもまして「官尊民卑」を打ち破り、商業立国を可能にする力であった。だとするならば、「拝金宗」を無理に否定しようとすることは、後期の福澤の思想を見誤らせるおそれがあるといえる。

慶應義塾大学(明治45年)

〈官吏養成所〉への抵抗

 福澤は、1889(明治22)年には政費の節約を名目に、民業=私学の圧迫を行っている文部省の廃止を唱えるにいたった(「国会準備の実手段」『時事新報』4月26日〜5月6日)。しかし、文部省はもちろんのこと、官学も廃止になるどころか、ますます隆盛をきわめた。福澤は、その頂点に位置する帝国大学について、どのような批判を展開したのだろうか。
 批判の矛先は、第一に文官試験における「(帝国大学)法科大学文科大学及旧東京大学法学部文学部ノ卒業生」の無試験特権に向けられた。以前も触れたように、1887(明治20)年の「文官試験試補及見習規則」によって、帝大の法科大学、文科大学、そして旧東京大学の法学部、文学部の卒業生は、高等試験を受けずともただちに高等官の「試補」に任用できることになっていた。福澤は帝大にのみこのような特権が与えられている不公平を厳しく批判するとともに、「其学校(帝大)の教育は最初より官吏養成の目的を以てしたるものと見るの外なし」指摘している。国民が帝大に期待しているのは、「高尚なる学問の発達」のための学校であって、「政府の為めに官吏を養ひ又その学生に衣食の道を与ふるが為め」の学校ではない。莫大な国費を費やしてそのような学校を維持する必要はないというのである。帝大が「国の文明の花たる最高等の学芸」をきわめる機関ではなく、〈官吏養成所〉になっているのではないかという批判は、その後の『福澤諭吉全集』未収録の『時事新報』論説にもよく見られるものである。
 興味深いのは、福澤が文官試験自体の廃止もしくは試験科目の簡素化と、人物本位の採用を要求していることである。ごく一般的な智識さえあれば誰でも官庁に入ることができるとなれば、民間の会社や商店から大蔵省へ、郡市町村の役所から内務省へという具合に、実務に通じた者を採用することができ、「一知半解の白面書生」を採用するよりも政府の仕事は迅速になる(「文官試験規則」『時事新報』1892年3月15日)。地方官や収税吏は人民との折り合いや人望が最重要なので、完全に無試験で構わないとした。

帝大にはない教育

 これは、若者の仕官熱が帝国大学への進学熱へと転換されて、「官尊民卑」が温存されることを阻止するための提言と解釈できる。その際に、民間での実務経験者の採用を唱えていること、そして、勉強ができるかできないかよりも人物の如何が重視されていることは興味深い。人物教育は、「成学即身実業」を唱える福澤の教育論にとって重要な部分であった。単行本『修業立志編』に収録された、あるいは『時事新報』に掲載された慶應義塾の塾生に対する演説において、福澤は、懇切丁寧かつこまごまと、立派な人物になるためのアドバイスを送っていた。曰く、学問も大事だが人の信頼を得て嘱望されることが最も重要なので、まめに郷土の家族や友人に書簡を送れ、そうすれば後で効いてくる。曰く、さまざまな技芸を広く学び活発に機転を効かせよ。曰く、温和な顔をし、礼儀作法や言葉づかい、筆跡を丁寧にせよ。曰く、運動して心身の健康を増進させよ。曰く他人に金を借りるな。節約せよ。曰く、「自利々他」の精神を持て。などなどである。福澤は〈官吏養成所〉あるいは「国家ノ須要ニ応スル学術技芸ヲ教授シ及其蘊奥うんのうこうきゅうスル」(帝国大学令第1条)ことを使命とする帝国大学ではできない、私塾だからこそ可能な人物教育に、その活路を見出していたのかもしれない。福澤は、「政府が人を採るに漸く実用を重んずるの風を成したらば」、実用本位の学問を身につけた慶應義塾の卒業生が再び官界で活躍することが可能であると考えていた(「慶應義塾学生諸氏に告ぐ」)。このことは、民間で実業を経験した者、世の中のことを理解した「臨機変通の才」を持つ者、徳望のある者が官途につくことを意味する。その時、実業と政治は相互に乗り入れ可能となり、「官尊民卑」は破壊されるはずである。

 もうひとつ慶應義塾の教育の特徴をあげれば、「万国通語」「貿易通語」である英語に力点を置いたことがあげられる。日本が目指すべきは「東洋の貿易国」であり、それには「局部」にのみ通用するフランス語やドイツ語よりも英語を学ぶに限る。それに、中途で学問をやめるようなことがあっても、英語のたしなみがあれば必ず仕事の役に立つ(「我国普通の洋学は英語に帰す可し」『時事新報』1883年12月26〜28日)。これは、明治10年代から20年代にかけて、独逸学協会の設立、東京大学法学部へのドイツ法学導入、そして帝国大学における国家学会の設立といった、「体制の学」としてのドイツ学の伸長(瀧井一博『ドイツ国家学と明治国制』)を意識したものであろう。1884(明治17)年、福澤は『時事新報』の漫言「日耳曼ゲルマン風万々歳」で、「人も日耳曼、酒も日耳曼、遊学も日耳曼、学問教育も日耳曼、高尚の学者は扨置き、日本国中津々浦々の小民に至るまでも、横文読むには日耳曼に限るとて、今日の世界、日耳曼に非ざれば国にして国に非ず、人にして人に非ず」とその隆盛ぶりを諷刺した(6月10日)。政府肝煎の、国家学を中心とするドイツ学に対し、福澤はあくまでビジネス言語である英語を通した西洋学術の習得を訴えたのであった。
 このように見ると、今日にいたるまでの高等教育が生き残り戦術としてかかげてきた多くの項目が、福澤の教育戦略と言説戦略のなかにすでにあらわれていることがわかる。英語教育への注力、きめ細かな顔の見える指導を通した人物教育を売りにする学校は、今日でも非常に多い(高等教育だけでなく、いわゆる進学校とされる中学高校も同様である)。
 福澤はその後半生で、実業に根ざした教育構想を完成させるにいたった。それは、一見すると単純なビジネス本位、実用本位の教育論に映るかもしれない。だがそれは、日本社会の宿痾である「官尊民卑」を打破し、商工業に立脚した国家を作るための、きわめてスケールの大きい構想と一体のものとして存在していたのである。

最晩年の福澤諭吉

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「わかる」のが当然だった時代は終わり、平成も終わり、現在は「わからない」が当然な時代です。わからないことを前提として、自分なりの考え方を模索するしかありません。

わかるとは、いわば自分の外側にあるものを、自分の尺度に照らして新しく再構成していくこと。

"Plain living, high thinking"(シンプルな暮らし、自分の頭で考える力)*を編集理念に、Webメディア「考える人」は、わかりたい読者に向けて、知の楽しみにあふれたコンテンツをお届けします。

*産業革命後に急速な都市化が進むロンドンで、イギリスの詩人ワーズワースが書き遺した言葉。

 

 

「考える人」編集長
松村 正樹