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「反東大」の思想史

2019年3月28日 「反東大」の思想史

第8回 「落伍者」から誕生した日本社会主義

著者: 尾原宏之

「都下の悪風」に染まる若者

 第一議会の衆議院で焦点化した高等中学校などの官立学校廃止論は、東京専門学校(のちの早稲田大学)ときわめて深いつながりを持つ立憲改進党代議士である天野為之、高田早苗らの抵抗を受けた。やがて予算案は特別委員会に持ち越され、最終的に本会議で高等中学校を存続させる天野らの修正案が逆転勝利を収めることになる。〈一高東大〉を頂点とする教育システムの原型は、予算削減を被ったものの民党の攻撃に耐えて生き残った。
 ところで、官立学校廃止論者と擁護論者の間には、ある漠然とした共通認識があった。それは、若者が就学のために東京に集まることは、原則的にはよくないことだ、という認識である。できるならば地方の学生は地方で勉強に励んだほうがよい、という考えは、発言を見る限り、前回見た立憲自由党の宇都宮平一、文部次官の辻新次らにも共有されている。
 1891(明治24)年1月、『朝野新聞』『郵便報知新聞』などに「高等中学存廃に関する意見」を書き送って官立学校廃止論を批判した帝国大学文科大学長(貴族院議員)の外山正一も、東京に学生が集まることを嫌悪したひとりである。

外山正一(1848~1900)

 東京、仙台、京都、金沢、熊本の官立高等中学校が廃止されたとすれば、必然的に進学希望者は各種の学校が集まる東京を目指すことになる。外山は、あらゆる中央集権のなかで「教育上の中央集権」こそが「其弊害最も甚だしきもの」だと説く。身心未熟な地方の子弟が東京で勝手気ままな下宿生活を送り、「都下の悪風に感染」するおそれがあるからである。外山は、東京の第一高等中学校を縮小したとしても、地方の高等中学校は拡張し、地方子弟が地方で就学できる環境を作らなければならない、と訴えた。

堺利彦の〈堕落〉

 それでは実際、地方の若者はどのような経路で「都下の悪風」に感染し、堕落していったのだろうか。その典型例に「日本社会主義の父」と呼ばれる堺利彦がいる。堺は日本ではじめて『共産党宣言』を翻訳した人物であり、明治から昭和まで日本の社会主義運動を牽引し、1922(大正11)年には日本共産党の初代委員長となった(以下、『堺利彦伝』ならびに法律文化社版『堺利彦全集』所収の「堺利彦略年譜」などによる)。

堺利彦(1870~1933)

 1870(明治3)年、豊前国(現福岡県)豊津の貧乏士族の家に生まれた堺は、尋常中学校である豊津中学校を首席で卒業、旧藩主小笠原家などが出資する育英会の貸費生となり、1886(明治19)年に16歳で上京する。成績優秀ということで養子にもらわれ、東京では養父の弟である馬場素彦(陸軍省徴兵課長として徴兵令制定の実務にあたった陸軍官僚として知られる)の監督を受け、学業が成った暁には馬場の娘と結婚する予定であった。堺は最初中村正直の同人社で英学を学び、やがて第一高等中学校の予備校として知られる共立学校に入学する。そこで堺は数学、英語などを叩き込まれた。「共立学校はずいぶん汚い学校だつたが、然し、私等は非常に愉快だつた。何しろスヰントンの万国史、マコレーのクライヴ伝、グードリツチの英国史、アーヴイングのスケツチ・ブツクなど、いろいろ六かしい英語の本を読むのが嬉しくて堪らなかつた。ロビンソンの算術、トドハンターの代数、ジヨーヴネーの幾何など、総て英語でやるのが、それが亦非常に嬉しかつた」(『堺利彦伝』)と自身が回想しているとおりである。つまり、田舎の尋常中学校を首席で出た秀才が、第一高等中学校受験のために予備校で英語と数学を徹底して鍛えなおされるという、典型的なルートをたどったことになる。
 翌1887(明治20)年、堺は第一高等中学校の入試に合格する。周囲から羨望されるエリート候補生となった堺は、麦わら帽子にまで校章をつけるなど大得意だった。予科の英語科目で堺はスマイルズの『自助論』、サミュエル・ジョンソンの『幸福の探求』などを読み込みつつ、寄宿舎生活を送った。札つきの社会主義者となった大正期になっても、先輩にあたるのちの満鉄総裁・東京市長の中村是公、同級生で帝大教授となる小野塚喜平次など、立身出世を遂げた仲間のことをどこか誇らしげに回想している。
 このまま順調に帝国大学に進み、卒業すれば輝かしい未来が待っているはずだったが、大きな落とし穴があった。外山正一が憎んでやまない「都下の悪風」が堺を襲ったのである。19歳になったころから、堺は悪い仲間の手引きで酒を飲むことや吉原で遊ぶこと(要するに買春)を覚え、借金がかさんでいった。第二外国語のドイツ語がとくに鬼門で、欠席ばかりでまったくものにならない。借金で首が回らなくなっているのに遊び癖が抜けず、真冬に夏服と破れ靴で物欲しげに吉原を徘徊するありさまとなった。母親がこしらえてくれた博多帯、羽織もすべて質屋行きである。
 学校の勉強を放棄する一方で、これも典型的だが、文学熱に感染して尾崎紅葉、坪内逍遥、幸田露伴などをむさぼり読んだ。明治憲法が発布される1889(明治22)年ごろには、学費未納で除籍になったという。
 陸軍官僚の馬場家からも離縁され、エリートの道が完全に絶たれた堺は、紅葉の『二人比丘尼色懺悔』一冊をたずさえて豊津に帰郷する。その後は、各地で小学校教員や新聞記者の仕事を転々としながら小説を執筆、投稿する苦悶の日々を送ることになった。
 学業そっちのけで酒と女と文学に溺れ、借金を重ね、落第して道を踏み外すという堕落学生の典型になってしまったのである。

新進文学者として

 だが落伍者である堺も、文学方面で多少頭角をあらわすことができた。1889年、19歳で『福岡日日新聞』に短編小説「悪魔」を投稿し連載される。
 1893(明治26)年には、森?外に認められて文芸誌『しがらみ草紙』に小説「隔塀物語」を発表した。その後も『読売新聞』などにポツポツと小説を寄稿するが、その文学的キャリアのピークは1899(明治32)年、29歳で『萬朝報』に採用され、文芸欄「よろづ文学」の文芸批評と、同紙の懸賞小説の選評委員長を命ぜられたころであろう。
『萬朝報』は1900(明治33)年ごろまで東京で発行されていた新聞のなかで最大部数を誇っていた新聞であり、幸徳秋水や内村鑑三といった気鋭の論客を続々と入社させていた(山本武利『近代日本の新聞読者層』)。堺の入社以前に文芸欄を担当していた記者のひとりに、斎藤緑雨がいる。かねてから萬朝報社入社を願っていた堺は、文士論客の仲間入りができた気がして有頂天だったに違いない。自伝にもその得意の心境が書き残されている。

萬朝報

 しかし、いい気分は長く続かなかった。第一高等中学校から追われて以来、貧苦のなかで培ってきたみずからの文学が、完全否定されるにいたったからである。『萬朝報』を舞台とした堺の文芸批評の評判は、芳しくなかった。そして、堺の文学にとどめを刺したのは、ほかでもない、東京帝国大学を頂点とする〈知〉の権威であった。すでに1897(明治30)年、京都帝国大学の創設にともなって帝国大学は東京帝国大学に改称していた。

堺利彦の〈戦う批評〉

『萬朝報』紙上に残されている堺の文芸批評は、一言でいえば独断的、もっといえば罵詈雑言の羅列に見える。たとえば、そのデビュー作「小説界の新生面」(1899年7月9日)では、現在の文壇は「理想なく主張なく気概なく風骨なく、只之を金銀貨幾片に換へんとする」作家、つまり金のためだけに書いている職業作家ばかりだと痛罵した。既成の作家全員に対する宣戦布告といえる。
 デビューを目指す作家志望者に対しても容赦がない。『萬朝報』懸賞小説の選評では、当選作を含めて「軽佻浮薄」「なぐりがき」「人真似は猿の事にして人間の事にあらず」と徹底的に酷評した(同7月13日)。
 だが堺の批評は、大御所作家から新人までなで斬りにする割には内容がなかった。新しい理論や着眼点の提示があるわけでもなく、「大胆に、放胆に」その見たところや感じたところを吐き出せ、と叱咤するのみである。気に食わない作家を痛罵して、新人よ奮起せよ、と檄を飛ばすレベルにとどまっていた。徳冨蘆花の『不如帰』に関しては作品の思想が「健全」だとほめたたえたが、その「健全」と「不健全」をわける基準は一切示さなかった(1900年2月6日)。
 堺の文芸批評が猛反撃を受けるのは、『荒城の月』の作詞者として知られる土井晩翠の処女詩集『天地有情』を「平凡拙劣」「弛緩無力」などと評したことがきっかけである(1899年7月29日)。晩翠の『天地有情』は、日本近代詩の出発点と評されることがある。堺によれば、この時「(堺に)批評の資格ありや」「(堺の)漫罵を見て嘔吐を催す」といった激しい批判や苦情が寄せられた(同9月5日)。

土井晩翠(1871~1952)

 土井晩翠は1871(明治4)年の生まれで堺とほぼ同年齢だが、その経歴はだいぶ違っている。晩翠は、仙台の第二高等中学校に入学したのち、1897年に東京帝国大学文科大学英文科を卒業、1900年には第二高等学校教授に就任する。つまり、堺が弱小新聞社での仕事や小説の投稿に明け暮れている間、晩翠は日本で最高の環境である帝国大学で、英語はもちろんラテン語をはじめヨーロッパ言語を学び、哲学や美学といった学科を修め、文学士の称号を手に入れていた。この時の帝大の外国人教員には、哲学教授のケーベル、英語講師の小泉八雲(ラフカディオ・ハーン)らがいる。
 堺は、みずからに寄せられた批判の背後に、帝大の〈知〉の権威や文壇の力が働いていると感じた。「無名にして肩書なき小家の予(堺)が、有名にして肩書ある大家の晩翠先生を嘲りたる」罪を咎められていると考えたのである。堺は次のように反論する。
「歴史(文学上の実績のこと)、資格、そもそも何たる分らぬ事ぞや。学士と称するを得る者にあらざれば資格なしと謂ふ乎。新聞雑誌より大家の尊号を奉呈せられたる者にあらざれば資格なしと謂ふ乎」(同9月5日)。
 これは堺の絶叫であろう。徒手空拳で『萬朝報』文芸記者の座をつかんだ無名の自分には、ほぼ同い年の帝大卒の学士様を論評する資格はないというのか。堺は袋叩きにあっても戦う意志を表明し、ファイティング・ポーズを取った。
 ところが、この堺の批評に対して、意外なところから弾が飛んできた。『萬朝報』文芸欄の前任者、斎藤緑雨である。緑雨は明治法律学校中退であり、学歴とはまったく縁がない。その緑雨は堺に対してこう諭した。

斎藤緑雨(1868~1904)

「枯川(堺の筆名)君、君の資格や歴史やを疑つた者があるとすれば、それは族籍に関した事ではなく、甚だ申上げにくいが知見に関した事だらう…今の文壇は幼稚だの浅薄だのと言つても、思想なり理論なりもう些と進歩して居るのだから、足を入れるなら入れるで、精々こまかに磨いて来て貰ひたいね」(『読売新聞』1899年9月7日)。緑雨は、堺の批評は、「日本の首府で発行して、十万の読者を持つと言はれる新聞紙の文学欄に、あんまり見かねた事」(同9月10日)だという。堺は、帝大や文壇などの〈知〉の権威と無名の自分との戦い、という対立構図を描こうとした。ところが緑雨は、そうではない、と断言する。単純に堺の批評に「知見」もなければ思想も理論もないことが問題なのだ、というのである。

「帝国文学」の強襲

 最も痛烈な批判は、やはり東京帝国大学から飛んできた。学術文芸誌『帝国文学』が堺に酷評を浴びせたのである。『帝国文学』は、井上哲次郎教授ら帝大文科大学関係者、そして帝大生だった高山樗牛、姉崎正治、上田敏らが1895(明治28)年に創刊した雑誌で、帝大卒業生と在学生からなる帝国文学会によって編集されていた。晩翠も編集委員を務めている。

帝国文学(山口県立山口図書館HPより)

『帝国文学』1899年12号の「雑報」は次のように〈堺利彦の文学〉を論評する。
「萬朝報紙上よろづ文学の欄あり、堺枯川と名のるものあり近時こゝに時文の批評を試む、余輩は其如何なる学歴素養あるかを詳にせず、只其作にかゝる小説一編を見しことあるのみ、趣向凡々、叙説無味平板蓋し駄小説なり。其批評の文を看るに没常識に非ずんば漫罵に近く毫も含蓄なく警抜の見なし」。
『萬朝報』で文芸批評を担当する堺という男の学歴や素養はよく知らないが、彼の書いた小説は読んだことがある。それは、平凡で無味平板な「駄小説」だった。その批評もただの「漫罵」で、含蓄もすぐれた観点もない。要するに実作者としても批評家としても才能ゼロだと認定されてしまったのである。

日本社会主義の〈誕生〉

 前任者である緑雨、そして〈知〉の権威が背後に控える『帝国文学』の両者から完全否定された堺は、その後どうなっていっただろうか。意気軒昂にも『帝国文学』の記者に見る目がないのだ、などと反論してみたが、その威勢のよさとは裏腹に、文芸批評からは徐々に撤退していくことになった。翌1900年には「雑誌新聞論説の抜粋批評」に担当替えとなる。堺はのちにこの時期のことを「予は先づ生命なき文学に飽いて、漸く政治に向つて進んで来た」(『半生の墓』)などと回想しているが、これは社会主義者となった後の観点から見た都合のよい回想だろう。この事件から2年後の日記には、もっと率直な感想を記している。
「我輩が若し数年前に小説で多少成功して居たならば、どうであらうか、成功せなんだのが却つて仕合せであつたかも知れぬ、否、成功せなんだのは即ち不適当な事であつたからであらう」(1901年12月5日)。つまり、堺はみずからの文学的能力の限界、もしくはみずからの文学への需要欠如を痛感するようになっていった。
 こうして堺は、別方面への転出を余儀なくされた。高等中学校を含む〈帝国大学システム〉から疎外され、各地を転々として小説を書いてきた堺は、〈帝国大学システム〉によってその文学者としての生命を奪われたといえるかもしれない。
 その後堺は、『萬朝報』が母体となって結成された社会改良団体、理想団の活動に没頭し、社会問題への関心を強めていく。社会主義者として本格的なスタートを切るのは、日露戦争非戦論を唱えて内村鑑三、幸徳秋水らと萬朝報社を退社し、幸徳とともに平民社を創設した1903(明治36)年ごろのことである。

平民新聞

 1904(明治37)年、堺は幸徳とともに日本ではじめてマルクス=エンゲルスの『共産党宣言』を翻訳し、『平民新聞』に掲載する。両名ともドイツ語ができないので、サミュエル・ムーアによる英訳からの重訳である。
 その堺の英語力は、第一高等中学校の予科と、その予備校である共立学校で叩き込まれたものが基礎になっている。本来は国家社会を指導する人材を育成するための過酷な英語詰め込み教育が、期せずして左翼の〈聖典〉を翻訳するための語学力に転化し、日本マルクス主義の開幕に貢献してしまったのである。
 かつて政治学者の三谷太一郎は、この時期の社会主義者が「例外なく学校体系からのデクラッセ(脱落者)」であり、「アカデミズムの機構から疎外されたインテリ」であることを指摘した(「大正社会主義者の「政治」観」)。二度にわたって帝国大学を頂点とする学校体系から拒絶された堺は、その最たる存在といえる。帝国大学は、のちにエリート左翼を輩出する帝大新人会とは違った形で、それよりもっと早く、期せずして社会主義者という鬼っ子を産み落としていたのである。

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 はじめまして。2021年2月1日よりウェブマガジン「考える人」の編集長をつとめることになりました、金寿煥と申します。いつもサイトにお立ち寄りいただきありがとうございます。
「考える人」との縁は、2002年の雑誌創刊まで遡ります。その前年、入社以来所属していた写真週刊誌が休刊となり、社内における進路があやふやとなっていた私は、2002年1月に部署異動を命じられ、創刊スタッフとして「考える人」の編集に携わることになりました。とはいえ、まだまだ駆け出しの入社3年目。「考える」どころか、右も左もわかりません。慌ただしく立ち働く諸先輩方の邪魔にならぬよう、ただただ気配を殺していました。
どうして自分が「考える人」なんだろう―。
手持ち無沙汰であった以上に、居心地の悪さを感じたのは、「考える人」というその“屋号”です。口はばったいというか、柄じゃないというか。どう見ても「1勝9敗」で名前負け。そんな自分にはたして何ができるというのだろうか―手を動かす前に、そんなことばかり考えていたように記憶しています。
それから19年が経ち、何の因果か編集長に就任。それなりに経験を積んだとはいえ、まだまだ「考える人」という四文字に重みを感じる自分がいます。
それだけ大きな“屋号”なのでしょう。この19年でどれだけ時代が変化しても、創刊時に標榜した「"Plain living, high thinking"(シンプルな暮らし、自分の頭で考える力)」という編集理念は色褪せないどころか、ますますその必要性を増しているように感じています。相手にとって不足なし。胸を借りるつもりで、その任にあたりたいと考えています。どうぞよろしくお願いいたします。

「考える人」編集長
金寿煥

著者プロフィール

尾原宏之

甲南大学法学部准教授。1973年生まれ。早稲田大学政治経済学部政治学科卒業。日本放送協会(NHK)勤務を経て、東京都立大学大学院社会科学研究科博士課程単位取得退学。博士(政治学)。専門は日本政治思想史。著書に『大正大震災ー忘却された断層』、『軍事と公論―明治元老院の政治思想』、『娯楽番組を創った男―丸山鐵雄と〈サラリーマン表現者〉の誕生』など。 (Photo by Newsweek日本版)

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