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お客さん物語

2022年11月15日 お客さん物語

24.飲食店と価格(1)――「1000円の定食」は高いのか?

著者: 稲田俊輔

 お気に入りの定食屋さんがあります。同じ区内に5店舗ほどを展開しており、チェーン店というまでの規模ではありません。しかしどの店舗もなかなか流行っているようで、これからもっと増えていきそうな気がします。

 その店は全国チェーンの定食屋ほどは安くはなく、メニューも絞られていますが、魚料理を中心とした一品一品の料理が良い素材でしっかり作られています。味噌汁は定食屋さんにありがちな、火にかけっぱなしでぐずぐず(それはそれで良いものでもありますが)なんてことはなく、限りなく「煮えばな」に近い味噌の香りで、具もしゃっきりしたものが熱々で出てきます。漬物はいかにも手作りらしい糠漬けで、ご飯も実においしい。

 ちょっとしたつまみがあったり、定食のおかずの一部はハーフポーションでも用意されたりしているので、軽く飲むのにも最適です。メニュー構成や接客マニュアルもよく考えられており、昔ながらの定食屋さんと、今時のシステマティックな飲食店運営の良いとこ取りといった印象を受けます。流行るのも当然です。

 ある休日の昼下がり、僕はとりあえず瓶ビール(赤星)で一杯始めていました。つまみは「ハムポテトサラダ」。このハムポテトサラダがまた実に良かった。ポテトサラダは作りたて、ハムはスーパーで普通に売っているようなものよりもっとずっとしっかりとしたもので、まるで昔ながらの凛とした洋食屋さんのようでした。定食屋や居酒屋でこういうものが出てくることは滅多にありません。

 やっぱりいい店だなあ、とニヤニヤしながら昼酒を楽しんでいると、向かいのテーブルに男性二人連れが座りました。ひとりは50代、もうひとりは30代といったところでしょうか。親子という感じでも上司と部下という感じでもなく、歳の離れた仕事仲間といった様子です。

 二人はこの店は初めてのようです。着席して店内に張り巡らされたメニューを眺めながら、年配の男性が開口一番、

 「高いね、ここは」

 と言い始めました。若い方も苦い顔でうんうんとうなずいています。

 「魚もトンカツも定食セットにしたらどれも1000円超えるじゃない。高いよ」

 「日替わり定食は秋刀魚だって。あ、でもそれも1290円か」

 「秋刀魚で1290円は儲けすぎだね」

 「海老フライがおすすめらしいけどタルタルソースは別売りだってさ」

 「ケチ臭いね。それくらい付けてくれたっていいのにね」

 二人は延々と、重箱の隅をつつくかのように、この店の価格の高さに文句を言い続けています。しかし秋刀魚はもはや高級魚の仲間入りをしつつあります。この時はまだ走りの時期だったこともあり、細く小さなものでも普通に買おうとすると300円近く、ちょっと太ったものだと400円500円は当たり前。お店だからそれより多少は安く仕入れられるにしても、この店が痩せほそった秋刀魚や冷凍物を出すとは考えられず、そこに小鉢や定食の諸々が付いて1290円はむしろ良心的と言えます。出盛りの時期になって多少安くなったとしても、1000円を切ることは難しいでしょう。彼らは秋刀魚が100円かそこらで買えた10年近く前の感覚がいまだに抜けないのでしょうか。また、この店のタルタルソースはポテサラ同様フレッシュな手作りで、そこに料金が発生するのはちっともおかしくありません。それを欲しい人にだけ販売することで本体の価格を少しでも下げられているわけですから、むしろ理に適っています。そもそも出てきた料理を見もせずに値段だけを見て文句を付けるのは早計が過ぎます。

 ともあれ彼らは店員さんを呼びつけ、二人とも「野菜炒めと定食セット」をオーダーしました。この店のほぼ最安値商品です。延々とメニューを吟味して最終的にそれが食べたくなったのか、「1000円以上」を払うことがよほど意に沿わなかったのかはわかりません。

 そのオーダーを受けた時の店員さんの返答を聞いて、僕は少し感動しました。店員さんはこんなことを言うのです。

 「野菜炒めは一人前ずつお作りするので、順番にお持ちすることになりますがよろしいですか?」

 ここは魚料理やフライものが中心なので、中華料理屋さんのような大火力のコンロは無いのでしょう。それでも高品質な野菜炒めを提供するために一人前ずつでしか作らないことが徹底されている。しかもそれは最安値の言わば「抑えメニュー」であるにもかかわらずです。この店は本当に細かいところまで料理の品質を大事にするんだな、と僕はすっかり感心してしまったというわけです。

 しかしこの二人には、もちろんそんなことは伝わっている気配もありません。

 「え、そうなの。まあいいよそれで」

 と、いささか不服げに承諾していました。

 僕は他人事ながらちょっとイライラしつつそこまでの顛末を観察していました。しかし同時に、彼らが出てきた料理を目の当たりにしてそれを食べ始めたら、そこまでの無責任な批評を撤回せざるを得なくなるかもしれない、とも思っていました。そんじょそこらの定食屋さんとはちょっと違うということにはすぐに気づくだろう、その瞬間が見ものだぞ、と。

 しかし残念ながらそうはなりませんでした。

 程なくしてひとつ目の野菜炒め定食が到着し、年配男性の前に置かれました。それは予想通り見事な野菜炒め。遠目からでもわかるくらい熱々の湯気を立てつつ、野菜はしゃっきり艶やかに炒められており、特にピンと形を保ったもやしは少しもクッタリしたところがありません。一人前ずつしか作らないという非効率には、確かな意味があったのです。

 ところが彼は、箸を付ける前からこんなことを言い出します。

 「もやしだらけだね。カサ増しだねこりゃ、カサ増し」

 「肉ちょっとは入ってる?」

 「入ってるけどほぼ野菜だけだね。カサ増し」

 カサ増し、という言葉がよほど気に入ったのでしょうか。そして自分が頼んだものが「野菜炒め」であったことも既に忘却の彼方なのでしょうか。

 そして黙々と食べ始めます。まもなくもうひとつの方も届き、文句ばかりのやりとりはようやく止まりました。途中で一度だけ、

 「味は、まあ普通だね」

 「こんなもんじゃない?」

 という会話が聞こえてきました。

 話の行きがかり上、すっかり二人を悪者のように書いてしまいましたが、これは単なるマッチングエラーでもあります。

 僕は昔から「ランチ1.5倍の法則」というものを唱えています。これは、例えばランチの相場が1000円くらいのエリアであれば、その1.5倍つまり1500円あたりから急にそのクオリティが価格差以上のものになる、というものです。この定食屋さんのあるエリアは下町で相場自体が安く、だいたい800円弱くらいなので、この店の中心価格帯1200円と考えればその法則通りということになります。

 もちろんこの法則はざっくりとした「傾向」でしかありません。世の中には安いのに妙にうまいエアポケットのような店もあり、それはその法則の適用外です。そもそも「クオリティが急に上がる」と言ったって、そのクオリティを判断するのは結局、個人の嗜好以外の何物でもありません。僕がこの日最初に感動したハムポテトサラダだって、普通のハムと出来合いの業務用ポテサラで充分なのだからその分安くしてほしいと考える人がいてもちっとも不思議ではありません。というかそう考える人の方が多いから、ほとんどの店ではそうなっているわけです。

 しかしここで「1.5倍の価値も分からん奴は味音痴」なんて言い始めたら地獄です。それは一番タチの悪いタイプのグルメ。100万円の骨董品が10万円で買えます、と言われても要らんものは要らんのと同じことです。

 なんですが、一見ちょっと高く見える飲食店には、おおむね何らか値段分の付加価値があります。超が付くような高級店になるとその価値が極めて分かりづらくもなりますが、少なくとも普段訪れるような市井の店ならそんなこともありません。良くも悪くも今は、「ぼったくり」の店が存続し続けられるような甘い時代ではないのです。想定より高い店だったとしても、批判から入らず、その差分をポジティブに楽しむ気持ちを持てば、それがまた新しい世界の発見に繋がることだってあるはず。

 あの時の男性二人にそんなことが伝えたくて、今この文章を書いています。少なくとも店内で他のお客さんに聞こえるように値段だけを批判するのは実に無粋です。

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考える人とはとは

 はじめまして。2021年2月1日よりウェブマガジン「考える人」の編集長をつとめることになりました、金寿煥と申します。いつもサイトにお立ち寄りいただきありがとうございます。
「考える人」との縁は、2002年の雑誌創刊まで遡ります。その前年、入社以来所属していた写真週刊誌が休刊となり、社内における進路があやふやとなっていた私は、2002年1月に部署異動を命じられ、創刊スタッフとして「考える人」の編集に携わることになりました。とはいえ、まだまだ駆け出しの入社3年目。「考える」どころか、右も左もわかりません。慌ただしく立ち働く諸先輩方の邪魔にならぬよう、ただただ気配を殺していました。
どうして自分が「考える人」なんだろう―。
手持ち無沙汰であった以上に、居心地の悪さを感じたのは、「考える人」というその“屋号”です。口はばったいというか、柄じゃないというか。どう見ても「1勝9敗」で名前負け。そんな自分にはたして何ができるというのだろうか―手を動かす前に、そんなことばかり考えていたように記憶しています。
それから19年が経ち、何の因果か編集長に就任。それなりに経験を積んだとはいえ、まだまだ「考える人」という四文字に重みを感じる自分がいます。
それだけ大きな“屋号”なのでしょう。この19年でどれだけ時代が変化しても、創刊時に標榜した「"Plain living, high thinking"(シンプルな暮らし、自分の頭で考える力)」という編集理念は色褪せないどころか、ますますその必要性を増しているように感じています。相手にとって不足なし。胸を借りるつもりで、その任にあたりたいと考えています。どうぞよろしくお願いいたします。

「考える人」編集長
金寿煥

著者プロフィール

稲田俊輔

料理人・飲食店プロデューサー。鹿児島県生まれ。京都大学卒業後、飲料メーカー勤務を経て円相フードサービスの設立に参加。和食、ビストロ、インド料理など、幅広いジャンルの飲食店の展開に尽力する。2011年、東京駅八重洲地下街に南インド料理店「エリックサウス」を開店。現在は全店のメニュー監修やレシピ開発を中心に、業態開発や店舗プロデュースを手掛けている。近年は、食についての文章も多く発表しており、最新刊『おいしいものでできている』(リトルモア)が話題に。著書に『人気飲食チェーンの本当のスゴさがわかる本』(扶桑社新書)、『南インド料理店総料理長が教える だいたい15分!本格インドカレー』『だいたい1ステップか2ステップ!なのに本格インドカレー』(いずれも柴田書店)がある。Twitter: @inadashunsuke

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