先日とあるトルコ料理レストランで食事をしていると、隣席の中年カップルが、こんな会話を始めました。
「沖縄行きたいけど、沖縄の料理が嫌いなのよねえ」
「え? 何が嫌なの? ほら、沖縄料理っつっても色々あるじゃん」
僕はその会話の続きが気になってしょうがありませんでした。なぜなら僕は沖縄料理が大好きだからです。自分が好きなものを嫌う人の話は、いつだって興味深い。しかしそこで女性は口をつぐんで考え込んでしまいました。そしてしばしの沈黙の後、ようやく、
「海ぶどうとか」
とだけ答えました。僕はすっかり拍子抜けしました。海ぶどうなんかじゃこの先の会話がちっとも盛り上がらないだろう、と。
拍子抜けしたのはカップルの男性の方も同じだったようで、
「海ぶどうって、あれなんか特別な味とかある? 普通、好きも嫌いも無いでしょ」
と突っ込みます。隣で僕も心中、いいぞ、その調子だ! と応援しながら女性の返答を待ちました。しかし女性はそのまま半ば強引にその話を打ち切り、男性も仕方なく「じゃあ台湾行く?」なんて言ってます。
おそらくなんですが、彼女は沖縄料理が嫌いという以前に、そもそも何の興味も無かったのではないかと思います。なのでボキャブラリーの引き出しを漁っても海ぶどうしか出てこなかった、それだけのことだったのではないでしょうか。
しかし僕はすっかり不完全燃焼でした。「嫌いなものの話をするなら、何がどう嫌いなのかを最後まで責任持ってちゃんと語れ!」と説教したくなった、というのも手前勝手な話なんですけど……。
かつて「カツカレーが嫌いだ」ということを表明したことがあります。最初はSNSで与太話として呟き、その後エッセイとしてその真意を入念に書きました。そこまではまだ良かったのですが、そのエッセイの内容はある時テレビで取り上げられ、幸いなことに多くの視聴者さんに面白がってもらえたのですが、同時に少なからぬ人々に怒られもしました。
「多くの人が好きなものを公共の電波で貶すとは何事か」と。
それで怒る人の気持ちはわからないでもないのですが、僕はいまだに微妙に納得が行っていません。なぜなら僕は、カツカレーそのものや、ましてそれを好きな人を否定したわけではないのです。「カツカレーが好きだなんて味覚音痴」などという暴言のひとつでも吐いたのなら、頭を丸めて平謝りします。しかし僕は、自分がカツカレー嫌いであることと、一時期は好きになるための挑戦を続けたがそれはうまくいかなかったという経緯をお話しし、後はひたすらそれが何故なのかという自己分析を行った、それだけなのです。
誰かが好きである可能性があるものを嫌いと言うのは、それだけで道徳的に悪なのでしょうか?
そのことを考える時に、ひとつ重要なことがあります。
僕は子供の頃、散々こんな教育を受けました。
「自分がされて嫌なことはやってはいけません。自分がされて嬉しいことをやってあげましょう」
これがまるっきり間違っているとまでは言いませんが、決して常に正しいわけでもないことを、現代の我々は思い知らされています。
例えば昨今「ルッキズム」という概念が浸透しています。人の容姿に関しては、よほど特別な関係性でない限り言及するべきではない、という道徳です。もはやこれは常識です。
しかしその根拠として、
「例えばあなたが仕事上の関係でしかない人に容姿を褒められても不快なだけでしょう?」
と言われても「いや、そんなことはないです」としか思わない人はいるわけです。それどころか、「自分は容姿を褒められると嬉しいのだから、他人のことも褒めねば!」という、ある種の使命感や親切心、時に処世術として、せっせとそれを遂行してきた人々もたくさんいる。
正直なところ、自分もかつてそんなひとりでした。知らぬこととは言え、過去自分がやってきたことを思うと冷や汗ダラダラです。そこにおいて「自分がされて嫌なことはやってはいけません」というテーゼは完全に無力でした。「ジェンダー」「文化盗用」「やりがい搾取」などなど、様々な概念において、この無力性は明らかになってきているのが現代です。我々は「自分に置き換えた時の感覚」に頼らず「知識」でアップデートを続けていかなければなりません。
それは全て承知の上で、あえてこれから、食べ物の好き嫌いに関して「自分がされて嬉しいかどうか」という話をしようとしています。少なくとも現時点では「嫌いな食べ物について語る」というのは、(ルッキズムなどとは異なり)完全悪とまではされていないからです。そして僕は、人々は自由闊達に遠慮なく「嫌いなもの」について語れる世の中の方が望ましい、と思っています。
僕は、自分が好きなものが貶されているのを見聞きするのは、どちらかと言えば好きです。だから冒頭の沖縄料理嫌いな女性の話もできればちゃんと聞きたかった。もちろんそこに明らかな誤解が含まれていれば一言物申したくなりますし、ましてそれが人格否定に結びついていれば言語道断で不快です。しかし、それがあくまで個人の感覚や見解に留まっている限りにおいては、純粋に興味深いトピックだと感じます。
そもそも、あらゆる人に好かれるものなんて、食べ物に限らず存在し得ません。むしろ、本当に良いものほど好き嫌いがはっきり分かれるものです。これは、ジャンルを問わず何かの「マニア」になったことがある人は特に痛感しているはずです。食べ物であれ、映画であれ、漫画であれ、音楽であれ、なんでもそう。「嫌いな人もたくさんいる」ということは、「特別良いものである」ということの、決して十分条件でこそありませんが、必要条件であるとは言えるのではないでしょうか。
「アイデンティティとは他者との相違の総和である」という言葉を聞いたことがあります。大好きな言葉です。
例えば僕は「冷奴をおかずにご飯を食べる」のが好きです。納豆や明太子などとは異なり、これに賛同する人がほとんど存在しないことは百も承知です。だから、たまさか「冷奴とご飯の相性、わかります!」という稀な同志が現れたら確かに感無量です。それは間違いない。しかし、「そんなの絶対理解できないよ!」という意見が次々に出てきたら、それはそれで嬉しい。そこに理由が付け加えられていたらもっと嬉しい。世の中の多くの人が好まないものを何故自分は好むのか、という考察は、己のアイデンティティ(=他者との相違)を雄弁に説明するからです。
誰の目に触れるかもわからないネット上で嫌いなものについての話はするべきではない、というのは、ある種のマナーとして共有されつつあります。自分が好きなものが貶されるのは悲しい、という気持ちももちろん理解できる。しかし「嫌い」を語るにも実は結構グラデーションがあります。
① 「〇〇の良さが理解できない。なぜならば……」と、分析を含めて自己完結しているもの
② 「〇〇が良いとはどうしても思えない」と、純粋に主観として述べているもの
③ 「〇〇はダメだ」と、あたかも客観的であるように決めつけているもの
④ 「〇〇を良いという奴はおかしい」と、人格攻撃にまで至っているもの
個人的には、①:◎/②:〇/③:△/④:× だと思っているのですが、皆さんはどうでしょう?
世間、特にネットの世界では③や④ばかりが悪目立ちして、しかもそれが憎悪が憎悪を呼ぶような不毛な論争に発展することも少なくなく、そのせいで①や②も十把ひとからげに否定されているようにも見えるのです。③や④を駆逐しさえすれば、①や②に基づき、「嫌いなもの」に関して楽しく有意義な意見交換が自由闊達に盛り上がるのでは、というのは理想論にすぎるのでしょうかね。
さて、この連載は今回が最終回です。毎回雑多なテーマで約1年半にわたり書き続けてきた中で改めて、飲食店は舞台、お客さんは登場人物のようなものだな、としみじみ感じています。そこで毎日のように繰り広げられる、ささやかだけど印象的なドラマ。心に染みるエピソードもあれば、ヤキモキするような展開も、滑稽なオチもあります。単に料理やサービスをお金で買うだけではない、そんな「風情」を多くの方が楽しんでくれたら僕は本望です。
それではみなさま、いったんここでさようなら。またいつかお会いしましょう!
(了)
*本連載は今回で最終回となります。ご愛読に感謝申し上げます。秋ごろに新潮社より書籍化の予定です。
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稲田俊輔
料理人・飲食店プロデューサー。鹿児島県生まれ。京都大学卒業後、飲料メーカー勤務を経て円相フードサービスの設立に参加。和食、ビストロ、インド料理など、幅広いジャンルの飲食店の展開に尽力する。2011年、東京駅八重洲地下街に南インド料理店「エリックサウス」を開店。現在は全店のメニュー監修やレシピ開発を中心に、業態開発や店舗プロデュースを手掛けている。近年は、食についての文章も多く発表しており、最新刊『おいしいものでできている』(リトルモア)が話題に。著書に『人気飲食チェーンの本当のスゴさがわかる本』(扶桑社新書)、『南インド料理店総料理長が教える だいたい15分!本格インドカレー』『だいたい1ステップか2ステップ!なのに本格インドカレー』(いずれも柴田書店)がある。Twitter: @inadashunsuke
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とは
はじめまして。2021年2月1日よりウェブマガジン「考える人」の編集長をつとめることになりました、金寿煥と申します。いつもサイトにお立ち寄りいただきありがとうございます。
「考える人」との縁は、2002年の雑誌創刊まで遡ります。その前年、入社以来所属していた写真週刊誌が休刊となり、社内における進路があやふやとなっていた私は、2002年1月に部署異動を命じられ、創刊スタッフとして「考える人」の編集に携わることになりました。とはいえ、まだまだ駆け出しの入社3年目。「考える」どころか、右も左もわかりません。慌ただしく立ち働く諸先輩方の邪魔にならぬよう、ただただ気配を殺していました。
どうして自分が「考える人」なんだろう――。
手持ち無沙汰であった以上に、居心地の悪さを感じたのは、「考える人」というその“屋号”です。口はばったいというか、柄じゃないというか。どう見ても「1勝9敗」で名前負け。そんな自分にはたして何ができるというのだろうか――手を動かす前に、そんなことばかり考えていたように記憶しています。
それから19年が経ち、何の因果か編集長に就任。それなりに経験を積んだとはいえ、まだまだ「考える人」という四文字に重みを感じる自分がいます。
それだけ大きな“屋号”なのでしょう。この19年でどれだけ時代が変化しても、創刊時に標榜した「"Plain living, high thinking"(シンプルな暮らし、自分の頭で考える力)」という編集理念は色褪せないどころか、ますますその必要性を増しているように感じています。相手にとって不足なし。胸を借りるつもりで、その任にあたりたいと考えています。どうぞよろしくお願いいたします。
「考える人」編集長
金寿煥
著者プロフィール
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- 稲田俊輔
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料理人・飲食店プロデューサー。鹿児島県生まれ。京都大学卒業後、飲料メーカー勤務を経て円相フードサービスの設立に参加。和食、ビストロ、インド料理など、幅広いジャンルの飲食店の展開に尽力する。2011年、東京駅八重洲地下街に南インド料理店「エリックサウス」を開店。現在は全店のメニュー監修やレシピ開発を中心に、業態開発や店舗プロデュースを手掛けている。近年は、食についての文章も多く発表しており、最新刊『おいしいものでできている』(リトルモア)が話題に。著書に『人気飲食チェーンの本当のスゴさがわかる本』(扶桑社新書)、『南インド料理店総料理長が教える だいたい15分!本格インドカレー』『だいたい1ステップか2ステップ!なのに本格インドカレー』(いずれも柴田書店)がある。Twitter: @inadashunsuke
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