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土俗のグルメ

2023年11月10日 土俗のグルメ

第20回 分けて食べるか、混ぜて食べるか――「丼もの」をめぐる議論

著者: マキタスポーツ

その無分別で非秩序なるもの

 牛丼、カツ丼、親子丼、天丼…私はこれらご飯と具材とがコンバインされた「丼もの」が大好きだ。あゝ、胸に高鳴る鼓動。「丼もの」のことを考えると、子どもの頃にやった泥んこ遊びのような、ワクワク感が込み上げてくる。

 が、しかし、世間にはそれを良しとしない勢力がいる。なので、僭越ながら、私が一度「丼もの」とは一体何なのかを記しておきたいと思う。

 システム的でメソッド的、かつフォーミュラ的なものは、合理を追求するのには最適だが、そればかりを求められると、どうにも息苦しい。しかし世界はどんどん合理を突き詰める方向へとシフトしている。その一方で、無分別で未分化的で非秩序的なものを、どんどん隅に追いやってはいないだろうか―。

 「丼もの」をその混然一体としたものの代表として、今回は論を展開していきたい。

 己の中年体型を鏡に映してみる。とりとめもない腹、ボンヤリとした顎、首のライン…我ながら残念な体型だとは思う。それに比べて合理的なものを求める世間は、身体でたとえると、まるで筋肉をカッティングして分類し、各パーツを理想的に編集したボディのようじゃないか。自己管理ができない言い訳じゃないが、少しぐらい緩さのある身体でもいいじゃないか。それを愛せない世間は、無分別で非秩序的であることに、いささか怯え過ぎだと思う。

 「帰りに牛丼で〆るか」

 そんな人間生活をしている、そのだらしのなさが信用できる。牛丼を掻き込んでいる瞬間、身体は丼ものに乗っ取られ、やがて自らも丼もののように無分別で無秩序な体型になっていくわけである。そんな私は「丼もの」ならぬ「丼者」だ。

 と、冒頭からこのようなメタファーを提示しておいてなんだが、私は丼ものに見られる非秩序的なものを全て良しとしているわけではない。

 例えば「海鮮丼」。あのカオティックさを、私はどうしても受け入れられない。いや、受け入れられないことはないが、私にはどうにも荷が重い。将棋にたとえると、詰み寸前の状態で、その盤面を渡されたような気分と言おうか。あるいは、テトリスの終盤的と言おうか。とにかく海鮮丼を前にすると、手も足も出ない気分になる。すでに状況が煮詰まっているため、考え、クリアしないといけない事柄が多すぎるのだ。もはや投了するほかはない。

 このように海鮮丼には、毎回「敗北感」を突きつけられて終わるのだ。

「丼もの」をめぐる議論

 ちなみに私は、コース料理はコース料理として大好きだったりする。あれはつまり「ロジック」だ。そこには料理人のおもてなしに関する道理や理路が示されているのであり、それを楽しむものである。  

 私はよく料理を食べながら、独りうなずいたり、首を傾げたりするのだが、あれは見えない厨房の料理人と対話をしているのである。ましてやそれがコース料理となれば、シェフの独演会、あるいは講演や学会での発表のようなものなのだから、こちらは観客として彼の論理的思考や構成を見る。それもまた愉悦。斯様に、私はよく練られたプロット全てが苦手というわけではなく、それはそれとして楽しむことができる。

 ただ、丼ものはどうだ。

 コース料理に代表されるような理知的でロジカルなものとは、正反対の位置にあるものではないだろうか。野性や感性、本能が、丼の中に剥き出しのまま放置されている。放置された塊をむんずと掴み、理屈を超えたその支離滅裂さを身体に放り込むようにして喰らう。その醍醐味が堪らない。「カッカッカ!」と最後はお面を被る勢いで丼メシを平らげ、フィニッシュした時のあの高揚感よ。

 それに対して、反対の声も聞こえてくる。

 「丼ものほど、合理的なものはないじゃないか」

 たしかにそうかもしれない。別々に存在している牛肉煮込みとメシが、ひとつの丼にまとまっているのだ。それは非常に合理的なものかもしれない。さらに「時短」という要素も加わるわけだから、より合理的だ。

 しかし、である。

 「具を上に載せちゃうと、メシが汚れるじゃないか」

 さらに議論を混ぜっ返すような声が聞こえてくる。はっきり言って面倒なので無視をしたいところだが、丼ものにとっては大事なポイントなので、そうもいかない。

 丼ものをめぐる議論においては、この「メシ汚し問題」こそが、永遠の論点となる。冒頭でも述べたように、これが「丼ものを良しとするか否か」の分かれ道なのだ。

 振り返れば人類の歴史は、「境界線」の歴史であったとも言えよう。様々な事柄や場所に線引きをして、概念や所有、自他の区別をすることで進歩してきた。つまり、線引きによって、合理は生まれるのである。

 しかし、丼ものは、その線引きを拒否する。「メシが汚れる」と主張する「丼もの否定派」は、そこに抵抗しているのである。「境界線が曖昧じゃないか」と。

 こうした議論に対して私は、誠に狡いが“棚上げ”することにしている。あえて境界を曖昧にするのである。つまり、「メシは綺麗なままでも良いし、汚すのも良い」とするのである。そうすることで無理矢理「和平」に持ち込むのだ。

 「丼もの」についての議論でも、領土問題でも、どちらか一方の言い分に肩入れすると、それに対する反対意見が噴き上がって、その問題はやがて紛争へともつれ込む。だからこうした場合、何も言っていないような、穴を掘って穴を埋めるような「ゼロ解答」が好ましいと考える。

 きっちりとした線引きをするのは、地図が読めない人に地図を読める人間が説教をするようなものである。読めないなら読めないで、「そうだよねー。わかんないよねー」と共鳴し合うことで、わざと迷宮を作り出し、理を突き詰めないようにするのだ。

 そもそも人類はあらゆる事象をセパレートしてきた。本来的には分かち難く結びついているものを、概念や言葉で引き剥がし、分別することで納得する。

 私が丼ものに感じるワクワクは、細分化され過ぎて、わけがわからなくなってきた世界を、大雑把に「これだ!」と決定づけるようなダイナミックさである。神経症的に細かく丁寧になり過ぎた世の中に存在する、ほんの束の間のご陽気な“いいかげんさ”。それが丼ものにはあるのだ。

「丼もの」におけるステレオとモノラル

 さらに、丼ものについて考えていこう。

 「カツ丼の中に見つけた白飯」

 この部位に私は興奮するのである。ここが実に美味い。

 上物のカツ煮の真下に隠れて、出汁が当たっていない場所を見つけた時の喜びたるや。他の部分には出汁が周り、ぐちゃぐちゃになっている。そこはまるで砂漠のオアシスのような場所。お神輿が担がれている側で楽しむ線香花火とでも言おうか。その「丼内の白飯というブランク」は、計算された場所にあるのではなく、いつだってアトランダムで偶然に満ちている。その不規則性が堪らない。

 思うに、ステレオ(分離音響システム)とモノラル(単一音響システム)の違いなのかもしれない。私はステレオの音響も好きだし、一方、ビートルズの音源のようにモノラルな環境で録音された音響も大好きだ。「とんかつ定食」のようにセパレートされた食べものをそれぞれにいただくのも美味いし(ステレオ)、「カツ丼」のようにそれが一緒くたにされたものも良い(モノラル)。

 それぞれはそれぞれの意味を持つのである。ステレオが上位で、モノラルが下位ということではない。それと同じように、丼ものについても全てが混然化していることにガッカリするのでなく、モノラル音源を楽しむように、丼に込められた素材の力を感じるように食べていただきたいと思う。

 「お? 出汁に浸ってるけど、そもそもご飯が美味いな」とか、「タマネギの染み込みがまばらなのが良いな」とか、そんな感じでどうだろうか。

山梨の「カツ丼」と冷めた「丼もの」

 最後に、印象深い丼ものの紹介とささやかな提案をしたい。

 私の生まれ育った山梨に「カツ丼」と言われる丼ものがある。全国的には、カツを煮て卵でとじたやつのことと思うだろう。ちなみに、山梨ではアレを「煮カツ」と言う。

 では、山梨の「カツ丼」とはどういうものか。驚くなかれ、白飯の上にカツ定食の具をそのまま載せてあるものを「カツ丼」と言うのである。ひねりも、頓知もない、ただの組体操的足し算である。

 私は子どもの頃、これが大嫌いだった。でも、飽食の時代の今となっては、この「工夫」を極端に削ぎ落としたいいかげんな風情に、天然の美を感じてとても愛おしい。食べ方は、ただソースをかけて食べるだけである。これが数多ある「ソースカツ丼」と違うところで、全く競争してない。それが可愛いので、放っておくことにしている。

 そして、冷まして食べる「冷め丼」はどうだろうか?

 天丼、鰻丼、中華丼、なんでも良いが、私は冷ました丼ものが大好物だ。

 出汁がご飯に染み込んで、米が少し太っているのが良い。また、天丼などは、衣がご飯にくっついて、それを剥がすと床擦れのような感じになる。長年連れ添った妻を老々介護するように、イカ天を持ち上げると、下の衣が剥がれる。その剥がれた衣と、だらしなくふやけたタレご飯をいただく至福よ。

 またある時の私は、「冷め丼」を食べるために、店内で食べる時間があるのにもかかわらず牛丼をテイクアウトする。店内が忙しくないことが条件だが、テイクアウト用の容器に入れられた牛丼を手渡されたと同時に、事前に注文しておいた卵を割って入れ、急いで蓋をし、持ち帰る。家に帰る頃には、卵の白身がご飯に抱きつき、少しだけ固まり、真ん中の黄身は緩く熟したままになっている。我慢した甲斐があった。その時の私と牛丼の関係はバチェラーパーティをしている親友同士だ。

 そして、提案。

 常々思っていることだが、「カレーの絵面」を丼ものに応用できないかと考えている。

 我が日本のカレーの基本的絵面(ルーと米の専有面積)の比率は、いつ頃からか「5:5」を理想としている。これを丼にも応用できないかと。すでに意識しているところもあるかもしれないが、たぶん主流には程遠い。

 例えば、私は自宅で親子丼を作る時に、ご飯の白い部分をわざと残して、具を盛り付ける。「6(具):4(白飯)」ぐらいの割合か。薄茶と白の絵面は、コントラストがはっきりとしていないように思える。しかし、そんなことはただの固定観念だと思って割り切る。それでも、なんだか寂しいので、その面出しした白飯の部分に三つ葉をあしらうのだ。その上で刻み海苔を上からまぶす。これで絵面の不安は解決する。

 「セパレートしてるじゃないか!」

 たしかにその通りだ。しかし、論理が破綻するのも仕方ない。相手は丼ものだ。この文章のあらゆる比喩をぐちゃぐちゃに混ぜて召し上がってみてほしい。

 

*次回は、11月24日金曜日更新の予定です。

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考える人とはとは

 はじめまして。2021年2月1日よりウェブマガジン「考える人」の編集長をつとめることになりました、金寿煥と申します。いつもサイトにお立ち寄りいただきありがとうございます。
「考える人」との縁は、2002年の雑誌創刊まで遡ります。その前年、入社以来所属していた写真週刊誌が休刊となり、社内における進路があやふやとなっていた私は、2002年1月に部署異動を命じられ、創刊スタッフとして「考える人」の編集に携わることになりました。とはいえ、まだまだ駆け出しの入社3年目。「考える」どころか、右も左もわかりません。慌ただしく立ち働く諸先輩方の邪魔にならぬよう、ただただ気配を殺していました。
どうして自分が「考える人」なんだろう―。
手持ち無沙汰であった以上に、居心地の悪さを感じたのは、「考える人」というその“屋号”です。口はばったいというか、柄じゃないというか。どう見ても「1勝9敗」で名前負け。そんな自分にはたして何ができるというのだろうか―手を動かす前に、そんなことばかり考えていたように記憶しています。
それから19年が経ち、何の因果か編集長に就任。それなりに経験を積んだとはいえ、まだまだ「考える人」という四文字に重みを感じる自分がいます。
それだけ大きな“屋号”なのでしょう。この19年でどれだけ時代が変化しても、創刊時に標榜した「"Plain living, high thinking"(シンプルな暮らし、自分の頭で考える力)」という編集理念は色褪せないどころか、ますますその必要性を増しているように感じています。相手にとって不足なし。胸を借りるつもりで、その任にあたりたいと考えています。どうぞよろしくお願いいたします。

「考える人」編集長
金寿煥

著者プロフィール

マキタスポーツ

1970年生まれ。山梨県出身。芸人、ミュージシャン、俳優、文筆家など、他に類型のないエンターテインメントを追求し、芸人の枠を超えた活動を行う。俳優として、映画『苦役列車』で第55回ブルーリボン賞新人賞、第22回東スポ映画大賞新人賞をダブル受賞。著書に『決定版 一億総ツッコミ時代』(講談社文庫)、『すべてのJ-POPはパクリである』(扶桑社文庫)、『越境芸人』(東京ニュース通信社)など。近刊に自伝的小説『雌伏三十年』(文藝春秋)がある。

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