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土俗のグルメ

2024年2月9日 土俗のグルメ

第23回 歌舞伎町のつくね煮――土俗の料理の原点(1)

著者: マキタスポーツ

書を捨てよ、メシを食おう――。有名店を食べ歩くのでもなく、かといって大衆酒場ばかりを飲み歩くのでもなく、たとえ他人に「悪食」と言われようとも、あくまで自分の舌に正直に。大事なのは私が「うまい」と思うかどうか。情報や流行に背を向けて、己の「食道」を追究する――これ即ち、土俗のグルメである。自称「食にスケベ」な芸人が、「美味しい能書き」を存分に垂れるメシ論。

我、いかにして料理を始めたのか

 編集者から「マキタさんはいつから料理をするようになったのですか?」と訊かれたので考えてみた。

 プロの料理人でもない私がそのような振り返り作業をして良いのだろうか? 躊躇(ためら)いつつ考えてみる。

 「私が料理に出会ったのは…」

 まったく、馬鹿みたいじゃないか。

 とは言いつつ、確かに自分としても、いつ頃から「手料理」のノウハウを身につけたのかは気になる。振り返ると、飲食店で働いた経験が大きかったように思う。しかし、私が飲食系で働いたのは居酒屋とファストフード店のみ。そんな私が「料理は長く、人生は短し…」的な、皆が感動する至言や達見を残せるだろうか。不安だ。

 ま、どうかはわからないが、とにかく振り返るだけ振り返って見ようと思う。そこには私特有の土俗なグルメ観の根っこのようなものが眠っているかもしれない。

歌舞伎町の磯辺揚げ

 その居酒屋でアルバイトをしたのは、上京したばかりの18歳の頃だった。

 学費は両親に賄ってもらっていたが、他の生活費は自分で稼がなくてはいけない。とりあえず、メシにありつきたかったので飲食系ならどこでも良いと考えて決めたバイト先だった。

 場所は新宿歌舞伎町、さくら通り付近の雑居ビルにあった個人経営の居酒屋H。

 当時はバブル絶頂期であり、活況を呈した歌舞伎町は、田舎者の自分には眩しくて、行き交う人々は皆トッポく、全体的に不潔で、騒々しく、丁寧な時代の今とは比べものにならないほど適当で雑な時代。でも見るもの全てが新鮮で、毎日が興奮状態だった。

 最初はホールで働いていたが、人手が足りなくなるとすぐに厨房へ回された。そこで包丁の使い方にはじまり、揚げ物や焼き物の基本は覚えたのだが、“刺し場”と言われるポジションは、厨房の主任である「板長」が仕切っていて、そこでの作業だけは覚えさせてもらえなかった。

 「ダメだぁ〜おめぇ! 天ぷらっ粉はそんなかき混ぜちゃ!!」

 福島訛りのその板長は、口調は乱暴だけど、様々なノウハウを教えてくれた。天ぷら粉のその一件は、竹輪の磯辺揚げを揚げるのに使う小麦粉を混ぜすぎていたことに対しての叱責だった。

 「天ぷらはよ、(ダマ)があるぐらいの方が良いんだ。おめぇのそれはフリッターじゃねーが!」

 「え? 板長、じゃフリッターってこうやって作ればいいの?」

 と、私は天ぷらだけじゃなく、フリッターの作り方まで教わってしまった。

 ついでに、「ま、コレ、もったいねぇがら、今回はこれで出すけどよ、本当はダメだかんな!」と手の抜き方まで教えてくれたのだから堪らない。今の時代じゃ考えられないが、当時の歌舞伎町はそんなQC(クオリティ・コントロール)がイイカゲンな店でも、とにかくよくお客さんが入った。

 連日とにかく忙しい。しばしば「店長が客を入れまくる→パニックになる厨房→調理の統制が乱れる→プロじゃない料理人が手を抜き始める」という典型的な負のスパイラルに陥った。

 天ぷらをきちんとした手順で作ろうとすると、粉をとくのには氷水を使い、(ころも)をつけ終わったら必ず冷蔵庫に保存しなければいけない。当然、その都度フレッシュな天ぷら粉を使用する。そうするべきだが、忙しさの悪循環の中では、そんな丁寧なオペレーションが遵守されるはずもなく、結果的に使いまわし、けれど強度だけはある衣をまとった揚げ物が次々に量産されるようになるのに時間はかからなかった。

 いつしかその居酒屋では、私の作るフリッター風の竹輪の磯辺揚げが「正式なヤツ」になってしまったのである。たまに板長が本来のヤツを出すと「いつもと違う!」と客からクレームが入るようになった。

 時が経ち、今でもたまに天ぷらを作る時があるが、フリッターにならないように細心の注意を払うようにしている。しかし、上手くは出来ない。天ぷらは本当に難しい。でも、竹輪の磯辺揚げは今でもフリッター状にしている。じゃなきゃ食べた気がしないのだ。二つのことを教えてくれた板長には感謝したいと思う。

盗んだ「つくね」の味

 その店の料理で好きだったものがある。「鳥のつくね」だ。

 普通、鳥のつくねというと、焼き鳥のそれを思い浮かべるだろう。確かに、串には刺さっていたのでカテゴリー的にはそちらになるのだが、なぜかその店では焼くのではなく、煮たつくねを串に刺して提供していた。で、これの評判が良かった。

 学校帰りにバイト先に行くと、更衣室のある廊下に大きな鍋があるのを見かけることがよくあった。煮終えたばかりの「つくね玉」を冷ますためだ。アルミホイルの落とし蓋をめくり、私はこれを少しだけ失敬する。学校帰りの空きっ腹に、よく効いた。

 板長は、私のようなアルバイトには、刺身だと鯵の水洗いまでで、煮物も基本的には触らせてはくれなかった。私はそれがほんの少し悔しかった。刺身ならばハマチをおろせるぐらいにはなりたかったが、コストがかかり過ぎる。そのためには、自分の出刃や柳葉包丁だって必要だろう。でも煮物ならば家にあるもので作れるし、コストも抑えることができる。

 「あのつくねを盗もう」―。今までバックヤードで失敬していたアレを家で作って思う存分食べたいと考えたのである。

 仕込み時間を狙って、オープン前に入店してみた。

 「つくね煮」が作られる日は大体週一回。自分のシフトをその日にピンポイントで合わせるのはなかなか難しい。私は前もって在庫チェックをしつつ、「あれ? つくねもう無くなりますねぇ」と板長に言ってみた。すると、「板場の冷蔵庫、勝手に覗くな〜おめぇ!」と言われてしまう。確かに、単なるバイトがそこまでするのは不審だったろう。しかし「明日、仕込むから大丈夫だぁ」という情報は手に入れた。

 厨房の端で普段し慣れない包丁研ぎをしながら、板長の一挙手一投足の様子を窺ってみた。

 水が張られた大きな鍋に、酒、砂糖、みりん、醤油(のようなものが)が、目分量でドシャドシャと注がれる。ついでに、味見じゃなく日本酒もグイッと煽る板長。首筋には光る汗。

 「あんな感じで、適当なんだな…」

 傍には、ボールに入れられている多量の鶏ひき肉があった。アレをどうするのか気になってしょうがない。

 「おう! ちょっと手を貸してくれ!」

 願ってもないチャンスだ。何をさせられるんだろう? 洗い物だけは勘弁だ。すると板長は…、

 「生姜を大量に摺り下ろしてくれ」

 興奮した。あのつくねの心臓部に手が入った気がしたからである。

 恐る恐る訊いてみた。

 「あの、この他にもなんか入れるんですか?」

 「入れるけどよ…つーか、口動かしてねぇで手ぇ動かせ! おめぇ!」

 舌の記憶と一致する「生姜」という物証。胸がキュンとした。変な言い方だが、「性的興奮に近い答え合わせ」な気がした。

 しかし気になる。もうひとつの材料とは一体何だ?

 答えは案外あっさり解った。玉ねぎだ。板長は微塵切りにした玉ねぎを炒め始めた。そう、私の眼前で。

 

 (1)つくねを煮るための割下を準備する
 (2)生姜を大量に摺り下ろす。微塵切りした玉ねぎを炒める(たぶん甘みが出る程度まで)
 (3)大量の生姜と炒めた玉ねぎを鶏ひき肉と()ねて混ぜる

 

 これが「つくね煮」の正体で、驚くほどシンプルだった。でも、このシンプルな構造とレイヤーを見ることができたのが収穫だった。今でもそうだが、私がそそられるのは、この「(ことわり)」の部分。「マジック」を成り立たせるのが理系的設計であるのと同じようにである。

 その先の板長の作業に見入ってしまう。

 生姜と玉ねぎを鶏ひき肉に混ぜた(あん)を、握った拳の親指と人差し指の隙間から捻り出す。それをスプーンで掬い取りながら、割下の中にポンポンと投入していく。手際よく、一定の速度で、機械的な手作業。煮始めると、あく取りの背を使って、あくを円状に集合させ、サッとまとめて掬い取る。

 お次は味見だ。おたまで(すく)った出汁汁を口元へそのまま運んでいく。よく見ると、おたまに口をつけず、吸い込むようにして味見をする。おたまと口の隙間に「汁の架け橋」が出来ていた。口に入れるや、それをペッとシンクに吐き出す。そして虚空を見上げるように味を確かめる。小首を傾げながら醤油を足す。

 ポーッとした。「なんて美しいんだ!」と感動していた。

 「やってみっか?」

 「良いんですか!」

 なんと、つくね玉作りに挑戦させてもらうことが出来たのである。

 餡を手に取り、拳から捻り出す。が、これがどうしても板長のように丸く出てこない。(いびつ)で不気味な肉塊、まるで貧弱なゴジラのようなものが次々と量産されてくるだけだった。

 「こんな不細工じゃ店に出せねぇわ! コレ、おめぇが責任とって食えな!」

 この日の私のまかないメシはその「ゴジラ」となった。しかし、願ったり叶ったりだった。授業料を払うどころか、好物まで食べられたのだから。

 「竹輪みたいに、こっちの不細工なヤツが売れるかもしれませんよ?」

 「このやろう!」

 板長が包丁を投げようとしたので、慌てて逃げた。つくづく雑な時代だった。

 このレシピは今でも我が家に引き継がれるが、それよりも「料理が生まれるプロセス」を実地で学ぶことができたのが大きい。ダイナミックで粗野だけど、集中していて、作業は機械的で人がシンプルになっている状況。それはまるで、荒ぶるロック・ギタリストがトランス状態でプレイをしているようだった。

 調味料や工程も大事だけれど、料理という営為の興味深さは、この板長に教えてもらった。私は厨房に立つ時、いつもあの頃の私が、どこかで覗いているような気分で作業している。(次回に続く)

 

*次回は、2月23日金曜日更新の予定です。

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 はじめまして。2021年2月1日よりウェブマガジン「考える人」の編集長をつとめることになりました、金寿煥と申します。いつもサイトにお立ち寄りいただきありがとうございます。
「考える人」との縁は、2002年の雑誌創刊まで遡ります。その前年、入社以来所属していた写真週刊誌が休刊となり、社内における進路があやふやとなっていた私は、2002年1月に部署異動を命じられ、創刊スタッフとして「考える人」の編集に携わることになりました。とはいえ、まだまだ駆け出しの入社3年目。「考える」どころか、右も左もわかりません。慌ただしく立ち働く諸先輩方の邪魔にならぬよう、ただただ気配を殺していました。
どうして自分が「考える人」なんだろう―。
手持ち無沙汰であった以上に、居心地の悪さを感じたのは、「考える人」というその“屋号”です。口はばったいというか、柄じゃないというか。どう見ても「1勝9敗」で名前負け。そんな自分にはたして何ができるというのだろうか―手を動かす前に、そんなことばかり考えていたように記憶しています。
それから19年が経ち、何の因果か編集長に就任。それなりに経験を積んだとはいえ、まだまだ「考える人」という四文字に重みを感じる自分がいます。
それだけ大きな“屋号”なのでしょう。この19年でどれだけ時代が変化しても、創刊時に標榜した「"Plain living, high thinking"(シンプルな暮らし、自分の頭で考える力)」という編集理念は色褪せないどころか、ますますその必要性を増しているように感じています。相手にとって不足なし。胸を借りるつもりで、その任にあたりたいと考えています。どうぞよろしくお願いいたします。

「考える人」編集長
金寿煥

著者プロフィール

マキタスポーツ

1970年生まれ。山梨県出身。芸人、ミュージシャン、俳優、文筆家など、他に類型のないエンターテインメントを追求し、芸人の枠を超えた活動を行う。俳優として、映画『苦役列車』で第55回ブルーリボン賞新人賞、第22回東スポ映画大賞新人賞をダブル受賞。著書に『決定版 一億総ツッコミ時代』(講談社文庫)、『すべてのJ-POPはパクリである』(扶桑社文庫)、『越境芸人』(東京ニュース通信社)など。近刊に自伝的小説『雌伏三十年』(文藝春秋)がある。

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