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「反東大」の思想史

2019年6月28日 「反東大」の思想史

第11回 早稲田大学の「在野精神」は本物か?

著者: 尾原宏之

早慶の「在野精神」

 1902(明治35)年、大隈重信を建学の父と仰ぐ東京専門学校は、早稲田大学と改称した。ただしこの時代、日本国家が認める大学は東京と京都の帝国大学しか存在しておらず、早稲田「大学」は法律上〈大学を自称している専門学校〉にすぎない。その他の私立「大学」もまたしかりである。この状態は、私立大学の存在が大学令によって認められ、1920(大正9)年に慶應義塾、早稲田などが正式な大学に昇格するまで続いた。
 この早稲田大学は、長らく「野党精神」「在野精神」あるいは「反骨精神」といった気風を持ち合わせていると自認しており、そのことに注目するメディアもあるようだ(「なぜ早稲田には反骨精神があるのか」NIKKEI STYLEなど)。

大隈重信(1838-1922)

 ところで、早稲田の「野党精神」「在野精神」とはなんだろうか。「野党精神」というと、近年著しく評判の悪い〈なんでも反対〉精神が想起され、嫌悪感をもよおす向きも少なくないだろう。とりあえず「在野精神」という言葉に着目してみる。この場合の「在野」とは「公職につかないで民間に居ること」(『日本国語大辞典』)を意味する。「在朝」や「在官」とは逆の立場である。
 実は、そういう意味での「在野」についていえば、早稲田の前にたしかな先行者が存在していた。福澤諭吉の慶應義塾がそれである。すでに見たように(第4回)、福澤にとっての「在野」的なるものの中心は、商業や工業つまり実業というフィールドであった。そして、そのフィールドの拡張によって「官尊民卑」を打破するという明確なヴィジョンがあった。

「在野」政党の〈兄弟〉として

 だが早稲田の場合、その「在野」思想の核心がなんであるか、実は判然としない。大学が開設したウェブサイトを見ても、謎は深まるばかりである。
 早稲田大学ウェブサイトは、1913(大正2)年制定「早稲田大学教旨」の第一スローガン「学問の独立」の説明のなかで、「「学問の独立」は、「在野精神」「反骨の精神」と結び合います。早稲田大学は、自主独立の精神を持つ近代的国民の養成を理想として、権力や時勢に左右されない、科学的な教育・研究を行ってきました」(「早稲田大学について」)と説明している。だが、政治権力や時勢に媚びないという程度のことは、実態はともかくどこの学校でも多少は主張していることではないだろうか。
 また、現在の早稲田大学は国家公務員(=官吏)を目指すことを勧めているようである。「志に満ち「国民に奉仕する」国家公務員こそが求められている。「官」の世界でも、本学の在野精神を大いに発揮して行こうではないか!」(「目指せ!「在野精神」あふれる国家公務員!国家公務員I種 合格状況」)。福澤諭吉は一切の官職や位階勲章を拒絶したことで知られているが、現代における早稲田の「在野精神」とは要するに心意気の問題にすぎないのだろうか。

明治時代の早稲田大学(1910年撮影)

 ひとつ確実にいえることがある。早稲田大学の前身である東京専門学校が1882(明治15)年10月に創設されたのは、その前年の「明治十四年の政変」で大隈重信が伊藤博文らによって政権中枢から放逐され、下野したことが起点になっている、ということである。この政変がなければ大隈は依然「在朝」して政務を担っていたはずだから、「在野」で学校創設にいそしむことはなかっただろう。
 ところで「在野」にはもうひとつ別の意味がある。それは「政党が政権をとらないで、野党の立場にあること」という意味である(『日本国語大辞典』)。東京専門学校は、この意味での「在野」としてならば首肯すべき意義を持っていた。大隈は、東京専門学校と同時期に結成された民権政党・立憲改進党の党首でもあったからである。『早稲田大学百年史』(以下『百年史』)が「片手に政党、片手に学校」あるいは「双生児」と表現したように、立憲改進党と東京専門学校は人的にも理念的にも強く結びついていた。つまり早稲田は、権力から疎外された「(在)野(政)党」とその起源において切り離せない存在であった、ということである。このことは、早稲田大学およびその卒業生の行末を考える上で重要なポイントとなる。

「東大の分家、慶応の弟分」

 それでは、「在野精神」をかかげる東京専門学校=早稲田大学の、「官」とりわけ官立学校に対する姿勢はどうであったか。そもそも、東京専門学校=早稲田大学の創設は、官立学校である東京大学の存在なくしてはありえなかった。『百年史』は、高田早苗、天野為之、市島謙吉、岡山兼吉、山田一郎、砂川雄峻、山田喜之助ら東京大学の学生が、土佐出身の民権派知識人である小野梓と出会ったことを学校創設の起源に置く。小野は大隈とともに「明治十四年の政変」で政府を辞する人物であり、東京専門学校創設と立憲改進党結成というふたつの事業の中心にあった。

小野梓(1852-1886)

 東大生たちは小野と意気投合して「鷗渡会」という結社を作り、やがて大隈の学校設立計画を現実のものにしていく。彼らは東大を卒業するや東京専門学校で教鞭を取り、高田、天野はのちに総長や学長を務めることになる。この講師陣に、高田の東大同窓である坪内逍遥も加わる。「鷗渡会」に参加した高田をはじめとする東大生は、立憲改進党の結成に関しても理論面から大きなサポートをした。
 早稲田の起源に官立学校である東大の存在があること。この点について、早稲田大学関係者は意外にも肯定的、というより、どこか誇らしげでさえある。
 『百年史』は、大隈と福澤の親密さ、あるいは大隈配下の慶應義塾出身者(矢野文雄、犬養毅、尾崎行雄ら)の存在を根拠に慶應義塾との密接な関係を語り、高田早苗ら東大出の新学士教員陣の存在を根拠に東大との密接な関係を語る。早稲田は「東大の分家、慶応の弟分」であり、官学のよさと私学のよさを総合した学校だ、というのである。
 『百年史』該当巻の総編集にして執筆者である木村毅の『早稲田外史』は、相当に手前味噌ながらこのことを「慶応的な畑を耕して、東大的学問の種子をまいた」と表現する。慶應的なものもあれば東大的なものもある「東西古今の文化の諸潮流のうずまく明治日本を、小縮図にしたようなのが早稲田」というわけだ。要するにいいとこどりのなんでもありである。このあたりの大言壮語は、さすが「大隈さんの学校」の面目躍如の感がある。
 念のために付け加えれば、高田らが卒業した東京大学は1886(明治19)年以降の(東京)帝国大学とは異なり、まだ特権の牙城でもドイツ学の殿堂でもなかった。そのことが、早稲田の起源が東大であることを堂々と肯定する姿勢の背景にはあると思われる。

早稲田の東大観

 東大が取り組む「世界最新思潮と呼応する学問」の継承を根拠とする早稲田側の自画像は、福澤と慶應義塾が発行する新聞『時事新報』が主張した官立学校廃止論(第4回)とは対照的であり、同志社の新島襄があらわにした東大の「唯物論」的傾向への敵視(第10回)とも異なっている。むしろ、早稲田の東大に対する姿勢は、アンビバレントであることにおいて一貫しているといえるかもしれない。
 そのことは『百年史』が採録する劇作家小山内薫のエピソードによくあらわれている。近代演劇の開拓者とも称される小山内は、東京府立一中(のちの東京都立日比谷高校)から一高を経て帝国大学英文科に学んだ秀才である。早稲田とは一見まるで無関係だが、『百年史』は小山内が『文章世界』に寄稿したエッセイのある記述に着目する。

小山内薫(1881-1928)

「私は十九の春に中学を卒業して、其年高等学校の試験を受けた……尤もその時分、私の考へでは、文学をやるなら帝大よりも早稲田の方が可いと思つて居たので、どうか高等学校の試験は落第して早稲田へ入りたいと思つて、好い加減な試験を受けて見た。ところが、文科など志願する者は、学問も出来ない人が多いと見えて、私は中通りのところで入学を許された。そこで入ることにした。一つは高等学校の帽子も冠つて見たかつたので」
 この回想によれば、小山内は文学をやるならば帝大よりも早稲田がよいと考え、1899(明治32)年実施の一高の入試をわざと失敗して早稲田(このときはまだ東京専門学校)に行こうと考えた。ところが意外にも合格してしまったので、結局は一高へ進学した。そういうエピソードである。社会の多数者には秀才の受験武勇伝のようにしか聞こえないだろうが、『百年史』はこれを真に受けて次のように力説する。
 「その頃早稲田は既に早く、この日本一の中学の秀才を惹きつけるだけの業績を整えていたのだ。しかし、一高の受かったのを蹴飛ばしてまで彼を惹きつけるだけの魅力にはまだ欠けていた。この時は、早稲田大学が昇格する噂も世間には飛んでいない前だ。もし二年遅れて、早稲田が大学になるチャンスに彼が巡り合せたら、この寧馨児(注・神童)は、或いは早稲田に来たかもしれない」
 『百年史』は、当時の東京専門学校とりわけ文科がすでに一中の秀才ですら進学したがる学校であったことを誇りつつ、同時に一高を袖にするだけの魅力はなかったことも指摘している。たとえ早稲田が大学に昇格したとしても小山内が一高を蹴るとは思えないが、ここで注目したいのは、この一文に早稲田側の気分がよくあらわれていることである。
 それはおそらく次のようにまとめられる。早稲田(東京専門学校)は、天下に恥じない一流の学校だ。だが〈一高―東大〉にはとても及ばない。そんなことは自分自身が一番よくわかっている。ただし、もしうまくいけば部分的にでも〈一高―東大〉を凌駕する魅力を獲得できるかもしれない。
 『百年史』が記述するのは、このような揺れ動く心情であろう。

早稲田親父と東大息子

 東大に対してアンビバレントな心情を抱いていたのは、木村毅ら『百年史』執筆者だけではない。次に見る、ある親子の関係にもそのことが如実に示されている。
 その親子とは、東京大学法学部教授を務めた政治学者丸山眞男とその父・丸山幹治である。
 1984(昭和59)年、70歳になった眞男は、ジャーナリスト長谷川如是閑に関するインタビューを受けた。如是閑は父・幹治の友人であり、話はおのずと父親との思い出にも及んだ。
 幹治は1880(明治13)年に長野県埴科郡清野村に生まれ、同地で尋常小学校を卒業する。18歳で家出を試みて勘当され、横浜に行き、同地で牛乳や新聞の配達人として働いた。その後、東京専門学校に学び、1901(明治34)年に卒業、陸羯南の新聞『日本』、『大阪朝日新聞』、『読売新聞』、『大阪毎日新聞』などで記者として活躍する。伝記『副島種臣伯』などでも知られた、戦前期を代表する新聞人のひとりである(『丸山眞男集』別巻新訂増補など)。幹治は小山内薫の1歳年上であるが、〈一中―一高―東大〉という最高のルートを進んだ小山内に比して、屈託に満ちた前半生をすごした。

丸山家の家族写真(1932年)。左から2人目が丸山幹治(1880-1955)。右端が丸山眞男(1914-1996)。

 一方、息子の眞男は、小山内と同じ〈一中―一高―東大〉というエリートコースを歩んだ。眞男自身は、中学4年の時に一高入試に一度失敗していること、一高でも1年の1学期はクラス40名中13番にすぎなかったことを自嘲気味に語っているが、これも秀才のイヤミな武勇伝にしか聞こえないだろう。
 眞男の思い出のなかの親子の会話や手紙のやりとりには、学歴や成績に関する話題が多い。そして、父・幹治からのメッセージは、その時々でだいぶ変わっている。
 眞男は、母・セイの教育ママぶりと対比しつつ「父の方は徹底して、学校なんてどこでもよく、また成績などはテンデ問題にしない」人だったと回想しているが、その一方で、一中時代に「学校を卒業したら共産主義者になりたければなっても俺はちっとも構わない。ただ、日本では学校を出ないとひどく損をするから、学校だけは出てくれ」といわれたことも記憶している。また一高1年の1学期にクラス40名中13番になったときには、「一高で十三番なら大したもんだ」という内容の励ましの手紙が送られてきたという。
 あるときは学校なんてどこでもよい、成績なんてどうでもよいといいつつ、またあるときは学校だけは出てくれといい、息子の成績に気を配る。要するに、眞男の記憶のなかにある幹治の学歴や成績に関する言動は、揺れ動いている。
 その極めつけが、一高入学時に父からもらった手紙であろう。
 「父はそのころ『大阪毎日』にいたのですが、一応お祝いの手紙をくれ、その中で、「うちの社にも一高出がいるけれど、大したのはいない。きっと一高にも屑がいるんだろう」(笑声)と書いてある。あたり前ですよ、ジャーナリストとして有能かどうかは学校の成績などと関係ないのは……。でもそういう書き方に父の非常に屈折した心理がよく出ている。学歴コンプレックスと帝大出身者への軽蔑とが入りまじった心理……」(「如是閑さんと父と私」)
 眞男の一高合格を祝う幹治、成績に関する励ましの手紙を書いた幹治のなかには、最高のエリートコースを歩む息子を自慢に思い、まぶしく思う気持ちがあっただろう。それとともに、苦学をして叩き上げてきた自分の洞察力や筆力は、〈一高―東大〉型ガリ勉に真似できるものではない、という自負心もあったはずである。そのことは眞男の「おやじがよく後年になって、新聞社は入社試験をやるようになってからだめになったとか、東大が多くなった、と笑いながら言っていました。東大のやつは、試験を受けるのがうまいので、入社試験をやると、どうしても東大卒業が多くなるって、よく言っていました」という回想にもあらわれている。ペーパーテスト秀才の道を驀進し、やがては東大教授になる眞男の眼前で〈一高―東大〉をくさし、父の威厳を示してみたかったという思いもあったかもしれない。

早稲田の特技はなにか

 さて、このような記述ばかりを抜き書きすると、東京専門学校―私立早稲田「大学」という学歴の所有者は、〈一高―東大〉に対して当てこすりもしくはヒガミでしか対抗しえなかったかのように映る。つまり〈反東大〉勢力としては、十分な力を持ちえなかったように見える。だが実のところ、そうとはいい切れなかった。早稲田にはまだ未開拓の広大な領域が残されていたからである。
 そのひとつが、〈大衆〉である。眞男が幹治を憐れんだように、今後とも東大的なるものは早稲田的なるものを〈上から目線〉で憐れみ続けるだろう。学力面から見ても、それはしかたないことである。
 だが、〈一高―東大〉という学歴所有者は、日本社会で圧倒的な威信を持つものの、所詮はごくごく少人数、マイノリティである。その外側では、教育から疎外された巨万の群衆がさまざまな思いを抱えて蠢いている。
 早稲田は、この数的な問題を有利に活用することができる。つまり、早稲田はみずからを大衆の側に置き、大衆を味方につけることができる。うまくいけば、東大そのもの、そして東大的なるものに占拠された権力機構を丸ごと大衆の海に沈めてしまうことも決して不可能ではない。
 学力試験に落第したとしても、大衆の信任を得れば勝利できるジャンルは、実はいくらでもある。早稲田が勃興しつつある時代とは、まさに大衆が時代の主役として登場する時代でもあった。早稲田が手っ取り早く依拠すべきものは、要するにポピュリズムである。それは、『百年史』が「官学のあぶれ者の収容所」「劣等生と落第生の掃溜め」といった悪口雑言を自嘲的に紹介するほどの〈門戸開放〉としてあらわれ、マスメディアと選挙への進出としてあらわれる。

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*産業革命後に急速な都市化が進むロンドンで、イギリスの詩人ワーズワースが書き遺した言葉。

 

 

「考える人」編集長
松村 正樹

著者プロフィール

尾原宏之

甲南大学法学部准教授。1973年生まれ。早稲田大学政治経済学部政治学科卒業。日本放送協会(NHK)勤務を経て、東京都立大学大学院社会科学研究科博士課程単位取得退学。博士(政治学)。専門は日本政治思想史。著書に『大正大震災ー忘却された断層』、『軍事と公論―明治元老院の政治思想』、『娯楽番組を創った男―丸山鐵雄と〈サラリーマン表現者〉の誕生』など。 (Photo by Newsweek日本版)

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