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「反東大」の思想史

2019年7月29日 「反東大」の思想史

第12回 私大蔑視に対抗する「民衆の早稲田」

著者: 尾原宏之

露骨な私立学校差別

 明治から昭和戦前にかけて、さまざまな学歴差別が公認されていた。よく知られた事実だが、同じ大学卒サラリーマンでも卒業した学校によって給与額は異なる。戦後に東京大学文学部事務長を務めた尾崎盛光の名著『日本就職史』は、明治末期の官立私立学校卒業生の初任給(文系)の格差を「帝大一〇〇に対して一橋(注・当時は東京高等商業学校)六〇〜七〇、慶応五〇〜六〇、早稲田は三〇〜四〇、といったところ」と見積もっている。ある会社が採用を行う場合、出身学校によって初任給に差をつけるのはごく自然なことだった。
 私立大学が正式な大学に昇格した大正期以降も、厳然たる給与格差があった。たとえば「大戦景気」時代の日本郵船では、帝国大学、商科大学(一橋)卒業生の初任給は80円、早稲田・慶應と地方高等商業学校が60円〜65円、早慶を除く私立大学が50円〜55円である(寿木孝哉『就職戦術』)。概して、帝大、商大、早慶、その他の私大という具合に格付けされ、新入社員は同じ企業に就職しながら差別待遇を甘受していた。公然と差別が行われていた時代の同期会を覗いてみたいような気がする(開催されていればの話だが)。

尾崎盛光『日本就職史』(1967年刊)

 それはともかく、早稲田である。尾崎の『日本就職史』は、明治末に早稲田大学法科を卒業し、のちにラサ工業社長、自民党参議院議員を務めた小野義夫の談話を記録している。
「卒業生の月給相場は、東大(赤門と呼ぶ)医科は七〇円〜八〇円で地方の病院長とか部長という地位に羽根が生えて飛ぶような状況であり、法科も四〇〜五〇円、まず赤門には売れ残りはもちろんない。…つぎは一つ橋(ママ)の三〇円内外が相場、慶応が二五円ぐらい。ところで早稲田の法科は大学第一回卒業生で相場がない、買い手まかせに月給などは何程でもよろしい、ただ御採用を…。奉職の口のあった連中は二割にも達しない。その相場は一七円ぐらいが普通」
 小野自身が早稲田法科の卒業生であるから、証言には信憑性があるだろう。『日本就職史』で尾崎もそう指摘するように、早稲田大学法科(のちの早稲田大学法学部)卒は東京帝国大学法科大学(のちの東京大学法学部)卒の3〜4割の値段しかつかなかったことになる。この学校による初任給の格差は、縮小しつつも昭和期まで続いた。
 すると、次のような疑問が湧きあがってくる。身分が安泰でありさえすればよい、という小市民的な若者はさておき、容易に消えそうにない青雲の志を抱いて早稲田の門をくぐった若者がこの差別を甘受し、人並みに就職戦線へと突入するだろうか、という疑問である。これだけ給与が違うということは、当然ながら出世においても明確な差別があると考えるのが普通であろう。急速な近代化の過程を経過する日本では、企業もまた近代的機構に再編されていく。木下藤吉郎よろしく社長の草履を懐中で暖めるスタンドプレーで出世を図るわけにもいかない。野望に燃える早稲田の学生は、学苑のなかで入手できる限りの〈武器〉を装備し、東大を頂点とする価値体系に挑戦する宿命を背負っていた。

〈帝大閥〉は存在するか?

 だが、早稲田の学生が持ちうる〈武器〉とはなんだろうか。戦前期の早稲田と東大が比較されるとき、指摘されるのはおもに早稲田側の弱点である。相対的に低い学力、不勉強、無規律、放埒、貧乏などなど。
 自分の苦手な学科を克服して優秀な成績を修める根気があれば、教師への反逆や放言を我慢できる忍耐力があれば、そして当時は相対的に高かった官立学校の学費を払う資力があれば、旧制中学を優等な成績で卒業して旧制高校・帝大に進学できた。そして、それこそが青雲の志を果たす近道だろう。
 しかし、残念なことにそれができなかったのである。だとすれば、卒業後に東大出身者と同じ進路を選んでも十中八九はその風下に立たざるをえず、結果として屈託し、悶々とした人生を送ることになる可能性が高い。
 実際のところ、野心に燃える若者なら一度は考える官僚という進路には、早稲田をはじめとする私立学校出身者をあからさまに差別する人々が手ぐすね引いて待っていた。東大哲学科を出た文部官僚、澤柳政太郎などはその代表格といえる。澤柳は文部次官にまで昇進し、のちに東北・京都の両帝国大学総長となり、野に下って成城学園創立者となった人物である。

澤柳政太郎(1865–1927)

 1886(明治19)年以降、東大を頂点とする日本の教育システムは、高等文官試験における免除特権など国家による優遇を組み込みつつ整備されていった。東大(帝大)の優越は、やがて官界のみならず実業界にも広がっていったことは、前出の給与格差を見ても一目瞭然のことである。
 では、なぜ帝大は1893(明治26)年に試験免除の優遇措置がなくなっても覇権を維持し続けたのか。一番俗耳(ぞくじ)に入りやすい説明は、東大出身者が学閥を形成し、同窓の者を引き立て、私学出身者などを差別・排除している、という仮説である。
 文部次官を務めた澤柳は、1909(明治42)年に刊行した『退耕録』という書物のなかでこの仮説を徹底的に否定し、帝大出身者が他を圧倒した理由を丁寧に説明する。
 澤柳によれば、少なくとも政府内部に〈帝大閥〉なるものは存在していない。そもそも東京帝大の法科大学には一学年数百人の学生がおり、ほとんどがお互い話したこともなければ名前すら知らないのである。大学に入っても交友は概ね同じ高校の出身者に限られ、卒業年が違えば顔を見たことがある程度の関係で終わることが多い。だから、私学出身者の前途を妨害する〈帝大閥〉など形成されるはずがない。これが澤柳の第一の主張である。

官僚世界における私学の地位

 ではなぜ、帝大出身の官僚は現実問題として順調に出世し、同じように高等文官試験に合格して官僚となったはずの私学出身者はそうではないのか。澤柳は「私立学校出身者はたとひ文官高等試験に及第しても其官途に於ける発展は極めて遅々たるものである。中央の官衙に於ては殆ど私立学校出身者にして相当の位地にあるものはない」と述べ、私学出身者が出世しない、もしくは出世が遅いことを公然と認めている。
 しかし、それは〈帝大閥〉が私学出身者を迫害しているからではない。単純に、帝大出身者と私学出身者の「実力」が違うからである。私学出身者にとっては高等文官試験合格がその能力の限界であるのに対し、帝大出身者にとっては試験合格など当たり前、その後が真の勝負である。「私立学校出身者は高等文官試験の及第に於て其能力発達の頂点に達したものと見るべく、大学卒業生にありては猶前途に発達の余地の存する状を窺ひ知ることができよう」と澤柳はいう。
 帝大出身者は〈帝大閥〉の庇護があるから出世するのではなくて、「実力」があるから出世する。逆に、私学出身者は〈帝大閥〉に排除されるからではなく、「実力」がないから出世しない。それだけの話だというのである。

帝国大学の「実力」

 では、その「実力」とはなにか。澤柳は、それを「普通教育」つまり大学などで専門教育を受ける以前の教育に求める。帝大出身者は、小学校6年、中学校5年、高等学校3年の14年間、国語、数学、地理、歴史、物理、語学などさまざまな科目の「普通教育」を受けてきた(そして、それらの科目できわめて優秀な成績を修めた)。一方、私学出身者は(旧制)中学の教育も不完全なままで専門教育へと進む(そして、成績も旧制高校進学者より劣る)。
 要するに、両者は足腰の強さが違うのである。長期にわたる「普通教育」で養った「実力」は実務における〈伸びしろ〉としてあらわれる、と澤柳は考える。「普通教育」の程度こそが「文官高等試験を受けたる際に就てはよし同等であるとしても年所を経るに従つて一は発達して已まず、一は発達をなさないという違ひ」、つまり帝大出身官僚の能力が伸びるのに対して私学出身官僚の能力が伸びない原因だ、というのである。
 この澤柳の主張は、東京専門学校(のちの早稲田大学)の創設に深くかかわる高田早苗が衆議院議員として帝国議会で展開した議論と同じ論理に基づいている。高田は、民党の主張する官立高等中学校(のちの旧制高校)廃止論に反対した。「普通学を充分に修めざる所のものが専門学を修めても、充分に之を応用することは出来ない」。官立高等中学校を廃止すれば、十分に「普通教育」を授け、「専門教育」へと接続する機関が失われる。自身が深く関与する私立学校は、官立高等中学校の代替物になりえない。高田はこう主張していた(第7回)。

早稲田大学にある高田早苗像 ©Dick Thomas Johnson

 そうすると、東京専門学校の「専門教育」も十分な「普通教育」に接ぎ木されていない怪しいものだということになってしまうのだが、それは高田自身も認めていたように思われる。1920(大正9)年の講演のなかで、当時早稲田大学の学長であった高田が「過去四十年殊に創立当時は早稲田大学なるものは穴倉の中にあつた。穴居同然の有様であつた」と総括し、大学令によって正式な大学になり「漸く地の上に出た。地平線上に立つことが出来た」と語ったように、過去の早稲田が未熟な学校であったことは重々認識していたからである(『高田早苗博士大講演集』)。

散々なる私学評価

 澤柳の私立学校評価に話を戻す。官私学校の「実力」差について語った澤柳は、「進んで私立学校出身者の欠点を露骨に語つてみよう」と述べ、その学力や品格に批判の矛先を向けた。それによれば、まず私学出身者は外国語ができない。語学ができないので最新知識の習得もおぼつかないから、将来にわたって学識向上が期待できない。第二に、私学出身者は「高尚なる品格」がない。第三に、大局観がなく、視野が狭い。これらはおそらく「普通教育」が不十分なことに起因すると澤柳は推測する。第四に、私学出身者は責任や規律の観念に乏しく、「横着」である。これは、官私の教学のありかたの違いに起因するとされる(『退耕録』)。
 私立学校関係者からすれば、罵詈雑言もいいところである。澤柳は前出の高等中学校廃止論が巻き起こった直後、『公私学校比較論』という書物をあらわして私立学校の劣等ぶりを容赦なくあげつらった文部官僚であり、また明治末期には私立大学撲滅を訴える筋金入りの「私立学校嫌ひ」として定評があった(河岡潮風『東都游学学校評判記』)。したがってその私学評価は割り引く必要があるが、一方で局長、次官として官庁における私学出身官僚の実態を熟知していたことも一応は尊重する必要があるだろう。
確実にいえるのは、早稲田などの私学出身者が官界に飛び込むのはかなりの危険行為だ、ということである。歴史学者の真辺将之は高田早苗の「成るべく官吏たる(なか)れ」という言葉を検討し、東京専門学校が明治14年政変で下野した大隈の学校であるという事実や、高田が進路としての官界の将来性を疑問視していたことを指摘している(『東京専門学校の研究』)。だがそもそも官僚たちが澤柳と同様の私学観を持つとすれば、「穴居」早稲田出身者が官界で出世する可能性は著しく低いといわざるをえない。

「民衆の早稲田」へ

 文部官僚に完全に見下されている私立学校、そしてその旗手たる早稲田は、果たしてどのようにこの蔑視に対抗しただろうか。
まず、独自の学問を追求する、という道がありうるだろう。東京専門学校や早稲田大学が生み出した学問が決して馬鹿にできない水準であることは、前出の『東京専門学校の研究』が詳細に検討しているように、東大による国家中心のドイツ学とは違う政治学の試みから見ても明らかである。これらの初期早稲田の学問を生み出した人々は所詮東大出身者ではないか、のちの浮田和民、安部磯雄といった著名教授も同志社出身ではないか、という揶揄に対しては、正真正銘の早稲田出身者である、大正デモクラシーの代表選手大山郁夫、イェール大学教授朝河貫一、歌人・美術史家で早大教授の會津八一、あるいは東京帝国大学法学部東洋政治思想史講座で初代の講義担当者を務めた早大教授津田左右吉の名前でもあげておけばひとまず納得してもらえるだろうか。

大山郁夫(1880-1955)

 だが、大山郁夫でも津田左右吉でもないおおかたの早大生は、学問に関しては匂いを嗅いだ程度で済ませてしまったのではないだろうか。大山や津田のような人物を持ち出して東大と対抗しようとしても、あっという間に駒不足に陥る危険性がある。
 むしろ、早稲田の魅力は学業とは無縁なところにあり、一般社会はそちらのほうに強く惹かれていたのではないだろうか。
 昭和初期に書かれた学校評判記が強調するのは「民衆の早稲田」「民衆的な早稲田」の魅力である。「早稲田には、まつたく他のいづれの大学にも見られない一種特別の親しみを、民衆の間に見出すのである。それは此の校歌の響きと共に、年一年と津々浦々に波及し、そして反響する。―早稲田は、今や、全国民の所有である」(榛名譲『大学評判記』)、「数多い帝都の大学の中で、凡そ早稲田大学ほど一般民衆に親しまれてゐる大学はあるまい」(大村八郎『帝都大学評判記』)。民衆の好む早稲田、それは、ストライキの早稲田、高歌放吟の早稲田、蛮骨の早稲田、スポーツの早稲田、遊興の早稲田である。経済史講義で教授が謡曲をうなり続ける早稲田である(『東都游学学校評判記』)。
 数多くの学校評判記が称える早稲田は、厳選されたエリート、学問の蘊奥、高尚な人格といった帝国大学のイメージの逆であり、柳が露骨にあげつらった私立学校の欠点と密着している。学力、外国語(横文字)、品格、大局観(上から目線)、規律、勤勉。これらは街場や農村で民衆と対話するときほとんど不要であるばかりか、むしろ忌み嫌われる原因になる。
早稲田は、私立学校の欠点に身を浸すことで、帝大亜流とは異なる存在、民衆から愛される存在になりえた。次に、早大生がどのような生活を送り、卒業しあるいは中退して、民衆の目の前に、あるいは民衆のなかに飛び込んでいったのか、その様子を見ていくことにしたい。

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 はじめまして。2021年2月1日よりウェブマガジン「考える人」の編集長をつとめることになりました、金寿煥と申します。いつもサイトにお立ち寄りいただきありがとうございます。
「考える人」との縁は、2002年の雑誌創刊まで遡ります。その前年、入社以来所属していた写真週刊誌が休刊となり、社内における進路があやふやとなっていた私は、2002年1月に部署異動を命じられ、創刊スタッフとして「考える人」の編集に携わることになりました。とはいえ、まだまだ駆け出しの入社3年目。「考える」どころか、右も左もわかりません。慌ただしく立ち働く諸先輩方の邪魔にならぬよう、ただただ気配を殺していました。
どうして自分が「考える人」なんだろう―。
手持ち無沙汰であった以上に、居心地の悪さを感じたのは、「考える人」というその“屋号”です。口はばったいというか、柄じゃないというか。どう見ても「1勝9敗」で名前負け。そんな自分にはたして何ができるというのだろうか―手を動かす前に、そんなことばかり考えていたように記憶しています。
それから19年が経ち、何の因果か編集長に就任。それなりに経験を積んだとはいえ、まだまだ「考える人」という四文字に重みを感じる自分がいます。
それだけ大きな“屋号”なのでしょう。この19年でどれだけ時代が変化しても、創刊時に標榜した「"Plain living, high thinking"(シンプルな暮らし、自分の頭で考える力)」という編集理念は色褪せないどころか、ますますその必要性を増しているように感じています。相手にとって不足なし。胸を借りるつもりで、その任にあたりたいと考えています。どうぞよろしくお願いいたします。

「考える人」編集長
金寿煥

著者プロフィール

尾原宏之

甲南大学法学部准教授。1973年生まれ。早稲田大学政治経済学部政治学科卒業。日本放送協会(NHK)勤務を経て、東京都立大学大学院社会科学研究科博士課程単位取得退学。博士(政治学)。専門は日本政治思想史。著書に『大正大震災ー忘却された断層』、『軍事と公論―明治元老院の政治思想』、『娯楽番組を創った男―丸山鐵雄と〈サラリーマン表現者〉の誕生』など。 (Photo by Newsweek日本版)

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