能楽師、でありながら古典に造詣が深く、「論語」からシュメール語の神話まで縦横無尽に読みこなす安田登さん。お相手の山本貴光さんはといえば、『考える人』誌面での読書ガイドには必ずご登場いただいてきた博覧強記の読書人。でありながら、ゲーム制作にも携わっている。そんなお二人に、言葉の森の深奥へ、時空を駆け巡る道案内をお願いした。
(B&B下北沢でのトークイベントに、新たに対談を重ねています)

左から安田登さん、山本貴光さん
 

「安田登」とは何者か?

安田 山本さんって……

山本 はい。「お前は何者なのか」とよく聞かれます(笑)。仕事はゲームをつくること、それからものを書いたり翻訳をしたりしております。安田さんも、かつてゲームに関わるお仕事をなさっていますね。「マルチクリエーター」という言葉がバカらしくなるぐらい多方面でご活躍の「安田登」という人の秘密をできるだけ聞き出すのが今回の対談の目的です。

安田 お手柔らかにどうぞ(笑)。

山本 初めてお会いしたのは、2011年に美術史家の金沢百枝さんと小澤実さんの『イタリア古寺巡礼―フィレンツェ→アッシジ』刊行記念で、中世イタリアの料理をその場で再現して食べる宴でのことです。カプチン僧のコスプレをした怪しい人がいて。

安田 あれはみんなコスプレで来るっていう話だったんですよ。結局コスプレで来たのは3人だけで、騙されました。

山本 騙されたカプチン僧の安田さんが、その宴の席で謡を披露なさった。その目の前に座っていたから、声が体で感じられ空気の振動ごと浴びました。その時に謡われたのがラテン語での「グレゴリアン・チャント」。あれは……普通になさることなんですか?

安田 普通にはしません(笑)。ただ、コスプレで何か芸を見せるとなると僕なら謡です。中世ルネサンスなので、グレゴリオ聖歌をくっつけただけでして(笑)。

山本 安田さんはゲームやコンピュータグラフィックスの教科書を書いた経験もおありだとか。また、ロルファー(アメリカ人のアイダ・ロルフが創始したボディワーク、ロルフィングの施術者)として身体性を追求されつつ、国の内外の言語や古典芸能にも精通しておられる。もう、この人はいったい何者なのでしょう。
 先日は『イナンナの冥界下り』の舞台も拝見しました。あれは、創作能と呼べますか?

安田 能と名付けるには語弊があり、能の手法を中心にして新しい作品を創った、とでも。

山本 古代シュメールの「イナンナの冥界下り」という神話を材料にして、能を中心とした表現形式でそれを舞台にされた。

安田 そうです。日本では5回、その後海外ではロンドンとリトアニアのビリニュスで公演しまして、最近は人形劇にして国内で公演中です。昔は神楽も土地を巡回したものがあったので、そんなふうに各地を巡っていければと思っています。基本的にシュメール語は、ヘブライ語や英語よりずっと謡いやすいですし。

山本 どのあたりがヘブライ語より謡いやすいのでしょうか。

安田 ヘブライ語は子音で終わる言葉が多く、一方のシュメール語は基本的に子音で終わる言葉が少ない。日本語と同じように、「あ」「か」「さ」などで終わるので謡いやすいんです。

山本 音として謡いやすいわけですね。

安田 はい、あらゆる言語のなかで、シュメール語とハワイ語が一番謡いやすいかと思います。そのため今はハワイ語を学んでいるところです。これがなかなか難しい。

山本 ハワイ語も! 古典芸能の継承者でありながら、常に新しいものと向き合い、それを取り込み、時に融合させて表現をする創作家でいらっしゃる。それが「安田登」ですね。
 加えて、古代中国文化や古代の漢字などにも造詣が深い方です。最近出された『身体感覚で「論語」を読みなおす。』という本(新潮文庫)も大変面白い読解です。安田さんの本によれば、現行の『論語』は紀元前2世紀くらいに成立したと言われていますが、しかし現在発見されているものは紀元前1世紀くらいのものが最古です。すなわち孔子の没後400~500年ほど経ってから編まれた本で、実は孔子の時代とは使っている字も違う。安田さんは『論語』を孔子の時代の文字で読み直すということをされています。その際、漢字にあらわされた身体の観点から見てみようというわけです。
 ところで、シュメール語には、以前から関心を持っていたのですか。

安田 10年ほど前に大修館書店の『言語』という雑誌で「古事記」をテーマに「神話する身体」を連載しまして、書籍化の際に神話を読む必要が生じて、まずはギリシャ神話を読もうと古典ギリシャ語を勉強しました。

山本 ギリシャ神話を読むために古代ギリシャ語を勉強した、なるほど。

安田 ところが、ギリシャ語で書かれたギリシャ神話というのは少なく、ラテン語が多いのでラテン語を勉強することに。また、ギリシャ語は書かれたものによっていろいろな方言があって面倒なので、もっともシンプルなギリシャ語を勉強したいなと思ったら『新約聖書』のコイネー(新約聖書に用いられた現代ギリシャ語の源流。紀元前5世紀ごろに成立し、アレクサンダー大王の遠征で広がった)になる。『新約聖書』をギリシャ語で読み出したら、次は『旧約聖書』が読みたくなるでしょう。
 必然的に、ヘブライ語に行くんですよ。ヘブライ語の前の言語は『ギルガメシュ叙事詩』で有名なアッカド語なので、その勉強をする必要も出てきて、その前の言語であるシュメール語(紀元前3200年ごろから紀元直前まで用いられた。最古の形文字を持つ)を学ぶに至った。人情というやつですね。

山本 人情って!(笑)

安田 最終的に、それでシュメール語にたどり着きました。声に出して読んだら、あまりにも素晴らしい音韻なので、謡いたくなって謡ってみたところから、始まりました。
 なかでも叙事詩は韻律があります。韻律の方法は世界各国によって違いますが、シュメール語の韻律は面白い方法を使っているから謡わなくては表現しえないと思い、謡うところから始めました。

古代の言葉に惹かれる理由

山本 シュメール語は、音としての読み方は、どのぐらいわかっているのでしょうか。

安田 話し言葉としては紀元前2000年頃には使われなくなっています。日本人は、自分たちの言葉を話しながらも文章は漢文で書いていましたよね。それと同じように、アッカドの人たちはシュメール語で文章を書いていたのでシュメール語の文章は後世まで残り、アッカド語とシュメール語を対比できる石版が見つかりました。アッカド語はヘブライ語やアラビア語と音が似ており、その発音がわかったので、そこからシュメール語もわかった、というわけです。

山本 ロゼッタストーン(エジプト文字解読につながった石碑)によって複数の言語の対比が可能になったのと同じように、シュメール語で使っていた楔形文字を、のちにアッカド語が転用して使ったので、その石版なりで比較が可能になって音が推定できたということですね。

安田 ただ、アッカド語とシュメール語では文法がまったく違うんです。アッカド語はヘブライ語に近いセム語系です。シュメール語は、どちらかというと日本語に近い。膠着語ですし、「てにをは」のようなものもある。言語としては全然違うものなのですが、アッカド語を話した人たちは、文字をつくらずにシュメールの文字をそのまま使った。これは、古代中国で言うと、周の人たちが文字をつくらずに殷の文字をそのまま使ったのと似ています。日本人が漢字から平仮名、片仮名をつくっていったように、独自の文字をつくろうとせずに過去のものを継承した……と、この話はきりがないのですが、新刊の文庫ではこのあたりのダイナミックな流れを書いたつもりです。

山本 安田さんのお話は、古いものも新しいものも、東も西もどこかでリンクしていきますね。取り込んだものが別のものと組み合わさり、また新たな形を生み出す。そういう面白い、ちょっと困るような仕事をされている。

安田 困らせてしまって(笑)。

山本 安田さんは能楽師の「シテとワキ」のワキ方ですね、『能 650年間続いた仕掛けとは』でも、「ワキ」は脇役の「脇」ではなく「分ける」から来ているとあります。「分ける人」というのは、つまり境界に立つ人であるというご指摘です。安田さんは、能の外でも境界、マージンに立って、両方を行ったり来たり、出たり入ったりを自在にする人だなと感じています。
 例えば、新しい言語の森に分け入るとき、初めての言語を学ぶにはどうされるのですか?

安田 基本的には、まず文法書を2冊ぐらい読む。なるべくつまらない文法書がいいです。面白いやつは面白くするために省略していることが多いので。日本語だとしたらやっぱり大学書林のが一番です。

山本 情け容赦のないあの教科書ですね!

安田 そのあと先生につきます。本ではわからない、体感でしか得られないことがあるので先生につくことは大事だと思います。

山本 私もギリシャ語に関心を持ったことがあります。文法書を読んでも、発音や意味の変換は、自分一人ではわかり得ない部分がありますね。先生について習ってたくさんの発見がありました。

スローリーディング

山本 さて、能という芸能が、650年続いているということ自体が驚異的ですが、それだけ続くなかで、どうやって変化してきたか、変身を遂げながらサバイバルしてきたかがご著書の『能』には書かれています。その一つに、スピードが遅くなったとあります。確かに、普段の会話や現在の歌のスピードに対して、能の詞章は相当ゆっくり、スローですよね。

安田 はい。

山本 この「ゆっくり」の謡で何が起きているのか、例えば「スローリーディング」と呼んでおきましょう。私たちは普段本を読むとき、黙読しています。かつて明治の頃にはみんな音読をしていたと言いますね。電車で、おじいさんが新聞を音読していたなんていう話も読んだことがあります。他方、黙読は、音のスピードにとらわれずに読み進められるので、目の動く速さというか、最高速で読んでしまいます。

安田 音読のスピードはまったく違います。(『能』の冒頭の一文を音読する。山本は静かに耳を傾けた)。謡のスピードでこれを読むとどうなるか、(同じ一文をまた謡う)と、まったく違うスピードです。

山本 なるほど。時間がかかって退屈だと感じがちですが、言葉をゆっくり受け取ることの意味がわかってくると、こんなに楽しいことはありませんね。

安田 謡がゆっくりになったことによって、能は広がりました。例えば、『高砂』という能の曲があります。九州の肥後国、熊本県の、阿蘇の宮の神主が、春だから都に行こうと言って旅に出て、途中で高砂(兵庫県)に寄る。そこに老人夫婦がいて、おばあちゃんはこの高砂の人なんですが、おじいさんの方は大阪の住吉、かなり距離の離れた夫婦なんです。
 話を聞いてみるとどうも変で、年齢差もかなりある。おばあちゃんは、『古今和歌集』の平安時代の人でおじいちゃんは『万葉集』の時代、奈良時代の人なんです。その訳を知りたかったら住吉に来いという。その住吉に出かける際の道程が、結婚式の御祝いで耳にする「高砂や」の謡です。「高砂や」と謡い出すのを聞いた人は、高砂神社の景色を思い浮かべます。
「♪高砂や この浦舟に帆を上げて この浦舟に帆を上げて 月もろともに出汐の 波の淡路の島影や 遠く鳴尾の沖過ぎて はやすみのえに着きにけり はやすみのえに着きにけり」
 「高砂やこの浦」と謡い始めればすぐに高砂の海岸になり、「この浦舟」と言ったら今度は「浦舟」、海岸から舟が浮き始める。「浦舟」というのは、遠洋に行く大きな船ではなく小さい舟です。
 さあ、小さい舟を浮かべてください。すると、「舟に帆を上げて」と帆が上がっていく。その帆とともに視点が上に移ると、「出」だから月が出てきまして、「もろともに」で月と舟が一体化するんです。帆とともに月も出てきて、「出汐の」で月とともに自ずと潮位も上がります。
 当時の舟は、潮位が低いと出られませんから、上がったところで舟が出ます。「出汐の」でいま舟が走り出しました。舳先に波が立ちますから「波の」となり、「あわ」で波の泡が出て、「波の淡路の島」と続いて淡路島です。ところが、「影や」と言ったときに、淡路島はもう過去になっている。
 こんなふうに、ゆっくり謡うことによって、イメージが頭の中で変遷していきます。最後に「波の淡路の島影や遠く」……なり「鳴尾」まで行く。「沖過ぎて」で沖を過ぎると、「はやすみのえに、着きにけり」、ここで、すみのえ(住吉)に着く。こうして、「ゆっくり読む」からこそ、イメージの織りなす連なりを思い描けるんです。

山本 景色が浮かんでいきますね。詞章と謡、ただの言葉ではなく節が付き、それが朗々と響いて耳に入ってくる。一つ一つの言葉から、聞いた私たちの記憶が惹起され、呼び覚まされていくんですね。舟といっても、どんな舟なのかはそれぞれに違うとしても、その情景がゆっくりと、そのスピードであるが故に、かみしめるように思い浮かべられる。テンポが速いとこういうわけにはいきませんね。

安田 いかないですね。仮に淡路島出身の方が聞いたら「波の淡路の」と言った瞬間にイメージが止まると思うんです。謡は進んでも、何かそこで停滞する。その留まりはすごくいいと思うんですよね。言葉はどんどん行くのに、自分は淡路島にとどまっている。

山本 スローになる以前、もっと速く謡っていたとしたら、聞く側の記憶の働きも随分違っていたかもしれませんね。

安田 今よりも速くイメージが惹起されていたのかもしれない。

山本 聞く側も、そのスピードで記憶をよみがえらせていたということですね。この点については、能から離れますが映画で連想すると面白いかもしれません。映画を古い時代から現代へ、年を追って見ていくと、だんだんカットが短くなっていく傾向があります。同じ1分間でも、構成する切り替えの回数が、個々の映画では簡単に比べられませんが、全体で見ると明らかに増えている印象がある。
 ときどき能を見るような気持ちで観るストローブとユイレという2人組の監督(フランス国籍の1930年代生まれの夫婦が共同で映画を制作)が撮った映画があるんです。彼らの映像には、時折ほとんど何も起きていないと言いたくなるような場面があります。例えば、野原にカメラを据えて、しばらく風が吹いて草木が揺れる様子が映る。疲れているときに観るとまちがいなく寝ます(笑)。ですが、その時間を味わいかみしめるための映像なんです。しかもあからさまにとってつけたようなBGMはなく、背景の自然の音だけでずっと見せていきます。人が飽きないように、次々と注意を惹き続けるカットを連続させる最近の映画と比べると、いまの能の速度はイメージを喚起するための余白を置いたスピードになっていて、一層深く感じられます。

安田 僕はあまり現代の本を読まず、ほぼ古典しか読まないんです。古典というのは、スローリーディングしかできないものですよね。

山本 おっしゃるとおりですね。古典のスローリーディングには意味が二つほどあるように思います。一つには、古典はそれなりに噛みしめるためのゆったりとした時間を要する。そして、ギリシャ語やラテン語などは文法が込み入っていますし、こちらの習熟度もあるから、どうしても調べつつ読むので、ゆっくりということもあります。

韻律と枕詞と

山本 言葉の並びも、現代のテンポと違いますよね。

安田 例えば、『イーリアス』の「たんたた、たんたた」といったリズムで読むことが、『イーリアス』には期待されている。

山本 ホメロス時代の読み方のリズムを「ヘクサメトロス」といいますね。「六歩格」と訳される詩形ですね。

安田 ホメロスは古代ギリシャの詩人で『イーリアス』と『オデュッセイア』という、二つの長大な叙事詩をつくった作者ですね。現代ではいろいろな説があって、一人ではなかったという話もありますが、いずれにしてもすべてもともとは詩人が歌っていたので、韻律があり、そのリズムに乗せて読むことを読者の側にも迫って来ます。

山本 そこに繋がるお話なのですが、「稽古」という言葉が『能』に出てきます。稽古とは、単なる練習ではなく、古きものに対して頭を下げることと書いておられましたね。

安田 そうですね。

山本 いにしえのもの、いままで伝わってきたものに対して、自分が頭を下げた状態で、思いを馳せたり考えたりすることを稽古だ、と教えてくださっています。
 ホメロスの『イーリアス』や『オデュッセイア』のような詩は、古代ギリシャにおいては共同体に共通の記憶を与えるための一種の社会の教科書だったと言います。詩のなかでいろいろな社会の場面を歌っているので、それをみんなが聞くことによって、知識を普遍化できる。そういう装置としても詩は働いている。
 でも、『イーリアス』『オデュッセイア』は、どちらもとても長く、みんなが黙って何時間も聞いているわけには行きません。ワーグナーのオペラのようにはいかないので、そのつど一部を切り出して歌っていたとも言われています。
 いずれにしても、そんな長大な詩を詩人がどうやって記憶していたかと言えば、それは韻律であり、枕詞の組み合わせで覚えていたというのです。能にも、そういう側面があるということを安田さんもお書きになっていますよね。

安田 その枕詞の機能は重要です。高校の教科書では、枕詞は軽く扱われがちですが、まさに、ギリシャ語の「エピテトン」(「形容語句」)と同じ働きをします。別のある言葉を必ず引き出してくれる言葉がある。例えば「あしひきの」とか「あしびきの」というのは「山」を引き出す枕詞です。これは、足を引っ張るから山になると言われていますが、実は音韻の関係でそれは間違いだと言われています。じゃあ、何かというとまだこれといった定説がないのですが、例えば「アソビキ(遊処)」から出たんじゃないか、という説もあります。「遊処」というのは祭礼の場ということですね。枕詞は、このように生活というよりも祭礼から出た呪術的な言葉だったのではないかと思うんです。
 『イーリアス』に、「牛眼のヘレ(ヘーラー)」という言葉があるのですが、どうもこれは牛の祭とヘレという神に関係があったようです。枕詞を口にするとその祭がそこに再現され、再現された祭から呼び出された神がそこに現れる。たぶん、これが枕詞の力だと思います。
 歌枕も同じです。日本各地の有名な土地に行くと歌を詠わなければならない。その場所ではいろいろな人の歌が詠われているから、歌の記憶の集積地だということです。なにしろ歌には記憶がぎゅっと圧縮されています。僕がそこでその歌を詠うと、それが解凍されて、さまざまな記憶が鮮やかに現れます。芭蕉の『おくのほそ道』を読むと、それを追体験でき、まさにその歌枕から喚起される記憶の構造に飲み込まれそうになっていくほどです。
 ですから、さまざまな枕詞や歌枕が謡われているからこそ、能は何回見ても面白いんです。そして、自分の歌枕や枕詞に対する経験や知識が増えれば増えるほど、そこで惹起されるイメージも拡大していきます。

あなたも謡いたくなってくる

安田 そしてね、能楽師はあえて外には言わないことですが、これがまあ、謡っていると気持ちがいいんですよ。聞いている人よりも謡っている人のほうがイメージが鮮やかに浮かびますからね。なにしろ演じるには、ただ文言を繰り返すだけではなくて舞台上で思い出さなければいけません。頭の中にさまざまなイメージがあった方が思い出しやすい。
 つまり、舞台での能楽師は奇妙な快感状態にあるんです。その枕詞によって引き起こされる何かが、掛詞によって次に引き起こされていき、「ぐわ、ぐわ、ぐわ、ぐわっ」と拡張していく、少々危ない状態です(笑)。

山本 その歌枕しかり、「白きかいなのヘレ」といったエピテトンしかり、前に何かくっつけることで後の言葉を引き出す、そういう力を持った言葉ですよね。謡い手の体の中にも何かを引き起こしているのが興味深いですね。

安田 ギリシャ語の「翼ある言葉」という表現は好きです。言葉が何か飛んでいきそうなイメージがあります。

山本 自分も引きずられて飛んでいくわけですね。いまここを離れて、どこかに連れていかれる、その記憶の惹起となる。
 そうなると、先ほどおっしゃったように、見る人の方に枕詞やそれにちなむ土地、それから古典についての知識や経験が増え、実際にその場所に行って見ることで、同じ謡を聞いたときに、ぶわっと広がりも出るというわけですね。こんなとき、「解凍」と言ってみたくなります。言葉に凍らせてフリーズドライになっているんだけど、お湯がかかるとぶわっと「ふえるわかめちゃん」のように戻る感じで(笑)。
 安田さんのお話を伺っていると、だんだん自分でも謡をやってみたくなります。この本のなかでも、そういう入門者のためのガイドが巻末に付録としてありますね。

安田 僕は、教えるのは10人までと決めていて、もういま10人いるので、これ以上は無理です。ただ、僕の興味の世界を、歌枕のように解凍してくれる人には参加していただこうと思っているので、山本さんも……。

第2回につづく

 

能 650年続いた仕掛けとは
安田 登/著
2017/9/14

 

投壜通信
山本 貴光/著
2018/9/4