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能が知りたい!「古典の森へようこそ」

2018年10月17日

能が知りたい!「古典の森へようこそ」

第2回 漱石と芭蕉と

著者: 安田登 , 山本貴光

能楽師として能の詞章からシュメール語、なんと論語まで縦横無尽に読みこなす安田登さん。山本貴光さんはといえば、博覧強記の読書人、でありながらの、ゲームクリエーターだ。そんなお二人が、語るうちに、言葉の森の迷宮にはまり込んで行く。時空を超えたその先に出てきた名前は漱石に芭蕉。というわけだがさて、そのこころは?
(B&B下北沢でのトークイベントに、新たに対談を重ねています)

謡をはじめた理由

山本 安田さんは、それまで能にまったく興味がなかったのに、あるとき師匠の門をたたいたのですね。

安田 』にも書きましたが、学生時代には、ナイトクラブでピアニストをして学費と生活費を稼いでいました。ジャズをやっていたのですが、ナイトクラブではメロウで静かな演奏をしていました。それは仕事でしたが、友達と一緒にフリージャズもやっていたんです。ただ、ピアノというのは構造的にどんなに強く弾いても、すごく大きな音が出ない。一緒にやっているドラムやサックスには音の大きさで「勝てない」と感じ始めて、声を出したいと思うようになりました。
 しょうがなく日本中のさまざまな声を研究して、どの声が一番大きいかと思えば、それは能の声、師匠の声でした。実は去年亡くなったので褒め言葉を公の場で言えるのですが、師匠の声は素晴らしかったんです。もちろんそれは言わずに「お稽古してください」と門を叩きました。

山本 そもそもなぜ、能を見に行こうと思われたのですか。

安田 偶然でした。知り合いの教員が、ほかの行くはずだった人が行けなくなってチケットが1枚余っているからどうか、と誘ってくれて。

山本 偶然と言えば偶然ですね。先生はその時お弟子さんを取っていたんですか?

安田 そういうことも何も知らずに行ったんです。もう、いきなり。まあ、電話はしましたけどね。行ったら偶然同じ日にもう一人いて、これがよかったのかもしれないです。

山本 二人もいるんじゃあちょっと相手をしなきゃ、と。それ以来、お稽古をなさって。

安田 そうですね。実は、当初は玄人になるつもりはまったくなかったんです。ですが、師匠が玄人の弟子しか取っていないということを知らなかった。

山本 幸か不幸か、それを知らずに入門して。

安田 師匠としては玄人の弟子しか来ないと思っているわけで、まさか、来たやつが玄人になるつもりはないとは思っていなかった感じですね。

山本 まさか、フリージャズで大きい声を出したいから来ているとは夢にも思っていない。

安田 やけに稽古が厳しいなと思っていて。

山本 能や謡のお稽古では、どんなことをするんですか。

安田 玄人の稽古と素人の稽古は違います。玄人のは基本的にあまり稽古をしてくれず、掃除や洗濯をするところから。そして突然「舞台!」と言われて「え、すみません、稽古をしていないんですけど」と言うと「見てるだろう」です。

山本 怖い!

安田 怖いんですよ。玄人の普通の稽古はといえば、「高砂や」と師匠が謡ったら、発声練習も何もせずに、ただまねして謡うだけです。師匠は、違うのは違うと言います。が、正しいのを正しいとは言いません。つまり、基本的に褒めない。それから、オーケーを出さない。この二つは、最初から諦めた方がいいです。

山本 いまならブラック企業の怖い上司ですね。

安田 何がダメかというのはよくわかるものですし、それをよくするためにさらに励む動機になります。一方で、正しいことは難しい。教えている時に僕が正しいと言ったとたんに、僕が「正しいことを知っている人」になるからです。自分が正しいと思ってしまった瞬間に、自分の成長が止まってしまうのです。

山本 未来永劫、「これが正しい」の時点で固定されてしまう。

安田 教えている自分すらもそれに縛られてしまってね。だから「正しい」は言わない方がいいのです。間違っているのは明確にわかるんですけどね。ただ、その理由は言いません。

山本 違っている理由をおっしゃらないことには、どういう含意があるのでしょうか。

安田 違う場合は、一人一人その違う内容が異なります。それを僕が言うと、「僕だったらこうやる」になってしまい、その人の「違う」とは別物かもしれません。特に、1対1の稽古の場合には優しく違うよと言いたいんですが、すごいエネルギーで「違う」になってしまいまして…まったく悪気はないんですが。

山本 最初のうちは、生徒は震え上がるでしょうね。

安田 そこで震える人と、「なんだ、このやろう」と思う人がいて、「なんだ、このやろう」の人の方が強い。

山本 そういう人は、「先生、俺のどこが駄目なんですか」なんて突っかかってきませんか。

安田 最初から、そういうことはなしということになっていますので。

山本 駄目と言われた弟子は、ともかくいま先生が駄目と言ったのでもう一回考える。さっきとちょっと変えてやってみようとする。

安田 難しいのは、まねと言いながらも、そのままという意味でのまねでは駄目なんです。というのは、山本さんの身体性と僕の身体性は違うから。まねになっているとしたら、そこに無理が起こっている。

山本 身体はもちろんこれまでの経験もすべて違う人間が、そのまままねても同じにはならないし、同じにする必要もない。

安田 はい。わかりやすい例でいえば、女性を教えるときに、僕が緊張感を持って「高砂や」と謡っても、女性が同じ声で謡おうとすると、低い声になってしまいます。すると、緊張感が出ない。まねすべきは、この緊張感であり呼吸であり、音の高低ではありません。

山本 まねをしろと言いながら、まねてはいけない。なぜなら、あなたと私は違う人間であり、違う身体を持つということを踏まえるべきだからということですね。とても難しく、しかし面白いポイントですね。

「型に気付く」こと

安田 僕はいま優しく説明していますけれど、師匠は全然説明してくれませんでした。例えば、稽古でこう手を上げますよね。すると「高い」と言われる。そう言われたので、手を下げると「違う」と言われる。それでちょっと上げてみたら、師匠が黙っているので正しいということだと捉えるんです。もう、めちゃくちゃです。でも、この高い、低いというのは物理的な高さではなく、もっと違う高い、低いだと、それに気付くのがなかなか大変です。

山本 気付けない人もたくさんいるんじゃないですか。あるいは師匠は、根気強く駄目出しをしてくださるのですか。

安田 あまりにダメだと、途中で「ふん」と言っていなくなりますね。そうしたら、その日はすごすごと帰ってまた次の日に行く。で、また叱られる(笑)。それを繰り返します。稽古というのは「いにしえを考える」という意味で捉えられますが、「稽」には「頭を下げる」意があり、実は金文からです。中国古代の金文で「稽」の字は、実は頭を垂れた字なんです。

山本 私自身も学校のような場でものを教える機会があります。例えばゲームクリエーターの場合、アイデアを「企画書」としてつくるということを学生に教えるわけです。すると、学生のみんなは、当然だとばかりに「先生、企画書って、どういうフォーマットなの」と聞いてくる。私は「そんなものはない」「あっても、やらん」「絶対、教えない」です(笑)。これ、いまの安田さんのお話と一緒ですね。

安田 同じですね。

山本 最初はやり方を教えていたんです。ただ、しばらくして気がついたのですが、型を教えると、それ以外のことができない人になる人が少なくない。「その型から出ていかないと駄目だよ」「型を自分でつくらないと駄目なんだよ」と後から言っても、なかなか抜け出せなくなってしまう。
 以来、私はフォーマットは示さないことにして、考え方だけを教えるようになりました。生徒がつくってきたら「駄目」、つくってきたら「駄目」と、ブラック上司のやることを私もやっています。とはいえ、全部が全部、そういう教え方がいいわけではもちろんないですものね。

安田 そう。「型」ってそういうものです。ある型を教えるのではなくて、いくつかやっているうちに、自分からその「型を作ること」に気付くことが大事だと思う。そこに型は絶対にあるので、それに気付けるはずなんです。

山本 能の謡や舞でも、型を教えるんですか。

安田 教えるには教えます。

山本 教える順番もありますか。

安田 うちは、下掛宝生(しもがかりほうしょう)流という夏目漱石が習った流派なんです。明治以降になると、能楽師も多くが、音楽取調掛(東京藝術大学の前身)で学ぶことが増えていき、そこでは順番を踏まえて教わるようですが、うちはそうではないですね。

山本 一定の順番がないと、どうなっちゃうんですか?

安田 師匠の趣味、かな(笑)。「今日は、これやろうか」「あの人たちがこう言うから」「これ面白いかな」ですね。やり始めたら、「あ、これ難しかった、ごめん」とか。

山本 方法論を確立して、誰が来ても同じステップを踏むやり方というのは、ダイレクトメールのように相手が誰かを問わず、同じ文面を送るようなもの。効率はよくなりますね。それに対して、先ほどおっしゃったやり方は、まさに目の前にいるこの弟子、この人の在り方に合わせて教えるもの。その人だけに向けて手紙を書くのと同じですね。その人固有の稽古を付けていく。どちらも一長一短はありそうですが、いろいろなことに応用が利くであろうお話です。特に体を使う点では同じですよね。

安田 完全にそうですね。

能と漱石

山本 安田さんと検討したいと思っていたことの一つは、夏目漱石です。ご著書の『能』でも、戦国武将も含めて能の影響を受けたさまざまな人が登場しますが、そのなかで夏目漱石と、それから松尾芭蕉にスポットが当たっていますね。
 夏目漱石は江戸から明治に変わる時代を生きた。今では、当たり前になっている小説や文学と言われるものがありますが、漱石の時代には、それが必ずしも自明ではなかった。「リテラチャー(literature)」という英語の言葉がどんな意味なのかを巡って、つまり「文学とは何か」ということがまだ問題であった、そんな状況で彼は生きていたわけです。
 ちょうどいま、岩波書店から『定本 漱石全集』という新しい全集も出ているので、もちろん旧版全集でもいいですが、索引を使って謡や能の話がどれぐらい出てくるかをチェックするといいと思います。能や謡の話は結構あちこちに出てきます。
 例えば、『文学論』のなかで文学の特徴を分析して表現技法を解説する場面で、能の謡本の表紙に能面を描くという例が出てくるんです。そういう方面に関心がないと出てこない例です。『文学論』では、ほかはほとんどが英文学の例なのに、ポンとそういうところに能が顔を出す。安田さんが『能』の中で説明されているように、『草枕』などの作品にも、そのつもりで見ると能の影響が読み取れますね。安田さんは、漱石の中に能の影響をどう感じていらしたのですか。

安田 最初は『草枕』と『夢十夜』ですね。『夢十夜』の第一夜は、完全に能の構成になっており、「こんな夢を見た」で始まる十の夢が描かれています。『草枕』は有名な書き出しから始まって、絵描きの主人公が、都会にいるといろいろ面倒くさいので、絵になるからと都会を離れて山の中に行く。世間を離れると、世間のことが見えてくる。そして、本当に実在する人なのかどうなのか、ちょっと怪しい女性と出会ったりしながらまた帰ってくると、こういうお話でした。主人公の絵描きは「しばらくこの旅中に起る出来事と、旅中に出逢う人間を能の仕組と能役者の所作に見立てたらどうだろう」と、自分の旅を能の旅にします。

山本 いずれも筋らしい筋がなく、ただそういう体験をしたといった作品ですね。漱石のほかにも、村上春樹さんの作品にも能の影響を感じると本では指摘されていますね。能で描かれる異界との付き合い方を見てみると、まず死者が現れる。その死者の語る話を聞き届けると死者は去っていく。しかし何も変わらずに話が終わる。ということをお書きになっています。そうはいっても、そこではなにかが起きているはず。これは何が起きていると思えばよいのでしょう。

安田 能の異界の特徴、これは漱石も村上春樹も同じだと思いますが、日常のほんのちょっとした隙間に入ったら実はそこが異界だったという構造です。松尾芭蕉もそうです。
 まさに鎮魂が、そこで行われます。普通の人はそこを通り過ぎるだけですが、隙間に入ってしまった人は、その死者と出会ってしまう。能の死者はこちらの世界へ来ないので、こちらからあちらの世界へ行かない限り、その死者には出会えません。その土地に存在し、土地の記憶とともに存在する死者ですから。
 その死者は、その人と出会わなければならない理由があり、鎮魂して欲しいわけです。鎮魂をしないと、大げさに言えば、崇徳院や菅原道真の怨霊のように破綻して暴れ出してしまう。その世の中のほころびを、何とか縫ってもらおうと出てくるのが、能の死者です。 
 そのほころびを縫う方法というのは、ただ話を聞くこと。聞く、あるいは、相手が舞を舞うことをただ見ること。それによって、自然に世の中のほころびが、いつの間にか修復されていくというのが能の鎮魂だと思います。

たましずめ(鎮魂)とは

山本 念が残るという意味の「残念」という言葉もありますね。やりきれないままで思いが残っている死者の話をただ聞くというのは、「こんなことがあった」と受け取るだけですか。

安田  「受け取る」というのは、難しくて大変なことですよね。『異界を旅する能 ワキという存在』という本で書きましたが、「全身全霊を込めて何もしないことをする」という行為こそが、「受け取る」ことだと思っています。

山本 われわれはつい、人の話を聞くときに、何か言ったり質問をしたり、それこそ混ぜっ返したり、解釈してみたり、何かしたくなるし、するわけですが、そういうことさえも何もしないで、その「何もしない」ということをする。

安田 そうですね。ただ、そこまでには、することがあるんです。何をするかというと、その死者の話を聞くための水を向ける。多くの能の曲において、水を向けると死者から「そんなことも知らないのか」とバカにされるのですが、これが大事です。

山本 この本を読んでいるうちに、安田さんが描く能と、そこに込められた鎮魂の思いが、歴史との付き合い方を教えてくれているような気がしてきました。
 近隣諸国との付き合いも含めて、歴史の問題は絶えずよみがえってきます。つまり、いま生きている人たちによってまだ死者が鎮魂されていないということです。「死者たちがちゃんと鎮魂されていない」という思いを持つ生者たちがいて、それが話題になる。鎮魂ができたならば、一時期であってもまた鎮まる可能性があると思うんです。
 過去に起きたことを、死者の声を、一方的にああだこうだと解釈する前に、まず「受け取る」。それが「たましずめ(鎮魂)」になる。とはいえ、崇徳院もそうだと思うのですが、一回鎮めたからといって永久に鎮まりはしないわけでしょう。

安田 そう、能で鎮魂すると、死者は成仏していきます。ですが実は、鎮魂はそれでは終わらない。もしそれで終わるなら、その能はもう二度とやらなくていいはずです。何度もやっているのは一回では終わらないから。何度もやることがきっと大事なんです。鎮魂は、「はい、終わりました、もうこれで忘れてください」ではなく、何度も繰り返されるべきものです。ほころびを何とかしようという、その繰り返しがたぶん能ではないかと。

山本 同じ能を繰り返し何回もやるのは、それ自体が、前回のホメロスの話と同じで、共同体にその鎮魂の様子をいま一度思い出してもらうため、忘れていても「こうだったよね」と共有するための作法だったのかもしれません。

安田 能の存在価値の一つだと思います。能を見に行くと、特に見慣れると、最初の5分ぐらいだけでもう舞台を見ていないんですよ。自分のことを考え出す。途中から、ずっと自分のことを考えている。例えば、最初のころは「ちゃんと今日は鍵を閉めてきたかな」とそういうことを思い出していて。
 どんどん能が進んでいくと、忘れた記憶のようなものが出てきます。「あ、こんなことを思い出したことはなかったな」という忘れた記憶が出てくるんです。これこそが、鎮魂です。現在の自分があるためには捨てた過去があるはず。本当は別の方向に行きたかったという、その捨てた過去というのも放置したり、特にそれを抑圧したりしていると、暴れ出す可能性があります。
 精神分析では一回思い出せば消えるといいますが、そうではなく「ああ、あんなことがあったよな」「あのとき、むごいことをしちゃったな」と、何度も思い出してそういうことを呼び出すことによって、自分が鎮魂されていく気がします。
 源義経には大きな功績がありますが、あったからこそ、義経は殺されました。大きな社会の変化のとき、功績がある人というのは次の世の中では殺される可能性がある。かつての自分、自分が今あるために存在していた自分というのを、自分自身が抑圧している可能性があります。それが、能を見ていくと顕在化する。それを思い出すことによって、少しなりとも自分が鎮魂されるのです。

能をつくっちゃう!

山本 確かに、それを鎮める方法論を自分なりに持っていないと、過去の嫌な思い出がよみがえって嫌な気持ちになるのを繰り返すだけになってしまいますね。細かくであっても、静かに鎮めるということを繰り返していれば、暴れない状態にしたまま付き合っていくことができる。

安田 それがまた夜に思い出すと、寝られなくなるでしょう。能を見ながら思い出せば、その場で寝るだけだからいいと思うんです。

山本 そうか、自分のことを能にしちゃえばいい。能にして謡っちゃえばいいんだ!

安田 そうです。能は自分でつくればいいのですよ。豊臣秀吉なんて、そうやって作ったのが『明智討』です。秀吉など、天下統一を果たした人は自分を能にしていく。『能』では「オレ様能」なんて呼んでいます(笑)。
 だから、他にも、有名なところでは正岡子規が新作能をつくっています。ただこれが、死ぬほどつまらないんですよ。
 能の主役(シテ)は、基本的に恨みを持って死んだ人です。正岡子規のシテは誰かというと、近くの桜餅屋の娘なんです。近所に美味い桜餅屋ができちゃったので、娘の店がつぶれてしまい、悲しんで死ぬのですが、その恨みで出てくる。で、ワキは諸国一見の僧じゃなくて、「諸国一見の書生」なんです。書生がイギリスから帰ってきて、桜餅屋に行ったら店がない。と、こういう能が作られるくらいなので、これはもう何でもありだなと思っています。どんどん自分の能をつくるといいんですよ。

山本 謡うだけではなくて、自分の能をつくるという話になってきました。でも、どうやってつくればいいんですか。

安田 今日の資料に『能作書』をお持ちでしょう。

山本 あっ! 質問しておいてなんですが、ここにマニュアルがありますね。

安田 能のつくり方のマニュアルはすでにいいのが出ているんですよ。世阿弥が書いていますからね。

山本 世阿弥の『能作書』、これは岩波文庫で薄い本ですけれども、能をつくるためのエッセンスが書かれているわけですね。

安田 しかもかなり実用的です。慣れれば、というところはありますけど(笑)。
 能に限らず、僕が何か新作をつくるときには、これにそのままのっとっています。2017年に金沢の21世紀美術館で『天守物語』という泉鏡花の作品を上演することになり、面白くするにはどうしたらいいかなと開いたのがこの『能作書』です。このフォーマットに流し込んでみると、どこがズレているかというのが見えるんです。そのズレを、この『能作書』でカットするなど書き換えてみる。簡単に言ってしまうと、『天守物語』全部を一つの作品と考えず、前半を一つの序破急を持つ作品、後半も同様に考えたらぴったりと行きました。途中でだれてしまいかねない箇所をうまくまとめていけるんです。

山本 これをお使いになっているわけですね。

安田 これは本当にプラクティカルな、実践的な本ですからお勧めです。これで、皆さん能がつくれますよ! もう一つお勧めするなら『和漢朗詠集』です。この中の言葉も使えます。

山本 能を見る、舞う、謡うに加えて、「つくる」。こんなところまで話が来るとは思っていませんでしたが、次はそこから話を始めましょう。

能 650年続いた仕掛けとは
安田 登/著
2017/9/14

投壜通信
山本 貴光/著
2018/9/4

 

安田登

1956(昭和31)年、千葉県銚子生れ。下掛宝生流能楽師。能のメソッドを使った作品の創作、演出、出演も行う。また、日本と中国の古典に描かれた“身体性”を読み直す試みも長年継続している。著書に『異界を旅する能 ワキという存在』『身体感覚で「芭蕉」を読みなおす。 『おくのほそ道』謎解きの旅』『能 650年続いた仕掛けとは』他多数。

山本貴光

やまもと・たかみつ 1971(昭和46)年生まれ。慶應義塾大学環境情報学部卒業。文筆家、ゲーム作家。「哲学の劇場」主宰。著書に『文体の科学』『「百学連環」を読む』『文学問題(F+f)+』『投壜通信』、共著に『脳がわかれば心がわかるか』(吉川浩満と)『高校生のためのゲームで考える人工知能』(三宅陽一郎と)『その悩み、エピクテトスなら、こう言うね。』(吉川と)、訳書にケイティ・サレン、エリック・ジマーマン『ルールズ・オブ・プレイ』、メアリー・セットガスト『先史学者プラトン 紀元前一万年―五千年の神話と考古学』(吉川浩満と共訳)など。

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 はじめまして。2021年2月1日よりウェブマガジン「考える人」の編集長をつとめることになりました、金寿煥と申します。いつもサイトにお立ち寄りいただきありがとうございます。
「考える人」との縁は、2002年の雑誌創刊まで遡ります。その前年、入社以来所属していた写真週刊誌が休刊となり、社内における進路があやふやとなっていた私は、2002年1月に部署異動を命じられ、創刊スタッフとして「考える人」の編集に携わることになりました。とはいえ、まだまだ駆け出しの入社3年目。「考える」どころか、右も左もわかりません。慌ただしく立ち働く諸先輩方の邪魔にならぬよう、ただただ気配を殺していました。
どうして自分が「考える人」なんだろう―。
手持ち無沙汰であった以上に、居心地の悪さを感じたのは、「考える人」というその“屋号”です。口はばったいというか、柄じゃないというか。どう見ても「1勝9敗」で名前負け。そんな自分にはたして何ができるというのだろうか―手を動かす前に、そんなことばかり考えていたように記憶しています。
それから19年が経ち、何の因果か編集長に就任。それなりに経験を積んだとはいえ、まだまだ「考える人」という四文字に重みを感じる自分がいます。
それだけ大きな“屋号”なのでしょう。この19年でどれだけ時代が変化しても、創刊時に標榜した「"Plain living, high thinking"(シンプルな暮らし、自分の頭で考える力)」という編集理念は色褪せないどころか、ますますその必要性を増しているように感じています。相手にとって不足なし。胸を借りるつもりで、その任にあたりたいと考えています。どうぞよろしくお願いいたします。

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安田登

1956(昭和31)年、千葉県銚子生れ。下掛宝生流能楽師。能のメソッドを使った作品の創作、演出、出演も行う。また、日本と中国の古典に描かれた“身体性”を読み直す試みも長年継続している。著書に『異界を旅する能 ワキという存在』『身体感覚で「芭蕉」を読みなおす。 『おくのほそ道』謎解きの旅』『能 650年続いた仕掛けとは』他多数。

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山本貴光

やまもと・たかみつ 1971(昭和46)年生まれ。慶應義塾大学環境情報学部卒業。文筆家、ゲーム作家。「哲学の劇場」主宰。著書に『文体の科学』『「百学連環」を読む』『文学問題(F+f)+』『投壜通信』、共著に『脳がわかれば心がわかるか』(吉川浩満と)『高校生のためのゲームで考える人工知能』(三宅陽一郎と)『その悩み、エピクテトスなら、こう言うね。』(吉川と)、訳書にケイティ・サレン、エリック・ジマーマン『ルールズ・オブ・プレイ』、メアリー・セットガスト『先史学者プラトン 紀元前一万年―五千年の神話と考古学』(吉川浩満と共訳)など。

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