「私学の国」の危機

 「もともとわが国は、明治維新の以前から私学の国であった」とは、教育学者天野郁夫の弁である。緒方洪庵の適塾、広瀬淡窓の咸宜園かんぎえん、大坂の商人たちが作った懐徳堂、それに、伊藤仁斎の古義堂、平田篤胤あつたね気吹舎いぶきのや……数えあげればきりがないが、この国の近代以前の学問と教育が私塾すなわち私立の学校によって担われていたという事実は、少し立ち止まって考えてみる価値があるかもしれない。そもそも徳川政権の教育施設である昌平坂学問所自体が、林家の私塾からはじまった。無数の私塾と藩校が並立して明治以前の学問と教育が行われていた(天野『大学の誕生』(上))とすれば、私塾と私立学校の盛衰史は「反東大」の思想史の前提になるはずだからである。

 

適塾(Reggaeman / Wikipedia Commons)

 

緒方洪庵(1810~1863年)

 あるひとりの学者を慕って人々が集まり、憧れの師から親しく教えを受ける。こういった私塾から発展した私立学校は、明治のある時期までは学問と教育の主役だったといってよい。『西国立志編』で知られる中村敬宇(正直)の同人社、自由民権の代表的理論家である中江兆民の仏学塾などは、その代表的な例である。1873(明治6)年に開かれた敬宇の同人社は、福澤諭吉の慶應義塾、近藤真琴の攻玉塾(攻玉社)とともに明治の「三大義塾」と呼ばれ、300名を超える生徒を擁していた時期もあった。敬宇自身も、大木喬任たかとう、森有礼ありのり、福澤諭吉、近藤真琴、新島襄とならんで明治の「六大教育家」に数えられている。だが現在、同人社はこの世に存在しない。1874(明治7)年に開かれた中江兆民の仏学塾(はじめ仏蘭西学舎)は、名前のとおりフランス語教育とフランスの学問が中心であり、モンテスキュー、ルソー、ヴォルテールなどのテクストが用いられていた。雑誌『政理叢談せいりそうだん』を刊行し、ヨーロッパの思想を積極的に紹介して自由民権運動に大きな影響を与えたことでも知られている。この仏学塾も、跡形もない。同人社も仏学塾も、明治20年代にその短い歴史を閉じてしまった。
 敬宇や兆民の学校が潰れてから約10年後の1899(明治32)年、『読売新聞』と『東京朝日新聞』はそろって社説で東京帝国大学という強大化しつつある組織を猛攻撃した。東京帝大をローマ教皇になぞらえた『読売新聞』の社説「教育界の羅馬法皇」は6月23日から7月18日までほぼ連日、『東京朝日新聞』の社説「帝国大学論」は7月3日から12日まで6回にわたって、東京帝大内部の腐敗や研究・教育の劣化、その学閥(「赤門党」)の専横ぶりを執拗に追及し、改革を訴えている。兆民とその弟子がフランス思想書をコツコツ翻訳していた牧歌的時代からわずか10年、早くも今日に通ずる〈大学の腐敗〉批判と改革の叫び声があがりはじめたのである。私学の没落と帝大の〈モンスター〉化、そして「反東大」言説の登場。これらの間になにか相関関係はあるのだろうか。

徴兵制度と私学衰退

 そもそも同人社や仏学塾は、なぜ姿を消したのだろうか。両校が不振に陥り、やがて潰れる羽目になったのは、ある法令が改正された影響が大きいといわれている。それは、徴兵令である。
 1883(明治16)年12月28日、大規模な徴兵令改正が行われた。この徴兵令改正は、官立(国立)と府県立学校の生徒と卒業生には猶予や短期服役といった特典を与え、私立学校にはなんの配慮もしなかったことで知られている。官立か府県立の学校に通っている生徒は徴集猶予の資格が得られ、卒業すれば実質的平時免役あるいは短期服役の特典をもらうことができる。一方、私立学校に通っている生徒は、徴兵検査に合格して籤に当たれば3年間軍隊で苦役を強いられる。いくら兆民先生や福澤先生を尊敬していようとも、生徒や就学希望者にとってはあまりに悩ましい問題だった。
 効果は覿面てきめんだったといえるかもしれない。徴兵令改正から1ヶ月後の1884(明治17)年1月、慶應義塾では100名を超える退学者が出た。1882(明治15)年に創設されたばかりの東京専門学校(のちの早稲田大学)でも、在籍者300名中60名が退学する事態となった(両校『百年史』)。兆民は仏学塾の衰退を回想して、「政府が徴兵令を厳格化し、20歳の若者は残らず絡め取られてしまった。生徒はだんだん学業をやめて故郷に帰るようになり、数年の間に仏学塾は寂れてしまった」(原漢文)と書き残している。

東京専門学校(のちの早稲田大学)の校舎と学生たち
 

 私立学校の没落の一方で、徴集猶予などの特典が認められる官立府県立学校は大盛況となった。1884(明治17)年の『朝日新聞』によれば、大阪府立中学校や堺師範学校、神戸師範学校などでは志願者が急激に増加した(2月15日、9月19日)。2年後の1886(明治19)年2月8日、『時事新報』は、徴兵令改正以後の官立府県立学校の様子を次のように描いている。「新令(改正徴兵令)布告以来官公立学校の盛なるは実に非常なるものにして、以前は各地方に学校を設立しても、とかく入校の少なきに苦しみたるものなるが、今日の学校門前は常に市を成し、ただその入れられざるを恐るゝものゝ如し」。天野郁夫が指摘したように維新前の日本が私学の国、私塾の国だったとすれば、徴兵令改正はたしかに大きな転換点だったといえる。

官立学校への優遇措置

 では私立学校は、このような官立府県立学校の隆盛を黙って見ているだけだったのだろうか。実は、いろいろな対策が試みられた形跡がある。たとえば、東京専門学校の創立者のひとりである小野梓の日記「留客斎日記」には、改正徴兵令公布直後の1月、なんらかの措置を求めてだと思われるが、文部卿に呈する文書を執筆し、大隈重信と提出の段取りについて打ち合わせをしたことが記されている。大日方純夫によれば、この文書は残存していないとのことである(『小野梓――未完のプロジェクト』)。続いて小野は、同月25日に同人社の中村敬宇、2月2日には同志社の新島襄と面会して徴兵令の問題を話しあった。私立学校間でなんらかの協議をし、場合によっては共闘する機運があったということだろう。

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    小野梓(1852~1886年)
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    中村敬宇(1832~1891年)
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    新島襄(1843~1890年)

 残された資料を見る限り、この問題に最も激しく反応したのは慶應義塾の福澤諭吉である。政府当局と福澤のやりとり、さらには政府内部の動きを改めて観察すると、文部省は徴兵令改正に乗じてある種の〈教育改革〉を推進しようとし、そのことが次回検討する福澤の〈反官学〉の思想をいっそう激しく加熱したことがわかる。
 まず、徴兵令と慶應義塾の関係を概観しておく。日本で徴兵制度がはじまったのは、1873(明治6)年のことである。この時公布された最初の徴兵令は完全なザル法であり、戸主こしゅ、跡継ぎ、養子、官員、学校生徒など多種多様な免役条項があった。さらに270円の代人料(免役料)を納付すれば、免役とされた。この徴兵令によると、教育関連で兵役免除に該当する者は「文部工部開拓其他ノ公塾ニ学ヒタル専門生徒及ヒ洋行修業ノ者并ニ医術馬医術ヲ学フ者」(「常備兵免役概則」第5条)である。「文部工部開拓其他ノ公塾」ということは、要するに官立学校のことを意味する。それでは、官立の生徒だけが兵役を免除されたのかというと、そうではなかった。別の規定で、文部省所轄学校の生徒と比較して同等と認定されれば公立私立を問わず免役にする、と定められたのである。1876(明治9)年、福澤は、慶應義塾本科3等以上の生徒を免役相当と認定するよう、東京府知事に願い出た。東京府は文部省の指令を仰ぎ、翌年福澤の願い出を許可した(寺崎修「徴兵令と慶應義塾」)。つまりこの時点では、官立・公立・私立を問わず、教育内容を個別に判定して免役を認めるシステムになっていたということである。
 徴兵令の条文が慶應義塾の死命を制する恐れが出てきたのは、前出1883(明治16)年の徴兵令改正である。この改正によって免役料は完全に廃止され、兵役免除は「廃疾又ハ不具等」で兵役に耐えられない者に限定され、そのほかは「猶予」のみとされた。
 改正徴兵令で学歴や教育程度による特典が認められたのは、官立府県立学校のみであった。具体的には、大学校つまり東京大学の本科生徒、工部大学校、駒場・札幌の農学校、司法省法学校といった官立学校本科の生徒に対する在学中の猶予、小学校を除く官立府県立学校1年修了者に対する6年間の猶予、その卒業生に対する短期服役制度などである。東京大学、工部大学校、駒場・札幌農学校などの生徒には、さらに大きな特典があった。2年以上の課程を終えると自動的に27歳まで戦時と事変時にのみ徴集される「第一予備徴員」となり、32歳までさらに安全な「第二予備徴員」となることができたのである。いずれにしても平時に徴集される恐れはない。のちに最高学府である帝国大学に組み込まれていく各校には、最大限の特典が用意されたことになる。

コケにされた福澤諭吉

 福澤と慶應義塾は、この事態を受けて再び東京府知事に「願書」を提出、官立府県立学校と同様の特典を求めた。その「願書」は、おおむね次のような内容である。慶應義塾は「全国洋学私塾」のなかで最古の歴史を持ち、27年間休まず学問と教育に励んできた。すでに4301名を教育し、出身者は官員や官公立・私立学校の教職員などになって活躍している。それが認められて、かつては兵役免除の特典も与えられた。私立学校でこれだけの実績があるのは、慶應義塾だけである(「当塾に限り候」)。ところが、改正徴兵令の官立府県立優遇によって、いよいよ「廃滅」してしまうかもしれない。是非、慶應義塾の実態を調査した上で、官立府県立学校と同様の特典を与えて欲しい――。
 同時に福澤は、陸軍の最高実力者で当時内務卿だった山縣有朋に書簡を送り、慶應義塾に対して官立に準じた保護を与える「特別ノ御取扱」を依頼した。ほかの私立学校を差し置いた抜け駆けのように見えるかもしれないが、実はこの時、同じ私立学校(華族会館立)である学習院を宮内省所轄の官立学校に移管する計画が進行していた。新しい徴兵令では免役料もないので、学習院に通う旧大名や旧公家の華族子弟は下々の者と同じ部隊に入れられ、場合によっては小突かれたりする不都合が生じる。学習院を官立学校にしてしまえば、徴兵令の特典が得られるので、兵卒として徴集されることは避けられる。三条実美、伊達宗城(むねなり)東久世通禧ひがしくぜ みちとみら華族上層部は秘密会議を開き、4月に学習院は官立学校に生まれ変わった(『華族会館誌』)。国民に徴兵制度を押しつける側がみずから抜け道を作っているのだから、福澤が慶應義塾にだけ特典を求めてもあまり責められないだろう。

学習院初代校舎

 ところが、東京府知事への「願書」や政界工作は完全に失敗した。その後1886(明治19)年に官立府県立学校と同レベルの学校に特典を与える小改正があって以降も、慶應義塾は無視された。政府高官と強いコネクションを持つ獨逸学協会学校(獨協学園の前身)や熊本県の私学済々黌せいせいこうなどに特典が認められるようになったにもかかわらず、黙殺され続けた。慶應義塾が徴兵令中でなんらかの猶予を受けるにふさわしい学校と認められるのは、1896(明治29)年のことである(前掲「徴兵令と慶應義塾」)。
 文部省は、東京府知事宛の「願書」で福澤が主張した慶應義塾の優越性を次のように完全否定した。そもそも官立・府県立・町村立・私立の学校は、「国家にとって必要か」「学科その他が整備されているか」という2つの基準で優劣が決まっている。私立学校は、たんに国家に害がないという理由で存在を認められているにすぎない。慶應義塾は長い歴史を持ち多数の人材を世に送り出したという。たしかに過去の人材輩出の実績は事実だが、教育が進んできたいまの時代、「中学校ニモアラス、専門学校ニモアラス、一種雑駁ノ教育」を行っている慶應義塾を官立府県立学校と比べることはできない。過去の教育実績に対しては別に褒美でも与えればよいので、徴兵の特典は必要ない。特典がなければ慶應義塾が「廃滅」するというが、「廃滅」したとしても大した問題ではない。「万一私立学校ニシテ(ことごと)ク教員生徒ヲ失ヒ、該塾(慶應義塾)ノ如キモ一旦廃滅ニ()シタリト仮定スルモ、国家ニ必須緊要ナル学校ニ比擬スヘキモノニ非サル上ハ、亦必シモ之ヲ(ウレ)フルニ足ラサルナリ」。私立学校がことごとく教員・生徒を失い、慶應義塾などが一度「廃滅」したとしても、国家に必要な学校ではないので、心配には及ばない(「慶應義塾生徒徴兵ノ儀ニ付文部省意見」)。完全にコケにされたといってよいほどの扱いである。
 そもそも明治政府とくに文部省は、この機を利用して慶應義塾を圧迫するつもりでいたと思われる。理由はいろいろある。まず、言論人・教育家としての福澤の大きすぎる影響力である。明治国家の設計者のひとり井上毅は、「福澤の著書がひとたび世に出ると、天下の少年がこれになびき従う」と警戒し、対策を怠らなかった(伊藤彌彦やひこ『維新と人心』)。また慶應義塾の教育は、文部省の方針に反していた。さらに、かつて慶應義塾で福澤に師事したにもかかわらず、のちに福澤と不倶戴天ふぐたいてんの関係になった文部省最高幹部の九鬼隆一が徴兵令と教育制度の調整にあたっていたことも関係する。自由民権運動と密接な関係を持つと見なされた私立学校には、教場や寄宿舎に間諜を派遣しての監視活動、父兄や本人を脅迫しての入学辞退や退学勧奨、官吏の出講禁止といったさまざまな圧迫が加えられていたこともある(佐藤能丸『近代日本と早稲田大学』)。

私学擁護派の挫折

 それでは、政府のほかの部門も文部省と同じような姿勢だったのだろうか。徴兵令改正案を修正し議定する役割を担った議事機関・元老院でも、私立学校に配慮を示した議官は多くなかった。元老院の徴兵令修正案の起草に加わった議官箕作麟祥みつくりりんしょうはその例外である。箕作は、府県立学校よりもレベルの高い私立学校が現に存在することを示唆し、それらの救済も兼ねて金銭納入による特典付与を修正案に盛り込んだが、最終的に政府に削除された。この時箕作の念頭には慶應義塾のことがあったのかもしれない。
 のちに帝国大学初代総長に就任する議官渡辺洪基こうきは、「官立大学校」だけに在学中猶予を与えることに反対し、たんに「大学校」とすべきと主張した。そもそも「大学校」ではなく「官立大学校」とされたのは、将来できるかもしれない私立大学に徴兵令の特典を与えないためであった。渡辺はこれに反対し、将来の「大学校」について官立か私立かを問うべきではないと主張したのである。言論弾圧法として知られる集会条例の起草者と目され、民権派から「国賊」と罵られた渡辺、帝国大学の総長となる渡辺が、私立学校の将来に配慮していたのは意外に見える。だが、彼らのように私立学校を擁護する意見を述べた議官はごく少数で、大多数は官立府県立と私立を差別することに賛同した(「元老院会議筆記」)。

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    箕作麟祥(1846~1897年)
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    渡辺洪基(1848~1901年)
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    森有礼(1847~1889年)

 明治政府の法案起草機関である参事院では、1884(明治17)年8月、森有礼が徴兵令再改正案を作成した。森は官立府県立学校にのみ特典を認めるのは「穏当ヲ欠ク」と考え、認定基準を定めた上で私立を含むほかの学校にも特典を与えるべきと考えていた(「徴兵令改正を請ふの議」)。中野目徹は、森の改正案は実際には提出されなかったと推測しているが(『近代史科学の射程』)、のちに文部大臣に就任する森でさえ「穏当ヲ欠ク」と思うほど当時の文部省を中心とした政府の官立優遇・私立冷遇は激しかったということである。
 明治政府の内部で私立学校に対する配慮を示した箕作麟祥、渡辺洪基、森有礼の3名は、福澤とつながりの強い人物である。箕作、森は明治初期を代表する知識人結社、明六社を通して福澤と関係があり、渡辺は慶應義塾の出身であった。帝国大学総長に就任した時にも福澤に招かれ、若き日の渡辺の狼藉について笑い話をしたというエピソードが残されている。
 しかし、彼らの配慮は多数派には共有されなかった。慶應義塾など「廃滅」しても構わないとうそぶく文部省を止める者はいなかった。完全に愚弄された福澤の言論に変化が生じてくるのは、ちょうどこの頃からである。

(第3回へつづく)