異教の防波堤としての官学

 帝国議会で官立学校廃止論が燃えさかるなか、帝国大学文科大学長にして貴族院議員の外山正一が官立高等中学校擁護の先頭に立ったことは前回触れた。
 その主要な論拠は、地方の高等中学校を廃止すると、進学希望の青少年がことごとく各種学校の集まる東京を目指すことになり、「教育上の中央集権」を助長してしまう、というものであったことも、すでに見たとおりである。
 だが、外山が官立高等中学校の存続を主張した理由は、それにとどまらない。日本の教育を根本から変革しかねない、ある〈危険〉な学校群の存在を強く意識していたからでもあった。西洋のキリスト教団体や宣教師が設立に関与した、ミッション・スクールがそれである。もしも官立高等中学校が廃止されれば、これらの学校の存在感がきわめて大きくなることを、外山は危惧した。
 外山は、ミッション・スクールを「外国教会お助学校」と呼ぶ。要するに、外国の勢力の息がかかった学校、ということである。これらの学校に「本邦子弟の教育」を任せることは、国の独立を危うくする行為であり、その行き先は「亡国」しかない。嘘だと思うなら、トルコ、中国、インドなど、西洋列強の侵略や支配に苦しむ国々を見るがよい。それらの国々は、「文明教育」を西洋のキリスト教会が設立した学校に掌握されているではないか。外山はこう訴える。
 イギリス人がインドと同じように日本にも学校を作ってくれるからといって、日本が自前の官立公立学校(「公税学校」)を作らなくてよい、という話にはならない。むしろ「外国教会お助学校」が増加すればするほど、「一国の独立」を維持するために「国立学校」を増強する必要がある。京都には同志社があるから第三高等中学校は不要、仙台には東華学校があるから第二高等中学校は不要、イエズス会が金沢に学校を作るから第四高等中学校は不要、熊本にギリシャ正教会が学校を作るから第五高等中学校は不要、などということは、絶対にあり得ないのである。
 1891(明治24)年1月に『朝野新聞』『郵便報知新聞』などに掲載された外山の論説「高等中学存廃に関する意見」のなかで、とくに強く意識されたキリスト教系学校は、京都の同志社と仙台の東華学校である。
 同志社は、幕末の1864年、アメリカに密出国して同地でキリスト教徒となり、アーモスト大学やアンドーヴァー神学校で学び、1874(明治7)年に宣教師として帰国した新島襄が翌年に開校した同志社英学校を指す。のちの同志社大学である。仙台の東華学校は、1886(明治19)年に設立された「仙台の同志社分校」と目されていた学校であり、新島が校長を務めていた。

新島襄(1843-1890)


 両校とも、アメリカの超教派的キリスト教伝道組織であるアメリカン・ボード(American Board of Commissioners for Foreign Missions)の援助を受けて設立された学校として知られている。とくに同志社に関しては、新島がアメリカン・ボードの大会で日本にキリスト教の学校を設立することを訴え、献金を集めたエピソードが有名である(「新島襄略年表」『新島襄 教育宗教論集』)。
 当初の運営に関しても「経費の90パーセント以上は、まちがいなく太平洋の向こうがわから送られてきた金でまかなわれていた」(和田洋一『新島襄』)ことが指摘されている。草創期の同志社は、外山がそう呼んだように、まぎれもない「外国教会お助学校」であった。
 外国のキリスト教団体が作った学校に対する日本社会の恐怖感や拒絶反応は、根強いものがあった。幕末攘夷運動の原動力となった後期水戸学のように、西洋諸国がキリスト教布教を通して現地人の心を掌握(要するに洗脳)し、手なずけ、やがては国ごと乗っ取ってしまうといったタイプの言説も、強い力を持っていた。
 また同志社英学校が設立された京都では、仏教界の力が非常に強かった。学校の認可に反対する運動は激しく、京都府知事からは校内で聖書を教えないという約束を求められ、それを飲まざるを得なくなったことも多くの研究が指摘している。外山が官立高等中学校擁護のために、ミッション・スクールによる「亡国」の恐怖を煽り立てたのは、そういう流れに棹さすものであった。

帝大の〈劣化コピー〉としての私立大学

 新島は、日本の私立学校創設者のなかで、福澤諭吉とならんで、あるいは福澤以上に、東京大学、帝国大学の存在を強く意識していた人物である。そのことは、明治10年代後半以降、新島による大学設置運動、要するに同志社大学設立運動のなかにはっきり刻印されている。新島が大学設立を呼びかけた文書のほとんどに、東大、帝大に関する記述が見られる。
 たとえば、大学設置運動の初期文書である1882(明治15)年の「同志社大学設立之主意之骨案」は、欧米諸国とくにアメリカ合衆国が自国民の「智識道徳」を最高度に高めるために教育に注力していることを説明し、日本でもそれにならって政府主導で大学が設置されたことを指摘する。「我明治政府も(ここ)に見る所あり、維新多事の際巨万の費用をも顧みず数百の書生を欧米に遣し、且早くも東京に於て一大学を設置せられしは、亜細亜文化の魁を為せしと云とも決して過言にあらさるべくして、我か明治政府は如斯も人民に率先し已に既に政府の義務を尽したりと云へきなり」(全集版はカナ)。

同志社大学設立之主意之骨案(Doshisha Archives Center and Center for Christian Culture資料より)


 教育の重要性を知った明治政府は、維新後間もないころから巨額の金を投じて欧米に留学生を派遣し、早くも1877(明治10)年には東京大学を設立した。これはアジアのさきがけであり、明治政府が率先してみずからの務めを尽くした美事と評価できる。
 そして新島は、政府が設置する大学すなわち官立大学は、やがて全国に広がっていくはずだという。
 ではなぜ、私立大学を作る必要があるのか。それは、政府が率先して懸命に範を示してくれているのだから、それに呼応して「在野の志士」「維新の民」が民間で大学を作るのは当然の務めだからである。
 たしかに民間には、全国各地に大学を作る力はないかもしれない。だが「せめては民資を集合し一大学を関西に創立」することはできる。それこそが、政府の努力に応える道なのだ。新島はこう論じたうえで、「宗教兼哲学」「医学」「法学」の三部からなる大学設立構想を説いた。
 官立大学を〈模範〉とし私立大学を作らねばならないという論法は、新島の文書によく見られるものである。新島の考えをもとに徳富蘇峰が執筆した1888(明治21)年の「同志社大学設立の旨意」では、「我が政府が帝国大学を設立したる所以(ママ)は、人民に率先して其模範を示したる事ならん、思ふに日本帝国の大学は、悉く政府の手に於て設立せんとの事には非ざる可し、吾人は豈に今日に於て傍観坐視するを得んや」と述べている。政府は帝国大学を設立して人民に大学作りの模範を示した。まさか、日本のすべての大学を政府自身が作るというわけにもいくまい。だから我々民間の者が、政府に呼応して大学を創設するのだ――。こういう論法である。

徳富蘇峰(1863-1957)


 また同年の新島の演説「私立大学を設立するの旨意、京都府民に告く」においても、「たつた一の帝国大学を以て足れりとする事なく、第一の大学は官立に関はりたれば、願くは第二第三の大学に至ては、全く民力を以て立てたきものでござります」(原文カナ)と語った。
 日本の教育を高めるためには、政府が作った東京大学、帝国大学だけでは足りない。それを模範として、我々も私立大学を作り、日本の教育に貢献するのが当然だ。政府がそれを望んでいるかどうかはともかく、新島はこういう論法を採用し、同志社大学設立への支援を求めた。
 だが、資金も人材もない民間が、官立大学を手本に私立大学を作ったとしても所詮〈劣化コピー〉ではないのかという疑問が当然のことながら湧いてくる。とくに理系は設備を要し、多額の資金を必要とする。中途半端に金を集めて中途半端な私立大学を作ったところで、なんの意味があるのか。だったら、帝国大学に献金して、その充実を図ったほうがよほど好結果が得られるのではないか。そういう疑問も同時に浮かんでくる。

東京大学と精神の腐敗

 実は、新島が大学設立を呼びかけるさまざまな文書で執拗に帝国大学の名前をあげたのは、また別な意味もあった。帝国大学を範として私立大学を作る、というのはあくまでひとつの〈方便〉であって、新島の大学計画には違った動機があったと考えられる。
 大学設置運動のさなか、一時学校の名称を「明治専門学校」とするプランが持ちあがった。その設立趣意書のなかで新島は、「泰西の学風」つまり西洋の学校制度を模倣した東京大学をはじめとする官立学校のことを、次のように批判的に論じている。「(官立学校を通して)泰西の学勢は頓に勢力を得て天下の学風は忽ち一変したれとも、人心の趣く所は智識開発の一方に傾向し、学問の主本たる道徳の一辺に至ては天下講するもの尠なく、人情日に浮薄に流れ精神月に腐敗に傾き、国の元気は之か為め蕩然として消沮するに至らんとす」。 西洋を模倣して作った東京大学は、たしかに西洋学術の隆盛をもたらした。しかし一方で大きな弊害が生じている。それは、人々が知識ばかりを追い求め、学問のもうひとつの柱である道徳がまったく顧みられなくなったことである。そのせいで明治の日本では、人々が軽薄になり、精神が腐り、国の「元気」が溶けるようになくなりつつある。
 要するに、東京大学をはじめとする官立学校が、西洋学術を通した知識の習得に専心するあまり、国民精神への配慮をおろそかにしている、という批判である。
 新島は続けていう。政府もまた、この問題に気がつくようになった。そこで道徳を再興するため、「孝悌忠信」の徳目に基づく儒教主義教育を推進することにした。新島がこの趣意書を書いた1884(明治17)年に制定された中学校通則は、その第1条で、中学校の目的を「中人以上ノ業務ニ就ク者若クハ高等ノ学校ニ入ル者ノ為メニ忠孝彜倫(いりん)ノ道ヲ本トシテ高等ノ普通学科ヲ授クヘキモノトス」と定めている。普通教育を終えたのちに実務に就く者、そしてさらに高等の教育機関に進学する者は、「忠孝彜倫ノ道」すなわち君主に対する忠誠と親に対する孝行といった、儒教的徳目によって教育されるというのである。
 だが新島は、この試みには賛同できないという。儒教道徳は所詮「支那古風の道徳」であり、東京大学などが採用する「泰西日新の学風」とは同時に実行できないからである。儒教も悪いことを教えているわけではないが、もはやいまの時代に通用するものではない。
 ではなぜ、このような間違った道徳復興策がまかりとおっているのか。新島の答えは明確である。西洋の進歩と東洋の停滞の、真の原因を見きわめることに失敗しているからである。
 「何を以てか社会の安全を維持し文明の大成を保有する事を得んや、蓋し東洋の不振は自由と基督教の道徳なきに因由するなり、試に看よ彼の欧洲諸国の文運を煥発せし所以のものは他なし、要するに自由の拡張と学門の発達と政事の進歩と道義の能力に帰せずんばあらず、而して此四者を致す所以は何ぞや、乃基督教の道徳を主本として日新の学術を攻究するによるなり」
 社会が安寧を保ち、文明へと進む条件はなんだろうか。それは自由とキリスト教である。アジアが不振をきわめているのは、この自由とキリスト教が欠落しているからにほかならない。ヨーロッパの文化と文明が栄えているのは、自由、学問、政治、道徳の4つがあるからである。そしてこれらの要素の根本はなにかといえば、キリスト教である。キリスト教の道徳に基づいて学術を究めるからこそ、進歩が可能になったのだ。したがって、東京大学のような知識偏重と古臭い儒教道徳を併用したところで、文明には近づかない。
 新島の真意は、知識偏重教育と道徳主義教育の両者を超克する存在として、みずからが設立しようとする新たな学校を位置づけようとしているところにある。キリスト教に基づき西洋学術を習得する学校。これこそが、日本に求められている高等教育機関なのである。
 だが、新島の企図を実現するのはきわめてむずかしいことだった。第一に、資金の問題がある。現に同志社英学校はアメリカン・ボードの支援なくしては立ちいかない。専門学科を揃えた学校、そして大学を作るには、もちろん金が足りない。
 第二に、キリスト教を前面に押し出す大学は、文部省の政策に合致しない。また、社会の広い支援を受けられる可能性も低い。すでに見た、〈方便〉としての帝国大学を手本とした大学構想は、理想の学校を実現するための一種の擬態といえる。すでに知識偏重教育の東京大学を乗り越える学校構想を抱いていた新島が、その拡大強化版である帝国大学を手本とするはずがないからである。
 実は新島は、たんに知識偏重のゆえに東大・帝大を批判していたわけではなかった。それどころか、帝国大学を中心とする日本の知の体系と教育体系を、みずからが立ち向かうべき主要敵、または進路を阻む障害物とさえ見なしていた形跡がある。
 一般の日本人に対して大学設立への支援を呼びかける新島の声とはまったく違う声が、彼の同志がいるアメリカ、そしてキリスト教会のなかで響いていた。訪米した新島、あるいは教会で説教する新島にとって〈帝国大学システム〉との対決は、日本の将来を決定づける、精神の戦争とさえ位置づけられていたのである。

(第10回へつづく)