2017年12月12日
~安田登×内田樹×いとうせいこう
「能の楽しみ方」後編
『能〜650年続いた仕掛けとは』(新潮新書)が好評の能楽師、安田登さん。主催されている「天籟能の会」の公演のなかで、内田樹さん、いとうせいこうさんと能の楽しみ方をテーマに語り合った。それぞれ能のお稽古に夢中になっているおふたりが考える能の魅力とは? その後編をお届けする。今後も機会があれば、能についてのおもしろい話をご紹介していくつもりだ。
「ロッキー・ホラー・ショー」のように
内田 能にはいくつか約束事のようなものがありますね。でも、約束事とされていることでも、別にどうでもいいこともあるみたいです。例えば、能が終わったときの拍手なんて好きなときにすればいいはずなんです。演能中でも、見所(能舞台でいう客席のこと)の人たちが感動したらそこで「うわっ」と盛り上がって構わないし。謡だって、みんなが知っている有名な謡なんか一緒に唱和していいと思いますけどね。
いとう 『ロッキー・ホラー・ショー』みたいな感じで参加していく。
内田 オペラだって、みんなが知っているアリアだと、観客まで参加して、劇場中が歌い出すということがあるでしょう。そういうものでいいと思うんですよ。でも、能楽堂だと、みんな妙にお行儀がよくて、どのタイミングで拍手したらいいんだろうと周りをきょろきょろ見回しているうちに舞台からみんないなくなってしまって、誰も拍手しないうちに終わってしまうということもたまにありますよね。拍手なんか、もっと自然にやっていいんじゃないですか。時々訳知り顔で「能は拍手をするものではありませんよ」とか言うような人がいますけれど、余計なお世話ですよ。
安田 お二人にも推薦をいただいた『能』という本では、付録に能を習いたい初心者向けのアドバイスをまとめました。私は定期的にお寺で「寺子屋」と称して、能や古典についてなど勉強会を開いており、そのために能の寺子屋で「能に関してわからないこと」を聞いてみたら、「拍手はどうしたらいいですか」という質問が結構あって驚きました。本では、「どちらでもいいです」と書きました。答えはないですね。
いまのお話で、以前に、長野県の鬼無里という『紅葉狩』(能の曲)のゆかりの場所で、実際に『紅葉狩』を上演した時に、お客さんが最後は声を合わせてみんなで謡っていたのを思い出しました。
いとう 『紅葉狩』の場所だから地元の方が? それはすごい。
安田 町民の方が最後に一緒になって謡ってくれるんです。気持ちのいいものです。
いとう いいですね。
安田 こちらも楽しくなります(笑)。そこでは狂言もやったのですが、反応する地元の方の笑いがあまりにも激しくて驚きました。30年ぐらい前で、野村万作先生が、同じことをばんばん繰り返しなさっていて、裏から「何をされているんだろう」と不思議になってのぞいたら……。
いとう あんまりうけるから何度も繰り返されていた(笑)。
安田 そうなんです、あんまりうけるから(笑)。
いとう でもそれが本来なのでいいと思います。芸ですものね。
安田 そうですよね。
いとう その場その場で呼応していくものですよね。
内田 やっぱり見所と、舞台とが混然一体となっているのが、芸能の理想ではないですかね。お家元(観世清和師のこと。内田樹さんと共著『能はこんなに面白い!』がある)も、そうおっしゃっていました。
安田 そうでしたか。
内田 そうなんです。見所は「正しい鑑賞の仕方」みたいなルールを気にしないで、もっと自然に反応してくれる方がやっている方はありがたいとおっしゃってました。
寝てもいいのかどうか問題
内田 それから、ぼくは能を見ながら寝ても別に構わないんじゃないかと思うんです。複式夢幻能は現実と非現実の境目を行き来する話なんだから、見る方だって半覚醒状態でいいじゃないですか。
そもそも、ワキ自体が寝ているわけでしょう?
安田 いや、まあ、起きていますよ(笑)。
いとう 実際にワキ方が寝ているかはともかくとして、寝ている設定のことが多いですよね。
安田 ワキ方の夢の中で話が進行する設定が多いのは確かです。
いとう そうです。ここで一つ寝よう、ということにはなっている(笑)。
安田 『屋島(八島)』という能では、ワキはシテから「いま見ている夢を覚まさないでください(夢ばし覚まし給ふなよ)」と言われたりもします。設定は完全に夢の中ですね。
内田 観客はワキを経由して能の舞台に入っていくわけです。ワキの旅の僧はだいたい一日歩いて、疲れ果てて、入眠時の幻覚の中で後シテに出会うわけですよね。
安田 はい、そんな、気は、します(笑)。
内田 以前に『卒塔婆小町』(能の曲)を見ていたときのことです。あれ最初の方は小野小町と旅の僧の間で、わかりにくい仏教の問答の部分があって、結構退屈なんですよね。前に『卒塔婆小町』を見ていたときに、僕の前の席にどこかの大学の能楽部と思しき学生たちが五人並んで座っていたんです。それが全員かくんと寝落ちしてしまって。でも、途中で、小町に四位の少将が憑依するところがあるでしょ。「なう物賜べなう」というところ。そこで五人全員ががばっと目を覚ました。別に大きな声になるわけじゃないんです。でも、半睡半覚で、現実と非現実の境目にいた観客でも、シテに死霊が取りついた瞬間に反応できるわけです。
安田 寝ている人が多い演目でも、最後まで寝ている人は、実はあまりいませんね。
内田 そうです。最後の拍手の音で起きることもありますけどね(笑)。
安田 自由に観ていただければいいと思います(笑)。
いとうさんは朝がお強いのでしょうか、いとうさんも参加くださっている流れの会のお稽古は、朝の8時から始まるんです。中でも、いとうさんはいつも7時半には見えていますよね。
いとう いや、どうせだったら早く起きちゃおうということなんです。
安田 お住まいがご近所というわけではないですよね。
いとう ええ。なにしろぼくにとっては、お稽古は楽しみでならないものです。子どもの運動会みたいなやつですね。やたらと早く起きて張り切って出かけちゃう(笑)。
能ってかなり自由
安田 始めたときのお約束で、10年間はぼくが許すまで質問してはいけないと言いました。
いとう ええっ。
内田 あれ、驚いていらっしゃる(笑)。
安田 それから、10年間はどんなことがあっても、自分が死んだとき以外はやめてはいけない。この二つの約束がありました。
いとう あ、そうだった。
安田 この二つはとても大事だと思っています。
内田 質問してはいけない。
安田 だいたい質問の多くというのは、10年待つとわかることなので、先に聞こうとするなという話です。
いとう そもそも、「どうしてここで音が鳴るんですか」と聞くこと自体に意味がないことが多い。
内田 質問自体に意味がないこと、ありますね。
いとう とにかく、そういうものなのだ、と。
安田 「そういうものなのだ」の枷(かせ)の部分と、自由である部分の両方があることが、能の面白さなんです。
いとう 確かに、お稽古を始めて、かなり自由だとわかってきました。たとえば、謡う人たち全員の音階が絶対に合っていなくてはいけないということはない。要するに、内在的なリズムさえ外さなければ、それ以外は問題ないという構えですよね。
この自由さは面白いし、同時にあまり知られていないことです。知られるべきではないのかどうかはよくわかりませんが、ぼくにとってはその点が習いやすく、この世界に入ってよかったと思うところです。
内田 特に謡は、ある程度声が出るようになってくると、体が自律的に音を出しますね。最初は詞章を読んで、師匠が謡った通りに上げ下げするわけですけれど、ある程度稽古が進んでくると、ここはこういう音程で謡うしかないという音の必然性がわかってきますね。そうなると、身体の各部位が共鳴し始める。
最初のうちは喉や肺、胸腔といった発声器官だけを使って謡っているのですが、音の必然性がわかってくると、頭骨や鼻骨や腹腔までが共鳴し出して「一人オーケストラ状態」になる。部位ごとに固有振動数が違いますから、遅速の差が出てきて、それで倍音が出てくる。
安田 ああ、そういうことですね。
内田 一人で倍音が出るようになるとね。
安田 すごいですね。
内田 謡はすごいです。
いとう ホーミーですね。
安田 以前に、流れの会の発表会で内田さんと『敦盛』を一緒に謡った時は、能舞台で9人ほどが扇型に座りました。謡っていると、その扇の内側に音がズンズン入って、一節一節に迫力がありました。
いとう 能舞台というのはスピーカーとして、やはりよくできている。
説明ではなく「味わい」
安田 そういえば、いとうさんは『羽衣』の現代語訳をされているのでしたね。
いとう そうなんです。宝生流のご宗家と『羽衣』の現代語訳をして、そのうちの一部分を紗幕のようなところに適切な間で映しながら、上演する予定なのです。その英訳をジェイ・ルービンさんがやってくださっています。箇所によっては、英語で映るだろうと思います。
内田 歌舞伎ではテロップが出ますね。
いとう そうです。あれを、勘所だけで出す。
安田 国文学者に頼まずに、いとうさんに頼んだということは、普通の訳ではないということですね。
いとう 韻がある場合は絶対にそのまま温存し、現代語としても韻を踏むようにやっています。
内田 そういうことをできる人は、いとうさんしかいませんね。
いとう あとは、文字数に制限があるので、説明にならないようにしています。イメージのように、絵が映っているように字を映す工夫です。漢字は視覚的な情報が多いので、見るだけでぱっと捉えられます。「春霞。たなびきにけり久かたの。……」って『羽衣』ですけれどね。そのイメージを短い言葉で映すと、共有できるものがある。
内田 「靉く」という漢字そのものがぼくは好きですね。
安田 詞章は美しい漢字を使っていますね。折口信夫が「靉く」としていますね。これが美しい。
いとう そうなんです、音でも文字面でもきちんとその特徴的な美しさを見せたいんです。「靉く」もおっしゃる通りですね。
内田 「こういう漢字なんだ」と思いながら謡本を読み、その漢字のイメージにインスパイアされて謡うということはありますね。
安田 そう、能の謡は詩として、韻文として完成されていて美しい。どうしても現代文だと単純に意味の「説明」になってしまう傾向があります。
いとう さっきのお話(前篇参照)で言えば、つまりすべてを粗筋化してしまう。
安田 そうなんです。下手に粗筋化すると、詞章や韻といった、能そのものが持つ素晴らしさがそこで消えてしまいかねません。夏目漱石などは、小説ですら「筋なんかどうでもいい」と言ってますし(笑)。
いとう ストーリーラインや意味自体にポイントがあるのではなくて、その韻を踏んでいるところ、言葉の持つ品格など、「味わう」ことにフォーカスしたい。
安田 お二人とも『日本文学全集』(池澤夏樹さんの個人編集、全作解説付きで、河出書房新社から刊行されている古典から現代までを網羅する文学全集、全30巻。第一線の作家が新訳をしていることでも話題に)で古典を訳されていますね。
内田 池澤夏樹さんから指名いただいて。ぼくは『徒然草』です。
いとう ぼくは『通言総籬』と『曾根崎心中』。
安田 日本語そのものを味わうことのできる古典の翻訳だと思います。これはお勧めです。
と、言いつつ、時間が迫っておりましてあと5分ぐらいとなりました。
いとう ぼくは、足的には助かります(笑)。そろそろ正座に限界が来ておりましてですね。
内田 ぼくはふだんは問題ないのですが、一昨日と昨日で、2日続けて禊(みそぎ)をやってきたので、かなり膝にきております。
安田 禊でしたか。
内田 禊では、一日十数時間正座して祝詞を上げるので、さすがに足に来ますね。
安田 それでは身体の言うことを聞いて、この辺で。ありがとうございました。
内田・いとう ありがとうございました。
東京、目黒の喜多能楽堂にて。
(写真・石田裕)
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能―650年続いた仕掛けとは―
安田登/著
2017/9/15発売
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安田登
1956(昭和31)年、千葉県銚子生れ。下掛宝生流能楽師。能のメソッドを使った作品の創作、演出、出演も行う。また、日本と中国の古典に描かれた“身体性”を読み直す試みも長年継続している。著書に『異界を旅する能 ワキという存在』『身体感覚で「芭蕉」を読みなおす。 『おくのほそ道』謎解きの旅』『能 650年続いた仕掛けとは』他多数。
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いとうせいこう
1984年早稲田大学法学部卒業後、講談社に入社。86年に退社後は作家、クリエーターとして、活字/映像/舞台/音楽/ウェブなど、あらゆるジャンルに渡る幅広い表現活動を行っている。
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内田樹
1950(昭和25)年、東京生れ。神戸女学院大学名誉教授。武道家、多田塾甲南合気会師範。東京大学文学部仏文科卒業。東京都立大学大学院人文科学研究科博士課程中退。専門はフランス現代思想、武道論、教育論、映画論など。
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とは
はじめまして。2021年2月1日よりウェブマガジン「考える人」の編集長をつとめることになりました、金寿煥と申します。いつもサイトにお立ち寄りいただきありがとうございます。
「考える人」との縁は、2002年の雑誌創刊まで遡ります。その前年、入社以来所属していた写真週刊誌が休刊となり、社内における進路があやふやとなっていた私は、2002年1月に部署異動を命じられ、創刊スタッフとして「考える人」の編集に携わることになりました。とはいえ、まだまだ駆け出しの入社3年目。「考える」どころか、右も左もわかりません。慌ただしく立ち働く諸先輩方の邪魔にならぬよう、ただただ気配を殺していました。
どうして自分が「考える人」なんだろう――。
手持ち無沙汰であった以上に、居心地の悪さを感じたのは、「考える人」というその“屋号”です。口はばったいというか、柄じゃないというか。どう見ても「1勝9敗」で名前負け。そんな自分にはたして何ができるというのだろうか――手を動かす前に、そんなことばかり考えていたように記憶しています。
それから19年が経ち、何の因果か編集長に就任。それなりに経験を積んだとはいえ、まだまだ「考える人」という四文字に重みを感じる自分がいます。
それだけ大きな“屋号”なのでしょう。この19年でどれだけ時代が変化しても、創刊時に標榜した「"Plain living, high thinking"(シンプルな暮らし、自分の頭で考える力)」という編集理念は色褪せないどころか、ますますその必要性を増しているように感じています。相手にとって不足なし。胸を借りるつもりで、その任にあたりたいと考えています。どうぞよろしくお願いいたします。
「考える人」編集長
金寿煥
著者プロフィール
- 安田登
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1956(昭和31)年、千葉県銚子生れ。下掛宝生流能楽師。能のメソッドを使った作品の創作、演出、出演も行う。また、日本と中国の古典に描かれた“身体性”を読み直す試みも長年継続している。著書に『異界を旅する能 ワキという存在』『身体感覚で「芭蕉」を読みなおす。 『おくのほそ道』謎解きの旅』『能 650年続いた仕掛けとは』他多数。
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- いとうせいこう
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1984年早稲田大学法学部卒業後、講談社に入社。86年に退社後は作家、クリエーターとして、活字/映像/舞台/音楽/ウェブなど、あらゆるジャンルに渡る幅広い表現活動を行っている。
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