2022年6月2日
『ハレム 女官と宦官たちの世界』刊行記念 「ハレム」の魅力を語ろう 篠原千絵×小笠原弘幸
前編 ハレムの女官はどんな服を着ていたか?
性愛や淫蕩のイメージで語られてきたイスラム世界の後宮「ハレム」。その実態を描く『ハレム 女官と宦官たちの世界』を刊行した九州大学准教授の小笠原弘幸さんは、同じくハレムを舞台にした人気漫画『夢の雫、黄金の鳥籠』の大ファン。その作者の篠原千絵さんと、ハレムの不思議な魅力について語り合います。
「できれば連載前に読みたかった」
小笠原 私は篠原先生の作品のファンでして、こうしてお目にかかれるのは大変光栄です。最初に読んだのは『闇のパープル・アイ』で、大学生のころ、たまたま友だちの部屋に置いてあったコミックスを読み始めたらとても面白くて、一気に全巻読んでしまいました。
篠原 ありがとうございます。
小笠原 そのあと博士課程に進んで2000年からトルコに留学して、帰国したあとに『天は赤い河のほとり』を読みました。その時は、トルコのヒッタイトを舞台にした漫画があると知って手に取ったのですが、恥ずかしながら『闇のパープル・アイ』と同じ著者だとは気づいていませんでした(笑)。
篠原 『天は赤い河のほとり』の連載が終わったのが2002年ですから、ちょうど連載していた頃に、トルコに留学されていたんですね。
小笠原 その後、オスマン帝国のハレムを舞台にした『夢の雫、黄金の鳥籠』が始まって……これも最初のうちは連載に気づかなくて(笑)、途中から読み始めたのですが、すぐに夢中になりました。最近では、九州大学の生協の書店さんが、新刊が発売されると同時に、私のために一冊取り置きしてくれています。
篠原 恐縮でございます。研究者の方に読まれるのは、ありがたいけど、ちょっとドキドキしますね(笑)。
小笠原 いえいえ、本当に面白く読ませていただきました。今回『ハレム』を執筆するにあたって、じつは『夢の雫、黄金の鳥籠』の読者もちょっと意識して、皆さんがより深く楽しく作品を鑑賞できるように、スレイマン1世やヒュッレムが活躍した時代背景の説明や登場人物の掘り下げに力を入れてみました。
篠原 おかげさまで、「波」の書評でも書かせていただいた通り、本当に面白く読みました。この本は研究書のカテゴリに入るのかもしれませんが、とても読みやすくて、小説とか娯楽作品を読むのと同じテンションで一気に読めました。
「読みやすかった」というのが研究者の方に対しての褒め言葉になるかどうか分からないんですけど、一応、エンターテインメント業界で仕事をしている者としては、読みやすいというのはすごく大事な要素だと思っているので……特別にオスマン史とか中東史に興味がない方でも、たぶん面白くすっと読めるのではないかなと思いました。
小笠原 ああ、すごく嬉しいです。
篠原 恨めしいのは、できれば連載を始める前に読みたかったなと(笑)。日本語で書かれたハレムの本というのはほとんどなくて……これまでオスマン帝国史や中東史の本の中から、ハレムに関するごく限られた記述を少しずつ拾い集めて読んでいました。こんなにまとまった分量を日本語で読めるというのは、本当に快感でした。
小笠原 たしかに日本語で読めるハレムの情報は、非常に少ないですね。アマゾンなどで「ハレム」と検索すると、ちょっと違うジャンルのものが……(笑)。
篠原 怪しいものが(笑)。
小笠原 もちろん、日本の方がハレムに性的なイメージを投影するのは自由ですし、それを否定するつもりはないのですが、やはり歴史的に見れば本当はこうだったということを、日本語で出しておくのが大事だろうと考えました。
史料をどうやって入手するか
篠原 ぜひお伺いしたいのが、史料のことです。勝手な想像ですけれど、ハレムについてまとめて詳述された一次史料が残っているわけではないんですよね。研究者の方は、どのような史料を利用してハレムについて調べているのですか?
小笠原 ご指摘のように、ハレムに関する史料はあまり残っていないのです。オスマン帝国の人たちは王家に遠慮して、スルタンのプライベートについて書かないのが普通でしたから。オスマン帝国末期になると、スルタンへの遠慮もなくなって、ハレムを引退した女官が回想録を書いたりする例は結構あるのですが、やっぱり古い時代は難しい。
とくに『夢の雫、黄金の鳥籠』の舞台である16世紀、スレイマン1世とヒュッレムの時代のハレムは、実はほとんど詳しいことが分からないんですね。
篠原 やはりヒュッレムの時代は、具体的な史料がほとんど残っていないんですね。
小笠原 そうです。16世紀以前は、むしろヨーロッパ人の書き記したものに頼るしかない。
あとは公文書ですね。こちらも17世紀か18世紀のものが主になってしまいますが、公文書の中でも、特に金銭に関わるものは残りやすい。女官の給料をいくら払ったとか、あるいはハレム関係者の食材をいくらで買ったとか。そういった断片的な史料を集めて、ハレムの全体像を少しずつ組み立てていくわけです。
篠原 その収支関係の公文書というのは、やっぱりトプカプ宮殿に保存されているんですか。
小笠原 トプカプ宮殿の文書館ですね。私が留学していた2000年ころは、閲覧許可を取るのがすごく大変でした。トプカプ宮殿にある文書は「宝物」扱いになるので、なかなか許可が下りない。もう一つ、トプカプ宮殿とは別に総理府古文書館というのがあって、そこは比較的許可が下りやすいので、研究者の多くはそこで仕事をしていました。
篠原 最近はどうなんですか?
小笠原 今は史料の電子化が進んで、電子画像ならその文書館で簡単に見られるようになりました。膨大な量の文書をあっという間にCDに焼いてもらえるので、便利は便利なのですが、一方で史料の実物を見せてくれなくなったので、それはそれで残念で……。
篠原 なるほど、閲覧のハードルが低くなったのは良いですが、実物に触れられないのは痛いですね。紙質とか、匂いとか、実物だけが持つパワーというものがあるでしょうから。
小笠原 そうなんですよ。やっぱり実物の史料が見られないというのは痛手です。たとえば大先輩の研究者の方は、「文書というのは立体的に見ないといけない」と言っていて、つまり文書の表面だけじゃなくてその裏も必ず見ろと。裏に何かハンコが押してあったり、あとは全体のスペースの中で文字がどう配置されているとか、そういうのが大事なんだというわけです。
女官はどんな服を着ていたのか?
篠原 漫画の場合、登場人物を描くときに、必ず衣装を書かないといけない。ところが、当時の衣装の史料を探そうと思うと、これが全然残っていない。それこそ、ヨーロッパ人が17、18世紀ころに描いた絵ぐらいしかなくて。
2010年ぐらいにトプカプ宮殿でハレム展があったとき、タイミングよくトルコに行けて見てきたんですけど、布というのはあまり残らないみたいで、18世紀ぐらいのものしかない。漫画を描くのはどうしてもビジュアルが必要なので、結果的に、嘘ばっかり描いている感じがあります(笑)。
小笠原 私も今回の本の第六章で、内廷の小姓が着ていたとされる「ドラマ」と「カフタン」という衣装について書きました。カフタンは有名なので具体的なイメージが分かるんですけど、ドラマというのがどんな服なんだろうと思って調べてみたら、けっこう本によって言っていることがバラバラで……本当は何か適切な訳語をつけたかったんですが、結局そのまま「ドラマ」とカタカナでごまかしてしまいました。でも、漫画家の方はごまかしようがないので、本当に大変ですね。
篠原 良かった! 研究者の方でも分からないんだから、漫画家風情が分からなくても全然問題ないわけだ(笑)。
現代の物語でも、いろんなタイプの洋服があって、流行り廃りも激しいから、登場人物にどんな服装をさせるかは本当に難しい。ましてやオスマン帝国の初期のころなんて……まあ、むしろ史料がないから何を描いても許してもらえるんじゃないかと居直っているんですが(笑)。
小笠原 本場トルコの歴史ドラマとかを見ていても、わりとざっくりとした感じなので、それでいいんじゃないでしょうか(笑)。
篠原 トルコで大ヒットしたハレム物のドラマ――私はあのドラマのトルコ語のタイトルをちゃんと発音できないんですけど――あの中でも登場人物はみんな結構ヨーロッパっぽいドレスを着てましたよね。
小笠原 歴史ドラマ『Muhteşem Yüzyıl』、直訳すれば『壮麗なる世紀』ですね。全世界で8億人が視聴したとされる大ヒット作品で、日本でも『オスマン帝国外伝~愛と欲望のハレム~』というタイトルでBSや動画配信サイトで配信され人気を博しました。
あのドラマは歴史研究者の監修もちゃんと入っていて、私もその監修者が書いた記事を読んだことがあるのですが、「いちおう意見はするけど、あとは製作者にお任せ」というスタンスのようでした。
篠原 あと、もちろん一般向けのドラマだから、ビジュアルとして美しくて、しかも俳優が動きやすい衣装でないとダメでしょうし。
でも、本当にタイムマシンがあったら、ぜひ16世紀のトルコに行ってみたいですね。一瞬でもいいので、当時の人々がどんな服を着ているのか見てみたい。
その点、『ハレム』の帯に載っているドミニク・アングルさんの絵は楽でいいですよね。みんな裸だから洋服を描かなくてもいい(笑)。
(後編へつづく)
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小笠原弘幸『ハレム 女官と宦官たちの世界』
2022/3/24
公式HPはこちら。
オスマン帝国の「禁じられた空間」で、何が行われていたのか――。 性愛と淫蕩のイメージで語られてきたイスラム世界の後宮・ハレム。奴隷として連れてこられた女官たちは、いかにして愛妾、夫人、母后へと昇りつめていったのか。ハレムを支配する黒人宦官と、内廷を管理する白人宦官は、どのように権力を手にしていったのか。600年にわたりオスマン帝国を支えたハイスペックな官僚組織の実態を、最新研究を駆使して描く。
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篠原千絵
1981年12月、漫画家デビュー。『闇のパープル・アイ』にて第32回小学館漫画賞、『天は赤い河のほとり』にて第46回小学館漫画賞を受賞。『海の闇、月の影』、『蒼の封印』など代表作多数。『天は赤い河のほとり』は2018年に宝塚歌劇団にて舞台化。現在、『夢の雫、黄金の鳥籠』を隔月刊誌「姉系プチコミック」にて連載中。
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小笠原弘幸
1974年、北海道生まれ。青山学院大学文学部史学科卒業。東京大学大学院人文社会系研究科博士課程単位取得退学。博士(文学)。2013年から九州大学大学院人文科学研究院イスラム文明学講座准教授。専門はオスマン帝国史およびトルコ共和国史。主な著書に『イスラーム世界における王朝起源論の生成と変容』(刀水書房)、『オスマン帝国』(中公新書、樫山純三賞受賞)、『オスマン帝国英傑列伝』(幻冬舎新書)など。
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とは
はじめまして。2021年2月1日よりウェブマガジン「考える人」の編集長をつとめることになりました、金寿煥と申します。いつもサイトにお立ち寄りいただきありがとうございます。
「考える人」との縁は、2002年の雑誌創刊まで遡ります。その前年、入社以来所属していた写真週刊誌が休刊となり、社内における進路があやふやとなっていた私は、2002年1月に部署異動を命じられ、創刊スタッフとして「考える人」の編集に携わることになりました。とはいえ、まだまだ駆け出しの入社3年目。「考える」どころか、右も左もわかりません。慌ただしく立ち働く諸先輩方の邪魔にならぬよう、ただただ気配を殺していました。
どうして自分が「考える人」なんだろう――。
手持ち無沙汰であった以上に、居心地の悪さを感じたのは、「考える人」というその“屋号”です。口はばったいというか、柄じゃないというか。どう見ても「1勝9敗」で名前負け。そんな自分にはたして何ができるというのだろうか――手を動かす前に、そんなことばかり考えていたように記憶しています。
それから19年が経ち、何の因果か編集長に就任。それなりに経験を積んだとはいえ、まだまだ「考える人」という四文字に重みを感じる自分がいます。
それだけ大きな“屋号”なのでしょう。この19年でどれだけ時代が変化しても、創刊時に標榜した「"Plain living, high thinking"(シンプルな暮らし、自分の頭で考える力)」という編集理念は色褪せないどころか、ますますその必要性を増しているように感じています。相手にとって不足なし。胸を借りるつもりで、その任にあたりたいと考えています。どうぞよろしくお願いいたします。
「考える人」編集長
金寿煥
著者プロフィール
- 篠原千絵
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1981年12月、漫画家デビュー。『闇のパープル・アイ』にて第32回小学館漫画賞、『天は赤い河のほとり』にて第46回小学館漫画賞を受賞。『海の闇、月の影』、『蒼の封印』など代表作多数。『天は赤い河のほとり』は2018年に宝塚歌劇団にて舞台化。現在、『夢の雫、黄金の鳥籠』を隔月刊誌「姉系プチコミック」にて連載中。
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- 小笠原弘幸
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1974年、北海道生まれ。青山学院大学文学部史学科卒業。東京大学大学院人文社会系研究科博士課程単位取得退学。博士(文学)。2013年から九州大学大学院人文科学研究院イスラム文明学講座准教授。専門はオスマン帝国史およびトルコ共和国史。主な著書に『イスラーム世界における王朝起源論の生成と変容』(刀水書房)、『オスマン帝国』(中公新書、樫山純三賞受賞)、『オスマン帝国英傑列伝』(幻冬舎新書)など。
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