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『ハレム 女官と宦官たちの世界』刊行記念 「ハレム」の魅力を語ろう 篠原千絵×小笠原弘幸

2022年6月3日

『ハレム 女官と宦官たちの世界』刊行記念 「ハレム」の魅力を語ろう 篠原千絵×小笠原弘幸

後編 ハレムに女性が惹かれるのはなぜか?

著者: 篠原千絵 , 小笠原弘幸

性愛や淫蕩のイメージで語られてきたイスラム世界の後宮「ハレム」。その実態を描く『ハレム 女官と宦官たちの世界』を刊行した九州大学准教授の小笠原弘幸さんは、同じくハレムを舞台にした人気漫画『夢の雫、黄金の鳥籠』の大ファン。その作者の篠原千絵さんと、ハレムの不思議な魅力について語り合った対談の後編です(前編はこちらです)。

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ドラマ放送時は「ハマム」が空になる

 

小笠原 『ハレム』を刊行して意外だったのは、購読者の半数近くが女性だったことです。新潮選書の場合、購読者層の8~9割が男性と聞いており、版元のほうも男性読者を意識して「『酒池肉林』の真相とは?」という帯コピーを考えてくれたのですが、想定外の結果に驚きました。もしかしたら篠原先生の『夢の雫、黄金の鳥籠』の影響力のおかげではないかと思っています。

ハレム
夢の雫、黄金の鳥籠

篠原 いえいえ(笑)。

小笠原 よく考えたら、ハレムを舞台にしたコンテンツは、『夢の雫、黄金の鳥籠』は小学館の女性コミック誌「姉系プチコミック」の連載ですし、宝塚歌劇でも宙組公演の『壮麗帝』がありました。トルコの歴史ドラマ『Muhteşem Yüzyıl』(邦題『オスマン帝国外伝~愛と欲望のハレム~』)もトルコ女性に大人気でした。少女漫画ではありませんが、市川ラクさんという女性の漫画家の方が、昨年『オダリスク』という、スレイマン一世のハレムを舞台にしたとても面白い作品を描いてらっしゃいます。女性がハレムというテーマに関心を持つのはなぜなのでしょうか?

Muhteşem Yüzyıl』は日本でも『オスマン帝国外伝』と題して放送された

篠原 たしかに、トルコの友人が「『Muhteşem Yüzyıl』が放送される時間帯は、女性用のハマムが空になる」と言っていました(笑)。

小笠原 ハマムとは、トルコにある蒸し風呂形式の大衆浴場のことですね。私も大好きで、トルコではよく通っていました。

篠原 昔の日本でも、NHKのラジオドラマ『君の名は』(1952~1954年)が大人気で、その時間帯は銭湯が空になるって言われたそうですが、それと同じですね。

小笠原 『Muhteşem Yüzyıl』はトルコでも驚異的な視聴率をたたき出したそうですから、決して大げさな話ではないでしょう。

篠原 ドラマの中でスレイマンがヒュッレムに贈ったエメラルドの指輪があって、それがアラブ諸国からの旅行者の方々にものすごく売れたという話も聞きました。私もトルコに行ったときに、お店で「これが一番人気ですよ」と薦められたんですけど、超ごっつい(笑)。

小笠原 たしかにあの指輪は、日本ではあまりウケないかもしれませんね(笑)。

エルドアン大統領のクレーム

篠原 そういえば、ドラマの中でスレイマン1世がお酒好きな人物に描かれているとかで、トルコの保守的な人たちが、「こんなのはスレイマンじゃない!」と怒ったという話も聞きましたが。

小笠原 拙著『オスマン帝国英傑列伝』でも書きましたが、あのドラマに対しては、エルドアン大統領(当時は首相)自らがクレームをつけたそうです。保守派の人々が事前にドラマ制作者側に「スレイマンの同性愛関係には絶対に触れるな」と要求し、エルドアン大統領もそれを支持して、物語の内容が修正されたという記事も読んだことがあります。

 『ハレム』でも書いたように、スレイマン1世と大宰相イブラヒムが同性愛関係にあったことはおそらく史実だと考えられています。オスマン宮廷における男性の同性愛は、日本の武士階級における「衆道」と同じようなもので、当時においては何ら特別なことではありません。でも、ある種の保守層からすると触れられたくないポイントなんでしょうね。

 篠原先生の『夢の雫、黄金の鳥籠』では、二人の同性愛関係についてもしっかりと描かれていて、さすがだなと思いました。

篠原千絵さんの直筆サイン色紙。左がスレイマン、中央がヒュッレム、右がイブラヒム。

篠原 私の漫画に出てくるスレイマンとイブラヒムの同性愛っぽいシーンや、あとイブラヒムとヒュッレムの不倫のシーンなどは、クレームのお話をうかがうとトルコの保守的な方にはとてもお見せできません(汗)。

小笠原 たしかに『夢の雫、黄金の鳥籠』がトルコ語に訳されたら、どんな反響を呼ぶのか…ちょっと興味が湧きますね。

篠原 いえいえ、トルコ語に訳されたら大変なことになってしまいますから、勘弁してください(笑)。

 最近は日本の漫画が海外で翻訳出版されることが多いので、漫画家の間でもあらかじめセリフが横文字で入ることを想定して、ふきだしを丸で書く人が増えています。だけど、私の場合、トルコ語に訳されたら大変なことになりそうだから、ふきだしは縦長で書いておかなければと思っているんです(笑)。

小笠原 トルコでも日本の漫画は人気ですからね。今は正規の翻訳版が売られているのだと思いますが、私が留学していた頃は海賊版が多かったです。なので、勝手に『夢の雫、黄金の鳥籠』を翻訳して売り出してしまう輩がいないとは限らない。

篠原 では、海賊版を出しにくいように、やっぱりふきだしは縦長にしておかないと(笑×2)。ヒッタイトを舞台にした『天は赤い河のほとり』の方なら、まだトルコの方にもお許しいただきやすいでしょうか?でも万が一、あちらを出版させていただくことがあるとしたら、洋服をいっぱい描き足して肌の露出を整えなきゃいけませんね(笑)。

小笠原 ヒッタイトなら、まだイスラム教徒となる以前の話なので大丈夫なんじゃないでしょうか。

篠原 あ、そうか。イスラム教徒以外の人だったらいいのかな?

「ハレム」と「セラムルク」

篠原 現代のトルコでも、まだまだ保守的な人が多いのですか?

小笠原 そうですね。もともとトルコで西洋化・世俗化を推進していたのは、一部のエリート層であって、国民のほとんどは素朴な信仰心を持つイスラム教徒だったといえます。

篠原 ハレムやオスマン系の古い屋敷について解説されているものを読むと、必ず「ハレム」と「セラムルク」、つまり「女性の場所」「男性の場所」という分け方がされているじゃないですか。これは現代の普通のお家でも、やっぱり女性用スペースをハレムと呼ぶのでしょうか。

ハレムの部屋割り(『ハレム』79頁より)

小笠原 現代のトルコでは、あまりハレムと呼ぶことはないと思いますけど…。20世紀初頭に一般家庭のハレムや一夫多妻に対する批判が起きたりしていたので、その頃はそう呼んでいたのは確かです。

 ただ、思い出せば、私がトルコに留学していた時に、保守的で信仰心の篤い友人がいました。彼が新婚の時に家に食事に招かれ、奥さんにも挨拶できると思って楽しみにしていたのですが、奥さんが文字通り奥にいたままで一切出てこない。食事もその友人が奥まで行って自分で持ってくる。結局、奥さんには会えずじまいでした。その時に、「ああ、これはハレムとセラムルクだ」と思った記憶があります。

篠原 そのご友人はイスタンブルにお住まいの方ですか。

小笠原 当時はイスタンブルでした。私が留学中に大学で同じオスマン史の授業を取っていて、付き合いづらいところは一切なく、すごく仲良かった。今は地方に住んでいますが。

篠原 イスタンブルにお住まいでも、やっぱりそういうご家庭があるんですね。

小笠原 とくにオスマン史を研究しているような人には、伝統派が少なくないですね。

篠原 ああ、なるほど。彼らにとって、きっとそれが正しいおもてなしだったのでしょうね。

「ハレム」と「大奥」

小笠原 話を戻すと、女性はハレムのどういうところに興味を持つのでしょうか?

篠原 うーん、あくまで私個人の主観に過ぎませんが、多くの女性は帯にあるような「酒池肉林」に興味があるわけではないと思います。

 データ的な根拠があるわけではないのですが、おそらく『ハレム』を購読している女性の方々は、以前からハレムに関する断片的な情報にはある程度触れていて、ハレムが単なる酒池肉林の場ではないことぐらいは知っている。けれども、じゃあ何なのかと言われても、よくわからない。

 何となく、もうちょっと学校的な場所、礼儀作法も含めた教育システムの整った場所ではないかというイメージは持っているんだけれど、はっきりとしたことがわからなくてモヤモヤしているところに、史実に基づいたハレムの実像を描いた本が出たので、女性読者が手に取ったのではないかと。

小笠原 日本の方は、ハレムに対して、江戸時代の「大奥」と同じようなイメージを持っているように感じます。よしながふみさんの人気漫画『大奥』も、多くの女性読者を獲得しているようですし、そのような流れの中で、女性の方もハレムに興味を持ってくださっているのかもしれませんね。

篠原 女性でベリーダンスが好きで習う方とか結構いらっしゃいますが、それとちょっと似ているのかもしれません。あれも、もともとはハレムで男性に見せるための踊りだったはずですが、女性が見てもとても綺麗ですし、今、日本で習っていらっしゃる方はほとんどがご自分のためだろうと。

小笠原 なるほど。いずれにせよ、女性の方にも読んでいただけるのは、著者としては嬉しい限りです。

篠原 ヨイショするわけじゃないですが、この本に興味持つ女性はいっぱいいると思いますよ。

(了)

小笠原弘幸『ハレム 女官と宦官たちの世界

2022/3/24

公式HPはこちら

オスマン帝国の「禁じられた空間」で、何が行われていたのか―。 性愛と淫蕩のイメージで語られてきたイスラム世界の後宮・ハレム。奴隷として連れてこられた女官たちは、いかにして愛妾、夫人、母后へと昇りつめていったのか。ハレムを支配する黒人宦官と、内廷を管理する白人宦官は、どのように権力を手にしていったのか。600年にわたりオスマン帝国を支えたハイスペックな官僚組織の実態を、最新研究を駆使して描く。

篠原千絵

篠原千絵

1981年12月、漫画家デビュー。『闇のパープル・アイ』にて第32回小学館漫画賞、『天は赤い河のほとり』にて第46回小学館漫画賞を受賞。『海の闇、月の影』、『蒼の封印』など代表作多数。『天は赤い河のほとり』は2018年に宝塚歌劇団にて舞台化。現在、『夢の雫、黄金の鳥籠』を隔月刊誌「姉系プチコミック」にて連載中。

小笠原弘幸

1974年、北海道生まれ。青山学院大学文学部史学科卒業。東京大学大学院人文社会系研究科博士課程単位取得退学。博士(文学)。2013年から九州大学大学院人文科学研究院イスラム文明学講座准教授。専門はオスマン帝国史およびトルコ共和国史。主な著書に『イスラーム世界における王朝起源論の生成と変容』(刀水書房)、『オスマン帝国』(中公新書、樫山純三賞受賞)、『オスマン帝国英傑列伝』(幻冬舎新書)など。

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 はじめまして。2021年2月1日よりウェブマガジン「考える人」の編集長をつとめることになりました、金寿煥と申します。いつもサイトにお立ち寄りいただきありがとうございます。
「考える人」との縁は、2002年の雑誌創刊まで遡ります。その前年、入社以来所属していた写真週刊誌が休刊となり、社内における進路があやふやとなっていた私は、2002年1月に部署異動を命じられ、創刊スタッフとして「考える人」の編集に携わることになりました。とはいえ、まだまだ駆け出しの入社3年目。「考える」どころか、右も左もわかりません。慌ただしく立ち働く諸先輩方の邪魔にならぬよう、ただただ気配を殺していました。
どうして自分が「考える人」なんだろう―。
手持ち無沙汰であった以上に、居心地の悪さを感じたのは、「考える人」というその“屋号”です。口はばったいというか、柄じゃないというか。どう見ても「1勝9敗」で名前負け。そんな自分にはたして何ができるというのだろうか―手を動かす前に、そんなことばかり考えていたように記憶しています。
それから19年が経ち、何の因果か編集長に就任。それなりに経験を積んだとはいえ、まだまだ「考える人」という四文字に重みを感じる自分がいます。
それだけ大きな“屋号”なのでしょう。この19年でどれだけ時代が変化しても、創刊時に標榜した「"Plain living, high thinking"(シンプルな暮らし、自分の頭で考える力)」という編集理念は色褪せないどころか、ますますその必要性を増しているように感じています。相手にとって不足なし。胸を借りるつもりで、その任にあたりたいと考えています。どうぞよろしくお願いいたします。

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金寿煥

著者プロフィール

篠原千絵
篠原千絵

1981年12月、漫画家デビュー。『闇のパープル・アイ』にて第32回小学館漫画賞、『天は赤い河のほとり』にて第46回小学館漫画賞を受賞。『海の闇、月の影』、『蒼の封印』など代表作多数。『天は赤い河のほとり』は2018年に宝塚歌劇団にて舞台化。現在、『夢の雫、黄金の鳥籠』を隔月刊誌「姉系プチコミック」にて連載中。

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小笠原弘幸

1974年、北海道生まれ。青山学院大学文学部史学科卒業。東京大学大学院人文社会系研究科博士課程単位取得退学。博士(文学)。2013年から九州大学大学院人文科学研究院イスラム文明学講座准教授。専門はオスマン帝国史およびトルコ共和国史。主な著書に『イスラーム世界における王朝起源論の生成と変容』(刀水書房)、『オスマン帝国』(中公新書、樫山純三賞受賞)、『オスマン帝国英傑列伝』(幻冬舎新書)など。


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