その日、朝早くから原稿を書いていた。前日の夕方、とある月刊誌の編集者から連絡が入り、頼まれていた原稿をうっかり書き忘れていたことに気づいたからだ。申し訳ないという気持ちを抱えつつ、全集中して猛烈なスピードでキーボードを叩いていた。もう少し、あと少しで完成だ……と、袖口を噛んで引っぱってくる愛犬テオをなだめながら、原稿を仕上げつつあったその時だ。ケータイが鳴った。ケアマネさんからの連絡だった。
心配そうな声でケアマネさんが言う。
「今、ヘルパーさんがご実家に行って、20分ほど電話をしたり、窓を叩いたり、呼び鈴を鳴らしたりしているのですが、まったく反応がないそうなんです。どうしましょう」
夫の実家には、月曜から金曜まで連日、ヘルパーさんがデイサービスへの送り出しのために通ってくれている。デイサービスからの出迎えに義母が間に合うように、身支度から朝食の介助まで、いろいろと世話をしてくれているのだ。ヘルパーさんは義父母の家に通いはじめて6年目のベテランの女性で、義父母とは友人のように接してくれているから、安心してお任せしている。その彼女が、20分以上も粘ってくれているのというのに、義父母は一向にドアを開けないばかりか、まったく反応がないそうなのだ。
その日、私には年に一度の大切な用事があった。手術を受けた心臓血管外科で、検査があったのだ。手術から7年、毎年、3月に受けている。いままで一度も異常がでたことはなく、「10年通ったら卒業してもいいよ」と医師からは言われている。この日も、午後から心電図、心臓超音波、胸部レントゲン、そして医師による診察の予約を入れていた。
「今から見に行けますか?」と聞くケアマネさんに即答できなかった。夫はすでに出社していた。「行きます!」と答えて、一旦ケータイを切った。そしてすぐに実家に連絡を入れた。実家の電話を鳴らすが、一向に出る気配はない。何度も鳴らすが、ファックスに切り替わってしまう。夫に連絡を入れると、「うわーっ!」という返事だった。私はとにかく夫の実家の電話を鳴らし続け、なんとか確認しようと必死だった……義父母の生存を。
電話を鳴らし続けていたときだった。なんと誰かが受話器を上げた。「もしもーーーし!!!」と叫ぶと、誰かの呼吸音が静かに聞こえて来た。「もしもし! もしもし!」と叫び続けると、擦れた声が聞こえて来た。
「……わからない……」
ヒエーッ! 義母の声だったが、完全に混乱しているようだった。「お義父さんは起きてますか?」と何度も聞くのだが、「わからない」としか答えない義母。「今、ヘルパーさんが外にいるのですが、ドアを開けてくれませんか?」と大声で言っても、義母はわからないと繰り返すだけだった。とにかく義父の生存確認をしたい。しかし、それよりなにより、目の前の原稿を仕上げたいッ!(酷い) この時、兄が亡くなったと塩釜署の刑事から連絡が入ったときに、もう死んでしまっているのだから急いでも仕方がないと考え、仕事を優先したときの気持ちが甦ってきた。私って酷い……。
酷いのは事実とはいえ、とにかく確認だ! 一旦義母との電話を切って、すぐさまケアマネさんに連絡を入れた。「義母は電話に出ました。でも、義父はどのような状態かわかりません」と言うと、「それはよかった! でももう、ヘルパーさんは次の訪問先に向かいました。お義父さんの確認ができないのが心配。理子さん、申し訳ないのですが……」とケアマネさんは言った。私は「わかりました、すぐに行きます」と答えてケータイを切ったが、再びデスクに座り直して原稿を仕上げ始めた。そして義父母の家の電話を鳴らし続けた。義母が出たら様子を探って、「またかけます」と切り(義母が徘徊しないように気をつけつつ)、何度も電話を鳴らし続けた。頼む、出てくれ義父! 生きていてくれええええ!
何回目だっただろう、義父がようやく電話に出た。「お義父さん! 私です!」と言うと、義父はもうその時点で泣いていたのだった。「ううう……もうわからへん…どうしたらいいのかわからへん…」
イラッときた私は、「しっかりしてください!」と言った。「ヘルパーさんが来ていたらしいんですが、応答がないから帰ったみたいです。今日は、お義母さんは家にいるしかありません。大丈夫ですか?」と聞くと、「デイには行ってほしい。面倒を見ることは無理だ」と義父。ケアマネさんからは、「デイサービスからお迎えの車を出すのは無理だと連絡がありました。送ってくれれば預かることはできるということです」と聞いていた。しかし、私はとにかく仕事を仕上げなければならないし、午後には検診が!
どうしたらいいのかわからない、助けてくれと泣き続ける義父に「お義母さんの面倒を見るのが大変なのはわかるし、お義父さんだってしんどいのはわかる。でも、もう無理だというのであれば、あとは特別養護老人ホームしかないんです」と非情にも言うと、驚くほどしっかりした声で義父は「それはお断りや」と言ったのだった。だったらもう、仕方がないじゃないか。
そんな会話をして15分後、今度は義父から電話が入った。義母がいなくなったと言うのだ。「どこにいるかわからない」、「どこかに行ってしまった」と訴えていた義父だったが、なんとなく、これはもしや罠なのでは?……と気づいた私は、「ちょっと探してみてください」と言って、半ば強引に電話を切った。しばらくして再び義父から電話があり、「玄関にいた」とのことだった。「夕方に来てくれ」と頼まれたが、「息子さんが行くって言ってました」と答えて電話を切ってしまった。
結局、私はその日、義父母の様子を見るために夫の実家に行くことはなかった。そのまま原稿を書き続けた。午後には定期検診に行った。夫には「緊急事態があったら申し訳ないが、見に行ってやってくれ」とは頼まれたが、たぶん緊急のことはないと思って行かなかった。これが私の今の精一杯だと自分に言い聞かせた。私って冷たいですか? でももう、限界に近い……というか、私に仕事をさせて?
とにかく、「これからどうしたらいい?」と泣きながら聞き続け、遠回しに同居を迫る義父と、「特別養護老人ホームに入所するのもひとつの手だ」と言い続ける私の攻防は続いている。これは負けられない戦いだ。
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村井理子
むらい・りこ 翻訳家。訳書に『ブッシュ妄言録』『ヘンテコピープル USA』『ローラ・ブッシュ自伝』『ゼロからトースターを作ってみた結果』『ダメ女たちの人生を変えた奇跡の料理教室』『子どもが生まれても夫を憎まずにすむ方法』『人間をお休みしてヤギになってみた結果』『サカナ・レッスン』『エデュケーション』『家がぐちゃぐちゃでいつも余裕がないあなたでも片づく方法』など。著書に『犬がいるから』『村井さんちの生活』『兄の終い』『全員悪人』『家族』『更年期障害だと思ってたら重病だった話』『本を読んだら散歩に行こう』『いらねえけどありがとう』『義父母の介護』など。『村井さんちのぎゅうぎゅう焼き』で、「ぎゅうぎゅう焼き」ブームを巻き起こす。ファーストレディ研究家でもある。
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とは
はじめまして。2021年2月1日よりウェブマガジン「考える人」の編集長をつとめることになりました、金寿煥と申します。いつもサイトにお立ち寄りいただきありがとうございます。
「考える人」との縁は、2002年の雑誌創刊まで遡ります。その前年、入社以来所属していた写真週刊誌が休刊となり、社内における進路があやふやとなっていた私は、2002年1月に部署異動を命じられ、創刊スタッフとして「考える人」の編集に携わることになりました。とはいえ、まだまだ駆け出しの入社3年目。「考える」どころか、右も左もわかりません。慌ただしく立ち働く諸先輩方の邪魔にならぬよう、ただただ気配を殺していました。
どうして自分が「考える人」なんだろう――。
手持ち無沙汰であった以上に、居心地の悪さを感じたのは、「考える人」というその“屋号”です。口はばったいというか、柄じゃないというか。どう見ても「1勝9敗」で名前負け。そんな自分にはたして何ができるというのだろうか――手を動かす前に、そんなことばかり考えていたように記憶しています。
それから19年が経ち、何の因果か編集長に就任。それなりに経験を積んだとはいえ、まだまだ「考える人」という四文字に重みを感じる自分がいます。
それだけ大きな“屋号”なのでしょう。この19年でどれだけ時代が変化しても、創刊時に標榜した「"Plain living, high thinking"(シンプルな暮らし、自分の頭で考える力)」という編集理念は色褪せないどころか、ますますその必要性を増しているように感じています。相手にとって不足なし。胸を借りるつもりで、その任にあたりたいと考えています。どうぞよろしくお願いいたします。
「考える人」編集長
金寿煥
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- 村井理子
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むらい・りこ 翻訳家。訳書に『ブッシュ妄言録』『ヘンテコピープル USA』『ローラ・ブッシュ自伝』『ゼロからトースターを作ってみた結果』『ダメ女たちの人生を変えた奇跡の料理教室』『子どもが生まれても夫を憎まずにすむ方法』『人間をお休みしてヤギになってみた結果』『サカナ・レッスン』『エデュケーション』『家がぐちゃぐちゃでいつも余裕がないあなたでも片づく方法』など。著書に『犬がいるから』『村井さんちの生活』『兄の終い』『全員悪人』『家族』『更年期障害だと思ってたら重病だった話』『本を読んだら散歩に行こう』『いらねえけどありがとう』『義父母の介護』など。『村井さんちのぎゅうぎゅう焼き』で、「ぎゅうぎゅう焼き」ブームを巻き起こす。ファーストレディ研究家でもある。
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