高橋 僕はこの小説を書いて、最終的には歴史的知識はいらないんじゃないかという考えになったんです。そもそも僕が『日本文学盛衰史』を書こうと思った最大の理由に、明治時代に活躍した作家たちのキャラクターがものすごく立っているということがあります。『日本文学盛衰史』の昭和篇や現代篇を書こうとしても、今の時代の方が変なことをする人はいっぱいいるだろうに、どうしてもキャラが立たない。ところが明治の作家たちの立ち居振る舞いや言葉の方は、知識がなくてもダイレクトに伝わる。最初に平田さんからお話を伺ったときにはあの小説を戯曲化するのは難しいんじゃないかなと感じたんですけど、しばらく経っていいかもと思ったのは、明治の作家たちはキャラクターが面白いから。極端なことを言うと、もしかすると作品よりも面白い。例えば僕は北村透谷の人物像は好きですけど、彼の作品を読んで面白いかと言われると微妙です。多くの作家が作品よりもキャラが面白いというのは、驚くべきことですよね。
平田 田山花袋なんかまさにそうなんですけど、相当「いじられキャラ」になっています。田山花袋ってちょっとかわいそうじゃないですか。本人はすごく真面目に文学に取り組んでいたのに、今ではもうほとんどエロ作家としか思われてない。
高橋 明治の作家のキャラが立っているのはなんでだと思います?
平田 正岡子規や二葉亭四迷ら、明治維新の前後ぐらいに生まれた人たちまでは、言文一致や小説の言葉を作ることと近代国家を作るということがほぼ同義だったので、彼らは彼らなりに国家のために頑張っているんですよね。
正岡子規なんかはまさに青雲の志を持って東京に出てきた。司馬遼太郎の『坂の上の雲』の正岡子規はかっこいいんだけど、でもあれはちょっと、彼のことを馬鹿に書き過ぎていると思うんです。そうは言っても子規は帝大に入っていますから。当時、文学の学士号をもらえる人なんて一年に一人とか二人です。だから夏目漱石は正岡子規に最後の最後まで卒業しろと言うんですね。卒業すれば絶対に食えたから。相当優秀だったはずなんですよ。もしかしたら末は博士か大臣になれたはずなのに、そうならなかった人たちなんですね。
二葉亭四迷こと長谷川辰之助も士官学校を3回受けて、でもそれは近眼で落ちて、代わりに国家のためにロシア語を学ぼうと決意する。ところが国木田独歩以降、田山花袋あたりになってくると相当迷いが出始めて、その後の石川啄木あたりになるともう最初から国家のためになんて気はない。夏目漱石が英国に渡ったのは、日清戦争で勝った賠償金で初めて日本の文系の人たちが留学に行けるようになったときなんですね。滝廉太郎もそうです。それまでは実学の人しか行けなかったのが、文系の、すぐには役に立たない人も行けるようになった。彼らはお金を節約してたくさん本を買うわけです。滝廉太郎は日本にいたときはテニスを趣味にしていたくらい健康だったのが、ドイツで勉強しすぎて体を壊し、23歳で亡くなっています。私たちが知っている滝廉太郎の曲は、わずか3年ほどのあいだに書かれたものなんです。そのぐらい真面目だった。
ところが第一次世界対戦後に成金が出てきて、それで親の金や自分のお金で洋行ができるようになる。いちばん典型的にダメなのは金子光晴だと思うんですけど、どうしようもない人たち、不真面目な人たちも留学へ行くようになる。でもそこまでたった20年の話なんです。たった20年で文学と国家の成長が一致しなくなっていく。それを成熟と言ってもいいんだけど、渦中の人物たちが全く気が付いてないところが面白くて、だからそれぞれのキャラが立ってしまう。田山花袋もそうです。みんなすごく空回りしてますよね。
高橋 子規と漱石がともに慶応3年生まれという話は有名ですけど、つまり彼らは江戸時代に生まれているんですね。明治の作家の多くは江戸時代生まれ。これは不思議なもので、ゼロから始まった文化の人間は全員が若々しい。何もないところから言葉や世界が立ち上がっていくのを経験した人が持っている若さは、その後に普通に育っていく人たちの若さとは本質的な違いがあると思います。『日本文学盛衰史』に登場する作家や詩人たちは自分の青春時代と国家の青春時代が奇跡的に一致していたので、ある意味ですごく恵まれています。
平田 僕は大学時代、韓国に留学していたんですね。84年からで、軍事独裁政権時代の最後の頃でした。交換留学だったので、その前に延世大学から僕が通っていた国際基督教大学に来ていた学生と友達になりました。彼は日本に来てからロシア語を勉強し始めたんです。韓国は87年に民主化されますが、84年の時点でやがては民主化されてソビエトと国交を結ぶだろうと思われていた。それで彼は、自分は初代駐モスクワ大使を目指す、そのために韓国ではなかなか学べないロシア語を日本で勉強していると言っていた。若い国というのは大変だろうけどすごいなと素直に思いました。明治期の日本もそういう感じですよね。
高橋 そういう波が次に起きたのは、戦後文学の時期なんですね。今年は明治で言うと150年、そして、戦後73年です。ちょうど明治維新から75年ぐらい経ったときに日本は終戦を迎えて、今はそれからさらに75年ぐらい経っている。戦後すぐの頃、昭和20年代に出てきた作家にもまた独特の若々しさがあるんですよね。
平田 今回、戯曲を書きながら考えたのは、これは残された人たちの話なんだということです。北村透谷があそこで死んじゃったから、みんな「汚ねえな、こいつ格好よく死にやがって」と思った。二葉亭四迷は二葉亭四迷で、ずっと「文学なんか男子一生の仕事じゃない」などと言いながら、要所要所で大事な仕事をして最後はベンガル湾上で亡くなってしまう。みんなその死を受け入れられずに困ったはずなんです。
島崎藤村はたぶん北村透谷の死を引きずってあんな屈折した人生になった。明治の人たちは早くに死にますから、森鷗外も島崎藤村も、長生きすることで辛くなるんですよね。原作でもそこをお書きになっていますが、それを演劇化するときに抽出させていただきました。
高橋 僕が小説を書きながら不思議に思ったのは、みんなちゃんと死んでいるなということです。樋口一葉も24ぐらいで亡くなっていて、生きていたらもっといい作品を書いたかもしれないけれど、あの作品の完成度を見るとあそこで死んでよかったという感じもする。もちろんそれは僕らが全て終わった時点から見ているからかもしれないんですが、いわば作家たちがきちんと死んでいる。みんなちゃんとメッセージを残して、あるいは宿題を残してこの世を去っていく。
キャラが立っているということのひとつの条件は、やはり死に方が上手いということだと思います。どこかに大きな虚構の作者がいて、『日本文学盛衰史』が書かれ、各章ごとに死で終わる。僕の小説もそうなっちゃったんですけど、そう読めるようなものになっています。死ぬことでひとつの章を完結させるような文学史。特に明治はひとつの物語のようで、現代に近くなればなるほど歴史が全部、単なる年代というか記号になってくる。
平田 不思議なのは、だいたいみんな死の直前にすごくいい仕事をするでしょ。結核で高揚していたこともあると思うんですけど、それだけじゃない。国木田独歩は『武蔵野』も『牛肉と馬鈴薯』も、随分前に書いたのが死ぬ直前になって急に評価されて、でもそのときにはもう仕事ができなくなっている。まさに物語性みたいなものが、時代の要請としてあったんだと思うんですよ。
高橋 当時はやはり文学が世の中で求められていたこともありますね。僕たちは今、文化としてあまりにもいろいろなものを持っているわけですよね。もちろん今も文学はあるけれど、たくさんあるジャンルのひとつにすぎない。明治時代の作り手たちを見ると、一番いい文系の才能は全部文学のところにいって、しかもみんな狭い文京区の界隈に住んでいた(笑)。一時のアメリカ文学の担い手がみんなマンハッタン島の一部に住んでいたみたいに。そもそもそんなことが異例で、幸せな時空間があったということだと思うんですよ。
『日本文学盛衰史』から『日本演劇盛衰史』へ
高橋 戯曲の終わりの方では小説版『日本文学盛衰史』には登場していない演劇系の人も出てきますけど、さらに演劇系以外でも『日本文学盛衰史』の世界からは若干時間がずれた人たちが登場します。あれはどういう狙いがあるのでしょうか。
平田 演劇はやはり終わらせないといけないので。夏目漱石の葬式というのが、実はもう大正で、すべて話が終わってしまったあとなんです。そうするともう、夏目漱石の葬式をブリッジにして未来を書くしかないので、最後は未来を書いて締めてみました。
高橋 終わり方は難しいですよね。小説の方では全員の死亡記事を載せました。
平田 それも未来というか現代まで持ってきていますよね。
高橋 小説だとラストは中上健次さんが亡くなるところで終わっています。現代の作家でも『日本文学盛衰史』に入っていておかしくない人が何人かいると思うんです。中上さんはやはりどこか時代とずれているのと、真剣さの度合いが桁外れでした。どんな作家も真剣に書いているとは思うんですが、中上さんはある意味で反時代的なほど真剣だった。それで『日本文学盛衰史』は現代で終わるんですけれども、こういうものはもう書けないんじゃないのかと思いました。
大正篇も少し書いてみたんですよ。小林秀雄や大岡昇平を登場させて。でもピンとこない。今度単行本が出る第二部も、本当は第一部と同じようなものを書こうと思ったんです。しかし、結果的にそうはならなかった。演劇の場合はどうでしょう。
平田 演劇はまだ歴史が極端に短いので、それで書けない部分もある。今はやっと一番上の世代の方がほぼ全員お亡くなりになったところです。前に岸田國士のことを少し題材にしたときに、岸田に関しては大政翼賛会の文化部長もやっていましたから、そういうことも書かなきゃいけない。それで書いてすぐに岸田今日子さんに「すいません」と手紙を添えてご連絡を差し上げました。すぐに「大丈夫です」とお返事の絵ハガキが届いたんですけど、そういう気の使い方をまだしなくてはいけません。しかもみんな現場を抱えていますから。作家は銀座とかに飲みに行かなければ会ったりはしないでしょ。でも演劇の人は、劇場で会っちゃう。変な話ですが、何かあるとうちの役者を使ってもらえなくなったりもするので大変ですね。でも実はそれももう大丈夫になってきているので、いよいよ『日本演劇盛衰史』を書きたいとも思っています。僕は千田是也さんや木下順二先生、杉村春子さんとか、戦前から演劇をやってきた方々とも知り合いだった。築地小劇場が賑わっていた頃は面白いんですよ。ほとんど金と女と嫉妬の世界で。
高橋 『日本演劇盛衰史』なら、そのまま舞台を使えますよね。
平田 そう、だからさっき高橋さんがおっしゃっていた関川夏央さんが発明した手法をもっと使えると思っているんですけど、劇中劇って意外と難しくて。小説でいう地の文と会話文の差を見せるのが。舞台では地の文も含めて演じるわけですから、俳優に相当演技力がないとそこの切り替えができず、劇中劇はダサくなってしまうことが結構ある。それはまあこれから考えたいですね。今回の『日本文学盛衰史』が成功したらその次に。
高橋 では、来たるべき『日本演劇盛衰史』も楽しみに待ちましょう。
(構成・山崎健太/2018年5月14日、神楽坂la kaguにて)
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高橋 源一郎/著
2004/6/15発売
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考える人編集部
2002年7月創刊。“シンプルな暮らし、自分の頭で考える力”をモットーに、知の楽しみにあふれたコンテンツをお届けします。
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とは
はじめまして。2021年2月1日よりウェブマガジン「考える人」の編集長をつとめることになりました、金寿煥と申します。いつもサイトにお立ち寄りいただきありがとうございます。
「考える人」との縁は、2002年の雑誌創刊まで遡ります。その前年、入社以来所属していた写真週刊誌が休刊となり、社内における進路があやふやとなっていた私は、2002年1月に部署異動を命じられ、創刊スタッフとして「考える人」の編集に携わることになりました。とはいえ、まだまだ駆け出しの入社3年目。「考える」どころか、右も左もわかりません。慌ただしく立ち働く諸先輩方の邪魔にならぬよう、ただただ気配を殺していました。
どうして自分が「考える人」なんだろう――。
手持ち無沙汰であった以上に、居心地の悪さを感じたのは、「考える人」というその“屋号”です。口はばったいというか、柄じゃないというか。どう見ても「1勝9敗」で名前負け。そんな自分にはたして何ができるというのだろうか――手を動かす前に、そんなことばかり考えていたように記憶しています。
それから19年が経ち、何の因果か編集長に就任。それなりに経験を積んだとはいえ、まだまだ「考える人」という四文字に重みを感じる自分がいます。
それだけ大きな“屋号”なのでしょう。この19年でどれだけ時代が変化しても、創刊時に標榜した「"Plain living, high thinking"(シンプルな暮らし、自分の頭で考える力)」という編集理念は色褪せないどころか、ますますその必要性を増しているように感じています。相手にとって不足なし。胸を借りるつもりで、その任にあたりたいと考えています。どうぞよろしくお願いいたします。
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