シンプルな暮らし、自分の頭で考える力。
知の楽しみにあふれたWebマガジン。
 
 

食べる葦

2018年9月12日 食べる葦

モロヘイヤ・スープはウサギに限る

著者: 松本仁一

 モロヘイヤは、シソの葉のような形の緑色の葉をつける野菜で、ナイル川の沿岸で栽培されている。エジプトでもっとも人気のある緑色野菜である。
 葉っぱを食べるのだが、粘りが強く、ゆでるとツルムラサキのようにとろとろになる。カロテンとビタミンAが、ホウレンソウなどよりはるかに豊富で、夏バテ防止には大きな効果がある。今では日本でも栽培され、夏にはスーパーで買えるようになった。
 ナイル川は、エチオピアから西行して流れる青ナイルと、ルワンダからビクトリア湖を経由して北行する白ナイルとがスーダンで合流し、地中海に流れ込む大河だ。白ナイルがビクトリア湖から流れ出てすぐのところに「マーチソン滝」という滝があるが、その岸辺にモロヘイヤが大量に自生しているのをみたことがある。たぶんそのあたりが原産地で、大河に乗って下流に広がったのだろう。ナイルのたまものなのである。
 私は葉を軽くゆでて絞り、ごま油を数滴たらして削り節をのせてお浸しにし、酢醤油で食べている。しかしカイロの人は、モロヘイヤ・スープで食べるのが一般的だ。
 もいだ葉っぱをフライパンで軽く焙ったあと、包丁で細かく刻む。包丁はモロヘイヤ専用のもので、湾曲した刃を持ち、両端に縦に取っ手がついている。取っ手を両手で握ってモロヘイヤを刻んでいく。
 刻んだ葉っぱを、ニンニクたっぷり・軽い塩味の鶏ガラのスープで煮込む。とろみが出たらご飯を入れ、刻みタマネギをどっさりのせる。とろりと粘る緑色の雑炊ができあがる。これがおいしいのだ。しかし、以前にカイロ大学のナスル・アブゼイド准教授の家でごちそうになった「ウサギだしのモロヘイヤ・スープ」以上のものを食べたことがない。

モロヘイヤ包丁でモロヘイヤを刻む。手前はモロヘイヤの葉。

 1993年8月の朝、ナスル・アブゼイド准教授(50)は新聞を開いてびっくりした。
 自分たち夫婦について「夫のナスル氏は背教者であるから離婚させよという訴訟が起こされた」と書いてある。あわてて台所の妻ユニスさん(35)のところに走った。
 訴訟を起こした人物は知っていた。モハメッド・アブデルサメド弁護士(58)。エジプト最高裁の元副長官で、イスラム原理主義組織「ムスリム同胞団」の幹部。イスラム強硬派として有名な人である。
 新聞で、アブデルサメド弁護士はこういっていた。
 「アブゼイド准教授の書いた論文は無神論的であり、したがって准教授は背教者である。背教者はイスラム教徒とは結婚できないから、現在の彼らの結婚は違法状態である。ただちに離婚命令を出してほしい」
 イスラム社会には、夫婦の一方が背教した場合、地域社会がその離婚を決めることができるという古い慣習が、あることはある。しかしそれは宗教風俗であり、エジプトの民法や家族法にそんな決まりはない。裁判所に訴えを起こすことなどできないはずだ。最高裁副長官まで務めたほどの人が、なぜそんな訴えを起こしたのか。アブゼイドさんには分からなかった。

アブゼイド准教授と妻のユニスさん(1993年、カイロの自宅で)

 アブゼイドさんは文学部アラビア語科に所属する。中近世イスラム教史、とくにイスラム指導者の発するファトワ(教義解釈)の研究で名高い。85年から4年間、日本の大阪外語大に客員教授として招かれており、日本に知人も多い。
 カイロ北部農村地帯のタンタで生まれた。7人兄妹の長男。大学に進みたかったが子だくさんの家に経済的な余裕がなく、タンタの工業専門学校に入った。卒業して電電公社の技師になったが、好きな歴史と文学があきらめきれない。24歳のとき、公社をやめてカイロ大学を受験し直し、文学部のアラビア語科に入った。
 修士号を取ったあと、奨学金を得て米ペンシルベニア大に留学。38歳で帰国後、母校の准教授となった。大阪外語大に招かれたのはその4年後だ。

 アブゼイドさんは93年、短い論文を発表していた。イスラム教の歴史に関するもので、こんな趣旨だ。
 「コーランは当初、口伝えで伝承されてきた。正統カリフ時代に書物化することになったが、何を収録し何を捨てるか、またどの言葉で書くかということが激しい議論を呼んだ」
 史料をもとに、コーラン成立の歴史を客観的に記述している。アブデルサメド弁護士はこれを「無神論的だ」と決めつけたのである。
 イスラム強硬派は、コーランは神の言葉そのものであり、疑問を持ったりなぜかを考えたりしてはいけないと主張する。つまり、コーランは「暗記して丸飲みしろ」ということである。たとえば、コーランには「ブタを食べてはいけない」とあるが、なぜそうなのかなどと考えてはいけない。とにかく食べてはいけないのだ、という論理だ。
 アブゼイド准教授は、その神の言葉であるコーランを研究の対象として「なぜか」を勝手に探り、論評した。それはイスラムに対する冒涜そのものだ―。アブデルサメド弁護士はそう考えたようだ。
 イスラム強硬派はそもそも以前から、アブゼイドさんのコーラン解釈を苦々しく思っていた節がある。
 アブゼイドさんは92年4月、アラビア語科の主任教授のすすめで、教授昇任申請を大学評議会に提出した。審査は論文による選考で、アブゼイドさんは過去5年間の論文をすべて提出した。その論文がイスラム強硬派を刺激した。
 審査委員は3人の教授だった。
 3人のうち2人の教授は「最優秀」の評価をつけ、評議会に昇任を推薦した。しかし1人の教授が頑強に反対した。イスラム原理主義組織「ムスリム同胞団」のメンバーで、イスラム教のイマームでもある人物だ。イマームというのは、礼拝などの儀式の中心になって信者に説教をする僧のことだ。彼は「論文のすべてが無神論的で、危険思想に満ちている。昇任は認められない」との意見書を、評議会に提出したのである。
 その意見書が「無神論的」としてあげている例に、遺産相続制度の問題があった。
 コーランでは、女性は男性の半分しか遺産を受けられないとしている。それについてアブゼイドさんは論文でこう書いた。
 「アラブ社会はそれまで、女性の相続をまったく認めていなかった。それを変えた点で、コーランは画期的な役割を果たした。コーランの主旨は、女性にも相続の権利があるということなのだ。『半分』という文言にこだわることなく、女性にも男性と同等の相続を認めることこそがコーランの精神だ」
 ムスリム同胞団の教授は、こうした記述を「反イスラム」と非難した。理由は述べていないが「コーランはそのまま信じるべき神の言葉であり、それを研究の対象にし、なぜそうなのかなどと考えるなど、もってのほかだ」ということだったらしい。

 アブゼイドさんの家を訪ねた。カイロ郊外の住宅街の、小さな一軒家だ。妻のユニスさんがお茶を出してくれた。ユニスさんもカイロ大学の准教授だ。文学部フランス語科で教えている。
 「妻である私の意見も聞かず、他人がこんな訴訟を起こせるものでしょうか。ひどい話です」とユニスさんはいった。
 アブゼイドさんによると、昇任を拒否する意見書が出されたことについてアラビア語学科の同僚たちは緊急会議を開き、「審査委員会の答申は学術的な審査をしたとはいえない」として評議会に昇任を認めるよう求めた。全体教授会でも「思想や信仰を問うようなことで昇任の判断をすることのないようにしてほしい」との要望書を学長に提出した。
 しかし評議会は、昇任を認可しなかった。イスラム強硬派の意見に押されたためと見られている。
 そんな経緯があったので、アブゼイドさんは昇任は無理だろうと初めから思っていた。研究が続けられれば、准教授のままで十分だ。だが離婚要求訴訟はショックだった。
 「これではまるで中世ヨーロッパの宗教裁判ですよ。裁判に引き出されたら、信仰という個人の内面の問題を、他人の前で告白しなければならない。しかも、それを裁くのは神ではなく、人間なのですよ。そんな裁判は認めるわけにいきません」


 アブゼイドさんには、この訴訟に絡んで、もう一つ重大な問題がのしかかった。命をねらわれる危険である。
 イスラム社会では「背教者」を殺した場合、司法上はともかく、宗教的には許されることになっている。つまり「背教者」のレッテルを貼られるのは、死刑宣告と同じ意味を持つのである。
 92年6月、イスラム原理主義を批判する小説を書いた作家のファラグ・フーダ氏は、原理主義派から背教者と決めつけられた。なんとその3日後、自宅で射殺されてしまう。
 犯人はすぐ捕まった。原理主義派の若者だった。裁判に参考人として出廷したイスラム教スンニ派最高指導者のシェイク・ガザリ師は「背教者を殺した者は罰せられないというファトワは正しい」と述べた。エジプトのイスラム教最高権威が殺人を正当化してしまったのだ。
 アブゼイドさんはいう。
 「そのファトワが正しいとして、背教者であるかどうかをだれが決めるのですか。神ではなく、彼らなんです。宗教者による価値の独占です。彼らがひとたび『あの人間は背教者だ』といったが最後、名指された人間は命をねらわれることになる。こんなことをしていたら、イスラム社会は国際的な信用を失います」
 カイロではファラグ・フーダ殺人事件後、「非イスラム的」と名指されてしまうことへの恐怖心が、人々の間にじわじわ広がっている。人気女優のマジハカーメルさんが洋服を着るのをやめ、ヘジャブ(伝統的なベール)をかぶるようになった。トップ歌手のシャディアさんや有名なテレビキャスターなどが続々とヘジャブをかぶり始めている。彼女たちは例外なく宗教指導者の戸別訪問を受けていたという。

 訴訟を起こしたアブデルサメド弁護士に会いに行った。事務所はカイロ下町の、ムスリム同胞団の勢力が強い地区にあった。
 「われわれの真の目的は、彼ら夫婦を離婚させることにあるのではない。裁判の過程で、彼が背教者であることを証明しようとしているのだ。分かるかね?」
 イスラムのことを知りもしない日本人が何をいっているのだ。そんな感じの、小ばかにしたような言い方だった。
 しかし、背教者だと名指しすることは、殺人をそそのかすことになる。その責任はどうなるのですか。そう尋ねると、彼は笑った。
 「イスラムでは人を殺すことは許されていない。しかしわれわれは過激派ではないので、彼らに指示はできないし、彼らが何をするか予測もできない。彼らのやることに責任は持てない」

離婚請求の訴えを起こしたアブデルサメド弁護士

 訴訟が起きてから、アブゼイドさんの家に電話がかかるようになった。「背教者は死ぬのが当然だ」「ファラグ・フーダになりたいか」「夜道では気を付けろ」…。
 夫妻は夜の外出はできるだけ控え、親戚の若者に泊まりこんでもらうようにした。
 そんな状況の中で、私も准教授夫妻の家によく通うようになった。外国のプレスがひんぱんに来ていると分かれば、過激派も手を出しにくいだろうと考えたのだ。
 アブゼイドさんと妻のユニスさんは大学のセミナーで出会った。ユニスさんは比較文化学を専門にしており、アブゼイドさんの専門と重なる分野が多い。何回かセミナーで出会ううち、互いにひかれるようになった。結婚したのは前年、92年の4月だ。
 ユニスさんは料理がうまく、ときどき手料理をごちそうになった。ある日、「あなたはモロヘイヤのスープが好きだといってましたね」とにこにこしている。
 「今日はウサギが手に入ったのです。それで本物のモロヘイヤ・スープをつくったので、ぜひ食べて行ってください」
 ユニスさんによると、鶏ガラのスープでもいいのだが、最高の味はウサギにかぎるという。
 ユニスさんのウサギのモロヘイヤ・スープは、コクの強い味だった。牛肉より羊肉のほうが癖があってうまいが、それと同じような感じだ。なにより香りがいい。こんなおいしいモロヘイヤ・スープは食べたことがなかった。促されるままに3回もお代わりし、おなか一杯になった。


 翌94年、カイロ地裁は訴えを却下した。訴えを起こしたアブデルサメド弁護士が夫妻の婚姻と関係のない第三者であり、請求は認められないとの理由だった。
 アブデルサメド弁護士は高裁に不服を申し立てる。高裁はその申し立てを受理してしまった。「イスラム教徒ならだれでも宗教を擁護する権利がある」という理由だ。
 その年末、判決が出た。
 「アブゼイド氏は背教者である。したがって結婚関係は解消すべきである」
 裁判所が個人の心の内側、信仰心を審査したのだ。中世ヨーロッパの宗教裁判と同じ過ちを、20世紀末のエジプトの裁判所が犯してしまった。
 裁判所からも背教者のレッテルを貼られたアブゼイドさんのところには、殺害予告の電話や無言電話が相次ぐようになった。夫妻はオランダで開かれた学会に出席し、そのまま亡命した。
 オランダから届いたユニスさんからのメールには、「オランダではウサギは手に入りますが、残念ながらモロヘイヤがないのです」とあった。
 しかしオランダの自宅に脅迫電話がかかってくるようになるまで、そんなに時間はかからなかった。今では、夫妻にメールも電話も通じない。

この記事をシェアする

ランキング

MAIL MAGAZINE

「考える人」から生まれた本

もっとみる

テーマ

  • くらし
  • たべる
  • ことば
  • 自然
  • まなぶ
  • 思い出すこと
  • からだ
  • こころ
  • 世の中のうごき
  •  

考える人とはとは

 はじめまして。2021年2月1日よりウェブマガジン「考える人」の編集長をつとめることになりました、金寿煥と申します。いつもサイトにお立ち寄りいただきありがとうございます。
「考える人」との縁は、2002年の雑誌創刊まで遡ります。その前年、入社以来所属していた写真週刊誌が休刊となり、社内における進路があやふやとなっていた私は、2002年1月に部署異動を命じられ、創刊スタッフとして「考える人」の編集に携わることになりました。とはいえ、まだまだ駆け出しの入社3年目。「考える」どころか、右も左もわかりません。慌ただしく立ち働く諸先輩方の邪魔にならぬよう、ただただ気配を殺していました。
どうして自分が「考える人」なんだろう―。
手持ち無沙汰であった以上に、居心地の悪さを感じたのは、「考える人」というその“屋号”です。口はばったいというか、柄じゃないというか。どう見ても「1勝9敗」で名前負け。そんな自分にはたして何ができるというのだろうか―手を動かす前に、そんなことばかり考えていたように記憶しています。
それから19年が経ち、何の因果か編集長に就任。それなりに経験を積んだとはいえ、まだまだ「考える人」という四文字に重みを感じる自分がいます。
それだけ大きな“屋号”なのでしょう。この19年でどれだけ時代が変化しても、創刊時に標榜した「"Plain living, high thinking"(シンプルな暮らし、自分の頭で考える力)」という編集理念は色褪せないどころか、ますますその必要性を増しているように感じています。相手にとって不足なし。胸を借りるつもりで、その任にあたりたいと考えています。どうぞよろしくお願いいたします。

「考える人」編集長
金寿煥

著者プロフィール

松本仁一

1942年、長野県生まれ。東京大学法学部卒。1968年朝日新聞社入社。ナイロビ支局長、中東アフリカ総局長などを経て編集委員。2007年退社後はフリーで活動。『アフリカを食べる』『カラシニコフ』『アフリカ・レポート』『兵隊先生』等、著書多数。

連載一覧


ランキング

イベント

テーマ

  • くらし
  • たべる
  • ことば
  • 自然
  • まなぶ
  • 思い出すこと
  • からだ
  • こころ
  • 世の中のうごき

  • ABJマークは、この電子書店・電子書籍配信サービスが、著作権者からコンテンツ使用許諾を得た正規版配信サービスであることを示す登録商標(登録番号第6091713号)です。ABJマークを掲示しているサービスの一覧はこちら