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食べる葦

2018年9月26日 食べる葦

スパゲッティマカロニ豆ライス!

著者: 松本仁一

 カイロに駐在していたころ、昼飯でよく食べたのは「コシャリ」だった。
 スパゲッティやらマカロニやらライスやら豆やらを混ぜ合せ、トマト味の甘酸っぱいソースをかけたものだ。それをさらにフォークでぐちゃぐちゃにかきまぜて食べる。「コシャリ」はアラビア語で「混ぜる」という意味という。
 オフィス街の屋台や小屋がけの店で売っていて、深めのプラスチック容器に一杯で150円ぐらいと安い。昼どきにはOLさんたちの行列ができる。

ごちゃまぜのコシャリ(東京・錦糸町のエジプト料理店「コーピー」で)

 炭水化物オンパレード。「炭水化物率」という基準があったら、ラーメンライスかうどんライス越えは確実だ。焼きそばライスぐらいに行くかもしれない。
 カイロに赴任した最初のころはばかにしていた。支局の現地スタッフが食べているのを見て、あんな炭水化物だらけのジャンクフード、よく毎日あきずに食べるよ、腹が出っ張るわけだと思っていた。
 しかしこれ、食べてみたら意外にうまいのである。基本的にはトマトソースのスパゲッティという感じだ。それに酸っぱい味が加わり、辛さがある。ライス、マカロニ、ヒヨコ豆の食感の違いもいい。暑さのカイロにぴったりの味なのだ。1990年、イラクのクウェート侵攻が起きてからは、こちらが連日「昼はコシャリ」になってしまった。
 日本と時差7時間のエジプトでは、正午が日本の午後7時にあたる。新聞の早版の締め切り時間がそろそろ、という頃あいだ。戦争が起きてしまったので、その時間帯にのんびり昼飯を食べに外出している余裕はない。支局運転手のサイードさんにお金を渡し、「コシャリ買ってきて!」ということになる。
 もちろんエジプト本来の料理ではない。イタリアに出稼ぎに行った労働者がパスタを持ち帰り、インド人が香辛料を持ち込み、あれやこれやが混じり合ってできたものだ。まさに「コシャリ」である。しかし詳しい起源は誰も知らない。おまけに、エジプト以外のアラブ諸国ではまったく食べられていない。エジプト人だけがうれしそうに食べているのだ。
 単身赴任だったので、休日の昼飯もコシャリのときが多かった。自宅から出て右の次の角、なじみのコシャリ屋で買う。そこでいつも一緒になる外勤の交通警官がいた。27、8歳ぐらい、いつもニコニコしている好青年だ。そのうち、なんとなく言葉を交わすようになった。
 「エンタザイヤック(調子はどう)?」
 「アルハンドリラ(おかげさまで)」
 あとは片言の英語である。
 郊外の村の出身だ。給料は5千円程度しかないという。独身寮に住んでいるときは衣食住がただだったからそれでよかったが、結婚してアパートに入ったらそうはいかなくなった。
 「それで外勤を願い出た。この場所に当たったのでハッピーだ」
 この場所でハッピー? その意味が分からなかった。支局に帰って運転手のサイードさんに尋ねると、笑いながら説明してくれた。
 石造りの古い街であるカイロ中心部には、駐車スペースがほとんどない。したがって多くの車は路上駐車している。しかしこのクルマ時代、一列駐車で足りるわけがない。2列駐車はざらで、オフィスビルの並ぶエリアでは3列駐車も多い。外勤の警察官は、その駐車違反の車から月に1台200円ほどのショバ代を取り、見逃しているのである。
 1人の警官の担当は四つ角のコーナーひとつだ。角に沿った20メートルほどが持ち場になる。片側に4台ほど駐車しているから、角の四方で16台。2列駐車で32台である。計6400円程度の基準外収入が入る。国からもらう給料を超える。そのかわり、車の安全を見守り、内側の車が出入りするときには外側の車を押して動かすなど、交通整理をしている。したがって駐車する車の持ち主は、車に鍵をかけない決まりだ。
 わが支局のある地域はビジネス街で、大手企業の入るビルが多い。3列駐車は当たり前だ。警察官のポケットに入る金はさらに増えることになる。
 運転手のサイードさんは「彼らは警官というより、駐車場の整理員みたいなものです」といった。「政府も、彼らの給料を上げる必要がないから見逃しています」
 警察官が違法駐車の見逃し料を取らないと生活できないなんて、ひどいじゃないか。しかも政府が黙認なんて。そりゃまずいよ。
 サイードさんは「政府の偉い人たちは下っ端のことなど考えていません」と笑った後、小さい声でいった。
 「だからムスリム同胞団が力を持つんです」


 1992年10月12日の午後、カイロを大きな地震が襲った。窓に駆け寄って外を見たら、川向うのビルの外壁がごっそりはがれ、歩行者の上に落ちていくのが見えた。下町の貧困者地区を中心に、死者約600人、負傷者1万人超の被害が出た。
 翌日、被災地区を回ってみた。あちこちの空き地に緑色のテントが並んでいる。イスラム原理主義組織「ムスリム同胞団」の救援テントだ。中をのぞくと、平パンや缶詰を山と積んだ簡易テーブルが並び、行列した人々に配っている。人々は押し戴くようにして受け取っていた。
 医療テントもある。私服のシャツに腕章をしただけの同胞団の医師が、やはり私服の看護師と一緒に、けがをした人たちを治療していた。
 宿泊用のテントもあった。地震などめったに起きないエジプトでは、古い石造りのアパートが多い。その2階や3階のベランダに、泥づくりの別宅をつくって住んでいる人もいる。それらが地震であっけなく崩れてしまった。住居を失った人々は同胞団のテントに入り、炊事をしていた。同胞団テントは、地震から一カ月も続いた。
 政府の救援の動きは、対照的に鈍かった。崩れた建物の下に生存者がいると見られていたのに、軍隊を出動させなかった。生き埋めを救い出したのは、がれきの山を手でかきのけたフランス政府派遣の救助隊だった。飲料水が不足しているのに、給水車の出動もなかった。

 その後、いやな話がいろいろと耳に入ってきた。
 ムバラク大統領は日本を訪問中だったが急きょ帰国し「死亡した者の遺族には5千ポンド(約18万円)の弔慰金を渡す」と表明した。
 ところが、その金が遺族に届かない。取材した遺族の一人は「役人から渡された金は500ポンド(約1万8千円)だけだった」といった。途中でほとんどが消えてしまったのだ。「役人がポケットに入れている」という話だった。
 大統領は「家を失った被災者は公営住宅に優先して入居させる」とも約束した。ある被災者が申し込んだがまったく返事が来ない。知り合いの役人に頼んで調べてもらったら、被災者用の住宅はすでにふさがっていた。担当の役人が、被災者でもない自分の親戚を職権で入れてしまったらしい。
 国民を平気で裏切る役人と、困った人を親身で世話する同胞団。人々がどちらを頼りにするかは明白だ。ある日本人商社員の家庭でメードとして働いている女性(20)は、母親が地震で足にけがをした。同胞団の医療テントで治療してもらい、帰りにはパンをもらってきた。彼女は「次の選挙では、絶対にあの人たちに投票します」といった。


 エジプトでは、医療は無料である。しかし病院そのものが少ないため、公立病院は大変な混雑だ。早朝から並んでも、その日のうちに診察を受けられるかどうか分からない。結局、有料の私立病院や個人診療所に行かざるをえない。看板は「医療無料の福祉国家」なのだが、実態はかなり高くつく福祉国家なのである。
 では、貧しい人たちは病気になったらどうするのか。運転手のサイードさんに尋ねると「無料診療所に行きます」とのことである。え、そんなものがあるの?
 サイードさんの案内で、その一軒をのぞいてみた。旧市街の下町、サイダ・ゼイナブ寺院の裏の古びた2階建ての民家風の建物だ。部屋ごとに内科、外科、小児科、耳鼻科があった。
 夜10時を過ぎているのに、待合室は患者でいっぱいだ。小児科の部屋では、アデル・サイード医師(32)が、咳き込み続ける幼児を診察していた。
 「心配いらない、単なる風邪だよ。薬を処方するから、帰りに受け取っていきなさい」
 若い母親はホッとしたようにうなずき、何度もお礼を繰り返す。入れ替わりに次の母子が入ってくる。一息入れるひまもない。
 アデル医師はアインシャムス大学医学部の講師だ。週2回、夜7時から11時まで、サイダ・ゼイナブ診療所で医療奉仕をしている。大学の仕事が終わるとすぐ診療所にやってくる。近くの屋台でコシャリを買って夕食をすますと、すぐ診療を始める。月に約3千円の謝礼を渡されるが、「コシャリとタクシー代で消えますね」と笑った。
 サイダ・ゼイナブ診療所にはアデル医師のような同胞団系の医師約40人が所属し、常時8人が交代で勤務している。診療所を運営しているのはムスリム同胞団系の「イスラム医療協会」だ。もちろん資金も同胞団から出ている。
 イスラム医療協会は全国14カ所に同様の診療所を持つ。診療費は民間病院の2割、薬代は1割。失業者や生活困窮者は無料だ。貧困地区の人々は、圧倒的に「頼れる同胞団」を支持している。


 エジプトの経済は《スエズ運河収入・観光収入・海外出稼ぎ収入・石油収入》の4つで支えられている。そしてそのどれもが頭打ちで、最近の治安悪化でむしろ減少傾向だ。失業率は高く、大卒でもコネがないと就職は容易ではない。しかしわいろをとることにいそがしい政府幹部が多いようで、社会の改善が進んでいる様子はない。
 2001年9月11日の米国同時多発テロの主犯、モハメド・アタはエジプト人だった。カイロ大学で都市工学を学ぶ。学生時代はモスクにほとんど行ったことがなく、宗教には無関心な若者だった。大学を優秀な成績で卒業し、建設省に入ることを希望する。古い街並みを生かした都市計画をつくるのが夢だった。しかしコネがないため希望はかなわない。ほかの就職口もすべてだめ。仕方なくドイツのハンブルク工科大学に留学した。そこでイスラム過激派組織「アルカイダ」のスカウトの網にひっかかってしまうのである。
 エジプトの人々の間で、政府への不満は渦巻いている。それは大卒の若者でも、交通警官でも、病気の幼児を抱えた母親でも同じだ。その不満のエネルギーが、イスラム組織に吸い上げられていく。


 2010年12月17日、チュニジアで、失業中の若者が道端に無許可の露店を出して小さな商売をしていた。女性警官がやってきて違法露店をとがめ、露店をひっくり返して若者を蹴った。アラブ社会で、男性が女性に蹴られるのは大きな恥辱だ。若者はその場で石油をかぶり、焼身自殺してしまった。
 中東の自由化運動「アラブの春」は、それがきっかけで始まった。デモは暴動化し、ベンアリ大統領は国外に逃げる。チュニジア政府は崩壊した。
 それはたちまちエジプトにも波及する。
 翌11年1月25日、カイロ中心部のタハリール広場で、ムバラク大統領の退陣を求める4万人デモが起きた。警察を大動員して鎮圧を図るが、抗議の焼身自殺が相次ぐ。反政府運動は全国に広がった。2月11日、約30年続いたムバラク政権はとうとう崩壊した。
 ムバラク大統領は在任中、スイスの銀行に隠し口座をつくっていた。大統領が退陣後、スイス政府はムバラク氏の口座の凍結を命じる。2月12日付の朝日新聞によると、その額は約5兆8千億円に上った。ブルガリア一国の国内総生産のほぼ同じ額に当たる数字である。
 警官の給料を5千円ていどに据え置き、高い失業率を放置したまま、国家指導者は使いきれないほどの金を貯めこむ。若者たちが怒るのは当然だった。
 翌12年、エジプトで大統領選挙が行われた。投票率は高かった。しかし勝ったのは若者たちの代表ではなく、ムスリム同胞団系の政党「自由公正党」だった。若者たちの怒りが腐敗政権を打倒する。それで選挙が行われるとイスラム政党が勝つ。そういう図式がここでも起きた。
 その日いちにちを生きるのが精いっぱいの国民にとっては、宗教独裁であろうが国際社会でひんしゅくを買おうが、そんなことは関係ない。貧しい自分たちにやさしくしてくれる人々に投票しただけなのだ。


 7割の得票で圧勝した自由公正党のムルシ新大統領は、就任するや同胞団寄りの政策を取り始める。各州知事や官庁幹部に同胞団のメンバーを送りこみ、大統領権限を強化し、批判的なジャーナリストを弾圧し、憲法改正を打ち出した。外国からの投資は落ち込み、経済は低落した。
 13年7月、軍がクーデターを起こしてムルシ政権を倒した。いまは軍人のシーシ氏が大統領になっている。しかし、若者の失業率は相変わらずだ。

夕暮れのカイロ下町。あちこちのモスクからアザーンが聞こえてくる。

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 はじめまして。2021年2月1日よりウェブマガジン「考える人」の編集長をつとめることになりました、金寿煥と申します。いつもサイトにお立ち寄りいただきありがとうございます。
「考える人」との縁は、2002年の雑誌創刊まで遡ります。その前年、入社以来所属していた写真週刊誌が休刊となり、社内における進路があやふやとなっていた私は、2002年1月に部署異動を命じられ、創刊スタッフとして「考える人」の編集に携わることになりました。とはいえ、まだまだ駆け出しの入社3年目。「考える」どころか、右も左もわかりません。慌ただしく立ち働く諸先輩方の邪魔にならぬよう、ただただ気配を殺していました。
どうして自分が「考える人」なんだろう―。
手持ち無沙汰であった以上に、居心地の悪さを感じたのは、「考える人」というその“屋号”です。口はばったいというか、柄じゃないというか。どう見ても「1勝9敗」で名前負け。そんな自分にはたして何ができるというのだろうか―手を動かす前に、そんなことばかり考えていたように記憶しています。
それから19年が経ち、何の因果か編集長に就任。それなりに経験を積んだとはいえ、まだまだ「考える人」という四文字に重みを感じる自分がいます。
それだけ大きな“屋号”なのでしょう。この19年でどれだけ時代が変化しても、創刊時に標榜した「"Plain living, high thinking"(シンプルな暮らし、自分の頭で考える力)」という編集理念は色褪せないどころか、ますますその必要性を増しているように感じています。相手にとって不足なし。胸を借りるつもりで、その任にあたりたいと考えています。どうぞよろしくお願いいたします。

「考える人」編集長
金寿煥

著者プロフィール

松本仁一

1942年、長野県生まれ。東京大学法学部卒。1968年朝日新聞社入社。ナイロビ支局長、中東アフリカ総局長などを経て編集委員。2007年退社後はフリーで活動。『アフリカを食べる』『カラシニコフ』『アフリカ・レポート』『兵隊先生』等、著書多数。

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