第10回 1965年の北島三郎 (4)「兄弟仁義」と任侠映画
著者: 輪島裕介
2022年にデビュー60周年を迎えた北島三郎。日本の演歌界をリードしてきた不世出の歌手の名前と、「函館の女」「与作」「まつり」といった代表曲を知らぬ人はいないでしょう。しかし、そのキャリアや音楽的功績について、どれだけの人が正しく認識しているでしょうか――。著書『創られた「日本の心」神話』で、演歌というジャンルの“起源”に鋭く斬り込んだ音楽学者が、「北島三郎とは何者か」という壮大な問いに挑みます。
任侠映画の象徴として
「帰ろかな」が「最後の望郷歌謡」にしてNHKとの密接な関係の始まりを画する曲で、「函館の女」が「ご当地ソング」の雛形となる大ヒット曲だったとすれば、「兄弟仁義」は、サブちゃんの任侠路線の決定版であると同時に、後の「一文字シリーズ」につながる、人生訓や道義を主題にした曲の雛形と位置づけられる。そして、1966年から1971年まで九作の任侠映画シリーズを生み出したことで、多分にレコード会社によって仕掛けられた「1965年の演歌ブーム」と、1968年後半からの「艶歌ブーム」と、それと伴走した対抗文化的な「艶歌」志向を架橋したと考えられる。
「俺の目を見ろ 何んにもゆうな」という歌詞はヤクザを描いたものではなく、クラウン移籍時のサブちゃんと哲つぁまの間の心情を描いたのだ、とする語りは後年、星野哲郎によって強調されてゆく、ということはすでに連載第七回で紹介した。それでも、この曲の発売から、高倉健「網走番外地」「唐獅子牡丹」「緋牡丹博徒」と並ぶ東映任侠映画シリーズの代表的な主題歌として定着してゆく過程では、明らかに任侠道における義兄弟の盃事を主題とした歌とみなされていたことは明らかであり、ひいては任侠映画というジャンル自体のエートスを象徴するものとしてしばしば参照されるようになる。
「ギター仁義」(1963年)「ソーラン仁義」(1964年)と、「仁義」系の曲をすでにヒットさせていたサブちゃんだが、「ヤクザっぽい稼業」としての「流し」を軽妙に歌ったこれらの曲と比べて、「兄弟仁義」は明らかに「本職」の香りがする。単に映画のシーンとの観念連合というだけではなく、歌の旋律や、歌と伴奏の関係自体が、一般的な流行歌よりも浪花節など在来の声の表現に近い、ということにも由来しているように思われる。
浪花節のエレキ化
七七七五の都々逸の詩型を二回重ねた歌詞は、ちょうど「お座敷小唄」と同じだ。全編どこをとってもこれ名台詞というほかない歌詞もさることながら、起伏に富んだダイナミックな旋律が素晴らしい。「お」で低くぐっと溜めてから「やの」で一気に高い音に跳ね上がる冒頭から、「きょうだい」と「よりも」は下降基調のフレーズを二つ重ねるが、「い」から「よ」に跳ね上がるところで緊張感を持続させる。「こんな小さな」で通常のヨナ抜き短音階では用いない第四音を強調し雰囲気を変え、「おとこー」「いのちをー」「かけてー」と徐々に上がってゆく伸ばす音をたっぷり聴かせたのちに、絶妙な拍の取り方で「ええのおおおむうー」と声の粒立ちがはっきり聞こえる見事な節回しでまとめる。「帰ろかな」や「函館の女」に比べて、伴奏がごく簡素で、特に反復する打楽器のビート感が希薄なため、節の微妙な伸縮をしっかり味わえる。「ギター仁義」の中間部、「おひけえなすって」で自由なリズムになる部分の感じを全編に拡張した旋律といえるかもしれない。
映画シリーズ初期の編曲は、レコード盤よりぐっと音数が少なく、個人的にはこちらにより強い魅力を感じる。特にシリーズ第一作の冒頭の版は、ほとんど音程感がなくなるギリギリまでエコーとビブラートを効かせてほぼ打楽器のように大きく拍を刻むエレキベースと、単音と複音をうまく使ったエレキギター、旋律を補完しつつ合いの手を入れる電子オルガンを中心としたアンサンブルで、それ以前の時代にもそれ以後にもあまりない不思議なサウンドになっている。楽器の音色は明らかに当時流行していた「エレキ」のコンボ編成に由来するが、規則的なコード進行に基づく伴奏ではなく、あくまでも歌の旋律を中心に、合いの手と、程よく和音の厚みを加えた合奏になっており、発想としては、同じ旋律をなぞりつつそれぞれ合いの手を入れたり掛け合いになったりする三味線、琴、尺八(あるいは胡弓)の三曲合奏に近いように思われる(というのは地歌の三曲合奏初心者による我田引水的な解釈かもしれないが)。
「函館の女」がアフロ・キューバ音楽の土着化だとすれば、「兄弟仁義」は浪花節や三曲合奏のエレキ化といえるかもしれない。近い時期の京山幸枝若の浪花節レコードでも、曲師にエレキギターとコンボオルガンを含めた編成のものがあり、物語も節も伴奏も在来の感覚に根ざしつつ、物珍しい電気楽器の響きを用いて新奇性や音の厚みを加える、という発想は共通している。在来楽の電化という点では、同時期のエレキ・ブームの一翼を担った寺内タケシの民謡編曲やザ・スパイダースの「越天楽ゴー,ゴー」ともある程度共通するが、これらの演奏は、ドラムの規則的なビート反復や定型的なコード進行中心の楽曲構成など、エレキ・コンボの標準的な文法により引っぱられているようにも思う。
新栄プロダクションの歌謡映画
いずれにせよ、こうした和洋折衷的な曲調や、映画でのその効果的な使用は、「兄弟仁義」は重要な画期となったと考えられるにせよ、独創というわけではない。私は映画については軽く嗜む程度の門外漢ゆえ、任侠映画および隣接ジャンルにおける歌の使用の系譜や特徴について包括的な議論を行うことはできないが、直接には石原裕次郎や小林旭の日活アクション映画において主人公が挿入歌や主題歌を歌う慣習が引き継がれていると思われる。1950年代末以来のアキラの民謡・俗謡編曲は「渡り鳥シリーズ」などの映画のための企画だ。大映の『悪名』シリーズ(1961年開始)での鉄砲光三郎や主演の勝新太郎による河内音頭の印象的な使用も重要な先駆といえるだろう。また、アクションやヤクザといった主題から離れると、映画界が急速に斜陽化するなかで、ヒット曲を映画化し、レコード歌手が出演(しばしば主演も)する歌謡映画が多く作られていたことも重要な背景だ。
東映ヤクザ路線の代表作の一つ、『網走番外地』も、任侠映画というよりは喜劇的な要素も含むアクション現代劇だが、既に「仕掛けられた演歌ブーム」の回でも触れたように、元々は作者不詳の歌の各社競作群の一曲であり、放送禁止となったにもかかわらずレコードは堅調に売れていたようだ。同時上映の『関東流れ者』(未見だが、後述するように「兄弟仁義」が初めて歌われた映画である可能性が高い)がカラーなのに対し、『網走番外地』第一作は白黒で、しかも物語も完結しているため、シリーズ化を必ずしも想定しない、低予算の歌謡映画として企画されたと推測される。その後、映画によってさらにレコードが売れ、ある種のスタンダード曲として定着してゆくことは間違いないが、映画主題歌として企画されたのではなく、巷で流行っていた歌が映画化された、という点は重要だ。ちなみに映画の『兄弟仁義』シリーズは、封切り時には『網走番外地』シリーズ(第五作『荒野の対決』以降)の併映として上映されており、この組み合わせでの映画体験において、それぞれの主題歌がきわめて重要な役割を占めていたであろうことは想像に難くない。
1960年代なかば以降のヤクザ映画とサブちゃんの歌について考える際に、村田英雄が先行していた、という点は確認しておきたい。東映における本格的な任侠路線の端緒とされる『人生劇場 飛車角』(1963年)の主題歌は村田英雄の「人生劇場」だった。これは1938年に楠木繁夫が録音した古賀政男楽曲を、浪曲師から古賀門下の流行歌手に転向(1958年)して間もない村田が1959年にカバーし、それをさらに4年後に再利用したものだ。新曲や当時の流行曲というより、すでに定着していた曲だったと考えられ、少なくとも当初の企画としては、レコード会社やプロダクションとのタイアップの産物というよりも、演出上の効果を求めて特に選ばれたものだろう。そこから村田英雄と、彼を筆頭とする新栄プロダクション所属歌手の映画出演が活発になってゆく。
北島三郎の本格的な初出演作である東映の『やくざの歌』(1963)や、日活の『東海遊侠伝』(1964)は、新栄プロダクションが関わった歌謡映画の文脈で考えられる。サブちゃんの出演作では、多くの場合、村田英雄が共演し、五月みどり、新川二郎、二宮ゆき子など、新栄プロダクションの歌手も登場する。それだけではなく、『兄弟仁義』シリーズや村田英雄主演の『男の勝負』シリーズなどは社長の西川幸男がプロデューサーの一人に名を連ねており、後には「ニューセンチュリー映画」を設立し、日活の配給で『さくら盃 義兄弟』(1969)、『さくら盃 仁義』(1969)、『関東義兄弟』(1970)を制作している。新栄プロダクションは、浪花節興行の「西川興行」から、看板浪曲師の村田英雄が流行歌に転身するにあたって歌手のマネージメント(興行を含む)を手掛けることになった会社であり、同じ興行ビジネスである映画界に進出することは、決して不自然な選択ではなかっただろう。ニューセンチュリー映画作品では、事務所内での格に従って北島三郎よりも村田英雄が一貫してより重用されているのも興味深い。
『兄弟仁義』前夜――映画の北島三郎
『兄弟仁義』に至るまでの映画におけるサブちゃんの歌についてざっと見ておこう。『やくざの歌』は、第6回でも触れたように、サブちゃん演じる流しとその妹との交流によってヤクザが更生する現代劇だった。同じく日活の『東海遊侠伝』は、昭和初期を舞台に小林旭演じるヤクザがカタギになろうとする物語である。ギターではなく明治初期に流行した月琴を弾きながら和装で流すサブちゃんの「ギター仁義」はじめ、新栄プロの歌手の歌が随所に用いられ、小林旭が、「酒は涙か溜息か」をアンコにした都々逸(これは美空ひばりがかつて録音した版を下敷きにしている)を聴かせるシーンもある。個々の歌の場面は魅力的だが、「盃事」や「殴り込み」のような物語上の見せ場を盛り上げる不可欠な装置として用いられるというよりは、一種の息抜きの場面として取り入れられるに留まっている。
東映の任侠映画につながる作品でのサブちゃんの歌という点では、加藤泰監督の『車夫遊侠伝 喧嘩辰』(1964)も重要だ。「喧嘩辰」の歌が物語序盤で新婚旅行に旅立つシーンと、なによりクライマックスの殴り込みシーンで印象的に用いられている。ただし、サブちゃん自身はカメオ出演であり、途中で横山アウト(漫画トリオ以前の横山ノックの相方)と主人公を冷やかしながら浪花節の「紺屋高尾」をコミカルに一節歌うに留まっている。
オープニングの主題歌に相当する部分は、「喧嘩辰」ではなく阿呆陀羅経風の男女掛け合い漫才(むしろ萬歳と表記すべきだろうか)なのも面白い。浪花節や萬歳といった近代音曲との連続のなかで「喧嘩辰」の歌も位置づけられていたことをうかがわせる。ただし、浪花節の「紺屋高尾」も萬歳も、物語が設定されている明治後期というより大正期以降に人気を博している。つまり、厳密な時代考証はそれほど気にせず、全体的に当時の観客にとって漠然と「昔風」の雰囲気を喚起することが目指されているといえる。こうした考証の緩さは、物語の設定時期にかかわらず「兄弟仁義」にせよ後の「唐獅子牡丹」や「緋牡丹博徒」にせよ、「昔風の流行歌」が継続的に主題歌として用いられる際の前提条件となっているだろう。なお「喧嘩辰」は後に、東映ではなく松竹制作の『男はつらいよ』第一作でも寅さんが好んで口ずさむ歌として効果的に用いられており、山田洋次の「フーテンの寅」の造形において重要な発想源の一つだったことも推測させる。
ヤクザ賛美の相対化
ただし、これらの映画の基本的なプロットは、ヤクザと暴力を否定・排除する、という、オリンピック前後の社会的な風潮を反映したものといえる。『車夫遊侠伝 喧嘩辰』はかなり任侠映画寄りではあるが、主人公はあくまで一本気な車夫であり、組織内の擬似的な家族関係やそこでの掟にはまったく囚われない。『新日本文学』1964年8月号の小川徹による映画時評では、「映画企業の不況が、良心的作品を少なくしているとはいいがたい」例として言及され、「日活、東映、大映で現代ヤクザ路線が横行し流行したあと加藤泰(東映)の「喧嘩辰」みたいなものが出て、ヤクザがステキなんかじゃない、その底には、明治の下層社会のウツボツたるエネルギーがあるのであると指摘したり」と評されている。つまり『喧嘩辰』は、ヤクザ賛美を批判的に相対化する作品として捉えられているのである。ここでは、のちの任侠映画の基本構造、つまり任侠道に忠実な正義のヤクザが、権力と癒着して良民を搾取する悪のヤクザに散々苦しめられた後に、遂に我慢の限界に達しクライマックスの殴り込みに向かう、という型はまだ確立されておらず、それゆえこの映画でサブちゃんの歌とともに現出する、殴り込みに赴くシーンで主題歌が鳴り響く、という印象的な手法も、お約束というよりいまだ萌芽的なものに留まっていたといえる。
『映画情報』1965年5月号には「暴力追放の裏側で」という短信記事が掲載されている。当時の雰囲気をはっきり伝えるものであり、少し長くなるが全文紹介しよう。
芸能界から暴力組織をしめ出そうと、映画俳優協会をはじめとして、さまざまな団体がたち上り、取締当局も、組織暴力の芸能スタアへのいやがらせを警戒して、強力な取締方針をうち出していますが、そうした努力にも関わらず、スクリーンではやくざや組織暴力が、ある種の賛美と見られても止むを得ない形で、次々と登場し、批判の的となっています。
東映の“博徒シリーズ”や、大映の市川雷蔵の新シリーズ『若親分』、日活の“男の紋章”シリーズなどがそれですが、いずれも現代をさけて明治、大正のお話としている点がミソ。
『関東流れ者』の鶴田浩二をはじめ雷蔵、高橋(英樹:引用者註)とも、そろって、背中一面にいれずみをほっての大暴れが観客の拍手喝采を浴びるという寸法ですが、このあたりちょっとした、いれずみ・コンクール。
「暴力の否定は、暴力そのものを徹底的に描き出して、その悪につながる暴力を、男の侠気が正してゆくという描き方は悪くはないと思いますし、……」
と制作者側は、社会の批判的視線に懸命の弁解ですが、なによりも、この種のやくざ映画が絶対的な観客の人気を集めているのですから、今後もどしどし制作されそう。
板ばさみの苦しさは、鶴田浩二たち主演俳優の泣きどころというわけでしょう。
当時の「暴力追放」の潮流のなかで、舞台を過去に設定し、悪の暴力を侠気(正義の暴力)によって正すという物語構造を導入する、という制作者側のやや苦しい対応があり、しかし、そうした映画が「絶対的な観客の人気を集めている」という観察があったことが浮かび上がる。同誌の加東康一による編集後記でも、この問題が言及されている。
やくざと手を切ることと、やくざを主人公にして映画を作ることとは別……。苦しい弁明を余儀なくされる映画製作五社の窓口に当る人々にご同情申し上げる。どうひいき目にみても“やくざの否定”“暴力の追放”に結びつきにくい“やくざ映画”のあり方に映画製作者がどう臨んでいくか、映画ファンや一般社会が強い関心を示している点を見逃してはならないようだ。
任侠映画を貫く「悪のヤクザを退治する正義のヤクザ」という基本構造は、ヤクザそのものを肯定的に描くことが困難な状況の中で、危ういバランスの上で成り立っていたことを確認しておきたい。
クライマックスで鳴り響く主題歌
サブちゃんに話を戻して、「兄弟仁義」が歌われる最初の映画はおそらく1965年4月公開の『関東流れ者』(鶴田浩二主演)のようだ。不勉強にして私は未見なのだが、前述のように『網走番外地』第一作と同時上映だ。
『網走番外地』は、好評によって続編が作られることになり、続編の併映の『関東やくざ者』(1965年7月)でも「兄弟仁義」は歌われている。サブちゃんは、列車のなかで鶴田浩二に絡む田舎チンピラとして登場し、その後鶴田の正体を知り、指を詰めて子分になりたいと懇願するが断られ、鶴田の恩人である村田英雄に引き取られる。「兄弟仁義」が歌われるのは、物語の後半、村田が襲撃され入院したシーンにおいてである。病院の廊下でひとり歌い始め、「男いのちをかけてのむ」は病床の村田が聞き入るカットに切り替わる。間奏なしでレコード版では3番の歌詞の「俺の目をみろ 何んにもゆうな」に入ると、下からの煽りでサブちゃん歌唱カットに戻る。「男同志の」で再び村田のカットになり、「腹のうち」で鶴田の子分たちが翌日の喧嘩の準備をする場面に切り替わる。ちなみにサブちゃんはその後、村田が再び襲撃され絶命したことを鶴田に伝えたところで息絶える。その後の「クライマックスの殴り込みシーンでの主題歌」というお約束にかなり近づいているが、まだ確立してはいない。
『兄弟仁義』制作の直接のきっかけは、『関東やくざ者』の翌月、1965年8月公開の『日本侠客伝 関東篇』と考えられる。東映任侠映画の代表的脚本家の笠原和夫が著した『破滅の美学』には、同作について、任侠映画人気の「〈お祭り〉好調のときで、多くの出演スターの市場価値を高めた」とし、「たとえば「関東篇」では、ゲストの北島三郎の殴り込みシーンに「兄弟仁義」の歌をはめこみ、鳥肌が立つような名場面となって、これが基になって北島主演の同名シリーズ作品が長く作られるようになった」とある。この記述を見つけて早速見てみたが、この作品の冒頭および殴り込みシーンで用いられているのは、「兄弟仁義」ではなく、1964年10月にレコード発売されていた「男の情炎」だった。
『日本侠客伝 関東篇』でのサブちゃんの役どころは、ヤクザではなく寿司屋であり、クライマックスの前に単身敵に乗り込み殺される。料亭に乗り込み、女中と軽く言葉をかわし、身軽に階段を駆け上ったのち、諸肌脱いで刺青を見せ、ドスを抜く瞬間に「意気に感ずも情けに死ぬも/ままよ男が決めた道」という歌が始まり、乱闘シーンの間も歌が重なる。たしかにゾクゾクする名場面だ。「兄弟仁義」だったらもっと良かった気もするが、本作でのサブちゃんは、義兄弟の盃を交わすヤクザではなく、男一匹の寿司屋なので役柄とは合わない。役柄の序列としても、鶴田浩二、高倉健、長門裕之の次、といったところだ。それでも、笠原のいうようにこの名シーンが映画『兄弟仁義』シリーズを生み出したとすればきわめて重要だ。
『日本侠客伝 関東篇』のサブちゃんの歌唱シーンは、『兄弟仁義』シリーズを生んだだけでなく、クライマックスの殴り込みシーンに印象的な主題歌を重ねる、という東映任侠映画のお約束の確立においても一つの重要な契機となっていたかもしれない。同年10月1日公開の『昭和残侠伝』第一作では、高倉健の殴り込みのシーンにかぶせて主題歌「唐獅子牡丹」が流れる演出がなされており、『関東篇』の影響も考えられる。さらに、その次の10月15日公開『任侠男一匹』は村田英雄の本格的主演第一作だが、ここでも冒頭と最後の殺陣シーンで「明治劇場」が流れている。後者ではサブちゃんも助演しており、トンネル工事の人夫たちの休憩の際に請われて「兄弟仁義」を歌い、拍手喝采を浴びる、というシーンが用意されている。「人生劇場」によく似た「明治劇場」は、村田の身体動作とも相まって、良くいえば貫禄十分、悪くいえば鈍重で、個人的には本作で明るく庶民的に歌われるサブちゃんの「兄弟仁義」のほうが魅力的だ。
いずれにせよ、網羅的に調査したわけではないが、クライマックスの殴り込みシーンを、主人公自身が歌う主題歌で盛り上げる、という東映任侠映画の慣習の成立において、サブちゃんの歌唱が果たした役割は小さくないように思える。
通算九作の『兄弟仁義』
ということでようやく映画『兄弟仁義』に辿り着いた。現在では各種配信サービスでシリーズすべて簡単に視聴できるため、ご関心の向きは実際の映画作品をみてもらうに越したことはないが、冒頭と義兄弟の杯を交わすシーンと殴り込みのシーンで3回印象的な歌が流れる、というパターンは第一作ですでに示されている。

とはいえ、1966年のゴールデンウィークにあわせて公開された第一作での北島三郎はまだ本格的な主演といえるか微妙な立場だ。既に盤石の人気を誇っていた『網走番外地』シリーズ第五作「荒野の対決」の同時上映で、『網走』はもちろんカラーだが、『兄弟仁義』は白黒だ。この時点ではまだ「添え物」の位置づけだったようだ。本作でのサブちゃんは、いかさま賭博で稼ぎながら「瞼の母」を探す函館出身のチンピラ役。上州の温泉場のヤクザの代貸・松方弘樹と意気投合し、賭場でいかさまを見破られ窮地に追い込まれるも、その前に母に一目会いたいので必ず戻ってくるから東京にいかせてくれ、という「走れメロス」的な展開を経て、義兄弟の杯を交わす。盃事のシーンではもちろん「兄弟仁義」が流れる。しかしサブちゃんはクライマックス前にあえなく殺され、義兄弟の松方弘樹も、組を解散し旅館に転業していたことから、流れ者の鶴田浩二(松方の親分である村田英雄と兄弟分、つまり叔父貴の設定)に諌められ思いとどまる。「兄弟仁義」が流れる最後の殴り込みシーンは、サブちゃんや義兄弟の松方ではなく「特別出演」枠の鶴田単独の見せ場になっている。サブちゃんが松方弘樹の背中を流すシーンをはじめ、ホモエロティックに解釈できる表現が随所にある。後の1981年に、「やおい」という言葉を生み出した同人誌「らっぽり」で合作漫画として「兄弟仁義」が描かれ、BL漫画の礎を築くことになるのもむべなるかなである。
それはさておき1966年8月公開の第二作でようやく最後の殴り込みにサブちゃんが登場する。ここで名実ともに主役の地位を確立したといえるだろう。とはいえ、特別出演の鶴田浩二が一番美味しい役なのは前作同様だ。本作では、対立する組の里見浩太朗と兄弟分の盃を交わすが、里見は殺され、その仇をうつために単身殴り込もうとする。時を同じくして、サブちゃんの組の親分と兄弟分で叔父貴にあたる鶴田浩二も単身殴り込みに赴こうとし、二人が道で出会う。鶴田は当初北島に思いとどまるよう諌めるが、サブちゃんの強い意志と、殺された兄弟分のほかに身寄りのないことを確認し、二人で敵地に乗り込む。ここで流れる「俺の目をみろ 何んにもゆうな」は格別だ。
盃事のシーンも、前作と比べて格段に様式化が進んでいる。興味深いのは、冒頭のタイトルバックで、「義理に命を賭けるも男 粋に死ぬのもまた男 悪に楯突く九寸五分が 肌に冷たい上州路」というレコードにはない歌詞が歌われていることだ。これ以降のシリーズではこの試みは継承されていないが、「虎造節」や「米若節」のように、各演者に特有の印象的な節でさまざまな物語の文句をきかせる浪花節のようなありかたが想定されていたのかもしれない。おなじみの旋律を使って異なる文句の物語が次々に生まれる、という展開が一般的になっていたら、もっぱらレコード商品として流通する流行歌のありかたに風穴を開けることができたかもしれない、などと妄想したりもする。とはいえ、「兄弟仁義」にせよ「網走番外地」や「唐獅子牡丹」にせよ、市井では当然のようにさまざまな替え歌で歌われていたことだろう。
第三作『関東三兄弟』(1966年12月30日公開)では、北島、鶴田に里見も加わっての殴り込みとなる。ヤクザに憧れた末に命を落とし、それによって義兄弟となる漁師の山城新伍と、その母の笠置シヅ子も面白い。ここに至って、シリーズの基本的な形が整ったといえそうだ。同時上映は『網走番外地 大雪原の対決』で、1966年度(1967年3月まで)の配給収入1位を記録している。
第四作『続関東三兄弟』は(1967年5月20日公開)、『網走番外地』シリーズとの同時上映ではなく梅宮辰夫主演の『決着(おとしまえ)』とカップリング。
第五作『関東命知らず』(1967年8月12日公開)では、「兄弟仁義」はクライマックス直前の待田京介との盃事だけで使われ、冒頭と殴り込みは「関東流れ唄」に代わっている。愚連隊の弟分役の遠藤辰雄(のち太津朗)のシャツの丈が異様に短いのが面白い。また、同時上映は『網走番外地 悪への挑戦』に戻っている。
第六作は『関東兄貴分』(1967年12月23日公開)。冒頭、殴り込みも含めすべて「兄弟仁義」に戻っている。送り手側は新曲「関東流れ唄」を売り出したかったが、受け手側がそれを望まなかった、というような状況が想像される。ここでは近藤正臣に対して北島三郎が「兄貴分」の地位にあり、映画スターとしての貫禄が備わってきたことを示す。新潟ロケを行い、民謡の「佐渡おけさ」が全体のモチーフになっているのも興味深い。美川憲一「新潟ブルース」のヒットとも考え合わせると、すでに流行の兆しを見せていた「ご当地ソング」との関わりも考えられる。前作までの山下耕作監督から代わった中島貞夫監督らしい救いのない展開が異色だ。なお、『映画評論』誌1968年1月号に掲載された東映の正月映画の広告では、同時上映の『網走番外地 吹雪の斗争』や、後に東映任侠映画の最高傑作と謳われることになる『博奕打ち 総長賭博』をさしおいて、『関東兄貴分』が一番上に掲載されている。
鈴木則文監督の第七作『逆縁の盃』(1968年8月24日公開)では、これまで美味しいところをさらっていた鶴田浩二が退場し、菅原文太、若山富三郎が義兄弟となる。公害問題を扱い、遠藤辰雄の役どころも面白い。
1969年は『兄弟仁義』シリーズは制作されず、新栄プロが設立したニューセンチュリー映画の村田英雄主演作に出演するに留まっている。1970年には『新兄弟仁義』(4月10日公開)が制作されているが、これは義兄弟ではなく実の兄弟の諍いがモチーフとなっている。虎造節の清水次郎長や花笠音頭など盛りだくさん。山城新伍がコメディリリーフ的に「兄弟仁義」を歌う場面もあり、任侠映画のお約束自体を茶化す視線があらわれていることがうかがえる。シリーズ最終作『関東兄弟仁義 仁侠』は1971年9月7日公開で、冒頭は「仁侠」だが、ラストの殴り込みはもちろん「兄弟仁義」。
正直に言えば、中断を挟んだ最後の二作品では、「任侠」という規範あるいは美意識がそれ自体として確立しきっており、カタギの生活とはほぼ関わりのない閉じた世界で、いわば「内ゲバ」を繰り返しているだけのようにも見えてしまった。もちろん、そういう私の感想は、本稿を書くために短時間で一気にシリーズを見返したために最後の方は飽きてしまったためかもしれないし、当時の学生運動や対抗文化における任侠映画の象徴的な地位と、そうした運動自体の顛末を知ってしまっているがゆえのものともいえる。
それでも、『兄弟仁義』以前からの北島三郎の映画出演が、「任侠映画」というジャンル自体の盛衰とほとんど軌を一にしていたこと、そして単に人気歌手のカメオ出演や添え物的な歌謡映画に留まらず、主人公による歌が物語の要所要所を盛り上げる、ジャンル特有の表現技法と美意識の確立においてきわめて重要な位置を占めていたことを改めて確認した。
「NHK」「ご当地ソング」「任侠映画」から「艶歌」へ
ここまで、1965年にレコード発売された「帰ろかな」「函館の女」「兄弟仁義」という三曲が、それぞれNHK、ご当地ソング、任侠映画という相異なる文脈のもとで作られ、受容されたことを確認した。それぞれの文脈が、当時の大衆文化状況の変容を背景に形成され、また状況の変化を促していく過程について、一応の見取り図を提示することができたと思う。そうした相異なる文脈が輻輳して、1960年代後半を通じて「艶歌」という新たな領域が形作られ、北島三郎は紛れもなくその旗手となってゆく。
次回以降は、「艶歌」が対抗文化的な含意を帯びてゆく過程について、とりわけ「兄弟仁義」をはじめとする「任侠」のイメージがどのように解釈されていったのかに注目して論じてみたい。それは、2010年の拙著『創られた「日本の心」神話』では十分に扱いきれなかった北島三郎の重要な位置について検討することで、単に過去の仕事を補完するだけでなくその限界をも明らかにし、乗り越える試みである。残念ながら「俺の目をみろ、何んにもゆうな」というだけでは私の「腹のうち」は伝えられそうにないので、いましばらくこの饒舌にお付き合いいただきたい。
*次回原稿は、鋭意執筆中です。
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輪島裕介
1974年石川県金沢市生まれ。音楽学者。大阪大学文学部・大学院人文学研究科教授。専門はポピュラー音楽研究、近現代音曲史、アフロ・ブラジル音楽研究。東京大学文学部、同大学院人文社会系研究科(美学芸術学)博士課程修了。博士(文学)。2010年に刊行した『創られた「日本の心」神話 「演歌」をめぐる戦後大衆音楽史』(光文社新書)で、2011年度の国際ポピュラー音楽学会賞、サントリー学芸賞を受賞。著書に『踊る昭和歌謡 リズムからみる大衆音楽』(NHK出版新書)など。Twitter:@yskwjm
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はじめまして。2026年7月1日よりウェブマガジン「考える人」の編集長をつとめることになりました、松本太郎と申します。いつもサイトにお立ち寄りいただき、ありがとうございます。
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目次には当代随一の執筆陣がずらりと並び、B5判240ページの誌面の隅々から知の香りが立ちのぼってくるかのようでした。
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まだ書店訪問にも慣れておらず、編集長ともほぼ初対面の中、次のお店の約束の時間に間に合うだろうかと時計ばかりが気になって、終始、そわそわしていました。そんな私に松家さんがやわらかな笑顔で接してくれたこと、そして、新雑誌の門出を祝うようなすっきりと晴れた一日だったことを覚えています。
あれから四半世紀が過ぎ、ウェブマガジンとして衣替えした今でも、創刊時に掲げられた「Plain living, high thinking(シンプルな暮らし、自分の頭で考える力)」という言葉は古びていません。AIに尋ねれば瞬時に答えが返ってくる時代だからこそ、それらしい言葉に飛びつくのではなく、自分の頭で考え、心の声に耳を澄ませることの大切さは増しているように感じます。
創刊号には、養老孟司さんのロングインタビューが掲載されています。養老さんはその中で、恩師である中井準之助先生の口癖だった「人の心がわかる心を教養という」という言葉を紹介しています。
読んだ瞬間に立ち止まり、さまざまな思いが湧き上がってくるような文章に、楽しみながら出会える場であり続けたいと思っています。
「考える人」編集長
松本太郎
著者プロフィール
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- 輪島裕介
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1974年石川県金沢市生まれ。音楽学者。大阪大学文学部・大学院人文学研究科教授。専門はポピュラー音楽研究、近現代音曲史、アフロ・ブラジル音楽研究。東京大学文学部、同大学院人文社会系研究科(美学芸術学)博士課程修了。博士(文学)。2010年に刊行した『創られた「日本の心」神話 「演歌」をめぐる戦後大衆音楽史』(光文社新書)で、2011年度の国際ポピュラー音楽学会賞、サントリー学芸賞を受賞。著書に『踊る昭和歌謡 リズムからみる大衆音楽』(NHK出版新書)など。Twitter:@yskwjm
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