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北島三郎論 艶歌を生きた男

2026年7月31日 北島三郎論 艶歌を生きた男

第10回 1965年の北島三郎 (3)偶然のヒット作「函館の女」

著者: 輪島裕介

2022年にデビュー60周年を迎えた北島三郎。日本の演歌界をリードしてきた不世出の歌手の名前と、「函館の女」「与作」「まつり」といった代表曲を知らぬ人はいないでしょう。しかし、そのキャリアや音楽的功績について、どれだけの人が正しく認識しているでしょうか――。著書『創られた「日本の心」神話』で、演歌というジャンルの“起源”に鋭く斬り込んだ音楽学者が、「北島三郎とは何者か」という壮大な問いに挑みます。

「〇〇の女」―「ご当地ソング」の先駆け

 昭和30年代最後の月にNHKテレビ「夢であいましょう」で放送された「帰ろかな」が、この時代を席巻した「望郷歌謡」の最後だったといえるとすれば、「函館の(ひと)」は、昭和40年代以降の流行歌の一大潮流となる「ご当地ソング」の先駆けといえる。

 1965年の「函館の女」から1974年まで、後述する1968年を除くサブちゃんは毎年1作必ず別々の地名の「女」をタイトルに掲げたシングルを出しており、それらは「女シリーズ」と称される。1975年から4年あいて1979年の「横浜の女」で長編シリーズが完結しているのも面白い。結末については「ネタバレ」を極端に忌避する昨今の風潮に従い、詳細は控えておこう。まずはリンクからお聴きいただきたい。おわかりのように、予想通りの大団円ではあるが、そのB面は、家父長的・核家族的なロマンスとは対照的に、「横浜西口ディスコの前で」偶然出会った男女を歌った「きままな男とはぐれた女」なのも絶妙のバランス感覚だ。思わず当時の横浜駅西口エリアのディスコを検索してしまった。それはさておき「横浜の女」で完結した後の同趣向の曲では、「箱根のおんな」(85年)や「千代田の女よ」(99年)と微妙に表記を変え、それぞれの土地を歌った曲のB面(またはシングルCD2曲目)として収録している律儀さもサブちゃんらしい。

 私自身は「はーるばるー来たぜさーけ茶漬けー」という永谷園のお茶づけ海苔のCMでこの曲を知った世代だが、長くCMに使われたこともこの曲のポピュラリティにとって重要な要素であることは間違いない。代表曲を惜しげもなく替え歌にする太っ腹はさすが、といいたいところだが、後述するように、もともとの「函館の女」自体、瓢箪から駒、棚からぼた餅、というべき軽い企画が予想外のヒットにつながった曲だった。

「函館の女」とキューバ音楽

 とはいえそれは「函館の女」の音楽的な魅力を損ねるものではない。長く伸ばす低い音から一気に駆け上がってゆく歌い出しから、それを受ける下降基調のメロディは、基本的には、先述の「ヨナ抜き長音階」を順番に辿って上昇、下降するものだが、この旋法の特徴を完全に活かしきっている。「ドーレミソーラドレミーミミミー」を、たとえば西洋式の長音階で「ドーレミファーソラシドードドドー」とやったのでは初心者の音階練習にもならない。「あとは追うなと言いながら」からはやや軽めに同じリズムの2小節フレーズを2回ではなく3回重ねるところや、「とーてもがまんがー、できなーかったよー」の「がまんがー」の最後の2回目の「が」を6拍分(1.5小節分)たっぷり伸ばすところは、基本的に4の倍数の小節を単位とする西洋的な構成から逸脱し、絶妙のひっかかりを生み出している。まったく自然に日本語の歌詞が入ってくる。

 そしてなんといっても演奏のリズムがすばらしい。イントロの「チャチャッチャチャッ」というバンド一丸となったキメを4回重ねたのち、伸びやかなメロディに移ると同時にリズムセクションはラテン風のリズムを奏する。●☓☓●☓☓●☓|☓☓●☓●☓☓という、キューバ音楽で「クラーベ」(鍵)と呼ぶリズム音型が全体を引っ張り、クラーベの前半部分の2拍を3つに分割する基本リズム(「3連符」を意味する「トレシージョ」と呼ばれる)がベースで強調される。「ツッタカ|タッタッ|ツタ|ツタ」という1拍目の裏に細かい音が入るリズムが、ミュートしたギターの分散和音とおそらくボンゴで奏でられる。キューバ音楽では多くの場合マラカスで演奏されるリズムだ。トレシージョの音型は、たとえばエルヴィス・プレスリーの「ハウンド・ドッグ」と共通する。ミュートしたギターの分散和音もたとえば平尾昌章版「ダイアナ」などではっきりと聴くことができる。つまり、当時の感覚では、ラテンとロカビリーを架橋するようなリズミカルな編曲だったと想像できる。

 私自身の趣味からすると、キューバ音楽がコンゴ(民主共和国と共和国どちらも)で解釈されたルンバ・コンゴレーズと同様に、キューバ音楽が日本に土着化した最高の例のように思える。特に4拍目にベースのアクセントがしっかり入っているのがすばらしい。4拍目から1拍目に向かうリズムの推進力がたまらない。アフロキューバ系の基本を押さえた演奏に、完璧な日本語の発音とぴったりあった、伸びやかな、しかし西洋的な規範から少し逸脱するメロディの歌が乗るこの快楽を知ってしまうと、バックビートが云々といった近年のSNSで繰り広げられる論争など、リズム音痴のアメリカ人の音楽性をさらにありがたがる愚かな振る舞いにすぎない、とハンバーガーの回の海原雄山化してしまう。

「ご当地ソング」のチャンピオン

 やや取り乱してしまった。ダダ漏れになりそうになる偏愛は禁欲して、歴史的な文脈を示しておこう。本節の冒頭で、「函館の女」は「ご当地ソング」の先駆である、と位置づけたが、そのココロを、この曲の成立過程と絡めて説明していきたい。

 国会図書館デジタルコレクションでの「ご当地ソング」の初出は『週刊平凡』1968年2月1日号「ご当地ソング大はやり」という記事だ。その書き出しは、「さいきんの歌謡界は“ご当地ソング”の大当たり。題名に『函館の女』とか『博多の女』と地名がはいっただけで、ご当地では少なくともレコードが二、三万枚はうれるというのだから、こたえられない」というもので、はっきりと「女」シリーズの重要性がうかがえる。

『近代映画』1968年9月号の特集企画「ご当地ソング大流行!!マサチューセッツから薩摩まで」でも、北島三郎は「ご当地ソングのチャンピオン」と呼ばれている。これらの記事からも、「ご当地ソング」概念の本格的な確立は1968年と考えられ、実際この年サブちゃんは「薩摩の女」(2月)「伊予の女」(7月)「伊勢の女」(10月)と三枚の「女」シリーズのシングルを発表している。1968年が、「ご当地ソング」という語が一般に広まった年だったとして、1965年末に発売され1966年に入って大流行した「函館の女」は、そこでどのような役割を果たしたのか。

「瓢箪から駒」の企画―それぞれの証言

 星野哲郎作詞、島津伸男作曲の「函館の女」は瓢箪から駒の企画だった。当初は「北海道恋物語」のB面で、しかも函館ではなく東京が舞台だった。作曲の島津は北島と同時期に船村徹門下にいた「昔からほとんど身内であり、仲間」で、北島は島津を「先生」と呼んだことはない、という。その後「女」シリーズの作曲を一手に引受け(作詞もすべて星野)、北島の座長公演では、「巨匠」と呼ばれるバンドの指揮者として親しまれることになる。島津のキャリアにとっても決定的に重要な一曲だった。しかし、この曲の制作の経緯については、北島の側と星野哲郎の側で回想が微妙に食い違っている。少し長くなるが、それぞれの記述をなるべくそのままの形で引用しながら見ていこう。

 北島は自伝『道』(1988)で、「函館の女」について、「できるまでにはいろいろなエピソードがあります」として次のように語る。

 

 最初のタイトルは何と、『東京の女』で、しかも、委託盤扱いのさらにB面だったのです。委託盤というのは、全国的に大宣伝をして売り出すものではなく、ある地域に限定して出すマイナーなレコードのことです。このBクラスの委託盤のA面が、北海道をPRするための曲『北海道恋物語』でした。

 〽ネムロ(根室)ないほど惚れたのに

   あの娘の気持ちはワッカナイ(稚内)

 という、北海道の地名を入れこんだコミック調の歌でした。そして、B面が『東京の女』というわけです。ジャケットもカラーではなく白黒、Bクラスのレコードの、そのまたB面の曲ですから、歌うほうとしてもイマイチ力が入りません。しかも、

  〽はるばる来たぜ

   トーキョー

 とやっても、さっぱり調子が出ません。そこで、私は思いきって“哲さま”に提案しました。

 「これ、逆に東京から北海道へ帰るというふうにしたらどうですかねぇ」

 「北海道? 北海道といったって、広いよ。じゃあ、どこにする?」

 「函館。私のふるさとですよ」

“哲さま”は作詞家になる前、高等商船学校を卒業して日魯漁業の船に乗っていました。函館を知らないはずはありません。津軽海峡を渡って、はるばる函館へ…イメージは、トントンと言葉になっていったようです。

 

『道』では、続けて、作曲の島津の回想が紹介される。

 

 一方、作曲を担当した“巨匠”島津伸男さんは、当時をふり返ってこんなふうに語っています。

『同じ船村徹門下生だったので、サブちゃんの長所、特徴はすべて知っているつもりです。高音がよく伸びて、きれいでしたので、その高音を生かした曲を作ろうと、星野先生からお借りしていた作詞ノートの中から『東京の女』をさがし出し、作曲したものなんです』

 ところが、曲ができあがってみたら、何と詞が一行足りません。再び、島津さん―。

『詞は五行しかないのに、曲は六行分。仕方がないので、星野先生にもう一行足してもらいました。曲が最初にできて、あとから詞ができるのを業界用語で“(あと)入れ”というんですが、星野先生はイヤな顔ひとつせず、書いてくれました。完成した曲を持って、クラウンレコードの斉[引用ママ]藤昇ディレクター(現・社長)の所へ通ったんですが、なかなかウンと言ってくれなくて…。それから二ヵ月くらいしました三十九年[ママ]の秋ごろ、「おい、北海道の歌があっただろう」と思い出してくれて、『北海道恋物語』のB面に入れてもらうことになったんです』

 

 ちなみに固有名詞を織り込んだコミックソングとしては、星野哲郎作詞の「自動車ショー歌」が1964年10月に発売されヒットしているため、「北海道恋物語」もその流れで企画されたのかもしれない(作詞は星野ではなく南沢純三)。打楽器を強調した曲調は、「イヨマンテの夜」以来、北海道を題材とする歌謡のステレオタイプのひとつとなったものだ。現在の耳からすると「函館の女」のほうが圧倒的に優れているのは疑いないが、当時の定石を踏んでいる「北海道恋物語」をA面とするのは、その時点では順当な判断といってよいだろう。

 一方、佐藤健による星野の評伝『演歌 艶歌 援歌:わたしの生き方 星野哲郎』(2001)では、次のように説明される。

 

 星野はコロムビアから引き止められたのにもかかわらず、移籍した。

「新しい会社ですから、不安がなかったと言ったら嘘になります。でもそれまではコロムビアというビッグネームのブランドで売れていた面もある。新しい会社でヒットを出せば、それこそ自分自身の実力だと思いましてね」

  しかし、機はなかなか回ってこなかった。敬愛する斎藤昇ディレクターに「北島三郎となにか仕事をさせてくださいよ」と頼むと、おうような斎藤は、「いいよ。なんでもいいから持っておいで。ちょうどB面が空いているから。北海道ものならば使ってあげるよ」という返事。そうして生まれたのが北島の代表作のひとつである「函館の女」で、実は“つけたし”のような曲だったのである。

 (略・「函館の女」一番の歌詞)

「この歌は最初、東京へ出てくる歌だったんですよ、でも、斎藤さんが北海道ものならば取ってくれると言うもんですから、急きょ、函館に変えた。函館は日魯漁業の本拠地で、その船員をしていた頃の土地勘があった」(p.154-5)

 

「東京」を「函館」に変えたのはサブちゃん本人なのか、それとも斎藤ディレクターの「北海道もの」という意向を受けた星野なのか。「東京の女」改め「函館の女」は島津がディレクターに売り込んでいた曲がようやく日の目をみたのか、それとも星野の希望を受けて企画されたのか。

「とてもがまんができなかったよ」

 すでにややこしいことになって混乱していたところで北島、星野、島津の回想がともに掲載されている新聞記事を見つけた。サブちゃんの『道』刊行の翌年、1989年1月29日から毎週日曜に10回に渡って掲載された読売新聞の連載記事「あの時この人 北島三郎」の第7回だ(3月12日付)。ここでは、「とても我慢できなかった」という見出しが付され、その後定番となるエピソードが披露されている。

 記事では一人称の語り手であるサブちゃんは、『道』と同様に、もともと「東京の女」だったのが「はるばるきたぜ東京へ」では「サマにならないんで東京から函館に変えてもらったんですよ」と語っているが、それを真っ向から否定する星野の言葉が引かれているのが印象的だ。

 

星野さん それはサブちゃんの勘違い。あれは「東京の門」。作曲家の島津伸男君が、私のノートから見つけて曲をつけて、サブちゃんに歌わせるからって来たんで、それなら北海道がいいだろう、って二人で変えたんです。

島津さん あれは最初五行詩でした。サブちゃんを想定して曲をつけてたんですが、最後がどうしてもきまらないんで、星野先生に一行つけ足しをお願いしたんです。

星野さん 最後の一行ができなくってね。そのうち小便をこらえきれなくなって。そこで、できたんです。

 〽とてもがまんができなかったよ

 ふざけたつもりだったんですけど、島津君がこれでいけます、と言うものだから。

島津さん できた歌は「函館の丘」。レコーディングの時、三人で考えて「丘」じゃどうも、というので「女」にしたんです。その時、サブちゃんが「女」と言ったかもしれませんね。

 

 新聞連載の著名人の回想録で、当人の回想を紹介したうえでそれを否定する談話が掲載されるのは珍しい。もしかしたら、直前に刊行された『道』の記述を訂正するという明確な意図が、星野の側にあったのかもしれない。おそらく事実関係としては、三人の言葉が同時に掲載され、校閲体制も確立している全国紙のこの記事の信頼性が高いだろう。

 しかし、現在ではWikipediaにも掲載されているこのいかにも美味しい「がまんができなかったよ」エピソードは前述の佐藤の評伝では紹介されておらず、別の星野の評伝、小西良太郎『海鳴りの詩:星野哲郎歌書き一代』(1993)では、「函館の女」自体への言及がない。

 そもそも星野が、クラウン移籍以来機会がなかった北島の曲を書かせてくれと斎藤に訴えた、という佐藤の記述は疑問が残る。クラウン発足当初から、星野は北島の曲を多く書いていたからだ。島津の回想にある、「三十九年の秋」というのはおそらく「四十年」の誤記だろうが、万が一誤記ではなかったとしても、すでに1964年4月の「喧嘩辰」、7月の「三郎太鼓」といった重要曲は、実は星野が手がけている。クレジットは「有近朱実(ありちかあけみ)」だが、これは星野の妻の名で、数あるペンネームの一つだ。名を伏せたのは、コロムビアとクラウンの法廷闘争が続いていたことが関係しているかもしれない。1965年1月発売の「にしん場育ち」からは星野哲郎名義で発表されており、何より、3月発売の「兄弟仁義」は星野の作だ。

 あくまでも推測だが、瓢箪から駒の大ヒット曲について、島津に貸したノートに記したストック曲が予想外に当たったことで、星野も自分の関与を示すために語られたのが「斎藤ディレクターへの訴え」エピソードであり、ストック曲が自分の代表作と目されることに対する困惑や、その曲の話題を振られ続けることへの煩わしさが、「とてもがまんができなかったよ」エピソードの強調につながったのではないか。そうでなければ、大ヒット曲の威信を毀損しかねない下ネタエピソードをわざわざ開陳するメリットはあまりない。

 また、サブちゃんの側でも、この予想外のヒット曲における自身の功績を強調するために「はるばるきたぜ東京へ」では「サマにならない」ので「函館」に変更するよう星野に提案した、という回想が生まれたのではないか。私自身の心情的には、「はるばるきたぜ東京へ」が「函館」に変わるにあたってのサブちゃん自身のイニシアティヴを大きく見積もりたいところだが、「北海道恋物語」のB面、という方針が決まった時点で「はるばるきたぜ東京へ」という歌詞は替わっていたと考える方が自然かもしれない。

 いずれにせよ実際のところはわからない。はしごを外すようだが、ともあれそうした曖昧で適当な状況から生まれたオマケのような曲が、レコード会社の予想を超えて大ヒットし、サブちゃんのレパートリーのなかに一大長編シリーズを作り出すのみならず、大量にフォロワーを生み出し、「ご当地ソング」という一大ジャンルを形成したということが重要なのだ。

委託盤の全国展開

 つまり、これまで委託盤として各地域や各クライアントのみの販売で採算が取れるよう作られていたローカルな題材を扱ったレコードが、全国的に大流行しうる、ということをレコード会社に気づかせたのが「函館の女」だったのではないか。そう考えると、「ご当地ソング」とは、単に特定の地域を扱った曲というだけではなく、旧来は委託版として特定の地域内での小規模な流通を念頭に作られていた曲を、全国で大々的に売る、という新しい仕組みのなかで量産されたレコード群だった、ということではないか。

 こうした委託盤については本格的な研究が待たれるところだが、おそらく戦前から特定の地域や団体(会社や学校や組合)と結びついて、大当たりはしないが確実に採算が取れる企画としてレコード産業の中で決して小さくない位置を占めていたのではないかと思われる。たとえば、三橋美智也は「レコード1億枚出荷」という、にわかには信じがたい枚数を記録しているが、これは、当時のレコード売り上げが各社の自己申告で相当サバを読んでいた、というだけではなく、昭和30年代の町村合併による新自治体発足やニュータウン建設などに際して委嘱された新民謡や盆踊り唄(志村けんによって知られることになった「東村山音頭」のような)を大量に録音していたことと関わっているかもしれない。

 その意味で、「ご当地ソング」の勃興期には、「現代の民謡」というような形容がしばしば用いられたが、それは、「ご当地ソング」が「伝統的な民謡」に取って代わった、というよりも、近過去におけるレコード産業の新民謡ビジネスを引き継ぎ拡大したのが「ご当地ソング」である、という身も蓋もない業界的な事情を背景にしているのかもしれない。

民謡からブルースへ

 元キングレコードで大衆歌謡に関するエピソード集を多く著している長田暁二の『歌謡曲おもしろこぼれ話』によれば、「ご当地ソング」という語は1966年4月発売の美川憲一「柳ヶ瀬ブルース」の売出しの際に用いたのが最初というが、このタイミングはまさに「函館の女」がヒットしていた時期だ。「函館の女」の予想外のヒットを、今度はレコード会社が計画的に再現しようと企画したのが「柳ヶ瀬ブルース」だったのではないか。そして、「柳ヶ瀬ブルース」は、「1965年の演歌ブーム」で強調された「作者不明の盛り場の流行曲をレコード化する」、または「流し出身の歌手がレコードデビューする」パターンをさらに拡張した、「流しが作った歌をレコード化する」企画でもあった。

「柳ヶ瀬ブルース」発売を報じる『週刊明星』1966年3月27日号は、「無名の“流し”の失恋ブルース 「柳ヶ瀬ブルース」をレコード化」という見出しが付され、「岐阜県柳ヶ瀬の盛り場を流している若い演歌師の作ったブルースを、クラウンが美川憲一の歌でレコード化する」と書き出される。続いて、作曲者の宇佐英雄の経歴が紹介され、記事の後半でようやく歌手の美川の話題となる。それも、プロダクションの社長夫人が岐阜県大垣出身、とか、芸名の美川は岐阜県の三川(長良川、木曽川、揖斐川)にあやかったものである、といった、岐阜との関係が中心で、美川の顔写真も掲載されているとはいえ、歌手よりも「無名の流し」が作った曲という話題性と、岐阜県との関わりがより強調されている。

 興味深いのは、発売に際して、地元の協力が強調されていることだ。曰く「クラウンでは4月1日臨時発売を決めたが、地元でも岐阜観光事業連合会、バーテンダー協会などが肝煎りになり、4月4日の岐阜祭りを中心に発表会を開くことになった」。記事は、「北島三郎、白浜章など、町の“流し”から人気歌手になった例はあるが、無名の演歌師の作品がレコード化されてヒットすれば、新しい話題を提供するだろう」と結ばれる。

 なお、それから1ヵ月弱後の『週刊平凡』1966年4月21日号では、「サブちゃん“函館”に帰る」というグラビア記事が掲載されており、「函館の女」の大ヒットと、「柳ヶ瀬ブルース」の「臨時発売」が、少なくとも時期的にはぴったり重なっていたことがうかがえる。

 前述の「柳ヶ瀬ブルース」記事で言及された地元との連携や発表会は、大正末の「須坂小唄」にはじまる新民謡の基本的な特徴をそのまま引き継ぐものだ。一方、そうしたプロモーションの対象となる曲が、民謡調ではなく、「流し」の作ったブルース歌謡であるところが新機軸といえる。新民謡の場合、地元花柳界との結びつきが重要な契機だったが、「バーテンダー協会」の関与からもうかがえるように、夜の巷自体が洋風に変化しつつあることを示している。そして、その後の「ご当地ソング」の展開では、「流しが作った」という側面は後退し、地名を含んだブルース歌謡、という側面が前景化してゆく。

 サブちゃんは、一年一作「女」シリーズを発表し、この潮流のなかでも重要な地位を維持するが、残念ながら「函館の女」のような痛快でリズミカルな曲調は後退してゆく。「函館の女」が例外的なラッキーパンチだった、という側面もあるかもしれないが、「ご当地ソング」全体が、物憂く情念的なブルース歌謡の方向に動いていったことと無関係ではないかもしれない。そうした方向を決定づけたのは、「柳ヶ瀬ブルース」の成功に追随したビクターによる森進一、青江三奈の成功だったと考えられる。

 先述の、国会図書館デジタルコレクションでの「ご当地ソング」の初出である『週刊平凡』1968年2月1日号では、冒頭で「函館の女」と「博多の女」を代表例として挙げていたが、記事自体は、ビクターの「ご当地ブルース」乱発を揶揄混じりに伝えるものだ。先に引いた、「さいきんの歌謡界は“ご当地ソング”の大当たり。題名に『函館の女』とか『博多の女』と地名がはいっただけで、ご当地では少なくともレコードが二、三万枚はうれるというのだから、こたえられない」という書き出しから、次のように続く。

 

 そこへ目をつけたビクターが全国八大都市の名前を織り込んだ『盛り場ブルース』を森進一に吹き込ませたところ、これがレコード売り上げ三十万枚を突破。つづく三田明の『数寄屋橋ブルース』も十六万枚という好調な出足に、こんどは青江三奈に『伊勢佐木町ブルース』を吹き込ませた。

『恍惚のブルース』いらい話題のない青江三奈だけに、この『伊勢佐木町ブルース』で起死回生のヒットをとばそうと必死。発売まえから横浜の伊勢佐木町に足をはこんでPRするというハッスルぶりに、地元商店街でも彼女を“特別名誉会員”に推薦、”市民の鍵“を贈るという。レコードの売り上げも上々のようだ。

 すっかり気をよくしたビクターでは、二月新譜には中坪健に『旭川ブルース』を吹き込ませるというのだが、はたして柳の下にドジョウが何匹いるか。

「原子力空母の街・佐世保や全学連事件の舞台・羽田を題名に織り込んだ『佐世保ブルース』とか『羽田ブルース』を売り出せばヒット間違いなし」といった皮肉な声もある。

 

 ブルース歌謡とご当地ソングが本格的に結びついてゆく初期の雰囲気がはっきりと伝わる。これに、「赤坂の夜は更けて」や「ラブユー東京」、あるいは「女」シリーズの直接的フォロワーといえる「小樽のひとよ」といったムードコーラス系を加えると、概ね「ご当地ソング」の範囲はカバーできるだろう。「佐世保」や「羽田」への言及は、『週刊平凡』にも「政治の季節」の影響が及びつつあることを示し興味深い。もちろんこれは、岡林信康「山谷ブルース」への補助線と読むこともできるだろう。

望郷歌謡と都会調歌謡

 ここで、「ブルース」が「ご当地ソング」の代表的曲調となったことの含意についても記しておきたい。それは「東京の門」が「函館の女」に問題なく移行できたことともつながっているだろう。私の考えでは、この2つの例はいずれも、「東京」(あるいは「都会」一般)と「地方」をそれぞれ表す曲調の差が限りなく接近していたことを示している。昭和30年代前半に「望郷歌謡」が人気を博した際には、それと明確な対をなすものとして「都会調歌謡」の人気があった。三橋美智也に代表される民謡調の高音歌唱とフランク永井らの「低音の魅力」が最もわかりやすい「田舎」と「都会」の差異の指標だったが、それと並んで、ゆったりとした三連(スイング)のリズムでテナー・サックスやトランペットやスチールギターが咽び泣くムーディーな「ブルース歌謡」は、ナイトクラブの雰囲気を湛えた「都会調」を象徴する曲調だった。

 それに対し、「ブルース」が「柳ヶ瀬」という地方と結合しうるという事態は、地方の盛り場が洋風化し、「東京」(西田佐知子の「東京ブルース」は1964年発売)と同じ曲調で歌っても違和感がなくなりつつあった、ということを示しているだろう。

 そうした状況はまた、「東京の門」を「函館の女」へ変換することを可能にしたものでもある。大正末から昭和初期には、「波浮の港」や「島の娘」や「東京音頭」のように、日本各地の土地が、どれも同じような民謡調、音頭調で歌われたのに対し、昭和40年代以降の「ご当地ソング」では、「ブルース」や、しばしばラテン調やハワイアン調でもある「ムードコーラス」といった、その10年前には明らかに洋風とみなされていた曲調が土着化し、あらゆる「ご当地」を包摂しうる器となった、といえるのではないか。

 昭和30年代の「都会調」の土着化・地方化の傾向の萌芽は、三沢あけみが奄美大島を歌った「島のブルース」(曲調は和製ブルースともまったく異なっているが)や、ドドンパのリズムとハワイアン風のコーラスとスチールギターを強調した「お座敷小唄」にすでに見えるかもしれない。その背景には、新幹線を始めとする高速鉄道網の普及や飛行機移動の一般化、1970年代以降は国鉄の「ディスカバー・ジャパン」キャンペーン、あるいは自家用車の普及(サブちゃんは「函館の女」発売の4ヵ月後、「柳ヶ瀬ブルース」発売1ヵ月前の1966年3月に「どらいぶ音頭」を吹き込んでいる)といった、国内移動の急速な拡大がある。もちろんその大きな動因として、東京オリンピックや大阪万博といったナショナルなイベントがあっただろう。

包みは違えど、中身は同じ?

 ところで、1990年代に活躍した大阪の大所帯バンド、モダンチョキチョキズに「博多の女」という曲がある。文字通りには、サブちゃんの曲にあやかった菓子「博多の女」を扱ったものだ。友達の博多旅行のおみやげの「博多の女」と横浜みやげの「横浜の女」が、包み紙だけ違って中身は同じだった、として、「饅頭にアイデンティティーは、あァ、いらないのか」と嘆く歌だ。後半では「ハワイ」と「エジプト」になる。一応断っておけば、「博多の女」はいわゆる饅頭ではなく、バームクーヘンの生地で餡を包んだものだ。これを歌っているのは、1972年に「宗右衛門町ブルース」を大ヒットさせ音曲漫才師から歌手に転じた平和勝次。「宗右衛門町ブルース」の歌い出しはサブちゃんの「博多の女」のイントロのトランペットと同じメロディであり、なんとも皮肉が効いた人選だ。ちなみに先日購入した「宗右衛門町ブルース」の自主制作盤は、フルバンド編曲の全国流通盤とは全く異なり、ドラムとギターだけの伴奏で、「流し」の雰囲気を濃密に湛えた素晴らしい出来だった。片面は落語家、桂小春(現・桂福團治)の「ペケペンオリンピンク」。現在の上方落語最長老の師匠の姿からは想像もつかない、国名を織り込んだド直球の猥歌だ。西洋音楽的な構成から完全に逸脱した伸縮自在の節回しは見事で、それにぴったり寄り添うギターとパーカッションの伴奏にも瞠目する。

 それはさておき、モダチョキの「博多の女」を敷衍して、「ご当地ソングに、あァ、アイデンティティーはいらないのか」という問いを引き出すことは容易だ。それに対して、自主制作盤「宗右衛門町ブルース」のような逸脱的なものも稀に存在する、という答えもありうるだろう。しかし、大都会から地方へ、という関係だけではなく、全国各地から全国各地への出張や観光旅行が活発化する時代の産物としての「ご当地ソング」においては、むしろ包み紙だけ違って中身は均質であることが積極的に求められていたのかもしれない、という視点を強調したい。新宿コマ劇場でも大阪新歌舞伎座でも「さぶちゃんまんじゅう」を買ったことのある私にとっては、それが他の饅頭とどのぐらい違ってどのぐらい美味しいのか、どんなアイデンティティーがあるのか、よりも、座長公演の場でそれを買っておみやげにする、という行為が重要なのだ。

 それでも、「函館の女」や「伊勢佐木町ブルース」のような問答無用の圧倒的な名曲と、「宗右衛門町ブルース」のような、定型を踏襲しつつその土地で広く愛される曲と、あるいは地元の人さえも顧みないような量産型地名ブルースの間にどのような違いがあるのか、という問題は残るが、その探求は別の機会を待ちたい。「函館の女」は、おそらくは半ば偶然に「ご当地ソング」という慣習を生み出す大きなきっかけとなったこと、そして、後に典型化する曲調とは一線を画す音楽的な独創性を有していた、ということを確認して、「1965年の北島三郎」最後の「兄弟仁義」に移ろう。

 

*次回「1965年の北島三郎(4)兄弟仁義」は近日公開予定です。

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考える人とはとは

 はじめまして。2026年7月1日よりウェブマガジン「考える人」の編集長をつとめることになりました、松本太郎と申します。いつもサイトにお立ち寄りいただき、ありがとうございます。

 2002年7月4日、季刊誌「考える人」が創刊されました。

 目次には当代随一の執筆陣がずらりと並び、B5判240ページの誌面の隅々から知の香りが立ちのぼってくるかのようでした。

 当時、入社3か月の営業部員だった私は、見上げるような思いで手に取り、発売日には編集長の松家仁之さんと創刊のご挨拶のために書店にうかがいました。

 まだ書店訪問にも慣れておらず、編集長ともほぼ初対面の中、次のお店の約束の時間に間に合うだろうかと時計ばかりが気になって、終始、そわそわしていました。そんな私に松家さんがやわらかな笑顔で接してくれたこと、そして、新雑誌の門出を祝うようなすっきりと晴れた一日だったことを覚えています。

 あれから四半世紀が過ぎ、ウェブマガジンとして衣替えした今でも、創刊時に掲げられた「Plain living, high thinking(シンプルな暮らし、自分の頭で考える力)」という言葉は古びていません。AIに尋ねれば瞬時に答えが返ってくる時代だからこそ、それらしい言葉に飛びつくのではなく、自分の頭で考え、心の声に耳を澄ませることの大切さは増しているように感じます。

 創刊号には、養老孟司さんのロングインタビューが掲載されています。養老さんはその中で、恩師である中井準之助先生の口癖だった「人の心がわかる心を教養という」という言葉を紹介しています。

 読んだ瞬間に立ち止まり、さまざまな思いが湧き上がってくるような文章に、楽しみながら出会える場であり続けたいと思っています。

「考える人」編集長
松本太郎

著者プロフィール

輪島裕介

1974年石川県金沢市生まれ。音楽学者。大阪大学文学部・大学院人文学研究科教授。専門はポピュラー音楽研究、近現代音曲史、アフロ・ブラジル音楽研究。東京大学文学部、同大学院人文社会系研究科(美学芸術学)博士課程修了。博士(文学)。2010年に刊行した『創られた「日本の心」神話 「演歌」をめぐる戦後大衆音楽史』(光文社新書)で、2011年度の国際ポピュラー音楽学会賞、サントリー学芸賞を受賞。著書に『踊る昭和歌謡 リズムからみる大衆音楽』(NHK出版新書)など。Twitter:@yskwjm

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