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北島三郎論 艶歌を生きた男

2022年7月28日 北島三郎論 艶歌を生きた男

第1回 俺がやらなきゃ誰がやる

著者: 輪島裕介

音楽学者、北島三郎に挑む

 これから北島三郎について論じる。

 いうまでもなく北島三郎は、現在日本で活動する演歌歌手のなかでおそらく最も有名な、そして圧倒的に「大御所」感が漂う歌手といえる。レコードデビューは1962年なので、今年2022年に60周年を迎える。1960年代の「なみだ船」「兄弟仁義」「帰ろかな」「函館の女」、さらに70年代後半の「与作」など多くの有名曲を持ち、東映の任侠映画シリーズ『兄弟仁義』やテレビ時代劇『暴れん坊将軍』、あるいは永谷園のCMでもお馴染みだ。

 特に平成以降は、紅白歌合戦の白組トリで老若男女の出場歌手を従えて山車(だし)神輿(みこし)に乗って「まつり」を熱唱する姿が、世間一般のイメージだろう。と、やや持って回った書き方をするのは、「紅白=サブちゃん=まつり=日本」という観念連合に亀裂を走らせる、というのが、この連載における私の目論見のひとつでもあるからだ。

 さて、かくいう私は何者かというと、手前ギター一つの渡り鳥にござんす、と仁義を切りたいところだが、もちろんそんな器ではなく、大学の禄を食む一介の音楽学者にすぎない。10年ほど前に『創られた「日本の心」神話 「演歌」をめぐる戦後大衆音楽史』(光文社新書)という本を書いた。日本的、伝統的な雰囲気をもつ流行歌(歌謡曲)のサブジャンルとして「演歌」という語が定着したのは、それほど古い話ではなく、実は1970年前後だった、ということを述べた。ありがたいことに、同書はそれなりに評判となり、大学に職を得たり、賞をもらったり、英語版が出たりした。

 演歌の本を書いた研究者が、そのジャンルを代表する歌手である北島三郎について書くのはしごく凡庸な試みにみえるかもしれない。しかし、私自身にとっては大きな挑戦を含んでいる。なぜなら、自分自身の好みや価値判断を素朴に開陳することへの禁欲が習い性になっている研究者にとって、心から好きな歌手とその音楽について書く、ということは、かなりの蛮勇が必要だ、ということだ。

北島三郎の代表曲のレコードジャケット(著者私物、撮影・新潮社)

はじまりは、「がまん坂」

 そう、私は北島三郎が大好きなのだ。

 とはいえ、1968年から2015年までの足掛け47年間に4578回にわたって続けられた座長公演のうち、1998年から2015年までの間に東京の新宿コマ劇場や大阪の新歌舞伎座で5、6回見ただけの「ニワカ」にすぎず、何十年も北島三郎とともに歩んできた人生の先輩方をさしおいてファンとして公に何かを語るだけの資格は持ち合わせていない。

 それでも、私自身が演歌に関心を持つ上で、北島三郎は常に特別な存在だった。今思うと私の北島三郎との出会い方は、かなりラッキーだった。かなり長くなるが、自己紹介を兼ねて書かせてほしい。

 物心つくころから『ドリフ大爆笑』で流れる永谷園のCMで「♪はーるばるーきたぜ鮭茶漬けー」の歌には親しんでいた。NHKの歌番組で「与作」を聴いたことはあっただろう。しかし、小学生の時に熱心に見ていた『ザ・ベストテン」や『夜のヒットスタジオ」での印象はほとんどない。私が北島三郎の歌に本格的に目覚めたのは、中高生のときに見ていた『暴れん坊将軍』エンディングだった。それも放送開始時の「炎の男」ではなく、その後の「がまん坂」のほうだ。

 折しもバブル期、東京に憧れまくる地方在住のサブカル音楽好き見習いだった私にとって、なぜかテレビ時代劇は一種のギルティ・プレジャーだった。私の住む地方では、1990年代はじめまで、チャンネル数の関係で、東映=テレ朝系の時代劇は深夜に放送されていた。フジテレビの深夜番組だったか同じく深夜に放送されていた全日本プロレス中継だったかを録画しようとして、たまたま放送時間が変更になって(その頃は野球放送による延長がザラだった)、高橋英樹の『遠山の金さん』が録画されていたのがきっかけだったかもしれない。深夜に放送しているものはなんでも「尖ったもの」に違いない、という先入観というか勘違いも手伝って、月曜夜の水戸黄門の緩さとはなにか異なる質を感じていた。高橋の「金さん」と、その後の『三匹が斬る』に続けて始まった松方弘樹の『名奉行 遠山の金さん』は毎回女湯のシーンがフィーチャーされており、深夜テレビ=過激という田舎の子供の雑な勘違いを裏切らなかった。2時間スペシャルの北大路欣也の『ご存知!旗本退屈男』の豪華絢爛なエキゾティズムと荒唐無稽な展開にも衝撃を受けた記憶がある。後知恵で言えば、私はそこで東映の娯楽時代劇やヤクザ映画への感受性を育んだことになる。

 そうした流れで、日曜の夜10時半から放送されていた『暴れん坊将軍』も見始めた。高橋英樹の「三匹」や松方弘樹の「金さん」のほうが好みではあったが、主題歌に関しては抜群だった。ドラマが終わり、ああこれで週末が終わってしまうというタイミングで、やけに勇壮なティンパニの連打と高らかなトランペットではじまる「がまん坂」の、その豪快な歌いっぷりにやられた。そうなると、毎回登場するとは限らない北島三郎が演じる「め組の頭」が活躍する回を期待するようになった。合法的に都会に出るために受験勉強するしかなかったボンクラな中高生の私は、サブちゃんの「よいしょ!」の掛け声にかなりベタに励まされていたのだ。

1988年4月発売「がまん坂」(作詞・作曲:原譲二)

金沢発、バイーア経由、コマ劇場行

 一方で私は、「此比(このごろ)都にハヤル物」として話題になり始めていた「ワールドミュージック」なるものに興味を持ち始めていた。『宝島』から『ミュージック・マガジン』に愛読誌を鞍替えし、その別冊である『ノイズ』もかなり背伸びして読み始めた。いかにも田舎者の教養主義である。

 美空ひばりが亡くなったあたりから、日本の古い流行歌を「ワールドミュージック」的な感性で捉える、という傾向が現れてきた。後に私の師匠となる細川周平による近代日本大衆音楽史についての大河連載(30年後に『近代日本の音楽百年』全4巻に結実する)もはじまった。演歌はワールドミュージックになりえるか、といった話題を『ノイズ』誌の討論でも読んだ。「普通のおばさん」から復活した都はるみが、横浜で開かれた大規模なワールドミュージックのフェスティヴァルであるWOMADに出演した。でもいまいちピンときていなかった。復帰した都はるみの「千年の古都」はなんだか普通の「ニューミュージック」(おそらくバンドブーム以降、この言葉は急速にダサくなっていた)みたいだし、これだったら「がまん坂」のほうが全然いいんじゃない?と薄々感じていたかもしれないが、それを整合的に語る言葉はまだ持ち合わせていなかった。

 1993年に大学進学で無事合法的に上京し、まもなくサークルでサンバをはじめた。各大学サークルの合同チーム、ウニアン・ドス・アマドーリスが、浅草サンバカーニバルに出場するための練習を、原宿の歩行者天国で行っていたことが決定的だった。多いときには100人を超える団体で爆音を鳴らすサンバチームは、他の「ホコ天」の人々、つまりロックンローラーのダンスチームや、やや下火になりつつあったロックバンド群を圧する勢力だった。音は出さないものの、コスプレ少女たちはその頃から強い存在感を持っていた。いずれにせよ、周回遅れの地方サブカル小僧は上京1ヶ月にして「ホコ天」を制したわけだ。大学1、2年は、サンバ活動に明け暮れることになる。浅草サンバカーニバル優勝を目指す、というのがチーム全体の目標だったが、それよりも、そのための資金稼ぎである「営業」と呼ばれる商店街パレードのほうが断然楽しかった。そのころはまだバブルの余韻があった気がする。

 大学2年が終わった春休み、1995年2~3月に初めてブラジルを訪れた。そして、それまでわれわれが模倣してきた「リオのカーニヴァル」ではなく、アフリカ系の人口が格段に多く、その文化的影響が濃厚なバイーア州サルヴァドールのカーニヴァルに傾倒した。リオのカーニヴァルは、各チームが優勝を目指して練りに練ったスペクタクルを構成し、観客は専用の会場やテレビで見物する。一方、バイーアのそれは、街の目抜き通りで行われる。巨大なPA車に乗ったバンドや300人を超える打楽器隊がパレードし、その周りを人々が好き勝手に飛び跳ね、ついて行ったり行かなかったりする。リオは「世界最大のスペクタクル」を標榜し、バイーアは「世界最大のストリート・フェスティヴァル」を謳っている。たぶんどちらもそのとおりだ。そして私は、バイーア体験以来、圧倒的に後者に与する人間になった。

 毎年2月のカーニヴァル時期にバイーアに行ける人生を送るために(なんなら将来的にはバイーア人になるために)就職活動はせず、大学院に進学してバイーアの音楽文化の研究をすることにした。バブル期の高等遊民的なビンボー(『大東京ビンボー生活マニュアル』が座右の書だった)やフリーター(河内家菊水丸「カーキン音頭」、ボ・ガンボス「ポケットの中」)にかぶれた思春期を過ごし、学部卒業時には就職氷河期に移行していたので、それほど特別な選択ではなかった。大学院に入ってようやく、民族音楽学やポピュラー音楽研究やポストコロニアル研究の動向が目に入ってきた。

 一方、研究とは直接関わりのないいろいろな音楽や芸能の現場にも足を運ぶようになった。といっても寄席、ジャニーズ、宝塚、プロレスといった程度だ。そして、1998年、これから修論を書くというタイミングで、つまり自分のなかのバイーア熱が最も高かった時期に、新宿コマ劇場の北島三郎公演に出会っている。

圧倒的な歌唱とグルーヴ感

 前半の芝居は『幡随院長兵衛』。昔の有名な侠客、という程度の知識しかなかったが、十分に楽しんだ。主役が出てくるだけで会場の雰囲気が変わる、というのを体感した。白木みのる、白木万理、人見明といった助演陣にも親しみがあった(東宝や日活の古いプログラムピクチャーは、それまでにも少し見ていた)。後半の歌謡ショーでは、デビュー36周年つまり「サブロー」の年ということで、ステージのセットからバンドのボックスまで「36」という数字が氾濫していた。このときの「36」ジャンパーを買っておけばよかったなと思うが、結構高かったし今でもまだ着こなせまい。

 フルバンドの演奏は、バンドリーダーがサックスはフルートと持ち替えで尺八を吹く以外はすべて西洋楽器だが、しかし他のどんな音楽とも異なる独自の演奏スタイルだと感じた。しばしば規則的なリズムから逸脱する節回しやロングトーンを多用しながら、この大編成バンドを完璧に乗りこなし支配する圧倒的な歌唱に興味を惹かれた。

 何より、「北の漁場」から続く「まつり」の派手さとグルーヴ感に度肝を抜かれた。この時点では「まつり」はまだ紅白の大トリで歌われる「国民的」な曲というより、座長公演のフィナーレ曲、つまり、実演に足を運んだ人だけが体験できる特別な演目としての性格が強かったはずだ。今回、この連載を始めるにあたって、YouTubeで1996年から2000年の新宿コマ劇場公演の「まつり」をまとめた動画をみたが、1998年版は、他の年に比してディスコ/ファンク色が格段に強い長いイントロがついていたことを知った。今思い返すと、これを最初に見たことは運命的だったかもしれない。

演歌研究とコマ劇場の閉館

 1999年から2000年にかけて、バイーアに滞在した。強烈な体験だったが、学術的なフィールドワークとしては挫折した、といってもよいかもしれない。歴史的・文化的な背景や、人種をめぐる社会構造、アイデンティティ・ポリティクスに基づく文化運動と商業化の間の駆け引き、その背後の歴史的・文化的背景を目の当たりにし、また、「白人」でも「黒人」でもない「アジア人」の若造研究者としての自分の立ち位置を定められずに立ちすくんでしまった、とかっこよく言えばそうなる(ろくでもないやつにいろいろと翻弄された、ということでもある)。

 捲土重来を期して、次に行くまでに自分の足元をちょっと見直しておこうと、近代日本における非西洋音楽の受容とそれにかかわる言説について調べ始めた。そこで、小泉文夫や中村とうようから、竹中労、相倉久人、平岡正明といった人々の書いたものを読み始め、「演歌」ないし「艶歌」という言葉が、日本の民衆的・文化的なアイデンティティと結びつく形で表面化する特定の時期があり、特定の歌手が特権的に取り上げられていることに気づいた。その背景を調べているうちに、いつの間にかそちらが専門になっていった。演歌のジャンル形成に関する新書を出す、という話ができてからも優に数年が経ち、書けずに悶々としているなか、リサーチと気晴らしを兼ねて新宿コマの北島三郎座長公演に足を運んでいたが、なんと2008年に新宿コマが閉館してしまった。

 そんなこんなで2010年にようやく演歌の本が出て、ほぼ同じタイミングで大阪の大学に就職が決まった。そのあとは、比較的安らかな気持ちで、新装なった新歌舞伎座での座長公演を数回見に行っていたが、2015年には長期の座長公演が終了する。私にとっては2013年の紅白歌合戦「卒業」よりも大きな出来事だったが、年々、芝居と歌で出ずっぱりの舞台を1ヶ月にわたって昼夜二公演行う、というとんでもない興行形態が体力的に厳しくなっている彼の姿を(毎年ではないまでも)見てきた者にとっては、残念というより、よくぞここまで、という感慨のほうが強かった。

 自分が大好きな年長の音楽家の退場を、これから先も経験し続けなければならない、という厳粛な事実に打たれ、カエターノ・ヴェローゾとジルベルト・ジルというバイーア音楽両巨匠による「ふたりで芸歴100周年」の共演をバルセロナまで見に行ったりもした。これは、2015年にサンパウロ州カンピーナスで開かれた国際学会で発表するついでにバイーアを再訪し(結局15年かかっている!)、バイーア熱がぶり返していたこともあった。

「俺がやらなきゃ誰がやる」

 そのころから、新潮社の編集者から北島三郎論を書かないかと打診を受けていた。しかし、自分はまだその器ではない、と思っていた。自分が好きな対象について書く、というのは、研究者の矩を超えたきわめて危険かつ傲慢な行為であると考える自制心も働いていた。もちろん、十分な資料を持っていない、ということも引っかかっていた。

 そんな折、デビュー60周年にあたる2022年正月に、北島三郎のほとんどすべてのシングル曲がストリーミング・サービスで配信され始めた。現在の大御所としての立場に基づいて編集されるベスト盤や、人気曲と時々の新曲が中心となる座長公演のステージではあまり歌われることのない、キャリア初期の曲をはじめ様々な変わり種を聴くことが飛躍的に容易になった。さらに福岡、大阪、名古屋の劇場での「最終公演」が発表。昨年末には、御年86歳の北島より年長で、芸歴でもはるかに先輩である、御年90歳の二葉百合子との初の共演曲が発売。60周年を機に北島三郎が自身のキャリアの本格的な総括に入っていることがはっきりとわかった。しかも、同じタイミングで、韓国の大学で開催されるトロット(韓国の歌謡)と演歌の比較を主題にしたシンポジウムで発表しないかとの招待があった。渡りに船とはこのことだ。機は熟したのだ。

 そして今、私が最初に北島三郎を意識した「がまん坂」の歌詞の通り、「俺がやらなきゃ誰がやる」という気概をもってこうして書き始めている次第だ。

 本連載で私が試みるのは、演歌(というよりここはあえて「艶歌」と表記したい)を、「北島三郎的なもの」として再想像、もっといえば再創造する、ということだ。

 北島三郎が演歌歌手なのは当たり前だ、何をいまさら、と思われるかもしれない。そうではなく、北島三郎を論じることを通じて、私がかつて明らかにした演歌ジャンルの枠組を、かなり根底的に修正し、あるいは転覆させようという大それた野望を持っている。

 つまり、演歌ジャンル確立期のいわば原義である夜の巷の流し、つまり艶歌師とその歌を体現する存在として北島三郎をとらえ、それを、1970年代以降の演歌ジャンル(のみならずアイドルを含む日本の大衆歌謡のかなりの部分)において強い規範、または呪縛となってきた「五木寛之=藤圭子的な演歌(艶歌、怨歌)像」に対するオルタナティヴとして提示する、というのが本連載の私の目論見である。

 もっといえば、そうした「艶歌」像を通じて、日本の大衆音楽の歴史(少なくともその語り方)を転覆させたいと考えている。つまり、もっぱら「洋楽」(とりわけ英語圏ポップ/ロック)の影響の反映としてではなく、「艶歌」も含む巷の諸芸が、その時々に外来の新奇な要素をも取り入れつつ変化してきた過程として、近代日本大衆音楽史を捉える視点を提示したい、ということだ。

 その道は長く険しい、というよりも、あえて道なき道を切り開こうとしている無謀は重々承知している。しかし、北島三郎について論じる、ということは、それだけの覚悟を持って臨むべき大きな仕事になりうるのだ。そのことを本連載では示していきたい。

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 はじめまして。2021年2月1日よりウェブマガジン「考える人」の編集長をつとめることになりました、金寿煥と申します。いつもサイトにお立ち寄りいただきありがとうございます。
「考える人」との縁は、2002年の雑誌創刊まで遡ります。その前年、入社以来所属していた写真週刊誌が休刊となり、社内における進路があやふやとなっていた私は、2002年1月に部署異動を命じられ、創刊スタッフとして「考える人」の編集に携わることになりました。とはいえ、まだまだ駆け出しの入社3年目。「考える」どころか、右も左もわかりません。慌ただしく立ち働く諸先輩方の邪魔にならぬよう、ただただ気配を殺していました。
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手持ち無沙汰であった以上に、居心地の悪さを感じたのは、「考える人」というその“屋号”です。口はばったいというか、柄じゃないというか。どう見ても「1勝9敗」で名前負け。そんな自分にはたして何ができるというのだろうか―手を動かす前に、そんなことばかり考えていたように記憶しています。
それから19年が経ち、何の因果か編集長に就任。それなりに経験を積んだとはいえ、まだまだ「考える人」という四文字に重みを感じる自分がいます。
それだけ大きな“屋号”なのでしょう。この19年でどれだけ時代が変化しても、創刊時に標榜した「"Plain living, high thinking"(シンプルな暮らし、自分の頭で考える力)」という編集理念は色褪せないどころか、ますますその必要性を増しているように感じています。相手にとって不足なし。胸を借りるつもりで、その任にあたりたいと考えています。どうぞよろしくお願いいたします。

「考える人」編集長
金寿煥

著者プロフィール

輪島裕介

1974年石川県金沢市生まれ。音楽学者。大阪大学文学部・大学院人文学研究科教授。専門はポピュラー音楽研究、近現代音曲史、アフロ・ブラジル音楽研究。東京大学文学部、同大学院人文社会系研究科(美学芸術学)博士課程修了。博士(文学)。2010年に刊行した『創られた「日本の心」神話 「演歌」をめぐる戦後大衆音楽史』(光文社新書)で、2011年度の国際ポピュラー音楽学会賞、サントリー学芸賞を受賞。著書に『踊る昭和歌謡 リズムからみる大衆音楽』(NHK出版新書)など。Twitter:@yskwjm


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