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北島三郎論 艶歌を生きた男

「北島くん、きみがクラウンへ行ってくれないかね」

 ようやく我らがサブちゃん自身の日本クラウンへの移籍について記すときがきた。

 奥山弘による馬淵玄三の伝記『「艶歌の竜」と歌謡群像』(1995)によれば、星野哲郎は、斎藤昇と馬淵がともに移籍することで、コロムビアの引き止め工作にもかかわらず自身も移籍を決断したという。そして「決意を固めた星野は斎藤と一緒に北島三郎の獲得に動いた」。静岡県沼津市の公演に二人が現れる。奥山が伝える北島の回顧は次のとおり。

 

 一回目のショーを終えると、二人が会場の外で待っているというので、出ていくと、いつもと違う固い表情をしていた。斎藤さんは「何となく地方公演も見ないとな」といい、哲ツァマは「俺、斎藤さんと行くよ」といったきり。ただ、二人とも、黙って俺の方をみている。話もしない。あぁ、目で「一緒に来い」といっているんだな、とわかった。(pp.153-154)

北島三郎の代表曲のレコードジャケット(著者私物、撮影・新潮社)

 一方、『週刊読売』の北島の自叙伝「艶歌の年輪」では、沼津でのエピソードは若干異なる仕方で書かれている。

 

 斉藤[ママ、以下同]、星野両氏は私にとって船村徹先生と同じように恩人である。

 私はお二人の顔を見て、つい聞いてしまった。

「斉藤ディレクターも星野先生もクラウンにいらっしゃるという噂がありますが本当ですか」

 と。しかし二人とも「うーん」とか「まあ、まあ」といったきり、はっきりした返事はしない。

 ただ斉藤ディレクターが私の目をじっと見つめて、うっすらと涙を浮かべていたような気配があった。思わず私も息をのむ思いで斉藤ディレクターの目をじっと見つめ返していたが、もちろん二人の目から火花が散るということはなく、ただ信頼しあった二人が黙して、静かに何かを確認しあうように、信じあうように見つめ合う。その二人を横で星野先生がこれまたおだやかに観察している、こんな感じであった。(1994年1月2・9日号p.114)

 

 さらに、この決断は、北島個人のものというより、新栄プロダクションの意向が働いていたようだ。

 

 二、三日たった頃だったと思う。

 私は西川社長からこう言われた。「実は村田英雄くんにコロムビアからクラウンへ移籍してもらおうと思ったが、いろいろ事情があってむずかしい。ついては北島くん、きみがクラウンへ行ってくれないかね」

(略)

 当時の私としては、社長にこう言われれば「はい、分かりました」と了承するよりほかにない。しかし悩まなかったといえば嘘になる。(同p.114)

 

 新栄プロが村田英雄をコロムビアに残留させ、北島三郎と五月みどりをクラウンに移籍させた理由はわからないが、北島と五月の移籍をめぐっては、クラウンの第一回新譜発売後すぐに、日本コロムビアが北島と五月に対してクラウンとの契約を無効とし、クラウンでの録音禁止と原盤差し押さえを求める仮処分申請を行っており、新栄プロダクションと日本コロムビアとの関係は必ずしも円満ではなかったことが推測される。コロムビアの申請は全面棄却され、北島と五月の「全面勝訴」となった。大手に一泡吹かせたことで、クラウンへの判官びいき的な注目も高まったようだ。『実業之世界』1964年10月号には、「コロムビアに鼻をあかしたクラウン」というコラムが掲載されている(p.39)。

「クラウン育ち」のベテラン演歌記者

 北島と五月のクラウン移籍の背景を想像する上で示唆的な記述を、つい先日、2023年5月13日に逝去した評論家の小西良太郎のウェブサイトのなかに見つけた。小西はスポーツニッポン記者出身で、演歌ジャンルの言論における中心的な存在であり、レコード大賞の審査委員長を1993年から1999年まで務めるなど、業界のご意見番的な存在でもあった。

 カラオケ愛好家の団体、日本アマチュア歌謡連盟の機関誌『月刊ソングブック』2022年11月号掲載記事を転載したもので、2022年10月27日に中野サンプラザで開催された「日本クラウン60周年記念 令和・歌の祭典2022」に絡めて、彼の音楽記者としてのキャリアが日本クラウンの設立とともに開始されたことを綴っている。少し長くなるが、追悼の意味も込めて引用したい。

 

《創業60周年か。ということは俺のこの世界お出入りも、60周年という勘定になる…》

 伊藤正憲専務を旗頭に、コロムビア脱退組がクラウンを興したのは昭和38年。僕は同じ年の夏にスポーツニッポン新聞の内勤記者から取材部門に異動、39年元旦[ママ]のクラウン第一回新譜から密着した。前回の東京オリンピックの年だから、ずいぶん昔の話だ。

 いつの時代も似たようなものだが、情報はその業界の大手に集まり、そこを起点に応分の信憑性を持って拡散する。コロムビアはレコード業界の老舗で、脱退したクラウン勢とは敵対する。北島三郎、五月みどりらが移籍するのを止めようと裁判ざたにおよんでおり、

 「新興勢力? ふん、あんな会社すぐ潰れるよ」と息まいたのが、業界世論ふうに行き交った。そのせいか七社めの新会社を取材する他社の先輩は少ない。

 《潰れるなら、その実態を見てみようか》

 僕がクラウンに日参したのは、そんな向こう見ずの野次馬根性からだったが、相手さんは社をあげて意気軒昂。誰でもいらっしゃいと開放的で、それが新米記者には居心地がよかった。伊藤専務以下幹部の皆さんにもよくして貰えたし、作曲家米山正夫、作詞家星野哲郎を知り、編曲の小杉仁三とは飲み友だちになる。当初クラウンと親しかったプロダクションは新栄プロだけで、西川幸男社長には、

 「僕は新聞記者は嫌いだ」

 とすげなくされたが、やがて、めげずになつけば気持ちは通じる記者の心得通りになった。

 それやこれやで僕は、メーカーは「クラウン育ち」プロダクションは「新栄育ち」を自称する縁に恵まれる。それぞれのビジネスの深い部分や、それを支える独特の美意識や信義、即断即決の潔さ、出る釘を打たずに育てるチームワークの妙などを学んだのだ。

 

 小西の記述に従えば、新栄プロダクションは、斎藤ディレクターとの関係から当初よりクラウンと近い関係にあった(「浪花節的」な義侠心だろうか?)。関係の近さは、社長の西川幸男が実子の賢を「山田太郎」の芸名でクラウンからデビューさせていることからもわかる。プロダクションの意向に反して、村田英雄が自発的にコロムビアに残ることを決めたのかもしれない。「王将」という特大ヒット曲を提供した船村徹と西條八十、さらに村田を浪花節から流行歌に転向させた古賀政男(「王将」を録音する際に絶縁していた)がみなコロムビアに残ったことも関係しているだろうか。もちろんクラウンが失敗した場合の保険という性格もあっただろう。ちなみに晩年の村田の聞書、安武秀明『男の応援歌』には、クラウン設立に関する記述は一切ない。

 新米記者の小西は、「向こう見ずの野次馬根性」から業界慣習に逆らって設立したての弱小レコード会社である日本クラウンに深く入り込み、クラウンと新栄プロで「育った」と自称する。ウェブサイトの別のところでは「クラウン創立期の斉藤[ママ]さんと星野の“兄弟仁義”話は、もう何度も原稿にした…」と述べており(『月刊ソングブック』2014年5月号からの転載)、上記の星野と北島の間の「俺の目を見ろ」エピソードを広めたのも小西だった。単行本では『海鳴りの(うた) 星野哲郎歌書き一代』の一節、「男たち四人の兄弟仁義」で読める(恥ずかしながら小西のサイトの文章を読んでおっとり刀で本棚を探した次第だ)。小西は、艶歌/演歌のジャンル化において決定的な役割を果たす藤圭子のブレイクにも関わっている。彼女が「新宿の女」でデビューした際に新宿の盛り場で行った「新宿25時間流し」キャンペーンを最初に大きく報じたのが彼だった。

 艶歌/演歌ジャンルを知的な言説のレベルで結晶化させた五木寛之のみならず、音楽産業や芸能界といった実際の業界内で大きな影響を及ぼすことになる小西も「クラウン育ち」だった。このことは艶歌/演歌の形成においてクラウンの設立が果たした重要な役割を示している。

移籍の背景

 ところで、北島の師である船村徹が移籍しなかった理由はなにか。奥山によれば、それは林諄ディレクター(クラウン設立後コロムビアの文芸部長となる)への恩返しだったという(前掲書p.155)。船村がキングで不遇をかこっていたとき、コロムビアへ移籍させたのが林だった。そして、飯塚恆雄によれば、「文学青年」的な林は、営業本位の伊藤正憲に嫌われ冷遇されていたという(同p.35)。

 さらに飯塚は、林から意外なエピソードを引き出している。それは、「伊藤正憲が北島三郎の歌を嫌っていた」(同p.37)というものだ。飯塚は、「伊藤は北島三郎のデビューには最後まで不満を持っていた」ことを斎藤昇にも確認し、「伊藤さんがあんなに反対した北島が、クラウンを救ったんだから不思議なもんだね」という林の言葉を引いている(同p.37)。

 伊藤がなぜ北島を嫌ったのかははっきりとはわからない。単に、芸者歌手のお座敷調を好む彼の趣味ではなかった、ということもあるだろう。しかし、慶応出のインテリで、都会的で洋風のレコード会社に入り、戦中は国策のレコード流通事業に関与し、レコード販売に関しても基本的には「上から」の視線を保ってきた伊藤にとっては、北島の泥臭く庶民的な「流し」のスタイルが、昭和初期の都市プチブルジョアの消費文化(もちろん花柳界もその一部である)としてはじまったレコード流行歌の「本道」から外れるものと映っても不思議はないように思える。

 第一回新譜のレコード広告一覧では美空ひばりの次であるにもかかわらず、移籍当初の北島三郎の地位は、必ずしもトップではなかったようだ。これももしかしたら伊藤が北島を嫌っていたことの傍証になるかもしれない。

 第一回のレコード発売を記念した「クラウン・レコード歌謡大行進」を報じる『芸能画報』1964年2月号では、守屋浩と五月みどりの写真がひときわ大きく掲載され、その下の出演歌手全員が並んだ挨拶の写真でも、守屋と五月の二人が中央に立ち、守屋がマイクに向かっている。北島三郎はセンターの二人から一列下がって、守屋の向かって左隣(下手側)だ。守屋浩はホリプロの所属であり、新栄プロ所属の二人が並ぶのを避け、ホリプロへの義理立てをしたということも考えられる。

 第一回新譜の一枚、「青島だアー」で歌手デビューしている青島幸男が、一列下がって五月の右隣にいるのも面白い。並び方の「序列」としては北島と同格ともいえる。青島と、「青島だアー」の作曲の萩原哲晶は、もちろん東芝のドル箱、クレイジーキャッツの実質的な座付き作家だが、彼らは作家として東芝と専属契約を結んでいなかったためにクラウンでのレコード発売が可能になったのだろう。

かつてない新たなレコード会社

 伊藤の好みとは別に、北島はクラウンの大看板となる。発足後1年余経って1965年に「兄弟仁義」「帰ろかな」「函館の女」という代表曲が立て続けに登場し、それぞれその後の北島のキャリア及び後続の流行歌の傾向のひとつの指針となってゆく。さらに、そうした音楽スタイルが国内レコード会社の洋楽担当部署で制作された若者向けの洋風歌謡の台頭と対比されることで、「艶歌/演歌」としてカテゴリー化される(「艶歌/演歌」概念の形成と定着を論じた拙著『創られた「日本の心」神話』[kindle unlimitedで無料配信中!]で既に検証しているが。本連載は、北島三郎に即してのアップデート版でもある)。

 日本クラウンの設立は、大手電機企業の傘下ではなく独立採算で、しかも洋楽を扱わない流行歌専業という、二重の意味でそれまでにないレコード会社だった。プレス工場や関連電機部門をもたない、制作機能に特化したレコード会社という企業の形態に注目すれば、専属制度解体以降に設立される新たなレコード会社(外資との合弁会社や、ミノルフォン~徳間、フォーライフなど)の先鞭をつけた、と考えることもできる。他方、社員ディレクターと専属作家による制作手法を堅持したことは、のちに「演歌ひとすじ」というブランド・イメージと結びついていった。

 もし日本クラウンが名門財閥系電機会社を親会社とする「三菱レコード」だったら、あるいは(人脈的になかなか想像しにくいが)洋楽部も含むレコード事業部全体が造反してCBSとの契約ごと新会社に移籍していたらどうなっていたか。少なくとも「浪花節的」な判官びいきの支持を得ることはできなかっただろうし、そうなると、五木寛之も「艶歌」を書かず、歌謡ジャーナリスト小西良太郎もあらわれなかったかもしれない。そうだったら演歌ジャンルはどうなっていただろうか、と妄想は尽きないが、レコード会社の話はさしあたり十分だろう。

 産業的な文脈と、そのなかの人間模様を確認した上で、次回からは北島三郎の当たり年、1965年のヒット曲について扱うことにしよう。3回に及んだ「お家騒動・クラウン旋風」、お後がよろしいようで。

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考える人とはとは

 はじめまして。2021年2月1日よりウェブマガジン「考える人」の編集長をつとめることになりました、金寿煥と申します。いつもサイトにお立ち寄りいただきありがとうございます。
「考える人」との縁は、2002年の雑誌創刊まで遡ります。その前年、入社以来所属していた写真週刊誌が休刊となり、社内における進路があやふやとなっていた私は、2002年1月に部署異動を命じられ、創刊スタッフとして「考える人」の編集に携わることになりました。とはいえ、まだまだ駆け出しの入社3年目。「考える」どころか、右も左もわかりません。慌ただしく立ち働く諸先輩方の邪魔にならぬよう、ただただ気配を殺していました。
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それから19年が経ち、何の因果か編集長に就任。それなりに経験を積んだとはいえ、まだまだ「考える人」という四文字に重みを感じる自分がいます。
それだけ大きな“屋号”なのでしょう。この19年でどれだけ時代が変化しても、創刊時に標榜した「"Plain living, high thinking"(シンプルな暮らし、自分の頭で考える力)」という編集理念は色褪せないどころか、ますますその必要性を増しているように感じています。相手にとって不足なし。胸を借りるつもりで、その任にあたりたいと考えています。どうぞよろしくお願いいたします。

「考える人」編集長
金寿煥

著者プロフィール

輪島裕介

1974年石川県金沢市生まれ。音楽学者。大阪大学文学部・大学院人文学研究科教授。専門はポピュラー音楽研究、近現代音曲史、アフロ・ブラジル音楽研究。東京大学文学部、同大学院人文社会系研究科(美学芸術学)博士課程修了。博士(文学)。2010年に刊行した『創られた「日本の心」神話 「演歌」をめぐる戦後大衆音楽史』(光文社新書)で、2011年度の国際ポピュラー音楽学会賞、サントリー学芸賞を受賞。著書に『踊る昭和歌謡 リズムからみる大衆音楽』(NHK出版新書)など。Twitter:@yskwjm

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