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國分功一郎×中島岳志「立ち尽くす思想」

2025年4月18日

國分功一郎×中島岳志「立ち尽くす思想」

第3回 立ち尽くす思想――スピノザと親鸞

著者: 國分功一郎 , 中島岳志

 哲学者・國分功一郎さんの『中動態の世界 意志と責任の考古学』がついに文庫化! それを記念して、政治学者・中島岳志さんとの対談をお送りします。

 対談は6年前、2019年1月に実施。当時、東京工業大学(現・東京科学大学)の「同僚」で、かつ「同学年」のふたりが、それぞれの著作(『中動態の世界』や『親鸞と日本主義』など)について語り合いました。『中動態の世界』で國分さんが、「いまわれわれは言語と思考の関係を社会や歴史のなかで考えるという、ある意味では当たり前の出発点に立っている」と述べたように、「言葉」についてスタートした対談は、やがて政治や思想といった領域にまで広く深く展開していきます。知性と覚悟にみちあふれた濃厚な議論をお見逃しなく!

(目次)

【第1回】 言葉はどこからやって来るのか――中動態と与格構文(4月4日配信)
【第2回】 尻の政治――立憲主義と民主主義(4月11日配信)
【第3回】 立ち尽くす思想――スピノザと親鸞(4月18日配信)
【第4回】 もう一隻の船をつくる――熱狂と懐疑(4月25日配信)

中島岳志氏(左)と國分功一郎氏(右)

(第1回 言葉はどこからやって来るのか―中動態と与格構文)

(第2回 尻の政治―立憲主義と民主主義)

意志と責任

國分 『中動態の世界』が出版された後に、少数ですが「これは無責任でもいいということですか?」と指摘されたことがあります。「古代ギリシアには意志の概念がなかった」「意志を行為の源泉と考えるのは難しい」など、中動態の概念を通じて意志についてやや批判的な見方をしたので、そのような指摘が出てきたのだと思いますが。

 この本のサブタイトルは「意志と責任の考古学」で、「意志」については徹底的に議論できたと思っていますが、実は「責任」の話はあまりできていないという自覚があります。それは僕の考えがまだまとまっていなかったからなのですが、刊行後にいろいろなところで話をする中で、徐々にわかってきたのは、むしろ中動態がなければ人は責任をきちんと考えられないし、責任を取れないのではないかということです。

 どういうことかというと、「責任」は英語で“responsibility”で、そこには「応答する(“response”)」という意味が含まれています。つまり、自分が直面した事態に応答すること、それが本来の「責任」です。この考え方、つまり「出来事に対して、私は応答しなければいけない」と考えるのは、まさに中動態的なプロセスでもあります。

 しかし今は「責任」というものを、人に押し付けるものとして考えているのではないでしょうか。それも「意志」という概念を使って。いわく、「お前が自分の意志でやったことなんだから、自分で責任を取れよ」というような。つまり無理やり応答させるために、意志という装置を使っている。こうした態度は、「責任(responsibility)」の堕落した態度ではないか、というのが今の僕の考えです。

 新約聖書に「善きサマリア人のたとえ」という有名な一節があります。ある人が道中で強盗に襲われ、身ぐるみを剥がされて、道端に倒れていた。そこに通りがかった人の中で、サマリア人だけがこの人を助けたという話です。このサマリア人は傷の治療をして、宿まで運び、その宿代まで払う。

 もともと「責任」というものは、このサマリア人の「義の心」ではないかと思うわけです。彼は別に主体的かつ能動的に責任を取らなくちゃいけないと思ったわけではなくて、たまたま倒れている人を見て、それに応答する形で行動をした。つまり、意志による押し付けではなく、「自分が助けなきゃいけない」という気持ちが心に発生したゆえの行動だったわけです。これこそが中動態的なプロセスであり、そうして初めて人は責任を取ったと言えるのではないでしょうか。

 だから意志を疑うということは、「真の責任の概念とは何か」ということを考える契機として必要だったということが、今徐々に気づき始めたことなんです。

立ち尽くす政治

中島 今の「責任」をめぐる考えは、政治学的にもかなり重要な概念ですね。というのは謝罪の問題です。これについては國分さんが『中動態の世界』でも言及していますので、少し引用してみましょう。

 

 私が何らかの過ちを犯し、相手を傷つけたり、周りに損害を及ぼしたりしたために、他者が謝罪を求める。その場合、私が「自分の過ちを反省して、相手に謝るぞ」と意志しただけではダメである。心のなかに「私が悪かった…」という気持ちが現れてこなければ、他者の要求に応えることはできない。そしてそうした気持ちが現れるためには、心のなかで諸々の想念をめぐる実にさまざまな条件が満たされねばならないだろう。

(略)たしかに私は「謝ります」と言う。しかし、実際には、私が(・・)謝るのではない。私のなかに(・・・・・)、私の心のなかに、謝る気持ちが現れる(・・・)ことこそが本質的なのである。(『中動態の世界』「第1章 能動と受動をめぐる諸問題」)

 

 この一節は、「意志を行為の源泉と見なすのは難しい」という文脈に沿って書かれた箇所ですが、これを政治における「謝罪」の問題とつなげて考えることができると思います。例えば水俣病をめぐる問題や、韓国をはじめとした東アジアの国々に対する日本の戦争責任とそれをめぐる謝罪の問題。これまでも時代時代で、多くの日本の政治家が謝罪を表明してきたのに、問題が逆にこじれていくのはなぜなのか。それはここに書かれたことや、先ほどお話された意志と責任の問題に核心があると思います。

國分 そう思います。

中島 やはり能動的なんですよね。

國分 はい。相手は自分たちが謝られているとは思っていない。

中島 いくら言葉を尽くしても、謝罪として受け止められないことがある。逆に、一言も言葉を発していないにもかかわらず、この人の中には謝罪の心が宿っていると思えることがあるじゃないですか。その姿を見た時に、初めて許す心が生まれるわけで。

國分 先ほど引用していただいた文章で言いたかったのは、まさにそのことです。

中島 なぜ水俣病の問題が長い間和解に至らなかったのか、戦争責任や歴史認識をめぐる問題がこじれ続けるのか。やはりオルテガが言うところの尻の問題、あるいは立ち尽くすというような態度が政治家にないからだろうと思います。

國分 なるほど。立ち尽くす、ですか。

中島 亡くなった野中広務さんは、官房長官の時代、ハンセン病の問題について相当尽力をしたそうです。それは国を相手どった訴訟の和解のために動いたという制度的なものだけではなく、ある政治家から聞いたことなのですが、ハンセン病の人たちの集会に行くと、そこには必ずといっていいほど、野中さんがいたそうです。政治家というのはとにかく忙しいから、どんな会合でも開始から10~20分ほど文字通り顔を出して、次の行先に向かうものですが、野中さんはそこでじっと座っていたそうです。しかも特に発言もしないで、ただひたすら話を聞いている。だから、解決できたんじゃないかとその政治家は言っていたのですが、「立ち尽くす政治」というのは、まさにこのような野中さんの態度のようなことでしょう。

 こんなことを言うと、必ず「それのどこが政治学なんだ」と言う人が出てくるのですが、私は政治学だけをやっていても政治のことはできないと思っています。

國分 僕も全く同じことを大学生の時に考えましたね。

中島 政治学だけでは政治のことはできない。違う場所、違う視点から政治にアプローチしないといけない。そうでなければ、政治は本質的に動きません。それは文学でも哲学でも科学でもいい―という感覚は、おそらく國分さんと共有できていると思うのですが。

國分 全く同感です。

中島 もちろん議論の本丸として、先ほどから話しているようなこれからの民主主義や近代的主体についてというテーマはありますが、政治学だけでそれらを解決できるかというと、私はできないと思っています。

「『中動態』から意志と責任について考えたい」という國分氏

「信じる」について―親鸞に学ぶべきこと

國分 先ほどの野中さんの話は非常に示唆的です。何も言わずにじっと座って話を聞く―いわば立ち尽くすことで、むしろ相手に何かが伝わったというのは、非常に多くのことを教えてくれますね。もちろん言葉や行動で示すことも大事なのですが、その出発点に気持ちがなければ伝わらない。

 先ほど「善きサマリア人のたとえ」のところで「義の心」ということを言いましたが、そういった「悪かった。申し訳ない」とか「すいません」とかいう気持ちをどのようにして持てるだろうかと考えた時、ひとつは「信じる」という問題があるのではないかと最近思うようになりました。

 別にそれは宗教的な「信心」ではなく、例えば何かの価値を信じる。人権でも尊厳でも民主主義でもいいのですが。ハンナ・アーレントも、「信じていないのが大衆社会の特徴である」というようなことを言っています。大衆は何も信じていない。それがゆえに何でもすぐに信じてしまうと。これは全く今につながる問題だと思うわけです。

中島 いわゆる「フェイク・ニュース」にしてもそうですね。

國分 例えばIOCの総会で、安倍首相が「福島はアンダーコントロールである」と言う(註 2013年のIOC総会にて、安倍晋三首相[当時]が東日本大震災で起きた原発事故の放射能汚染水の状況を「アンダーコントロール」と発言)。「そうなんだ、良かった」とすぐに信じてしまう人が多いのは、実は何も信じていないからで、だから後で「騙された」と思っても、その怒りも大して持続しない。つまり何も信じていないがゆえにすぐ信じてしまう、というパラドックスがあって、それはシニシズムと隣り合わせのものになっている。何だか全てを達観した顔をして、「ああ、そんなことはもうわかっているよ」とやり過ごしていく。

 人がそのような態度を採っている限りは、立ち尽くしたり、責任に応答したりすることはできないでしょう。もちろん「信じる」にも背中合わせの危険があるのですが、人が立ち尽くしたり、応答したりするためには、まずは古典的かもしれないけど、「信じる」ということをきちんと考えなければいけない。

中島 本当に重要な問題ですね。親鸞を考える上でも、「信じる」という問題を避けては通れません。親鸞というのは、最後まで「信じる」ということを疑った人でした。『歎異抄』には、「いくら念仏を唱えていても往生できるという確信が一向に生まれない」と信者から問われるシーンがあって、それに対して親鸞は「いや実は自分もそうなんだ」と答える。親鸞は「信じる」ということを最後まで疑ったけど、一方で「他力本願」ということを言い続けた。

 よく「絶対他力」と表現される親鸞の思想ですが、むしろこれは「絶対無力」としか言いようのないものではないかと私は考えています。

 吉本隆明は『最後の親鸞』(ちくま学芸文庫)で、念仏を唱えるというのは自力だろうと書いています。つまり「念仏を唱えれば往生できる」―この因果関係を認めてしまうと、往生するための手段として念仏があることになり、その瞬間、念仏は自力となる。はたしてそれを「絶対他力」と言えるのだろうか。おそらく親鸞は、その念仏すら疑ったのではないか。それが最後の親鸞の姿であり、「信じる」と「往生」の関係も壊してしまったのではないか―というのが吉本の書いたことです。

 けれども、私はちょっと違うのではないか、もしかしたら「他力の念仏」というものが存在するのではないかと考えています。どういうことかというと、私が読んだ限りですが、親鸞は自力を否定していない。むしろ徹底的に自力をやれ、という人だと考えているんです。徹底的に自力をやった末に発見されるのが、「絶対無力」という立場。どんなに頑張っても不可能なことが、有限の存在の人間にはある。その絶対的な無力の前にさらされ、立ち尽くしたところに他力が降り注いでくる。つまり阿弥陀如来が呼びかけてくる、というのが彼の思想構造なのではないかと。

國分 やはりここでも「立ち尽くす」がでてきますね。

涙はどこからやって来るのか

中島 そのようなことを考えるきっかけになった、ある個人的な経験があります。それは“涙”という問題です。

國分 それは意外なトピックですね。

中島 涙って与格的なものなんですよね。つまり、どこからかやって来るという意味で、コントロールができない。

 数年前の年末、息子が生まれて2か月が経った頃のことです。ちょうど大晦日の夜に息子が高熱を出しました。一気に40度近くまで上がったから、これはまずいと思ってすぐに妻と夜間応急診療に飛び込みました。12月31日だから他の病院は開いておらず、他の急患もたくさんいて、さながら野戦病院のようでした。2時間ほどしてようやく順番が回ってきたのですが、息子はぐったりしてしまって。おそらくRSウイルスだろうということになったのですが、重症の場合は、1か月近くは入院しないといけない。けれど大晦日だからそれもできず、「容態が急変したらすぐに救急車を呼んでください」と言われて、家に戻りました。

 ここから正月の三が日まで看病が続くのですが、とにかく熱が下がらない。息子はゼイゼイと呼吸が荒くなって、顔は真っ赤。母乳を飲ませようと思っても飲まないし、寝ることもできない。夫婦で途方に暮れたというか、まさに立ち尽くすしかありませんでした。

 ようやく4日目の朝になって熱が下がり、心底ホッとしました。ずっと換気もしていなかったので窓を開け、入ってくる冷たい空気が心地よかったのを覚えています。外は冬晴れ、太陽の光が燦々と輝いている。それを見た瞬間、気が緩んだのか、「天才バカボン」のアニメ主題歌を思わず歌ってしまったんですよ。「♪青空の梅干しに~パパが祈るとき~」と。

 歌い始めると、途端に涙がドバーッと溢れてきました。その涙と自分が完全に乖離していて、何で泣いたのかも、涙が止まらないのかも理解できない。そこに自分の意志はなくて、とにかく涙が流れて止まらない。それを見ていた妻は、私が息子を抱いて泣いているから、ちょっとどこかおかしくなったんじゃないかと

國分 それは心配しますよね。

中島 何で涙が止まらないのだろう―ということを考えて気づいたのは、「そうか、自分は無言で祈っていたんだ」と。「祈り」という言葉がフッと浮かんだ瞬間に、気づいたことがありました。

 それは「なるほど、これが親鸞の言っていることか」というものでした。息子を助けてほしいと何かに対して祈っている状態というのは、自力なんですよね。けれどもいくら自力を尽くしても―もちろん自分なりに一生懸命看病を頑張ったのですが―それでも息子の熱は下がらない。いわば私と妻は無力で立ち尽くすしかない。

 その絶対無力の状態に立たされた時、人はその意識がなくても無言で祈っている。何に対して祈っているかという対象もわからずに。そして溢れ出てくる涙を私はコントロールできない―。

 この涙が、親鸞における念仏だったのではないかと私は思いました。私自身が主体的な意志をもった行為ではなく、与格的なものとして「どこからか涙が私にやって来た」。その涙こそが念仏ではないか、与格的な念仏と言えるのではないか。そして、涙を押し出した力が、絶対他力なのではないか。だったら、念仏は自力ではなく他力だと言えるのではないか。

 つまり、先ほど謝罪についての話をしましたが、謝罪に感化されて心が動く時というのは、それが与格的あるいは中動態的だからだと思うのですよね。その表象が、涙や表情や態度であって。

國分 涙が与格的かつ中動態的なものということか。なるほど、今の話を聞きながらいろいろと考えてしまったな。

「“涙”というのは与格的なものかもしれない」と語る中島氏

光と闇の間で―スピノザと親鸞

國分 涙のことを言うと、僕は昔から泣くのが怖かったんですよ。特に映画や本を読んで泣くということが怖くて。

中島 それはコントロールできないからなんですよね。

國分 そうそう。コントロールできないから怖い。でも、大学4年生の時にスピルバーグの『シンドラーのリスト』を観て泣いてしまった。恥ずかしい話ですが。泣いてしまうと、そんなに恐れるものでもないなと。それで初めて、あ、泣いても大丈夫だと思ったのをよく覚えています。

 今の中島さんの話に首肯できるところが多くありますが、一方で自分は少し違うなと感じるところもあります。僕は超越的なものを信じるところもあると同時に、非常に唯物論的な人間であるという自覚があります。その部分がもしかしたら少し違うのかもしれない。

 小さい時から積み重ねてきた無意識の集合によって、人間というのは形成される。例えばそれは、小さい時に親にどう育てられてきたかということです。そういった単純な事実が一方である。つまり、無意識というものは歴史的形成物によってできている。それは、ドゥルーズの言う水平的な「内在」に近いものかもしれない。しかし、その無意識の奥には、フロイトがいくら考えてもたどり着かなかった領域があるだろうと。

 アーレントはその領域を「心の闇」と言っています。人間の心というのは闇があって初めて正常に機能すると。それを全部明らかにしようとすると、人は全員偽善者になる。アーレントはそのことをロベスピエールを例に論じています。ロベスピエールが革命家たちを並ばせて、「いかに革命が大切か。なぜ革命をしようと思っているのか」などと徹底的に尋問する。どんどん動機や理由を語らせようとすると、最終的にはボロが出て、「お前は反革命だ!」と断頭台に送られてしまう。

 やはりアーレントの言う「心の闇」みたいなものはあるのではないかと思います。でも同時にそれは純粋な超越的なものではなく、歴史的形成物によってできているという点も僕にとっては重要です。まさにドゥルーズが、水平的なものから垂直があらわれると言ったように。歴史的に形成された無意識という水平的なものから、フッと「心の闇」のような垂直的なものがあらわれるという。

 このように、僕はいつもどっちつかずに考える傾向があります。水平的なものによって世界は構成されているだろうと思いながらも、どこかで垂直的なものの存在も認めている。その逆もまたしかりで。

 だから中島さんを見ていると、ちょっと憧れみたいなところがあります。「保守」という言葉を正面から引き受けて、ずっとそれを追究されている。自分が納得するまで、どういうことか考え抜いているじゃないですか。

「リベラル保守」宣言』(新潮社、2013年)という本も読んで感動しましたが、それに比べて、僕はどこか中途半端さがある。超越的、垂直的なものに憧れてしまう自分と、「しょせんそれは迷信みたいなもので、この世界は水平的にできているんでしょう」と考える両方の自分がいる。もしかしたらそれは自分の長所かもしれませんが、まだどちらか突き詰められないところがあるんですよ。

中島 そこは実は私も同じです。私も最後の最後で、超越的な存在を信じるということがわかりません。具体的に言うと、仏教とヒンドゥー教の間で引き裂かれているところがあります。ヒンドゥー教はブラフマーやヴィシュヌといった超越的な神を設定していますが、それに対して仏教はもともと超越的な存在を設定していません。それがブッダ入滅後、大乗仏教が興隆し、徐々に阿弥陀如来や大日如来といった超越的な存在があらわれるようになってくる。日本の仏教は大乗仏教の影響を受けているので、その大半に超越軸があります。だから仏教には「大乗非仏説論」といって、「あれはブッダが説いた仏教とは違う」という論争が昔から激しく行われてきたわけです。

 その両方に股裂きになっているんですよね。ヒンドゥー教の教えの中核にある「梵我一如」(註 梵[ブラフマン、宇宙を支配する原理]と我[アートマン、個人を支配する原理]が同一であること)を簡単には信じられないし、だからといって「一切は空であり無明である」と原始仏教のように言い切れないところもある。仏教と非仏教の間にずっと立たされている感じがして、どちらにも相互否定的なところがあります。それがなかなか難しいところで

國分 スピノザにも近いところがありますね。彼の「汎神論」というのは、森羅万象が神であるという考え方で、いわゆる意志をもって人間に裁きを下す神ではありません。それが「無神論」と捉えられることもあったぐらいで、当時の教会からは完全に異端として目をつけられていましたから。

中島 100分de名著 スピノザ「エチカ」』(NHK出版、2018年)で國分さんは、真理についてスピノザの「実に、光が光自身と闇とを顕わすように、真理は真理自身と虚偽との規範である」(『エチカ』第二部定理四三備考)という言葉を引いています。これは「真理の基準というものは真理自体でしかあり得ない」ということですよね。

國分 そうです。ひとつの思考実験として、真理の基準が真理それ自体ではない場合を考えると、その基準の基準、その基準の基準の基準…というように無限の探索が始まってしまいます。つまり、真理の外側に真理の基準を見出すことは原理的に不可能であるという。

中島 真理を考えるために、スピノザは光と闇のメタファーを使っているのが面白いですよね。つまり、先ほど引いた『エチカ』の「光が光自身と闇とを顕わすように」というのは、光というのは唯一光というものを必要としない存在で、闇というのは光が与えられることによって初めてその存在が与えられると。

 そこでどうしても親鸞を想起してしまいます。というのは彼の主著である『教行信証』には、光という言葉が多く登場するからです。親鸞がよりどころとする「阿弥陀仏」のサンスクリット語「アミダーバ」には、「はかりしれない光を持つ者」という意味があります。つまり親鸞は、他力としてやって来るその光の光源を見ようとした。しかし親鸞自身は光に照らされる闇のごとき存在であって、決して光自体にはなれない。

 私はそこに非常に強い親鸞の葛藤を感じます。親鸞というのは「自力/他力」「光/闇」といった二元論に常に引き裂かれていて、どちらか一方の立場に最後まで立つことができなかった人ではないでしょうか。私が強く共感するのもそこのところです。

國分 まさに立ち尽くすわけですね。どちらかの方に簡単に立つことなんてなかなかできない。

中島 親鸞という人は、その「立てない感じ」をとことん追求した。だから永遠の“未完”というか、ずっと梯子を外し続ける人なんですよね。彼は「僧でもなく俗でもなく」という「非僧非俗」という立場をとります。

國分 それはちょっとポストモダン的かもしれない。脱構築し続けるというか。でも、むしろ「どちらかの方に立った」と思い込む方が危険です。

中島 だから親鸞というのは、「俺はわかった!」というような人にとても厳しくて、「わからない」という人には優しい人なんです。それは保守思想の人間観とも共通すると私は考えています。不完全だからこそ、という感覚が大事なんですよね。

度合の思想

國分 スピノザについては、以前「猫町倶楽部」というところで読書会をしたことがあります。100人以上が『エチカ』を読んできて、それぞれの感想を聞いたのですが、面白いと思ったのは、「すごく難しいことが書いてある一方で、ものすごく普通のことが書いてある」という感想でした。ある種のラディカリズムと、自分が今立っているところを絶対に無視しないというスピノザの態度を、とてもよくあらわしていると思いました。

 哲学は概念を追究するばかりで、しばしば自分が立っている場所が見えていないと批判されることがあるのですが、スピノザはそうではない。自分が立っている場所を考えつつ、同時に超越的なものを志向する。そこが僕はスピノザの好きなところでもありますね。

中島 先ほど國分さんはスピノザの保守性について言及されましたが、私もスピノザを読んで直感的にそれを感じました。漸進主義ということをとても大事にしていますよね。國分さんは「100分de名著」でも、「度合」という言葉を出したじゃないですか。

國分 はい。

中島 スピノザは「度合の思想」でもあるのかなと。急激に物事が良くなったり悪くなったりするのではなく、少しずつ良くなる、あるいは悪い方に行き過ぎたら少し修正するとか。その度合の組み合わせであるという思想。これは極めて保守的な考え方だろうと思うんですよ。

國分 そう、度合ですね。だからドゥルーズのスピノザ論の凄いところは、スピノザの中にあった経験論的な部分を映し出したところだと、ある研究者が言っていました。確かにスピノザは経験論的な発想を持っている哲学者で、そこが同じ大陸哲学(註 フランスとドイツを中心とする大陸ヨーロッパで、19世紀以降主流となる哲学)でもデカルトと大きく違うところです。デカルトが大陸哲学の原型になっていく一方で、スピノザはずっと異形であり続けた。それはネグリによるスピノザ論のタイトルが『野生のアノマリー(異形)』であることにも象徴的です。

中島 そこがヨーロッパの思想や哲学の偉大なところかもしれません。その哲学や思想の中心に、それ自体を疑う視点が必ずある。自分たちを常に疑うという懐疑の念を強く持っていて、それが繰り返しいつの時代にもあらわれてくる。エドマンド・バークしかり、オルテガしかり。そのあたりは、先ほど國分さんが東洋に接近せず、ヨーロッパに内在しながらそこを突破する道を見出すという方向性にもつながるのではないでしょうか。

國分 その通りです。

 

「第4回 もう一隻の船をつくる―熱狂と懐疑」を読む

 


*対談の冒頭で國分さんが、「「意志」については徹底的に議論できたと思っていますが、実は「責任」の話はあまりできていない」と語っていましたが、下記リンクの文庫版『中動態の世界』には、「なぜ免責が引責を可能にするのか──責任と帰責性」という「責任」について書き下ろした論考を収録しています。ぜひご確認ください。

中動態の世界

國分功一郎 /著

2025/3/28発売

公式HPはこちら

*中島さんが親鸞の思想、とりわけ戦前の国粋主義者への影響を論じた力作評論が、下記の『親鸞と日本主義』です。こちらもぜひご確認ください。

親鸞と日本主義

中島岳志 /著

2017/8/25発売

公式HPはこちら

國分功一郎

1974年千葉県生まれ。早稲田大学政治経済学部を卒業後、東京大学大学院総合文化研究科修士課程に入学。博士(学術)。専攻は哲学。現在、東京大学大学院総合文化研究科教授。2017年、『中動態の世界―意志と責任の考古学』(医学書院)で、第16回小林秀雄賞を受賞。主な著書に『暇と退屈の倫理学』(新潮文庫)、『来るべき民主主義 小平市都道328号線と近代政治哲学の諸問題』(幻冬舎新書)、『近代政治哲学 自然・主権・行政』 (ちくま新書)、『スピノザ 読む人の肖像』(岩波新書)など。最新刊は『目的への抵抗 シリーズ哲学講話』(新潮新書)。

中島岳志

1975年、大阪府生まれ。政治学者、東京科学大学(旧東京工業大学)リベラルアーツ研究教育院教授。専門は、インド政治、日本思想史、現代日本政治。大阪外国語大学外国語学部ヒンディー語学科卒業、京都大学大学院博士課程修了。北海道大学公共政策大学院准教授を経て、現職。2005年、『中村屋のボース インド独立運動と近代日本のアジア主義』(白水社)で、大佛次郎論壇賞とアジア・太平洋賞大賞を受賞。主な著書に、『「リベラル保守」宣言』(新潮文庫)、『血盟団事件』(文春文庫)、『親鸞と日本主義』(新潮選書)、『保守と立憲』(スタンド・ブックス)、『思いがけず利他』(ミシマ社)、『テロルの原点 安田善次郎暗殺事件』(新潮文庫)など。

親鸞と日本主義

2017/08/25発売

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 はじめまして。2021年2月1日よりウェブマガジン「考える人」の編集長をつとめることになりました、金寿煥と申します。いつもサイトにお立ち寄りいただきありがとうございます。
「考える人」との縁は、2002年の雑誌創刊まで遡ります。その前年、入社以来所属していた写真週刊誌が休刊となり、社内における進路があやふやとなっていた私は、2002年1月に部署異動を命じられ、創刊スタッフとして「考える人」の編集に携わることになりました。とはいえ、まだまだ駆け出しの入社3年目。「考える」どころか、右も左もわかりません。慌ただしく立ち働く諸先輩方の邪魔にならぬよう、ただただ気配を殺していました。
どうして自分が「考える人」なんだろう―。
手持ち無沙汰であった以上に、居心地の悪さを感じたのは、「考える人」というその“屋号”です。口はばったいというか、柄じゃないというか。どう見ても「1勝9敗」で名前負け。そんな自分にはたして何ができるというのだろうか―手を動かす前に、そんなことばかり考えていたように記憶しています。
それから19年が経ち、何の因果か編集長に就任。それなりに経験を積んだとはいえ、まだまだ「考える人」という四文字に重みを感じる自分がいます。
それだけ大きな“屋号”なのでしょう。この19年でどれだけ時代が変化しても、創刊時に標榜した「"Plain living, high thinking"(シンプルな暮らし、自分の頭で考える力)」という編集理念は色褪せないどころか、ますますその必要性を増しているように感じています。相手にとって不足なし。胸を借りるつもりで、その任にあたりたいと考えています。どうぞよろしくお願いいたします。

「考える人」編集長
金寿煥

著者プロフィール

國分功一郎

1974年千葉県生まれ。早稲田大学政治経済学部を卒業後、東京大学大学院総合文化研究科修士課程に入学。博士(学術)。専攻は哲学。現在、東京大学大学院総合文化研究科教授。2017年、『中動態の世界―意志と責任の考古学』(医学書院)で、第16回小林秀雄賞を受賞。主な著書に『暇と退屈の倫理学』(新潮文庫)、『来るべき民主主義 小平市都道328号線と近代政治哲学の諸問題』(幻冬舎新書)、『近代政治哲学 自然・主権・行政』 (ちくま新書)、『スピノザ 読む人の肖像』(岩波新書)など。最新刊は『目的への抵抗 シリーズ哲学講話』(新潮新書)。

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中島岳志

1975年、大阪府生まれ。政治学者、東京科学大学(旧東京工業大学)リベラルアーツ研究教育院教授。専門は、インド政治、日本思想史、現代日本政治。大阪外国語大学外国語学部ヒンディー語学科卒業、京都大学大学院博士課程修了。北海道大学公共政策大学院准教授を経て、現職。2005年、『中村屋のボース インド独立運動と近代日本のアジア主義』(白水社)で、大佛次郎論壇賞とアジア・太平洋賞大賞を受賞。主な著書に、『「リベラル保守」宣言』(新潮文庫)、『血盟団事件』(文春文庫)、『親鸞と日本主義』(新潮選書)、『保守と立憲』(スタンド・ブックス)、『思いがけず利他』(ミシマ社)、『テロルの原点 安田善次郎暗殺事件』(新潮文庫)など。

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