シンプルな暮らし、自分の頭で考える力。
知の楽しみにあふれたWebマガジン。
 
 

國分功一郎×中島岳志「立ち尽くす思想」

2025年4月25日

國分功一郎×中島岳志「立ち尽くす思想」

第4回 もう一隻の船をつくる――熱狂と懐疑

著者: 國分功一郎 , 中島岳志

 哲学者・國分功一郎さんの『中動態の世界 意志と責任の考古学』がついに文庫化! それを記念して、政治学者・中島岳志さんとの対談をお送りします。

 対談は6年前、2019年1月に実施。当時、東京工業大学(現・東京科学大学)の「同僚」で、かつ「同学年」のふたりが、それぞれの著作(『中動態の世界』や『親鸞と日本主義』など)について語り合いました。『中動態の世界』で國分さんが、「いまわれわれは言語と思考の関係を社会や歴史のなかで考えるという、ある意味では当たり前の出発点に立っている」と述べたように、「言葉」についてスタートした対談は、やがて政治や思想といった領域にまで広く深く展開していきます。知性と覚悟にみちあふれた濃厚な議論をお見逃しなく!

(目次)

【第1回】 言葉はどこからやって来るのか――中動態と与格構文(4月4日配信)
【第2回】 尻の政治――立憲主義と民主主義(4月11日配信)
【第3回】 立ち尽くす思想――スピノザと親鸞(4月18日配信)
【第4回】 もう一隻の船をつくる――熱狂と懐疑(4月25日配信)

中島岳志氏(左)と國分功一郎氏(右)

【第1回】 言葉はどこからやって来るのか―中動態と与格構文(4月4日配信)
【第2回】 尻の政治―立憲主義と民主主義(4月11日配信)
【第3回】 立ち尽くす思想―スピノザと親鸞(4月18日配信)

政治への関心と熱狂への懐疑

國分 中島さんと僕は学年が一緒ということもあり、少し同時代的経験みたいなことについても話をしたいと思います。『「リベラル保守」宣言』(新潮文庫)で印象的だったのは、1989年のルーマニアにおける政変について書かれたところです。1989年、東欧諸国で次々と「民主革命」が起きた年に我々は中学3年生でした。

 実は僕も中島さんと同じように、チャウシェスク大統領が大統領宮殿を追い出され、身柄を拘束され、まともなプロセスを経ないままあっという間に処刑されてしまったことに強い衝撃を受けました。ですから、中島さんがこの事件のことをはっきりと覚えていて、本にまで書いていることに強く共感したのです。

 僕がハッとさせられたのは、当時の「ニュースステーション」のコメンテーターをしていた小林一喜さん(註 元朝日新聞編集委員。1991年に逝去)のコメントでした。小林さんはそのニュースを受けて、「民衆が独裁政権を倒したのは、民主革命としてすばらしいことでしょう。だとしたらなおさらのこと、チャウシェスクをきちんとしたプロセスをふんで裁くべきだったのではないでしょうか」とコメントした。みんなが「独裁政権、打倒!」と喜んでいたところに、こんなコメントをする小林さんに僕は感激したし、自分もそんな風に政治を考えなければならないと強く思ったのです。

 中島さんもかなりそれに近いことを感じられたようで、そのことが『「リベラル保守」宣言』に書いてあります。その部分を引用してみます。

 

 「私がチャウシェスクを殺した」と思ったからです。

 ―大衆の熱狂が、歴史的検証を一切放棄し、熱狂の中で人を殺す。そして、そのことを正義と信じて、さらに熱狂する。人々が熱狂に熱狂する。

 間違いなく、私はそんな暴力を働いた一員でした。私もチャウシェスクに向けた銃の引き金を引いた一人でした。(『「リベラル保守」宣言』「熱狂への懐疑」)

 

中島 ニュースを追っていて、途中までは完全に民衆の側にシンパシーを持っていて、「行けー! あんな独裁者倒してしまえ!」なんて思っていました。それなのにチャウシェスクがすぐに処刑されたことを知って、言語化できない恐怖を覚えました。「俺みたいな奴がやるんだ」と思いましたね。自分の中にも、こういった熱狂に乗って大変な過ちを犯してしまうようなそそっかしさが間違いなくあるぞ、こういう時こそ慎まないといけないし、気を付けた方がいい、と。それで2日間寝られなかったんです。

 熱狂しやすいことと、それゆえの危なっかしさ。以来、熱狂してしまいそうな時は、少し違う角度から物事を見るという習慣をつけようと。加えて、政治というのは何か危ないなという感覚を持つようになりました。

國分 確かに当時は東西冷戦の終焉をめぐる問題だけでなく、国内でも政治改革やリクルート事件などがあり、政治の激動期でもありましたからね。

中島 その激動ぶりをリアルタイムで目の当たりにして、揺さぶられました。私はチャウシェスクのこともあって、「政治的な人間は危ない。革命というのは危ないな」とさっと身を引きました。それもあって高校時代は文学というか小説ばかりを読むようになって。それが1995年を機に、また政治の方へと関心を向けていく―というのが私の遍歴みたいなものです。

國分 同学年なので、そのあたりの感覚はよくわかります。ちょうど中学生から高校生にかけての反応しやすい時期に起きた出来事だったから、余計に衝撃的でしたよね。チャウシェスクの「宮殿」が襲われたり、ベルリンの壁が壊れたりする映像を繰り返し繰り返し何遍も見せられたから、思春期の人格形成に大きな影響を受けたのは間違いない。

 僕は高校生になっても政治に関心を持っていました。それには高校2年生の時に起きた、1991年の湾岸戦争が大きい。あのときまで、新聞の社説というのは当たり障りのない、世の中の建前を書くところなんだと思っていました。つまり結論は分かっていて、それを変える気などない、そういう態度で書かれる文章ですね。我々はそういう建前につきあっていかないといけないのだろうと漠然と感じていました。

 ところが、湾岸戦争の時、主に自衛隊の海外派遣についてですが、結論が分からないことについて、各社が対立する意見を戦わせるということが起こった。少しだけリアルな政治がジャーナリズムにおいて語られるようになった瞬間を目にしたということなのかもしれません。高校生にも、「ああ、そうか政治というのは海の向こうの話ばかりではなくて、この日本にも確かに存在しているんだ」と感じられた。

 憲法九条をめぐる議論にしても、湾岸戦争をきっかけとして盛んになっていった。東西冷戦が終わり、国際関係が変化したことで、日本の世論も変わり始めた。別の政治的リアリズムが求められ、それが今にも続いている。あの時に、別の政治的リアリズムがなかったのかと今になって思ったりもするのですが。

「1990年代前半には政治への興味を失っていた」という中島氏

失われた生の実感

中島 そうですね。1990年代前半には、先ほど言った恐怖心もあって、私は政治への関心を完全に失っていたわけですが、その時代の空気として象徴しているものがいくつかあると思っています。

 そのひとつが『完全自殺マニュアル』(鶴見済、太田出版)です。この本は1993年7月に刊行されました。その1か月後、1993年8月には細川内閣が発足しています。だから1993年というのは重要な年だと思っているのですが、当時の自分にとっては『完全自殺マニュアル』のインパクトの方が圧倒的に大きいものでした。

 私は当時自殺しようと思うことはなかったのですが、この本を読んだ時に感じた異様さというのは強く印象に残っています。あの本の「はじめに」には、「もう死んじゃってもいい」とはありますが、「死ぬべき」「死ね」とは書かれていません。「延々と最先端スポットができ続けて、延々と政治家は汚職をし続けて、テレビのなかは延々と激動し続ける。だけどテレビのスイッチを消してまわりを見回すと、いつもとなんにも変わらない毎日があるだけだ」とあって「こうして無力感を抱きながら延々と同じことをくり返す僕たちは、少しずつ少しずつ、“本当に生きてる実感”を忘れていく。生きてるんだか死んでるんだか、だんだんわからなくなってくる」。

 そうした繰り返しに耐えられなくなっているところで、“死”というものを「金属カプセル」に入れておけば、いつでも生を終えることができるし、初めて生を受け入れることができるのではないかと。死をカプセルに入れることを、「ポジティブな行為だ」と言っているわけです。

 これは政治を離れて文学ばかり読んでいた当時の自分にも引っかかるものがあったし、時代の感覚とも合うものだったと思います。

 もうひとつが岡崎京子のマンガ『リバーズ・エッジ』(宝島社)です。これは1994年6月刊行、つまり私が大学に入学してすぐに刊行されました。「自分が生きてるのか死んでるのかいつも分からないでいるけど」というセリフがあったり、「平坦な戦場で僕らが生き延びること」というフレーズが繰り返し出てきたり、『完全自殺マニュアル』と通じた感覚がある作品だと思っています。「小惑星が激突して地球の生態系はメチャクチャになる」とか、フロンガスによってオゾン層が破壊されているとか言われているけど、実感も現実感もない。今こうして歩いていることも実感も現実感もない。「山田君」という登場人物は、河原にある死体を「宝物」だと思っていて、その死体をみるとホッとするし、勇気が出ると。

 二つの作品は、いずれも生というものに対するリアリティのなさを描いていますが、これに最大の答えを与えたのが、私は小林よしのりだと思っています。

國分 なるほど。小林よしのりの『戦争論』(幻冬舎)は1998年刊行ですか。

中島 『戦争論』というのは、究極には死の問題を扱っています。「戦死をする」というリアリティを描くことで、国家のために命を懸けた人たちを誇りに思えという本です。あの本の冒頭は「平和である」から始まります。そんな世界の中で、みな生きる意味を失っている。その人たちに、かつて国のために命を懸けていった人々がいることやその意味はわからないだろう。ならば、この本でそれを伝えようというメッセージが込められていた。

 こうした小林よしのりのメッセージは、生のリアリティを失いつつあった時代に強烈なインパクトを与えました。一方である部分では、それが今に続く右傾化の問題にもつながっていく。それに対して、宮台真司の「終わりなき日常をまったり生きろ」というようなメッセージは力を失っていきました。どちらのメッセージが今しぶとく生き残っているかは、火を見るより明らかです。

 同じ頃に私は保守や親鸞といった問題と出会うわけですが、そこにはこれらの作品群がはらんでいた同時代的なメッセージを考える上で、非常に重要な示唆がありました。その意味では、國分さんが最初に「中動態」という言葉と出会った時に感じた何かと世代的に共有するものがあるのではないかと思います。

國分 なるほど。今の話を僕自身が世代的実感を伴いながら聞いていました。少し整理をすると『完全自殺マニュアル』は、死をカプセルに入れることで逆説的に生の実感を得るという意味では、ハイデガーを想起させますね。死を想うことで、生を実感するというのは、『存在と時間』で書かれた「死への先駆」そのままです。アーレントも、大衆社会において人は経験する能力を失うと書いていますが、まさにそんな状態だったと言えるでしょう。

 先ほどの話で僕も久しぶりに『完全自殺マニュアル』のことを思い出しましたが、あの本の「はじめに」には、「原発は爆発しなかった」と書いてありましたよね(「だけど世界は終わらなかった。原発はいつまでたっても爆発しないし、全面核戦争の夢もどこかに行ってしまった」)。しかし、それから20年近くが経ち、実際に原発は爆発してしまったという“現実”がある。

 つまり「生という実感」が何かわからないとか言っているうちに、“現実”がやって来てしまった。一方で、小林よしのりは「生の実感」を得るために、「戦争という物語」が必要だと言った。つまり現実と物語が実感を追い越して、はるか先に行ってしまったとも言えるわけです。今はその後遺症というか、現実や物語について考えるという当たり前のことができなくなっているのではないでしょうか。

 僕は2011年10月に『暇と退屈の倫理学』という本を出しましたが、刊行当時は自分なりの「3・11以降の社会に対する提案」という意識がありました。それをごく簡単に言うと、「楽しく社会を変えていこう」ということです。みんな一人一人が楽しさを大事にすれば、それによってある種の実感を得ることになるだろう。また、それを通して自分自身についても勉強することになるだろうと。

 しかし今は、その後の時代の大きな変化もあって、そういった気持ちをとてもじゃないけど持てなくなってしまいました。むしろ今は「徳や価値が大事だ」と言い出す、説教臭いおじさんみたいになってきています。もちろん『暇と退屈の倫理学』を自分で否定することは全くないのですが、今の若い人があの本をどうやって読むかというと、おそらく当時と同じようには感じないだろうなという気がするんです。

 だからアーレントではないですが、何か経験する能力を失っている時に、どのようにして実感というものを手にすることができるかというと、ちょっとまだ答えが見つからないでいますね。「現実を見ろ」でも「物語を読め」でも、そのどちらでもないとは思うのですが、そこは悩んでいるところです。

かつては「楽しく社会を変えようと考えていた」という國分氏

歴史はソリューションできない

中島 その感覚は非常によくわかります。少し話がずれるかもしれませんが、先ほども申し上げたような保守についての議論―例えば本来保守というのは懐疑的であるべきで、まずは主義主張の違う相手の話を聞いて、そこから合意形成をしていく―ですが、これはいわゆるエリート層には受けるんです。ただ札幌時代に知り合った商店街の店主などに同じ話をしても、みんなポカンとしている。それは意味や内容がわからないというのではなくて、みんな「何でこんな当たり前のようなことをわざわざ話しているんだ。そんなの常識じゃないか」という反応をされます。別に彼らにとっては、面白くも何ともない普通の話で、そこに私は希望があると思っています。

 例えば、店にはいろいろな客が来る。その人たち相手に商売しないといけないのに、店主が主張ばかりしていたら売れないに決まっているだろうと。そんな当たり前のことも政治学の先生はわからないのかと。こうした反応を見ると、私は心底安堵します。

 このように彼らが「常識」と言っているものを、私たちは今もう一度考え直さなければいけない時代なのではないでしょうか。当たり前のようにあったはずの経験や常識を猜疑的に受け止める、つまりもう一度再認識しないといけない。まさに小林秀雄が「伝統というものは、伝統の中にいる人間には見えやしない」と言っているように、伝統や常識、経験といったものを私たちは失ってしまった。この「失ってしまった」という実感から、あらためて考えなければいけない。そうした逆説というか再帰性を大事にしなければいけない。

 だから國分さんの、今はわざわざ「徳や価値が大事である」と言わざるを得ない状況ということに、私も共感を覚えます。それをふまえて、どうやって「もう一隻の船」を用意するかを根本から考えないといけない。

國分 同感です。具体的かつ表層的な政策はもちろん大事なんだけど、おそらくそれだけでは解決できない。

中島 はい。だから新自由主義化が進む世界に対して、再配分を強化してセーフティネットをつくる―というような政策論は大事ですが、それだけでは「もう一隻の船」にはおそらくならない。

國分 そういうことです。

中島 それを根本から下支えする思想や政治構造を考え、鍛え直していかないといけない。それは与格や中動態を議論の根拠とするような人間観であり近代的主体といった問題でもあると思います。

國分 どうしても今は「ソリューション」ばかりが求められるでしょう。政策でも政治学でも。すぐに「対案を出せ」と言うのがよい例です。もちろんソリューションできるなら、それに越したことはないですよ。でも、明らかに従来の考えのままでは解決できない問題がある。先ほどの「立ち尽くす思想」とか「尻の政治」とか、一見してソリューションには何の寄与もしないように見えるものが、実は長いスパンでソリューションにつながることもあるわけです。そういったことになかなか目が向かないのが今という時代ですね。

 昨年(註 2018年)、フランス人の学者と対談した時、彼が言っていて面白いなと思ったのは、ある政治的な出来事があったとして、それが歴史に書き込まれるためには、歴史の方が何か変わらないといけないのだということです。何か大きな出来事があると、我々はすぐに歴史的なインパクトということを言うけれど、それは時期尚早で、歴史がその出来事を受容できるか、歴史はまだその出来事を許容できない可能性があるということを考えなければいけない。彼には、政治や歴史というのは、決してソリューションの対象にならないものという考えがあるのでしょう。我々が意図して簡単に歴史を動かすことはできないという。やはり出来事が歴史になるのには、長い時間がかかる。それについて誰かが本を書いたり、議論したりして、また新しい考えが生まれたりしながら、やっと見えてくるものがあるだろうと。

人間は完全に理知的でも合理的でもない

中島 大いに賛同いたしますが、そう言うと下の世代からは「おじさん臭い」と思われてしまいそうです(笑)

國分 「おじさんの説教」に聞こえてしまいますかね。

中島 世代の違いなのか人間観なのかわかりませんが、おそらく「そんな悠長なことを言ってられない」と考える人も多いとは思います。

國分 むしろ「未来に対する想像力がない」とか言われるのかもしれない。

中島 ただその「想像」にしても、概念が全く違うんですよね。AIについての議論が今は盛んですが、私は人工知能の問題こそ、國分さんの中動態という概念をきっちり捉えないとダメだと思います。結局のところAIというのは、最終的には文学も美術もつくれないと思っていて、その理由は与格的な概念がないからだと考えています。

國分 そうですね。AIの限界というのは欲望ができないことだと、あるシンポジウムで発言したことがあって、「欲望がどのようにして発生するのか」というのは、結局、「他者は何を考えているのか」を解明することで、それは哲学でも脳科学でもいまだ解明し切れていないわけです。「欲望する機械」をつくろうという動きもあるみたいですが、そこが解明できない以上、実装できるとしても、部分的なものにしかならないはずです。

中島 やはりそもそも人間というものが、完全に理知的で合理的な存在ではないということを普遍的な考えとして持つべきだと思います。そこからスタートして、では何ができるかを考えるべきで。

國分 僕が中動態などについて話をすると、世代を超えて興味を持ってくれる人もいるので、そう考えている人も一定数いるとは思いますが。

中島 2009~2012年の民主党政権がなぜだめだったのかというと、やはり理知やテクニカルナレッジへの傾斜だったと思っているんですよ。

 当時私も「新しい公共」という議論に少し加わりましたが、これはユルゲン・ハーバーマスが言っているように、これからは市民社会の領域における社会的再配分が必要であるという考えです。例えば、寄付を増やすにはどうしたらいいかを考えた時、民主党はそれを税制におけるテクニカルな問題であると結論づけました。つまり、アメリカなど諸外国で寄付金が多いのは税的な優遇があるからだろうと。そこに問題を収斂させてしまって、結局法案化されたのですが、だからといって寄付金が増えるなんてことはないわけです。このように社会的な諸問題に対して、設計を技術的に改良すれば問題は解決すると安易に考える場面が他にも多くありました。

 つまり根本的な動機付けに対する検討が疎かなんです。功利的なアプローチとそれを誘導する技術的な設計を考えるだけでは、人は動かないのは明らかです。それだけで人は寄付をしません。

 責任や謝罪の話のところで出た「義の心」ではありませんが、やはり中動態や与格といったところにまで問いを下ろしてから始めないと。貧しい子供を助けたい、あるいは被災地の生活を支えたいでもいいのですが、そうして自分の中で湧きあがった「義の心」や感情というものを根本から考えないといけない。

 おそらくそうした感情をこれまで言葉にしてきたのが、宗教の領域でしょう。アメリカやインドといった経験主義的な社会で寄付が多いのは、ひとつは宗教という問題を抜きにして考えられない。それを日本社会にどう持ってくるかを考えた時に、税制を優遇するだけで万事解決というのは、あまりにも短絡的だと思います。

 民主党政権の失敗には、こうしたテクニカルナレッジへの傾倒というのがイコールでつながっている部分が他にもたくさんあります。だからもう一度、自民党に代わる政権をつくるのであれば、何度も言っているように、「もう一隻の船」をつくらなければいけない。その時には、表層的な議論だけでは「もう一隻の船」にはなり得ませんから、じっくり根本から考えなければいけない。そのためには時間がかかると思いますが。

國分 時間はかかるでしょうね。イギリスでもブレアの労働党が政権を奪取するまでに、やはりかなりの時間がかかりましたから。そこからまた政権を失って、また10年以上経って、少しずつ労働党もプレゼンスを上げてきていますが、そこまではかなりの時間がかかりました(註 2024年7月に行なわれた英国下院議会選挙で労働党が圧勝。党首であるキア・スターマーが首相に就任し、14年ぶりの政権交代となった)。

中島 どうしても政治家は選挙があるので近視眼的にならざるを得ない。もちろんそれもわかるのですが、一方で、政治家こそ文学や哲学について考えてほしいと思うわけです。

國分 同感です。今回の対談で多くの論点が出たと思います。もちろんまだまだ議論を深めていかなければいけないのですが、そのポイントは見えてきたように思います。引き続きよろしくお願いいたします。

中島 こちらこそよろしくお願いいたします。(了)

対談を終えた中島氏(左)と國分氏(右)

 

 

*本対談は今回で最終回です。ご愛読に感謝申し上げます。

 

*國分功一郎さんの『中動態の世界 意志と責任の考古学』文庫版が発売中です。書き下ろしの論考「なぜ免責が引責を可能にするのか──責任と帰責性」も収録しています。

中動態の世界

國分功一郎 /著

2025/3/28発売

公式HPはこちら

*中島岳志さんが、親鸞の思想、とりわけ戦前の国粋主義者への影響を論じた力作評論。一筋縄でいかない信仰と愛国の関係に迫っています。

親鸞と日本主義

中島岳志 /著

2017/8/25発売

公式HPはこちら

國分功一郎

1974年千葉県生まれ。早稲田大学政治経済学部を卒業後、東京大学大学院総合文化研究科修士課程に入学。博士(学術)。専攻は哲学。現在、東京大学大学院総合文化研究科教授。2017年、『中動態の世界―意志と責任の考古学』(医学書院)で、第16回小林秀雄賞を受賞。主な著書に『暇と退屈の倫理学』(新潮文庫)、『来るべき民主主義 小平市都道328号線と近代政治哲学の諸問題』(幻冬舎新書)、『近代政治哲学 自然・主権・行政』 (ちくま新書)、『スピノザ 読む人の肖像』(岩波新書)など。最新刊は『目的への抵抗 シリーズ哲学講話』(新潮新書)。

中島岳志

1975年、大阪府生まれ。政治学者、東京科学大学(旧東京工業大学)リベラルアーツ研究教育院教授。専門は、インド政治、日本思想史、現代日本政治。大阪外国語大学外国語学部ヒンディー語学科卒業、京都大学大学院博士課程修了。北海道大学公共政策大学院准教授を経て、現職。2005年、『中村屋のボース インド独立運動と近代日本のアジア主義』(白水社)で、大佛次郎論壇賞とアジア・太平洋賞大賞を受賞。主な著書に、『「リベラル保守」宣言』(新潮文庫)、『血盟団事件』(文春文庫)、『親鸞と日本主義』(新潮選書)、『保守と立憲』(スタンド・ブックス)、『思いがけず利他』(ミシマ社)、『テロルの原点 安田善次郎暗殺事件』(新潮文庫)など。

親鸞と日本主義

2017/08/25発売

この記事をシェアする

ランキング

MAIL MAGAZINE

「考える人」から生まれた本

もっとみる

テーマ

  • くらし
  • たべる
  • ことば
  • 自然
  • まなぶ
  • 思い出すこと
  • からだ
  • こころ
  • 世の中のうごき
  •  

考える人とはとは

 はじめまして。2021年2月1日よりウェブマガジン「考える人」の編集長をつとめることになりました、金寿煥と申します。いつもサイトにお立ち寄りいただきありがとうございます。
「考える人」との縁は、2002年の雑誌創刊まで遡ります。その前年、入社以来所属していた写真週刊誌が休刊となり、社内における進路があやふやとなっていた私は、2002年1月に部署異動を命じられ、創刊スタッフとして「考える人」の編集に携わることになりました。とはいえ、まだまだ駆け出しの入社3年目。「考える」どころか、右も左もわかりません。慌ただしく立ち働く諸先輩方の邪魔にならぬよう、ただただ気配を殺していました。
どうして自分が「考える人」なんだろう―。
手持ち無沙汰であった以上に、居心地の悪さを感じたのは、「考える人」というその“屋号”です。口はばったいというか、柄じゃないというか。どう見ても「1勝9敗」で名前負け。そんな自分にはたして何ができるというのだろうか―手を動かす前に、そんなことばかり考えていたように記憶しています。
それから19年が経ち、何の因果か編集長に就任。それなりに経験を積んだとはいえ、まだまだ「考える人」という四文字に重みを感じる自分がいます。
それだけ大きな“屋号”なのでしょう。この19年でどれだけ時代が変化しても、創刊時に標榜した「"Plain living, high thinking"(シンプルな暮らし、自分の頭で考える力)」という編集理念は色褪せないどころか、ますますその必要性を増しているように感じています。相手にとって不足なし。胸を借りるつもりで、その任にあたりたいと考えています。どうぞよろしくお願いいたします。

「考える人」編集長
金寿煥

著者プロフィール

國分功一郎

1974年千葉県生まれ。早稲田大学政治経済学部を卒業後、東京大学大学院総合文化研究科修士課程に入学。博士(学術)。専攻は哲学。現在、東京大学大学院総合文化研究科教授。2017年、『中動態の世界―意志と責任の考古学』(医学書院)で、第16回小林秀雄賞を受賞。主な著書に『暇と退屈の倫理学』(新潮文庫)、『来るべき民主主義 小平市都道328号線と近代政治哲学の諸問題』(幻冬舎新書)、『近代政治哲学 自然・主権・行政』 (ちくま新書)、『スピノザ 読む人の肖像』(岩波新書)など。最新刊は『目的への抵抗 シリーズ哲学講話』(新潮新書)。

対談・インタビュー一覧

中島岳志

1975年、大阪府生まれ。政治学者、東京科学大学(旧東京工業大学)リベラルアーツ研究教育院教授。専門は、インド政治、日本思想史、現代日本政治。大阪外国語大学外国語学部ヒンディー語学科卒業、京都大学大学院博士課程修了。北海道大学公共政策大学院准教授を経て、現職。2005年、『中村屋のボース インド独立運動と近代日本のアジア主義』(白水社)で、大佛次郎論壇賞とアジア・太平洋賞大賞を受賞。主な著書に、『「リベラル保守」宣言』(新潮文庫)、『血盟団事件』(文春文庫)、『親鸞と日本主義』(新潮選書)、『保守と立憲』(スタンド・ブックス)、『思いがけず利他』(ミシマ社)、『テロルの原点 安田善次郎暗殺事件』(新潮文庫)など。

対談・インタビュー一覧

著者の本


ランキング

イベント

テーマ

  • くらし
  • たべる
  • ことば
  • 自然
  • まなぶ
  • 思い出すこと
  • からだ
  • こころ
  • 世の中のうごき

  • ABJマークは、この電子書店・電子書籍配信サービスが、著作権者からコンテンツ使用許諾を得た正規版配信サービスであることを示す登録商標(登録番号第6091713号)です。ABJマークを掲示しているサービスの一覧はこちら