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北島三郎論 艶歌を生きた男

2023年5月15日 北島三郎論 艶歌を生きた男

第7回 分裂――機械屋vs.レコード屋

著者: 輪島裕介

1963年、日本クラウンへ移籍

 前回から間が空いてしまった。前回は、デビューから1963年の紅白初出場までを駆け足で辿ってきた。勢いがつきすぎて、きわめて重要なトピックに言及していなかったことに後から気づいた。

 1963年の紅白初出場時には、北島三郎はすでに日本コロムビアの専属歌手から、新たに設立されたばかりの新会社・日本クラウンに移籍していたのだ。その経緯は後に詳述するが、レコード事業部長として常務取締役だった社歴40年の伊藤正憲(1900-1992)が、元大蔵事務次官の著名な財界人で、株主の意向でコロムビアに送り込まれた会長・長沼弘毅(1906-1977)と対立し、「勇退」させられたことにはじまる。伊藤を慕う有力な社員ディレクターたちは、彼の辞職を不服とし、彼らが担当する専属作家・歌手を引き連れて新会社・日本クラウンを設立した。そのなかに、五月みどりや守屋浩と並んで北島も含まれていた、ということだ。

 特に北島と五月は、クラウン移籍に際してコロムビアと裁判になっており、それが一般マスコミの耳目を集めたこともある。日本クラウンの創設メンバーである北島は、現在に至るまで一貫して日本クラウンの専属である。1996年に放送開始し、2023年3月に終了したテレビ番組『サブちゃんと歌仲間』は、北島音楽事務所と日本クラウンの制作であり、いわゆる「北島ファミリー」以外の出演者は日本クラウン所属の歌手に事実上限られていた。名実ともにクラウンの「顔」としての役目を長年にわたって果たしてきた。北島三郎の音楽的個性は、流行歌に特化した独立系(外資や電機メーカーの傘下ではない)レコード会社である日本クラウンにおいてこそ花開き、実を結んだと考えている(個人的には、クラウンが2001年にカラオケメーカーの第一興商の傘下に入って以降の新曲は、カラオケを意識したステレオタイプな演歌調に偏っており、精彩を欠くように思えて残念だ)。

 私自身は、北島三郎の魅力は舞台にこそあると考えているが、流行歌の歌手である以上、レコードという媒体の重要性は疑うべくもない。そして、少なくとも北島のキャリア初期は、企業体としてのレコード会社の性格と、制作方法や音楽的特徴はかなり強く結びついていた。ということで、今回から「クラウン騒動」の一席でご機嫌をうかがいます。

北島三郎の代表曲のレコードジャケット(著者私物、撮影・新潮社)

「俺の目を見ろ、何んにもゆうな」―恩師との訣別

 ここまでの連載で折りに触れ強調してきたように、1960年代初頭までの流行歌は、レコード会社の専属制度のもとで制作されるものだった。そして、映画における五社協定と同じように、歌手や作家が専属先を移籍することは、わずかな例外を除き、事実上不可能だった。多くの場合、特定の作家と歌手の間に直接間接の師弟関係が築かれ、レコード会社の社員ディレクターは、そうした関係で結ばれた作家と歌手を丸ごと担当するのが基本だった。つまり、流行歌とは、最初の企画から、作詞、作曲、編曲、録音、複製、配給、小売に至るまで、徹頭徹尾「レコード会社がつくる歌」だったのだ。

 それに対して、「クラウン旋風」や「クラウン騒動」と称される、新会社日本クラウンの設立は、1930年代初頭までに確立した専属制度に基づくレコード会社の寡占体制が、1960年代を通して動揺し崩壊に至る過程のなかで現れた重要な事件だった。ただしこれは、専属制度の動揺の中で、旧来型の社員ディレクター中心の制作スタイルを堅持しようとする一種の復古運動であり、さらに、「忠臣蔵」にも似た忠義と報復の物語としても解釈できるものだったことには注意が必要だ。そして、日本クラウンの学芸部(流行歌を制作する文芸部ではなく、教材や童謡レコードを制作する部署)に一時期所属していた五木寛之は、その反時代性を一種の文化的な抵抗として再解釈し、1966年に小説「艶歌」を書くことになる(単行本は1967年の『さらばモスクワ愚連隊』に収録)。

 北島三郎にとって、クラウン移籍は、コロムビアに留まった師・船村徹と袂を分かった、という意味で決定的に重要な意味を持つ。濃密な師弟関係の拘束からの解放は、その後、彼が自身の活動や楽曲制作において自ら強力なイニシアティヴを発揮してゆく上で、少なくとも重要な必要条件のひとつとなっただろう。

 北島の担当ディレクターの斎藤昇と新進作詞家の星野哲郎が、地方公演中の北島の楽屋を訪れ、新会社への移籍の意志を簡潔に報告した。その際、北島への誘いを「目」だけで行い、北島もそれに無言で応えた。それが「兄弟仁義」の「俺の目を見ろ、何んにもゆうな」という決定的な一節の元になった、という逸話は有名だ。みごとに歌い上げられ、やがては映画でも演じられるようになる「兄弟仁義」のやくざの盃事との観念連合によって、「レコード会社の移籍」というビジネス上の選択が、「義理と人情」の枠組に強くはめこまれていったともいえる。個人的には「何んにもゆうな」という口語的な表記にぐっとくる。さすが「哲っつぁま」である。

 なにより、年の近い師匠である(そしてメロディメイカーとしてかなり癖の強い)船村ではなく、年長だがあだ名で呼び合える作詞家・星野哲郎との心安い関係がその後のキャリアの軸となっていったことは、北島がその後、一貫したキャラクターを保ちながら、親しみやすく多様な音楽性をとりこんでゆくうえでも重要だっただろう。北島は、1970年代なかば以降、原譲二のペンネームで積極的に作詞・作曲を行うようになるが、師匠が君臨するコロムビアでは容易ではなかっただろう。

「専属制度」の成立

 まずは1963年の「クラウン騒動」よりもさらに時計の針を少し戻して、その大きな背景となる戦前以来のレコード会社の寡占体制と専属制度が動揺しはじめる経緯を簡単に振り返っておこう。

 第5回で述べたように、1920年代末のコロムビア、ビクター、ポリドールの外資参入をきっかけに、大日本雄弁会講談社が親会社のキング、関西の蚊帳製造業者が新規にはじめたテイチクを加えた5社による寡占体制が確立する。

 外資レコード会社が専属制度を主導したことについては、以前の連載でも強調してきたが、導入の理由や背景についてははっきりと述べてこなかった。あえて蛮勇を振るって私自身の仮説を示してみたい。それは、1920年代後半以降、英米のメジャーなレコード会社が、南米やアメリカ南部などの未開拓マーケットに進出する際に採用した方法を、日本にも適用したのではないか、ということだ(この発想は、アメリカ南部における「白人音楽」と「黒人音楽」の分離についての刮目すべき文化史、Karl Hagstrom Miller, Segregating Soundに負っている)。

 これは伝説的なプロデューサー、ラルフ・ピアーがメキシコやアメリカ南部で確立したもので、彼は、地元で支持される「ローカル」な音楽スタイルをもちながら、「新作」と主張できる程度には既存楽曲と異なる要素をもつ楽曲を積極的に録音し、その権利を独占的に管理した。これは、レコード産業以前から商業的大衆音楽を楽譜として出版する権利を保有していたアメリカやヨーロッパの大都市の音楽出版社の影響力が及ばない市場で、レコード会社の利益を最大化するものだった。現地の音楽文化の権利と経済的利益を独占するという点で、きわめて植民地主義的なやり方といえる。ただし、外資参入以前にも、鳥取春陽が短期間、作家及び演者として日蓄傘下のオリエントと専属契約を結んでいた事例は存在するため、専属制度が完全に英米企業の植民地主義的な市場開拓戦略の産物であるとまでは言い切れない。

 外資系(とはいえ国際関係の悪化により、満州事変後には外資は引き上げた)3社と、ドイツのテレフンケンと提携したキングは、系列の外国レーベルの日本でのライセンス販売を大きな売り物にした。いわゆる「洋楽の国内盤」である。

 一方、関西系の新興のテイチクは、戦前は外国レーベルと提携せず、先行する関西系のニットーやタイヘイと同様、浪曲や演芸を積極的に発売し、また、新進作曲家の古賀政男を引き抜くなど、流行歌でも成功した。植民地朝鮮でオーケーレコードの設立に参画してもいる。

 図式的に言えば、外資系諸レーベルが、欧米との関係において従属的・植民地的な性格をもっていたのに対し、関西資本のテイチクは「帝国蓄音機」の名の通り「帝国日本」の立ち位置を体現していたと言えるかもしれない。キングはその中間(やや外資寄り)というところだろうか。

 戦後になると、「民族資本」を謳っていたテイチクもデッカと契約し、同じく大阪のタイヘイ(外資参入後、老舗のニットーと合併し存続を図るが戦時統制で消滅)も、アメリカのマーキュリーレコードと提携し、「日本マーキュリー」として制作を再開し、一時は大手の一角に食い込む躍進を見せる。いずれにせよ、戦後初期のレコード会社にとって、契約している外国レーベルのレコードを国内でプレス・販売することがきわめて大きな仕事であったことは間違いない。

「大東芝」のレコード参入―動揺する専属制度

 1930年代に確立した寡占体制が本格的に動揺し始めるのは、大手電機メーカーの東芝の参入によってである。1955年に東芝の社内事業部で、外国レーベルのレコードを取り扱い始めたのだ。「財界総理」と渾名された東芝社長で経団連会長、石坂泰三の親戚にあたる石坂範一郎が実質的な責任者となった。彼はそれまで日本ビクターの洋楽部長だった。その息子が、ビートルズを担当した洋楽ディレクターとして知られる石坂敬一であり、二代続けての生粋の「洋楽マン」といえる。このあたりの経緯は、佐藤剛『ウェルカム!ビートルズ:1966年の武道館公演を実現させたビジネスマンたち』に詳しい。

 そもそもレコード会社は、再生ソフトであるレコードのみならず、再生装置である蓄音機も製造していた。歴史的にいえば、音楽レコードは、蓄音機という新奇で高価な機械を売るための「オマケ」としてはじまり、そこからレコード自体が商品として生産されるようになった。レコードの商品化に伴い、エジソンが発明した円筒式の録音再生機(フォノグラフ)から、ベルリナーが発明した円盤式の再生専用機(グラモフォン)へと、蓄音機の主流も移っていった。

 いずれにせよ、家電メーカーとレコード会社はもともときわめて近い関係にあった。つまり、蓄音機(及びラジオ)という家電商品に従属する形でレコード産業が展開してきたことは疑いなく、その限りにおいて、東芝という代表的な電機メーカーがレコードを扱い始めることは全く不自然ではない。そもそも戦時統制から財閥解体までの時期には、東芝はコロムビアとビクターの双方を子会社にしていた。1955年の時点で、ビクターは松下電器、ポリドールは富士電機の傘下にあり、テイチクも1961年には松下電器の系列となる。そして「クラウン騒動」の発火点となる日本コロムビアは、レコード事業部に加え電機事業部を有していた。レコード事業は、電機産業の一部でもあったのだ。

 この電機事業とレコード事業の対立が、コロムビアの分裂とクラウン設立の直接の原因となってゆくのだが、その前に、電機産業の大手である東芝の参入によるレコード産業の変化、とりわけ専属制度の動揺の過程について見ておこう。

 東芝のレコード制作は、洋楽の国内盤を製造・販売する事業部として始まった。そして、日本を代表する大企業である「大東芝」がレコードに参入するにあたっては、「洋楽」を、「邦楽」(とりわけ「流行歌」)よりも美的・文化的に優位のものとみなす価値観が根強く存在していた。それは、前述の石坂範一郎・敬一の経歴からも明らかだ。東芝(エンジェル・レコード)の最初のLP発売が、フルトヴェングラー指揮、ウィーン・フィル演奏のベートーヴェン作曲「交響曲第5番」(1955年9月20日)だったことは象徴的だ(SPは、9月10日にシャンソンの「モンマルトルの丘」が発売されている)。その後も、東芝レコードおよび1973年に発足したEMIとの合弁会社、東芝EMIはビートルズやベンチャーズなど、日本におけるポピュラーな「洋楽」受容を牽引し、そのブランド・イメージを国内アーティストのプロモーションにも活用してゆく。

 ちなみに、石坂泰三は後に、東芝内の洋楽レーベル・キャピトルから発売されたザ・フォーク・クルセイダーズの「帰って来たヨッパライ」がヒットした際、「同じレコードでもベートーベンならいいが、あんなもので儲けるとは、何事だ」「あんな歌で儲けるなら、あの会社は潰した方がいい」と激怒したと伝えられている(城山三郎『もう、きみには頼まない:石坂泰三の世界』文春文庫、1998年、P216)。

「洋楽流」「近代的」―「黒い花びら」から「SUKIYAKI」まで

 洋楽優位の思想は、東芝の国内制作からもうかがえる。当初は前述の日本マーキュリーの専属作家と歌手を引き抜いて制作を開始したが、それではまったく手薄で、山下敬二郎、水原弘、坂本九といった、ロカビリー・ブームによって注目された若い歌手たちといちはやく契約する。

 同社の国内制作曲として最初のヒットとなったのは水原弘「黒い花びら」だ。これはロカビリー歌手たちが出演する映画『青春を賭けろ』の制作時に、普段のレパートリーである洋楽曲が著作権上の理由によって使えないために急遽作られた「洋楽風」の曲のひとつだった。ポール・アンカ「君はわが運命」が元ネタであることは一聴して明らかだ。作曲の中村八大、作詞の永六輔とも、特定のレコード会社に所属しないフリーランスだった。同曲の第一回レコード大賞受賞は、旧来の専属制度から逸脱する新しい流れを積極的に推し進めるという、授賞主体である日本作曲家協会の意志が働いていただろう。

 さらに、洋楽の情報誌である『ミュージック・ライフ』の版元であり、外国曲の日本での権利を扱う音楽出版社である新興音楽出版の専務(当時)の草野昌一の弟、草野浩二が1960年に東芝レコードに入社して以降、坂本や森山加代子、弘田三枝子らが歌う外国曲の日本語カバーを積極的に発売するようになる。その多くは新興音楽出版が権利を管理する楽曲で、草野昌一が「(さざなみ)健児(けんじ)」のペンネームで訳詞を提供した。

 1961年には、ハナ肇とクレージー・キャッツ「スーダラ節」も東芝から発売されている。これは、彼らが所属する芸能プロダクションの渡辺プロダクションが原盤(複製の元になるマスター録音)の制作費を分担し、原盤権を東芝と分割して所有した。つまり、レコードの制作をレコード会社内で完結させ、そこから発生する利益もレコード会社内で独占する、という従来のやり方ではなく、企画・制作の段階から芸能プロダクションや音楽出版社と共同し、利益を配分する、というやり方が本格的に始まったのだ。

 日本語カバーにせよ、芸能プロダクションとの共同にせよ、複数のエージェントが楽曲と録音の権利を分配することを基本とする制作方法は、外国の原盤を日本で複製・発売する際の方法を国内制作に応用したものといえる。個々の楽曲や歌手のみならず、制作手法自体が「洋楽流」であり、それゆえ「近代的」とみなされてきたことは強調しておきたい。

 さらに、東芝製の電化製品を海外で売るように、東芝レコードの音楽商品を国外で売る試みもなされた。その成果が、1963年の「SUKIYAKI」(日本では1961年に発売された坂本九「上を向いて歩こう」)の世界的ヒットだった。これは、結果的には「一発屋」であり、いくつかの偶然が重なって可能になったものではあったが、意図的に海外での音楽著作権と原盤権のビジネス展開を狙って当たった事例であることは重要だ。

坂本九「SUKIYAKI」

 1970年代に入って、ロックを規範とした「洋楽」と「邦楽」の極端な隔絶が意識されるようになるまでは(こうしたロック洋楽至上主義自体の形成にも東芝EMIは深く関わっているのだが)、「SUKIYAKI」の成功例を参照した国外進出の試みや国際的な共同制作は、「ウナ・セラ・ディ東京」「ワン・レイニー・ナイト・イン・トーキョー」やジャッキー吉川とブルー・コメッツのエド・サリヴァンショー出演など、しばしば繰り返されてきた。

 つまり、東芝レコードの台頭は、単にもう一つの会社が設立された、というだけではなく、制作方式自体の大きな変化を意味するものだった。そしてそれが、「洋楽」の規範性に依拠したものであり、さらに日本を代表する国際的大手電機メーカーの意向で作られ、「財界総理」の親族である洋楽出身の経営者のイニシアティヴと結びついていた、ということも重要だ。

機械屋vs.レコード屋

 このあたりはレコード産業史のおさらい、といったところだが、ここで日本コロムビアに目を向けよう。同社の主要な社員ディレクターと専属歌手・作家の離脱から日本クラウン設立へと向かう過程の火種は、単なるレコード会社から事業規模を拡大し、総合的な電機メーカーを目指した経営方針にあった。この方針は、レコードと家電の結合を、東芝と逆の経路から辿ろうとしたものといえる。

 1961年11月に長沼弘毅が代表権を持つ会長に就任した。大蔵事務次官だった長沼は、当時の池田勇人蔵相と対立し1951年に退官、その後は、東京・赤坂に民営の放送スタジオの草分け、国際ラジオセンターを設立し、会長を務める。その後公正取引委員会委員長を務めている。東京府立一中(現・日比谷高校)から旧制静岡高校を経て、東京帝大法学部の出身で、一高出身ではないにもかかわらず、官僚の最高位に上り詰めるかたわら、講道館柔道七段にして、ミステリ小説の翻訳と研究の大家で、日本を代表するシャーロッキアン、という驚異的な文武両道の人物だった。彼をコロムビアに送り込んだのは、以前から長沼と関係が深く、コロムビアの大株主でもあった野村證券だった。

 元日本コロムビア社員の飯塚恆雄による回想録『ニッポンのうた漂流記:ロカビリーから美空ひばりまで』(河出書房新社、2004年)によれば、1960年に飯塚が入社した時点では同社は「嘘のように絶頂期」だったが、その後「降って湧いた経営不振」に苛まれたという。それは、市場の25~30パーセントを占め、常に業界トップとして堅調なレコード部門ではなく、電機部門の業績の乱高下によるものだった。テレビ受像機の爆発的な普及に乗っかり、「絶えずレコード部門の足を引っぱっていた電機部門の業績が昭和三〇年代に入ってから一時的に好転した」が、「販売網を確立しないうちにテレビ以外の家電製品をどんどん生産し始めたので、たちまち返品の山を築いた。二年も立たないうちに、電機部門は元の問題児に逆戻りすることになった」という。しかも、松下電器の傘下の日本ビクターはスムーズにレコード部門と家電部門を分社化できたのに対し、「日本コロムビアは大日本製糖が筆頭株主で電機部門に精通した経営者がいなかったことも、その後の社運を分けた」(p.30)とする。

 飯塚と同じくコロムビアに残留することになる船村徹は、レコード部門と電機部門の確執について、電機部門の地方営業所がレコードを扱わない、というエピソードから話を起こし、次のように述べる。

 

 コロムビアの電気製品が順調ならまだ救われるのに、評判まことによろしくない。

 当時は一貫生産でなく、部品を買い取って組み立てたりしていたので、品質管理がうまくなく、うつりのわるいテレビとか、氷を作ろうとしてなかなか氷結しない冷蔵庫とかが出てきた。売れない商品を社員が引き受けるというから、私も郷里へ二台ほど冷蔵庫を送ったら、姉から文句を言われた。

 「なんぼ栃木県だってバカにしないでおくれ。あの冷蔵庫は水びたしになるんだから」

 笑い話だが、コロムビアの扇風機をつけると「王将」が聞こえてくるというのがあった。ともあれ、電機事業部の方は品質向上を目指して設備投資をはじめた。これがまた金のかかることで、犬猿の仲と言われるレコード事業部の利益を吸い上げる。

 屋台骨が怪しくなったところで、長沼弘毅さんという人物が実権者として登場する(『演歌巡礼』pp.182-183)。

 

 「王将」が聞こえる扇風機、実に気になるところだが、いかにも暑苦しそうではある。それはさておき経済誌の『経済時代』1962年4月号には、「総合メーカーに転換する日本コロムビア」と題した取締役会長・長沼弘毅のインタビューが掲載されている(pp.96-99)。冒頭の質問、「長沼さんは大蔵次官をやめられてからどのくらいになるのですか」が彼の財界での位置を示している。質問者は続けて、「コロムビアでは数年前に、従来のレコードを売っていくより機械に重点を置いて建て直ししようということで、従来の蓄音機はもちろんのこと、ラジオ、テレビから家庭電器にいたるまで手がけられたことは非常に成功でしたね」と話を向ける。それに対して長沼は、「ただわが社は、もともと、レコード販売業者であって、「アメリカコロムビア」と提携して、アメリカの原譜を売り、合せて国内の歌手の音楽を売るという建前で会社がスタートしてきている。いわゆるレコード屋ですね」と留保したうえで、「われわれはレコード屋から今度は機械の方に攻めていったわけですが、機械屋からレコード界に攻めてきた会社もある」と、明らかに東芝を念頭に置いた返答をしている。

「おかみさんがたの時間つぶし、青年男女の娯楽」

 その後は、音響機器をめぐる話題がひとしきり続き、長沼は、当時の娯楽本位の「レジャーブーム」(「レジャー」は当時の流行語だった)には批判的である、と述べ、「われわれが単なるレコード販売業者という考え方を乗り越えて、メーカーとしての意識を十分もたないと」と語る。さらに「その面をもう少し推し進めていくといまお話したように教育とかインダストリとかいうものに結びついた単なるおかみさんがたの時間つぶし、青年男女の娯楽という面だけでなくて、日本の産業の発展とか、教育の伸長とかいうことになる。これがわが社の重大問題なのだが、ひとりわが社だけの問題ではない。業界全体の問題だとおもう」とぶちあげ、工業分野と教育分野でのテレビ活用の可能性について熱弁を振るう。この文脈では「おかみさんがたの時間つぶし、青年男女の娯楽」がレコードを指していることは明らかだ。

 つまり長沼は、コロムビアがつくるレコードは、単なる娯楽としてほとんど興味はなかったようだ。このインタビューでは、レコードについては全く言及されず、わずかに質問者が、「たとえばベートーヴェンの全集などを何回かの月賦販売でやるという方式が大分ふえているわけですね」と水を向けたのに対し、「月賦販売の比重は、だんだん重くなりますね。それから非常に安いものを大量に売るという面と、相当豪華なものをまとめて売るという面とが並行してきているでしょう。これは違った購買層を狙ったものです」と答えるにとどまっている。

 日本コロムビアをレコード会社として認識する者にとっては、会長によるこうした無関心は嘆かわしいと思わざるをえない。しかし実際の経営状態をみると、日本コロムビアが電機事業に注力するという経営判断は、必ずしも非合理なものではなかったかもしれない。

 『電気年鑑‘63』では、日本コロムビアは、松下、三洋、早川、八欧、ソニー、日本ビクターと続く「民生電気機器」メーカーの最末尾に組み込まれている。1961年度の部門別売り上げは「上期テレビ47%、音響機器26%、レコード19%、特器8%、下期テレビ47%、音響機器24%、レコード23%、特器6%で、季節的変動とはいえ、レコードの大幅増が注目される」とある。その前の数年も、概ね売上の半額弱をテレビが占めている。先の飯塚や船村の電機事業への否定的な印象は、実際の収支とは関わりなく、むしろ、創業以来の「レコード屋」としての矜持に基づくものだったのかもしれない。

 元大蔵官僚にして高名な文化人、しかしレコードにはほとんど興味のない会長と、40年近くにわたってレコードの営業と制作に携わってきたレコード事業部長で常務取締役の伊藤正憲は、当然のように反りが合わなかった、というより、レコード事業部全体が長沼体制と対立関係にあったようだ。

 再び船村徹の回想を引けば、「長沼さんがコロムビアの実権者となったことで、この会社の人的構成は変わった。NHKを退職した人とか、さまざまな外部の人物が“進駐軍”としてのり込み、コロムビア本来のレコード事業部門でにらみをきかす人たちが煙たがられ、去っていった」(『演歌巡礼』p.183)。船村自身も、“進駐軍”の一人と飲んだ際に、「なに!作家って、サッカリンか!」と作家の存在を愚弄され、「花柳界、ど真ん中の路上で私はその人を、したたかにぶん殴ってしまった。過ぎし日の、コロムビアの良き時代は終わり、何もわからない連中にこの会社が席巻された気がして、私は怒り狂ってしまったのだ」という。コロムビアに残留した船村でさえこうした否定的な印象を持っているのだから、離脱した人々の心中は推して知るべしである。

 さて、ようやくここから本題、忠臣蔵でいえば大石内蔵助にあたるレコード制作のボス、伊藤正憲の登場、というところだが、ちょうど時間となりました。続きはまたのお楽しみ。近々お目にかかりましょう。

 

*次回は、5月下旬更新の予定です。

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考える人とはとは

 はじめまして。2021年2月1日よりウェブマガジン「考える人」の編集長をつとめることになりました、金寿煥と申します。いつもサイトにお立ち寄りいただきありがとうございます。
「考える人」との縁は、2002年の雑誌創刊まで遡ります。その前年、入社以来所属していた写真週刊誌が休刊となり、社内における進路があやふやとなっていた私は、2002年1月に部署異動を命じられ、創刊スタッフとして「考える人」の編集に携わることになりました。とはいえ、まだまだ駆け出しの入社3年目。「考える」どころか、右も左もわかりません。慌ただしく立ち働く諸先輩方の邪魔にならぬよう、ただただ気配を殺していました。
どうして自分が「考える人」なんだろう―。
手持ち無沙汰であった以上に、居心地の悪さを感じたのは、「考える人」というその“屋号”です。口はばったいというか、柄じゃないというか。どう見ても「1勝9敗」で名前負け。そんな自分にはたして何ができるというのだろうか―手を動かす前に、そんなことばかり考えていたように記憶しています。
それから19年が経ち、何の因果か編集長に就任。それなりに経験を積んだとはいえ、まだまだ「考える人」という四文字に重みを感じる自分がいます。
それだけ大きな“屋号”なのでしょう。この19年でどれだけ時代が変化しても、創刊時に標榜した「"Plain living, high thinking"(シンプルな暮らし、自分の頭で考える力)」という編集理念は色褪せないどころか、ますますその必要性を増しているように感じています。相手にとって不足なし。胸を借りるつもりで、その任にあたりたいと考えています。どうぞよろしくお願いいたします。

「考える人」編集長
金寿煥

著者プロフィール

輪島裕介

1974年石川県金沢市生まれ。音楽学者。大阪大学文学部・大学院人文学研究科教授。専門はポピュラー音楽研究、近現代音曲史、アフロ・ブラジル音楽研究。東京大学文学部、同大学院人文社会系研究科(美学芸術学)博士課程修了。博士(文学)。2010年に刊行した『創られた「日本の心」神話 「演歌」をめぐる戦後大衆音楽史』(光文社新書)で、2011年度の国際ポピュラー音楽学会賞、サントリー学芸賞を受賞。著書に『踊る昭和歌謡 リズムからみる大衆音楽』(NHK出版新書)など。Twitter:@yskwjm

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