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北島三郎論 艶歌を生きた男

2022年12月27日 北島三郎論 艶歌を生きた男

第6回 上京・流し・デビュー

著者: 輪島裕介

美空ひばりに憧れて

 北島三郎は1936年10月4日に北海道上磯郡知内(しりうち)村(現在は知内町)で、7人きょうだいの長男として生まれた。知内は函館から50kmほど西の津軽海峡沿いの漁村で、生家は祖父の代には網元としてかなり豊かだったが、父の代には半農半漁の厳しい生活だったという。歌自慢の祖父が子守唄がわりに歌う江差(えさし)追分(おいわけ)をおぶられて背中で聞いたことを、自身の歌手になる原点としている。

北島三郎の代表曲のレコードジャケット(著者私物、撮影・新潮社)

 

 参考までに近い年代の有名人を挙げておこう。石原裕次郎が1934年、エルヴィス・プレスリー、寺山修司、美輪明宏が1935年、長嶋茂雄が1936年の早生まれ。北島と同学年になる1937年の早生まれでは阿久悠、江利チエミ、雪村いづみ。島倉千代子とこまどり姉妹が1938年早生まれ、小林旭、なかにし礼が1938年。ちなみに五木寛之は1932年9月30日で、石原慎太郎と同年同日生まれだ。北島の師匠となる船村徹も1932年生まれ、星野哲郎は1925年生まれだ。何より重要なのは、1937年5月生まれの美空ひばりだ。

 もちろん生年に過剰な意味を読み込む必要はない。出身地域や階層によって、その経験は大きく異なっているし、高度経済成長を経て「一億総中流」幻想が蔓延する前の時代であればさらにその差異は大きいだろう。しかし一方で、北島の世代は、主にラジオを通じて一定の経験を共有してもいる。戦時中の総動員体制のなかで、生活必需品として農村部も含めて全国的に普及した「上意下達」の動員メディアから「民主的」メディアに早変わりしたラジオが、娯楽性を拡大し、聴取者の参与性をある程度取り込んでいった。そのなかで、流行歌(放送用語では「歌謡曲」)も重要なコンテンツとなっていった。

 北島は、1970年刊行の自伝『艶歌ひとすじ』を次のように書き出している。

 

 昭和二十三年[原文ママ]、天才少女歌手美空ひばりが彗星のように登場して、たちまち全国津々浦々まで、その名声をとどろかせた。

 北海道の片田舎でひばりチャンの歌を聞いて、

 「いいなあ! ぼくも東京へ行って歌手になろう。そして、大きくなったらひばりチャンと結婚しよう!」

 なんて考えた早トチリの少年がいた。名前は大野穣。まだ十歳にもなっていなかった二十二年前のぼくである。(p.13)

 

 1976年5月23日放送のNHKテレビ『ビッグショー -北島三郎~俺には俺の歌がある~-』でも、「リンゴ追分」をひとふし歌った後、「知内小学校のたしか3年生かなー、4年生ごろだったと思います、子供心に歌が好きで、当時、テレビというものがありません、ラジオから流れてくるひばりちゃんのこの歌を聞いて、いいなあ、将来ひばりちゃんみたいな歌手になりたいなあ。もし、できることならひばりちゃんと結婚しようかな(会場笑)」と同様の語りをしている。美空ひばりのレコードデビューと「悲しき口笛」のヒットは1949年であり、「リンゴ追分」は1952年発表なので、厳密には時期が合わないが、ともあれ、ほぼ同年齢の美空ひばりをラジオで聞いた経験を、自身の流行歌への関心の起点として記していることは重要である。

 ちなみに作詞家の阿久悠は、美空ひばりと同年生まれであることについて、畏敬と韜晦(とうかい)と屈折がないまぜになった文章をしばしば残しており(『生きっぱなしの記』『愛すべき名歌たち』など)、自身が設定した「作詞家憲法十五条」の第一条を、「美空ひばりによって完成したと思える流行歌と違う道はないだろうか」としている。1970年代の歌謡曲(阿久自身は、ひばりが体現する「流行歌」より新しい感覚を持つものとして「歌謡曲」の語を意図的に用いている)のある重要な部分を作り上げた阿久悠と、北島三郎が交差するのは、わずかに1971年の「渡り鳥いつ帰る/肩に二月の雪が舞う」というシングル両面の2曲しかない。森進一、藤圭子、五木ひろし、都はるみ、石川さゆり、八代亜紀といった代表的な「演歌歌手」における阿久悠作詞楽曲の重要性に鑑みると、このことは示唆的だ。北島三郎を通じた五木寛之的な艶歌観の相対化という本連載の企図は、「阿久悠的な歌謡曲観」への挑戦という契機も含まれているかもしれない。「まつり」の作詞者であるなかにし礼と阿久悠の対比も含めて、後に扱いたい。

「のど自慢時代」の申し子

 さて、北海道の漁村で育った大野穣少年が流行歌手を志す背景には、ラジオとも関連する重要な「現場」があった。村祭りで開催されるのど自慢大会だ。『艶歌ひとすじ』によれば、「中学生時代、年に一回の村祭り、演芸大会でも催されようものなら、得意のノドで流行歌を披露してやんやの喝采を浴びるうち、ナルシシズムいやがうえにも強まり、あこがれの岡晴夫、田端義夫のようになりたい、いやきっとなれると、またぞろ生来の早トチリ」(p.14)。ここで岡晴夫、田端義夫という流し出身の歌手の名が挙がっているのは面白い。実際、この二人は戦前のデビューだが、敗戦直後に絶大な人気を誇っていた。

 1993年から27回にわたって『週刊読売』に連載された「艶歌の年輪 自分史シリーズ 北島三郎」では、「田舎のあちこちで行われる祭りののど自慢大会を、とても楽しみにしていた。あの村の春祭り、むこうの村の夏祭りとスケジュールを覚えておき、何をおいても飛んでいって歌った。/優勝すれば商品がもらえる。ステレオ、テープレコーダーなどちょっとした家電製品はみんなのど自慢の優勝か準優勝で獲得したものである」(1993年10月24日号、p.77)とある。

 素人が歌を競い合う「のど自慢」は、1946年に開始されたラジオ番組をきっかけに、爆発的な人気を得た。これは、占領軍の民間情報教育局(CIE)による放送の「民主化」司令を受けて企画されたもので、戦地での兵士たちが自ら行った演芸会の記憶に基づくものだった。ラジオ番組は当初、予選を勝ち抜いた参加者の決勝大会を放送するという趣旨だったが、必ずしも歌唱に優れているわけではない素人が参加する予選にむしろ人気が集まり、現在我々が知る形になっている。上手下手を問わず素人の歌がラジオ番組を通じて全国に放送される、ということ自体が、一種の価値転倒的または解放的なものとして受容されたということだ。「リンゴの唄」や「異国の丘」といった、敗戦直後のヒット曲は、レコードの生産が追いつかず、購買力も弱かったため、こうした素人の声を通じて広がっていったと考えられる。

 そして、この形式は、放送から離れ、地域の演芸大会や祭りのアトラクションとして大いに定着していった。素人の芸達者が注目され、一躍スターになった、という点で、美空ひばりは「のど自慢時代」の申し子だったといえる。彼女の映画初出演は、斎藤寅次郎監督の『のど自慢狂時代』(1949)で笠置シズ子の物真似をする少女の役だった。

 ただし、放送番組における合格の基準は、基本的に西洋芸術音楽の規範に基づいており、巷の流行歌よりも、戦前・戦中の「国民歌謡」を引き継ぐセミ・クラシック的な「ラジオ歌謡」が推奨された。当時NHKの専属ピアニストとして「のど自慢」の伴奏も行っていた天池眞佐雄は、1951年に「のど自慢」合格のための教本といえる『歌謡曲 これからの唄い方』を刊行しており、そこでは、専門的な流行歌手の「下卑た」「悪ずれのした唄い方」を批判し、「歌曲のよさを取入れて歌謡曲を上品なものにする」ことが、「素直な唄い方」であり「これからの唄い方」であるとしている(p.12)。よく知られた、美空ひばりがラジオののど自慢の予選に出場した際に、鐘が(不合格を示す鐘一つさえも)鳴らなかったというエピソードは、彼女が子どもだてらに「大人の歌」を歌った、というだけではなく、「大人の歌」である流行歌手の歌唱法自体が必ずしも肯定的に受け取られていなかったことを示している。

 北島三郎にも同様のエピソードがある。高校2年の時にNHKの「のど自慢」の函館予選に参加し、三浦洸一の「落葉しぐれ」を歌っている。「旅の落葉が しぐれに濡れて 流れ果てない ギター弾き」という歌詞で始まる、落魄(らくはく)のギター流しを主題とする曲を選んでいるところが面白い。結果は鐘二つの不合格。しかし、司会の宮田輝に「なかなか上手じゃないの」と褒められたことで流行歌手志望をさらに強めている。後の回想で、「そのころのNHKのラジオ歌謡は伊藤久男さんの「山のけむり」だった。私はラジオ歌謡も得意だったので、この歌を歌おうかとも考えたが、結局は三浦洸一さんの「落葉しぐれ」に決めた」(『週刊読売』1993年10月24日号、p.78)と記しており、歌唱力の問題ではなく、選曲、歌唱法も含めた彼の歌のスタイルが、ラジオ歌謡に象徴されるNHKのど自慢の規範と相容れなかったための不合格だったことを言外に滲ませている。

函館の「実演劇場」

 さて、上にも記したように、大野穣少年は高校に進学している。知内中学校からの高校進学率は10パーセントにも満たなかったといい、函館市内の函館西高校に、片道2時間以上かけて通学している。厳しい家計のなか、中学の教師に強く勧められてのかなり無理をしての進学だった。

 彼の高校生活については、自身の回想でも若干の強調点のずれがある。後年の記述では、「四、五十人のクラスのうち、いつも十番以内には入っていたと思う。生徒会の副会長もやったし、ついでに昔でいう番長もやった」(『週刊読売』1993年10月17日号、p.121)とあるが、『艶歌ひとすじ』では、次のように記される。

 

 向学心はまったく失せて、歌手熱ばかりがつのっていった。

 朝五時に起きると、弁当を二つ用意して、登校する。汽車のなかで一つ食べ、函館の駅へ七時半に着く。少しは時間があるのでストーブにあたっているうちに元気はつらつとなって、学校へ行くのをやめ、函館の街で遊ぶのだ。

 一年前は知内にくらべてすべてがモダンな都市函館に、いちいち驚き喜んでいたのが、いまや自分の庭くらいの気やすさで遊びまわる。そして、実演劇場の公楽に“岡晴夫ショー”や“田端義夫ショー”がかかったときは、なにをおいてもかけつけた。

 入れ替えなしの三回興行を、一、二回つづけて見ると午後三時、うしろ髪ひかれつつ小屋をあとにして汽車に乗り、五時ごろ、いかにも学校帰りの風情をよそおい、

 「ただいま」―。(p.16)

 

 実態はその間のどこかなのだろう。刊行時期を反映してか、サブちゃんのアウトロー性を強調する傾向が強い『艶歌ひとすじ』でも、「卒業生を送る会」で「落葉しぐれ」を歌って喝采を浴びた記述がある。「こういう場ではほとんどの人が、校歌や応援歌をまっとうに歌うのに、『旅の落葉が、しぐれに濡れて…』とやったものだから、卒業生はワアーッ!と喜んでくれた」(p.23)と、ちょっとした不良性をほのめかしているが、そういう場が与えられたこと自体は、彼が校内である程度「正当な」地位を得ていたことをも示しているだろう。それはさておき、ここで注目すべきはもちろん、「実演劇場の公楽」である。

 『函館市史デジタル版』によると、「公楽映画劇場」は、東宝系の実演付き映画館で、「回り舞台はなく、全席イス席で、実演にも映画にも対応できる広い舞台が備わって」おり、歌謡ショーを中心としていた。「回り舞台に昔ながらの升席」で、座付き劇団の芝居、剣劇、歌舞伎を中心とする「純実演劇場」だった「巴座」(1953年以降、映画上映劇場に転向)と人気を二分していたという(http://archives.c.fun.ac.jp/hakodateshishi/tsuusetsu_04/shishi_07-02/shishi_07-02-33.htm)。

 1930年前後に専らレコードの中だけに存在する音楽として出現した「流行歌」という形式は、戦時下の慰問とも結びついて、1940年代以降、「軽音楽大会」と銘打った公演や映画館のアトラクションとして実演の機会が広まっていったようだ(ぐらもくらぶ・保利透氏の示唆による)。そして、戦後になると、戦時統制からの解放と娯楽への需要の高まりを背景に、また、映画産業の爆発的な拡大もあり、こうした興行形態は地方にまで広がっていった。先述の素人のど自慢や演芸会の隆盛は、プロ(といっても大スターからドサ回りまでその内実は多様だったろう)の実演に触れる機会の増大と密接に関わっているだろう。こうした実演の機会を通じて、北島三郎の演者としての特質が培われていったことは、繰り返し強調しておきたい。

「決意の上京」にまつわる美談

 後年、北島三郎ショーの司会者となる及川洋は、著書『演歌 本日も舌好調』(1990)のなかで、高校時代の「大野少年との初めての出会い」について記している。1925年生まれの及川は、幼少時から「音羽ゆりかご会」に所属した後、浅草喜劇の只野凡児に弟子入りし、戦後は旅回りの役者から司会者に転じた人物で、戦前・戦後の実演の世界を知り尽くした大先輩にあたる。

 及川は、「函館の公楽劇場に三橋美智也ショーで行った時」に、「古い友人」から、「親戚の子でどうしても歌手になりたいというのがいるんだ。ひとつ先生から因果をふくめて馬鹿な夢はみないようにいってやってくださいよ」と頼まれる。終演後、「知人がセッティングしてくれたキャバレーに行き、店のバンドに特別に頼んで大野少年のうたを聞くことになったのです」。因果を含めるはずが、少年の「落葉しぐれ」に驚嘆し、「十曲あまりもうた」わせ、翌日には「頑固者」の父親に会いに行き、「五年すれば穣君は必ずモノになる器です」と説得するに至る。

 

 函館を発つ時、見送りに来てくれた大野少年の手を握って私はこういいました。

 「いいか、君は絶対にやれる男だ。大スターになれるかどうかはわからないが、とにかくプロにはなれるだろう。その時は大野君、君のショーの司会はこの及川洋にやらせてもらうよ。この函館で大野穣と及川洋でやろうじゃないか」(p.123)

 

 あまりにもできすぎな話ではあり、この著作自体、副題が「北島サブちゃんと二人三脚、芸能界」で、表紙の著者名にも「北島三郎ショーの名司会者」の肩書が付されていることから、及川とサブちゃんの運命的な結びつきを強調する脚色の余地も考えられる(管見の限り、北島自身はこれに類するエピソードを語っていない)。真偽にかかわらず、サブちゃんのパフォーマンスを庶民的な実演文化の連続性のなかで捉えるための重要なエピソードであることは間違いない。

 大野穣少年は高校卒業後の上京を企てる。それに際して、新宿の東京声専音楽学校(昭和音楽大学の前身)を受験し、合格している。「『流行歌手になるから、上京したい』と頼んでも、絶対に成功はしないと思い、まず『東京の音楽学校へ入学させてほしい』と願い出」、「二年間勉強して卒業すると、小学校と中学校の先生になれる資格が取れるから、ぜひ行かせてほしい」と説得したという(『週刊読売』1993年10月31日号、p.74)。

 このあたりの記述も異同あるが、いずれにせよ、かなり無理をして函館の高校に通わせていた7人きょうだいの長男が、歌手を目指して上京する、という考えは、家族にとっては非常識なものだったことは間違いない。『艶歌ひとすじ』では、「長男だから田んぼがほしい、土地をもらいたい、といっても通用しないぞ。その覚悟はできてるか」と父に言われたことを記している。続けて、「いや、事実をいうとワシだって、若い頃はワシなりにやりたいことがあった。だが、みんなも知ってのとおり、あの頑固一徹な祖父さんに、きびしく長男としての義務を負わされて、家のためにだけつくさざるを得なかったのだ。だから、ワシは穣に同じ運命をたどらせて、つらく不満な一生を送らせたくはないよ」(p.28)と語らせている。長男が家を出る、という選択が、非常に困難であると同時に、「家」の「義務」からの解放という側面を持っていたことを示している。

 ともあれ、上京を認められ、函館港に向かう。

 

 函館桟橋に着くとクラスメートの女の子が一人、来てくれていた。

 ドラが鳴る。彼女のテープをしっかり握りしめ大きく手を振って別れを告げた。テープが切れ彼女の姿が消え、連絡船は港を出て青森に向かう。右側の海岸線が知内である。突然、私の胸に、“ああ、おやじ! おふくろ!”と感傷がこみ上げてきたが、それもあっという間に新しい希望のほうへと変っていた。

 「じゃ、山よ川よ、しばしの間さよなら。成功して帰ってくるからな」

 (『週刊読売』1993年10月31日号、p.75)

 

 もちろんこれは、大きな成功を収めてからの回想ではあるが、ドラやテープや連絡船といった「お約束」の小道具を用いながらも、昭和30年代に流行した「望郷」主題の流行歌の基調である出郷の感傷よりも、明るい希望と強い意志を強調している。このあたりは、やがて北島の師匠となる船村徹とその盟友で夭折した作詞家・高野公男が定式化した感傷的な望郷調流行歌と、北島三郎を隔てるものであり、彼の真骨頂といえる。

 「三橋美智也のようになりたい」

 知内村を後にした大野穣少年は、1955年、東京・葛飾区の新小岩の叔母(母の妹)の家に住みながら、昼は工場勤め、夜は音楽学校の学生、という生活をはじめる。『艶歌ひとすじ』では、「錦糸町や浅草のクラブやキャバレーで働けばいい。そうすれば、すぐ舞台で歌えるようになるだろう。などと甘く考えて、ボーイの口に応募していったが、現在とちがってさほど求人難でもない時代のこと、北海道の片田舎から出たての坊やよりは、トッポイ若者がごろごろいて、そういう連中に先を越されてしまった」(p.30)とする。一方、音楽学校は、クラシックの発声と音階練習に明け暮れていた。「歌謡曲歌手になってから、この一年間の本格的な発声練習がいかに役立ったか―私の歌唱方法の基礎は、この学校で培われたと言ってもいい。決してムダではなかったのだ」というものの、「月謝も辛いのでスパッとやめてしまった。中退である」(『週刊読売』1993年11月7日号、p.86)。

 「早く三橋美智也や三浦洸一のようになりたい」と悶々としていたある日、新聞に「歌手募集」の広告を見つける。喜び勇んで新宿・大久保の事務所を訪れると、「歌手は歌手でも募集していたのは流しの演歌師だったのだ。期待にふくらんでいた胸は、いっぺんにしぼんでしまう」。しかも、一人の募集枠はすでに決まっていた。それでも、アコーディオン伴奏で歌ってみると、「前の人の合格を取り消して、きみにするよ」と即決される。こうして「流しの大ちゃん」が誕生する。

 そのとき彼が歌ったのは、三橋美智也の「おんな船頭唄」だった。そして、この「おんな船頭唄」は、流しになってからも「ゲンをかついで」「テーマソングにし」ていたという。

 三橋はいうまでもなく、民謡調の流行歌手として当時圧倒的な人気を誇っていた。1930年に北海道上磯郡上磯町(現在の北斗市)に生まれ、函館で育っており、北島とはほぼ同郷といえる。「哀愁列車」「リンゴ村から」「達者でナ」など、前述の「望郷調」の代表的な歌手である。

 また、「ご機嫌さんよ達者かね」は、春日八郎「別れの一本杉」と並んで、船村徹作曲と高野公男作詞が開拓したこの傾向の先駆のひとつだ(ただし春日と三橋はキングレコードの所属で、船村と高野はほどなくコロムビアに移籍するため、この組み合わせの曲は少ない)。一方、「おんな船頭唄」は、三橋の最初の大ヒットだが、「望郷調」とは少し趣が異なり、若い娘の船頭と旅の男との行きずりの恋を歌うもので、船頭という設定は、大正末の「船頭小唄」を思わせるものだった。

 北島と三橋は、日本の流行歌史上甲乙つけがたい圧倒的な歌唱力を誇り、北海道出身の苦労人、という経歴もある程度重なっているが、その雰囲気はかなり異なっている。これは本人の資質のみならず、登場した時代の差を現しているかもしれない。やや迂回になるが、北島の「上京物語」を文脈的に理解するためにも、三橋の経歴を簡単に振り返っておこう。

三橋美智也

 1930年生まれの三橋は、3歳でセメント会社の作業員の父を落盤事故でなくし、母の再婚相手と函館に転居する。民謡歌手だった母の手ほどきで、5歳で初舞台を踏み、巡業にも参加しながら12歳の時にコロムビアで民謡を録音している。津軽三味線(これをステージ化したのは、歌手として成功した後の彼の公演が最初ともいわれる)と民謡で戦後も旅回りを続けるが、19歳で上京する。これは、北島のように流行歌手を目ざしたのではなく、むしろ正反対だった。

 自伝『歌ひとすじに』によれば、「昔ながらの芸人気質、場当たり主義で軽薄で無責任で、勉強よりも何よりも快楽を追うといった芸人気質にだけはそまりたくなかった」彼は、「もっと別の世界に、一個の平凡で、そして誠実な人間でもありたかったのです」「私は大学を出てまじめな勤人になりたいと真剣に考えるようになってい」たためだった(p.37-38)。巡業一座の座長だった白川軍八郎にある日、「君なんか才能があるんだからいつまでも田舎廻りをしていたんじゃだめだ。東京がいい。やはり東京だ。君なんか東京へ出たら民謡を教えていれば生活できるんだ。生活が出来るようになったら上の学校にでも行けばよい。でも、私みたいに年よりになったらもうだめだ。行くなら若いうちだ」と言われ、一座を「ドロン」する。「最悪の場合は“流し”でもして食いつなごうと思って三味線を持って」(p.41)19歳で上京する。

 上京後は、横浜の綱島温泉「東京園」でボイラーマンとして働きながら、入浴客に民謡を教えるようになる。「東京園」はもともと「民謡温泉」だったといい、21歳で明治大学付属中野高校定時制に入学してからは、ボイラーマンとしてではなく民謡と三味線を教えることで生計を立てていた。ある時、弟子のレコード吹込みに三味線伴奏で同行した際に、弟子に教える際の歌を認められて歌手としてキングレコードと契約し、1954年、「酒の苦さよ」でデビューする。「おんな船頭唄」は初のヒットとなる。この録音は高校の卒業試験直前だった。

 

 担任の才木先生が「三橋、こんどの新曲はなんだ」というので先生の前で歌ってきかせましたところ

 「え、なんだって…嬉しがらせて 泣かせて消えた 憎いあの夜の旅の風…だって。こりゃ、こりゃ、お前、高校生がこんな歌吹込んで…」

 ということで大変びっくりして居られました。もう私は二十四才になっていましたが、やはり高校生にはちがいありません。才木先生がびっくりなさったのも当然のことと思います。(p.74)

 

 この後の「ご機嫌さんよ達者かね」以降、三橋は純朴で真面目な地方出身の青年のイメージを前面に出して大成功を収めることになり、1957年に刊行された自伝は、そうしたイメージに依拠して書かれていると考えられる。そのため、額面通りに受け取る訳にはいかないが、「おんな船頭唄」が、彼の経歴の中でやや異色であったことは間違いない。

 三橋の成功は、当時の農村から都市への人口移動を背景にした「民謡」の人気を背景に、この言葉が持っていた健全な労働者的性格(その限りで左派勢力とも親和的だった)を、「旧来の芸人気質」と切り離して「真面目な」ものとして提示することで可能になったといえる(拙稿「三橋美智也とうたごえ運動」、細川周平編著『民謡からみた世界音楽』参照のこと)。実際のところ、三橋は上京直後、「吉本興業、エノケンさんやロッパさんの門を叩きました」としており、芸人として立つつもりでの上京だったのかもしれないが、少なくとも、自伝を通じて世間に提示されるスターとしてのイメージが、後の北島三郎のそれとは対照的なものだったことは確かだ。その意味で、三橋美智也の曲の中で例外的にある種の不良性を漂わせる「おんな船頭唄」を北島が流しのテーマソングとしていたことは、偶然にしても興味深い。ちなみに、この曲のヒットをうけて映画化された際には、三橋自身が「流し」の役で出演しているというが、残念ながら未見である。

橋幸夫への敵愾心とスカウト

 渋谷の恋文横丁での流し稼業や、三畳一間の下宿の娘との恋愛、結婚に反対されて下宿を出てからの荒んだ生活、そして1959年に結婚、といったあたりは各種の伝記を参照していただきたい。

 興味深いのは、1960年の橋幸夫のデビューについて、強い敵愾心を(あらわ)にしていることだ。

 

 忘れもしない、一九六〇年橋幸夫さんが「潮来笠」でデビューした。“あれ、あれはおれの姿のはずだ。なぜおれはああいうふうになれないんだ。また先を越されてしまった”。地団駄を踏みたい気分だった。

 橋さんは新人賞を受賞した。(略)

 歯ぎしりをした。“おれのほうがうまい”。悔しさのあまり、わめきたい気持ちだった。落ち込むというより無性に腹が立った。希望が崩壊してしまう寸前だった。でも流しを捨てることはできない。(『週刊読売』1993年11月21日号、p.73)

 

橋幸夫のデビュー曲「潮来笠」(1960年)

 橋幸夫は北島よりも7年若い1943年生まれで、「ロカビリーをやっていてもおかしくない17歳」が「角刈りで着物を着て「潮来笠」を歌ったからこそユニークで注目された」(『橋幸夫 歌謡魂』p.17、 聞き手の小野善太郎の言葉)。昭和10年代スタイルの股旅物を今どきのティーンエイジャーがやや素人っぽく歌う、というギャップが魅力だった以上、渋谷で顔を利かせ古今東西の歌を歌う「流しの大ちゃん」とは比較のしようがない。しかし、「潮来笠」の一種のアナクロ趣味が、北島三郎のレコード歌手への道を開く、少なくともひとつの要因であったことも見逃せない。

 同じ頃、コロムビアの林諄文芸部長にスカウトされている。ある夜、馴染みの店に名前も告げず歌を聴きに来て、相場の10倍である1000円を握らせて、翌日、会社近くの喫茶店に北島を呼び出した、という話は、すべての伝記的記述に含まれている。

 第5回で記したように、当時は「詠み人知らず」の「巷の歌」への関心が高まりつつある時期だった。また、1959年には、「演歌版ザ・ピーナッツ」として三味線流し出身のこまどり姉妹がデビューしている。北海道新聞社の連載をまとめた『いま語る 私の歩んだ道②』の聞き書き(非常に面白いのでぜひ現物を探していただきたい)によると、彼女たちは、幼少時から北海道で母と流しをしており、1951年に12歳で上京している。浅草で流しを始めた当初は歌だけだったが、同業者に疎まれ、三味線を持つことを条件に商売を許されている。レコードデビュー前には流しではなく料亭のお座敷でかなり良い稼ぎをしていたようだが、レコードデビュー後は、流しのつらい稼業に耐える薄幸の姉妹、というモチーフを前面に出した曲を歌っている。これを企画したのは、五木寛之の小説「艶歌の竜」のモデルと目されるレコードディレクター、馬渕玄三だった。

 1959年1月には、ご存知『ギターを持った渡り鳥』(同年10月公開)に先立って、小林旭が「戦前の名ジャズ奏者の息子だがグレて流しをしている若者」を演じた『嵐を呼ぶ友情』に主演している。これは、自作曲がレコード化されてヒットすることで父と和解するというプロットで、流しの「巷の歌」からレコードへ、という回路が映画の重要な構成要素となっている。

 このように、「流し」や彼らが歌う「古臭い歌」に対する新しい関心がレコード業界の中で徐々に芽生えており、コロムビアの林による北島のスカウトもその流れの中でなされたと考えられる。

船村徹門下へ

 林の紹介で当時の新進作曲家・船村徹の門下に入る。船村の回想によれば「少年教護院から出てきたような若者、というのが第一印象で、何をうたわせても既成歌手のだれかに似て、流しの水にどっぷりとひたっていた」という(『演歌巡礼』p.18)。『歌は心でうたうもの』では、より端的に、「流しをしているくらいだから歌は下手なわけはない。だが、私が最初に北島の歌を聞いたときには、『プロの歌手は無理だな』というのが正直な感想だった」としている(p.193-194)。弟子入りして最初に船村が与えたのは、柳家三亀松(みきまつ)と田端義夫のレコードだった。「メロディーをなぞるのでなく、言葉をうたう“語り”を覚えて欲しかった」という(『演歌巡礼』p.18)。バタヤンは当然としても、三亀松の三味線漫談の連想は慧眼といえる。

 船村はさまざまに売出しの方法を考えたが、なかなか成功しなかった。紹介元である「当のコロムビアが北島のデビューに首を縦に振らない。ビクター、テイチク、東芝レコードと次々に話を持ち込んだが、うまくいかなかった」(『歌は心でうたうもの』p.193)という。窮余の一策として、コロムビアの新人発掘のためのコンクール(つまりは「のど自慢」)に、船村の実家のある栃木代表としてかなり強引に出場するも、全国大会7位(6位との記述もある)に終わっている。「完成されていて将来性がない」「新鮮な魅力に乏しい」「流しの癖が抜けきっていない」ということだった(『週刊読売』1993年12月12日号、p.79)。つまり、当時のレコード界に求められる「新人らしさ」(ある種の素人っぽさ)から逸脱していたことを示している。

 また、船村は、同門の弟子の鈴木修二(その後長く北島三郎の付き人を務める)と組ませて歌謡漫才「ゲルピン チン太・ポン太」として実演の巡業の前座として送り出すが、まったく受けなかったという。船村は「セリフは忘れてしまうし、あがりっ放しだったようだ」(『演歌巡礼』p.21)といい、北島は、「我々の無惨な演技もさることながら、船村先生の台本も相当につまらなかったと思う」(『週刊読売』1993年12月12日号、p.81)とする。興味深いのは、「ゲルピン チン太・ポン太」が前座を務めたショーの看板は、当時、ロカビリーから戦前の流行歌のリバイバルに転じ「雨に咲く花」「別れの磯千鳥」をヒットさせていた井上ひろしだったことだ(『週刊読売』1993年12月12日号、p.79)。ここにも、リバイバル・ブームが影を落としている。

 北島の伝記各種では、身についた流しの癖をなくすために夜の街に出ることを禁じられ、それでも船村に月5千円の月謝を払わなければならず、また、いよいよデビューというときにさらに30万円の大金が必要になり、それを妻が用立ててくれた、といった話が、夫婦の美談の体で語られているが(さすがに1993年の『週刊読売』では30万円のくだりは曖昧にぼかされている)、少なくとも現在では、当時のレコード業界の旧弊を示すものとしか思えない。しかし、当時の北島三郎が、レコード界の従来の常識とそぐわない存在であったこともまた確かだろう。

幻のデビュー曲「ブンガチャ節」

1962年6月5日、ついに「ブンガチャ節」でデビュー

 さて、ようやくレコードデビューとなる。

 1962年6月5日、「ブンガチャ節」でデビューし、好調な滑り出しをみせるも、1週間で放送禁止となり落胆。そして8月20日に「なみだ船」で捲土重来を期し、それが大ヒット、日本レコード大賞新人賞に輝く、といったあたりはおなじみだろう。これまでデビューが困難だった、新人にしてはかなりトウの立った流し出身歌手が世に出る直接の背景は、やはり、北島が所属した新栄プロダクションの一枚看板だった村田英雄の「王将」の爆発的なヒットにあるだろう。

 「王将」自体、企画から発売当初は、時代錯誤的として社内の抵抗が大きかった。船村と意気投合して作詞の西條八十に企画を持っていった斎藤ディレクターが、「君は明治生まれかね」と皮肉交じりにたずねられたエピソードはよく知られている。船村の自伝『歌は心でうたうもの』でも、録音後も、西條が「こんなレコード、誰が買うんでしょうね」と語り、社内でも不評だったことが強調されている。しかし、1961年の紅白歌合戦で歌ったことをきっかけに、翌年大ヒットとなった。そして、北島が初めて大舞台に立ったのは、1962年6月16~23日に大阪劇場で開催された、「「王将」30万枚突破記念・村田英雄ショー」の前歌で「ブンガチャ節」を歌ったときだった(『歌は心でうたうもの』p.197)。

 北島の「ブンガチャ節」でのデビューに際しては、細部が異なるいくつかの証言がある。現時点で最も新しい北島自身の手によるまとまった伝記である『週刊読売』では、船村が北島のために書き下ろしていた「なみだ船」の録音まで済んだところで、「この歌はとても格調が高い。ある意味では大衆に受け入れられにくいだろう。となるとこの曲でデビューするのは損だと思う。そこで、実はもう一曲気楽な歌がある」と船村に言われた、という(1993年12月12日号、p.81)。一方船村は、「北島にとってはホームグラウンドの渋谷の流しの間で「キュキュキュ節」という歌がはやっていて、私はこれを書き直し、「ブンガチャ節」という題にして北島にうたわせてみた。渋谷の流し仲間に協力してもらい、キュキュキュというはやし言葉を入れ、この企画にはコロムビアの上層部も興味を示し、レコードは売れたのである」とする(『演歌巡礼』p.22)。

 「ブンガチャ節」は、北島の流し出身というキャラクターを前面に出した、コミカルな楽曲で、歌詞も、録音だけを聞けばとりたてて卑猥なものではない。流し仲間による合いの手の猥雑さはやはり「本職」と思わせる強烈なインパクトがある。個人的には、ややドドンパがかったリズムが堪らない。

 この曲が1週間で放送禁止となった表向きの理由は「キュキュキュという囃子言葉がベッドが軋む音を連想させる」ためと説明されるが、むしろ、巷の春歌としてある程度広く知られていた、ということだろう。たとえ歌詞を穏当に変えたとしても「ヨサホイ節」や「ヨカチン節」の類の歌を大っぴらに放送するわけにはいかない、というようなところだろう。

 これは完全に妄想だが、もし、北島の回想通り、「なみだ船」でのデビュー予定が急遽「ブンガチャ節」に変わったのだとしたら、その背景には、大阪劇場での村田英雄の前歌、という役どころが関わっていたのではないか。つまり、「なみだ船」では、前歌として重すぎる、という判断がなされてもおかしくないように思える。

 「ブンガチャ節」から「なみだ船」への流れは、美空ひばりの「河童ブギウギ」から「悲しき口笛」への流れを想起させるところもある。どちらの場合でも、2曲目が圧倒的な印象を残しているが、業界慣習から逸脱するタイプの歌手が表舞台に最初に出る際には、ややコミカルなギミックが必要だった、ということかもしれない。

「なみだ船」のヒットと精力的な”実演”

捲土重来のヒット曲「なみだ船」

 ともあれ、放送禁止の憂き目にあいながらも、「ブンガチャ節」はある程度のヒットとなり(15万枚ともいうが、当時の売上の数字は各社ごとに基準がまちまちで単なる目安にすぎない)、8月20日に「なみだ船」が発売される。ちなみに、「放送禁止」(民放連の「要注意歌謡曲」指定)は実際のところ「自粛」にすぎず、「なみだ船」のヒットを受けて発売されたLPにも含まれ、後述する映画『やくざの歌』でも歌われている。少なくとも同時代的には「幻」の楽曲だったわけではない。「なみだ船」のヒットの影響で「ブンガチャ節」も売れた、とする回想もある。

 「なみだ船」については、北島が言うようにすでに録音していたものを発売したのか、船村が言うように、デビュー前に北島のために書き溜めていた10曲ほどのなかから選んで録音したのかは定かではないが、北島の成功を確実にした1曲であることは疑いない。その歌唱の見事さについては、いまさら論じるまでもないだろう。冒頭の高音のロングトーンから間然するところのない旋律に、「ヤン衆カモメ」という耳慣れない言葉のフックが効いている。「船もの」というジャンル自体は、バタヤンをはじめ、1940年代には珍しいものではなく、「潮来笠」や「王将」と同様、一種の「復古調」だったといえるが、その枠を超える傑作というほかない。

 作詞の星野哲郎は周防大島出身で、商船学校卒業後、日魯漁業の遠洋漁船に乗っていたリアル「海の男」だ(ちなみにサブちゃんも網元の孫だが船酔いするたちだったという)。しかし結核で療養のため帰郷し数年を過ごす。その間に、作詞家石本美由起が主宰していた同人に参加している。船村に見出されて上京し、コロムビアと専属契約を結んだため、年齢は星野が5歳上だが、船村とは師弟に近い関係があった。1958年の島倉千代子「思い出さん今日は」、1959年のスリー・キャッツ「黄色いさくらんぼ」が最初のヒットで、「なみだ船」の時点ではまだ新進だったといえる。本論の関心でいえば、五木寛之の「怨歌」論は、星野が提起した人生の応援歌としての「援歌」論への反発という側面が強い。この問題はいつか対峙しなければならないが、今はその時ではない。

 「なみだ船」の発売直後からのヒットを受け、2カ月ごと(レコード大賞新人賞受賞後の1963年以降はほぼ毎月)にシングル曲を発売しているが、ヒットには恵まれていない。それよりも、実演の活動を積極的に行っているのが興味深い。「社長が興行につよい人だったから、ぼくは前歌など経験せずに、いきなりワンマンショーをやらせてもらえた。「ブンガチャ節」と「なみだ船」しか持ち歌がないのに、浅草松竹や新宿松竹、さらには横浜松竹で檜舞台を踏むことができた」とする(『艶歌ひとすじ』p.113)。

 「社長」とは、新栄プロダクションの西川幸男で、浪曲師から興行師に転身した人物である。村田英雄を浪曲師として育て、村田の流行歌への転身とともに流行歌手のマネージメントを手掛けるようになった。家業を継いだ彼の息子で、「新聞少年」で知られる歌手の山田太郎による伝記によれば、西川は著作権ビジネスには関心がなく、「俺は楽団屋じゃない。興行の世界で全国の親分衆に名を売って、新栄プロをここまで育ててきた。紙に書かれたものを売って商売なんかしたら、親分衆への義理も立たない。それに村田英雄や北島三郎を巡業に回せば、一日何百万と金が入る。俺はそれだけでやっていくよ」とうそぶいたという(『修羅の時 青春の時』p.152)。

 映画館のアトラクションであれば、自身のヒット曲が2曲あり、それ以外は流し時代からの3000曲のレパートリーを駆使すれば十分だろう。この点は、基本的にディレクターと作家によって与えられた「持ち曲」しかない他のレコード歌手とはまったく異なる。そして、1963年に入ると、2月に大阪劇場、7月に浅草国際劇場で、大規模なワンマンショーを行っている。「大劇でワンマンショーをやったときには、歌手になって初めて泣いた。東京の映画館でアトラクションみたいなワンマンショーは、すでに何度かやっていたが、一流の劇場で満員の客を集めてのステージはこれが最初であった」(p.117)と『艶歌ひとすじ』には書かれているが、その後の伝記記述では、田端義夫が賛助出演した7月の浅草国際劇場でのワンマンショーだけが強調される傾向があり、関西在住者としては遺憾と言わざるをえない。

映画出演と「ギター仁義」で紅白初出場

1963年発売の「ギター仁義」。この曲で紅白歌合戦初出場を果たす

 1963年9月には、東映(東京撮影所)映画『やくざの歌』に出演している。カメオ出演ではなく、主役の千葉真一演じるヤクザの弟分の流しという役どころで、役名は「北島三郎」で愛称が「サブちゃん」だ。名家の出だが親戚に騙され財産を失い、流しで妹(本間千代子)の学費を稼いでいる、という設定だ。彼の部屋には、トリオ・ロス・パンチョスやアート・ブレイキー&ザ・ジャズ・メッセンジャーズと思しきポスターまたはLPジャケットが飾ってあるのも面白い。東映任侠映画の様式美が確立する直前であることもあって、任侠道を理想化するのとは異なる形で物語が展開する。千葉真一と本間千代子の清純な恋愛に、サブちゃんの歌が絡む、一種の歌謡青春映画ともいえる。

 劇中では、「ブンガチャ節」「なみだ船」に加えて、主題歌「演歌師」とシングルB面「あのころの歌」、そして「ギター仁義」が歌われている。「演歌師」は「客を泣かせる流しのコツは 喉じゃないのさ こころだぜ」と歌い出され、流しという稼業自体が歌詞の主題になっているのが興味深い。「あのころの歌」も、各コーラスで「愛染かつら」「無情の夢」「二人は若い」がそれぞれ言及されている。三番では「ナツメロ通り」という語も用いられ、流しと古い歌の観念連合自体を主題とした楽曲といえる。これと、「雨の裏町とぼとぼと 俺は流しのギター弾き」と歌い出し、中間部で語り口調で「おひけえなすって 手前ギター一つの渡り鳥にござんす」と仁義を切る「ギター仁義」によって、流しを魅力的なアウトローとして描く歌を歌う、実際に流し出身の歌手、という構図が確立した。

 この「ギター仁義」が船村徹ではなく、当時彼とライバル関係にあった遠藤実の作曲であることは重要だ。あくまでも個人的な印象だが、北島の明朗で開放的な歌と、技巧的で感傷的または悲愴感漂う船村の旋律は、実はそれほど相性はよくなく、「なみだ船」の絶妙な組み合わせはむしろ例外的だったのではないか。「おひけえなすって」で語り口調になり、「渡り鳥にござんす」で見事に旋律的な節回しとリズムに戻るあたりは、北島の歌唱技術と、遠藤の素朴だがキャッチーな旋律が見事に結合した成功例といえる。

 1963年12月31日、この「ギター仁義」で北島は紅白歌合戦初出場を果たす。腰をかがめ、片手を突き出して仁義を切る、つまりはあからさまにヤクザの所作をとりいれたこの曲が初出場の曲として選ばれたことはやや不思議だ。前年は出場していないので「なみだ船」はまだ歌われていない。後知恵でいえば、1965年発表の「兄弟仁義」は、現在に至るまで紅白では一度も歌われていない。

 妄想をたくましくすれば、こまどり姉妹が1961年に紅白に初出場した際に、彼女らの曲を一貫して手掛けてきた遠藤実の曲ではなく、船村作曲の「姉妹酒場」が選ばれたことで遠藤が激怒するという事件があり(『いま語る 私の歩んだ道②』p.58)、もしかしたらその「手打ち」として、北島に遠藤の曲を歌わせた、というようなコロムビア社内の事情があったのかもしれない。

 それはさておき、現在残っている動画を見ると(この年の紅白は、完全な録画が残っている最古のもので、たびたび再放送されている)、仁義を切るところで大きな歓声が起きており、掛け声も聞こえる。若い歌声も痛快無比だ。この祝祭感をリアルタイムで見られたらどんなに素晴らしかったろう、と今の私は心底思うが、当時の人々がこれをどう見たのかはわからない。少なくない人々は、「下品」「野蛮」と感じたかもしれない。

 というのは、この1963年は、NHKテレビの音楽バラエティー番組「夢であいましょう」の「今月のうた」からレコード化された梓みちよの「こんにちは赤ちゃん」が日本レコード大賞を受賞し、従来の低俗な流行歌に代わる、健康で明朗な「ホームソング」の台頭が、同時代的に意識されていたからだ。

 「こんにちは赤ちゃん」のレコード大賞受賞を報じる一九六三年十二月九日付朝日新聞記事は「ホームソングの時代に」という見出しが付され、「この歌ほど子どもからおとなまで広い層にうたわれ、抵抗なく家庭にはいった流行歌も少ないだろう。そのうえいままでの歌謡曲の見方を変える要素ももっているようだし、新しいホームソングといえよう」としている。

 仏文学者で評論家の多田道太郎も1964 年1 月31 日付朝日新聞「テレビ時評」に、「歌う大衆の芽ばえ 流行歌の世界に衝撃」と題した論説を寄稿し、テレビが生んだ「こんにちは赤ちゃん」の「マイ・ホーム・ムード」と、それを嫌悪する「男たち」が好む旧来の流行歌を対比している。

 

 流行歌の歴史をここで一席述べるわけにはゆかないが、NHKの「夢であいましょう」が、「やるせないムード」から「マイ・ホーム・ムード」への大転換をやってのけたことは確認しておいてよい。「こんにちは赤ちゃん」の梓みちよにしても「ウェディング・ドレス」の九重佑三子にしても、いかにも素人っぽい歌手である。アスパラガスがにょきにょきと大きくなって、それに砂糖をぶっかけたような少女である。この歌手たちの出現は「マイ・ホーム」をとことんまで享受してやろうという少女たちの厚い層がにょきにょき成長しつつあることと関連している。

 

 多田の文章には、「マイ・ホーム」的なものへの揶揄が滲み出ているが、「健全で家庭的なもの」への嫌悪は、新左翼型の流行歌論の基調となり、寺山修司や森秀人を介して五木寛之の艶歌論にもつながってゆく。このことの検討は改めて行うとして、ここでは、紅白初出場の時点でのサブちゃんは、この年の基調である「こんにちは赤ちゃん」の「マイ・ホーム・ムード」の対極にある存在であり、その後の紅白ではほとんどみることができない、陽気なアウトロー性をこれでもかと強調するパフォーマンスによって異彩を放っていた、ということを確認しておきたい。

 サブちゃんの真骨頂は紅白などではなく実演だ、と強く思いながらも、サブちゃんが出ない紅白はやはり物足りない、と素朴に感じてしまう年の瀬ではある。

 それでは良いお年を。

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考える人とはとは

 はじめまして。2021年2月1日よりウェブマガジン「考える人」の編集長をつとめることになりました、金寿煥と申します。いつもサイトにお立ち寄りいただきありがとうございます。
「考える人」との縁は、2002年の雑誌創刊まで遡ります。その前年、入社以来所属していた写真週刊誌が休刊となり、社内における進路があやふやとなっていた私は、2002年1月に部署異動を命じられ、創刊スタッフとして「考える人」の編集に携わることになりました。とはいえ、まだまだ駆け出しの入社3年目。「考える」どころか、右も左もわかりません。慌ただしく立ち働く諸先輩方の邪魔にならぬよう、ただただ気配を殺していました。
どうして自分が「考える人」なんだろう―。
手持ち無沙汰であった以上に、居心地の悪さを感じたのは、「考える人」というその“屋号”です。口はばったいというか、柄じゃないというか。どう見ても「1勝9敗」で名前負け。そんな自分にはたして何ができるというのだろうか―手を動かす前に、そんなことばかり考えていたように記憶しています。
それから19年が経ち、何の因果か編集長に就任。それなりに経験を積んだとはいえ、まだまだ「考える人」という四文字に重みを感じる自分がいます。
それだけ大きな“屋号”なのでしょう。この19年でどれだけ時代が変化しても、創刊時に標榜した「"Plain living, high thinking"(シンプルな暮らし、自分の頭で考える力)」という編集理念は色褪せないどころか、ますますその必要性を増しているように感じています。相手にとって不足なし。胸を借りるつもりで、その任にあたりたいと考えています。どうぞよろしくお願いいたします。

「考える人」編集長
金寿煥

著者プロフィール

輪島裕介

1974年石川県金沢市生まれ。音楽学者。大阪大学文学部・大学院人文学研究科教授。専門はポピュラー音楽研究、近現代音曲史、アフロ・ブラジル音楽研究。東京大学文学部、同大学院人文社会系研究科(美学芸術学)博士課程修了。博士(文学)。2010年に刊行した『創られた「日本の心」神話 「演歌」をめぐる戦後大衆音楽史』(光文社新書)で、2011年度の国際ポピュラー音楽学会賞、サントリー学芸賞を受賞。著書に『踊る昭和歌謡 リズムからみる大衆音楽』(NHK出版新書)など。Twitter:@yskwjm

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