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北島三郎論 艶歌を生きた男

2022年11月11日 北島三郎論 艶歌を生きた男

第5回 「流行歌」の誕生――浪曲からロカビリーまで

著者: 輪島裕介

録音と実演の分裂―「はやり唄」から「はやらせ唄」へ

 今回は、昭和初期における外資系レコード産業の日本市場参入と、「声はすれども姿は見えず」を特徴とする「流行歌」の成立について概観したうえで、そこから逸脱する雑多な実演に由来する要素が、戦後、部分的に取り入れられてゆく過程についてみてゆく。そのうえで、1962年の北島三郎のデビューを、そうした巷の芸態の流入と、レコード会社専属制度の動揺という文脈のなかに位置づけてみたい。つまり、サブちゃんの個人史ではなく、文化史および産業史に注目して、北島三郎登場の背景とその意義を探る、ということになる。

北島三郎の代表曲のレコードジャケット(著者私物、撮影・新潮社)

 

 大正時代、関東大震災前後には、異種混淆的な実演に基づく音と声の表現の文化が形成されていた。浪花節、安来節(やすきぶし)、女剣劇、書生節、映画説明と和洋合奏、小唄映画、といった、在来の芸態に近いものから、新劇、少女歌劇、浅草オペラ、レビュー、ダンス音楽といった、「舶来」の性格がより強いものまで、大道、寄席、芝居小屋、映画館、カフェ、ダンスホールといった、主に歓楽街の、在来の歌舞音曲の文脈を引き継ぐ娯楽的な場所で実践されていた。そこに、「童謡」や「民謡」など、エリート層の文学的想像力と結びついた新概念から発し、雑誌やレコードといった複製メディアを通じて具体的な音響形式を与えられた新種目を加えることもできるかもしれない。これらの演目は、当時、東京、京都、大阪、名古屋といった各地に点在した在来のレコード会社の主要な種目でもあった。

 しかし、昭和初期以降、録音された音と実演の場の分裂が進行してゆく。改元とほぼ時を同じくして、ポリドール、ビクター、コロムビアという外資系レコード会社が合弁会社を設立し日本市場に参入する。これは、関東大震災の復興税制で、蓄音機やレコードを含む奢侈品の関税が跳ね上がったためだ。このことは、輸入盤の市場がすでに一定の規模で存在していたことをも示している。

 これらのレコード会社は、発明されたばかりのマイクロフォンによる電気録音の技術と、いわゆるティン・パン・アレイ式の標準化されたポピュラーソングの形式やフルバンドによる編曲技法をもちこんだ。浅草オペラ出身の二村定一(ふたむらていいち)が日本語訳詞で吹き込み、日本ビクターから発売された「青空」と「アラビアの歌」という2曲のアメリカ楽曲が、外資系による娯楽的日本語楽曲の先駆となった。そのフォーマットを用いた国産楽曲、「君恋し」や「東京行進曲」もビクターだ。前者を作詞作曲した佐々紅華(さっさこうか)、後者を作曲した中山晋平は既にビクターの専属で、西條(さいじょう)八十(やそ)は同曲のヒットの後、同社と専属契約を結ぶ(後にコロムビアに移籍)。対して、コロムビアが明治大学マンドリン倶楽部出身の新進作曲家、古賀政男を売出し対抗する。

西条八十(左)と中山晋平(『アサヒグラフ』1953年2月11日号)

 こうした、レコード発売を前提として、企画から作詞作曲編曲から録音までレコード会社内で完結する新たな大衆向け日本語歌曲の形態は、レコード会社の分類では「流行歌」と呼ばれた。一方、外資系レコード会社の日本参入の直前に始まったラジオ放送では、「流行歌」の商業性や低俗さを忌避し、言い換え語として「歌謡曲」という用語を用いた。

 ここで問題になるのは、歌手だけでなく、作詞作曲家や演奏家に至るまでを特定のレコード会社の専属とする、いわゆる専属制度が確立され、そのことで在来の実演文化との切断が促進された、ということだ。豪華な会社専属フルバンドの演奏と、それを高音質で録音するマイクロフォン技術を擁して、システマティックに新曲を制作し宣伝し販売するやり方は、すでに流行っている種目とその演者を手っ取り早く録音して商品化してきた既存の中小レコード会社を駆逐することにもなった。巷の自発的な「はやり唄」から、営利企業が主導する「はやらせ唄」への変貌、といった言い方は、流行歌の商業性を批判する左派的な「流行歌批判」の定型となる。

日本音楽市場の植民地化と帝国化

 はじめからレコード専用音楽として形成された「流行歌」は、それが日常的に実演される場を新たに生み出すことはなかった。映画館の幕間の「実演」で数曲歌う、とか、戦後になると、レコード会社ごとに専属歌手をショーケース的に紹介するヒットパレード的な舞台公演も存在したが、常打ちの興行ではなかった。レコードで聴かれるような大編成の楽団を従えた定期的な実演は困難であり、また、特定の楽曲が最初に録音を行った特定の歌手に帰属すると考える「持ち歌」の慣行によって、各歌手が実演で歌えるレパートリーも制限されただろう。この「持ち歌」の慣行は、ひとつの歌が、多くの演者と多くの編曲によって多くの文脈で歌われ演奏される「スタンダード」の出現をも阻んだ。

 この時期に成立する「流行歌」を最も強く特徴づける専属制度は、外資系レコード会社で確立したものだが、アメリカの音楽産業の慣行を直輸入したものではない。アメリカにおいてはレコード会社の成立以前から、音楽出版社が楽曲の権利を管理することでポピュラー音楽産業の中枢に位置していた。アメリカの主流的ポピュラーソングを意味する「ティン・パン・アレイ」という呼称も、音楽出版社が立ち並ぶニューヨークの通りの通称だ。音楽出版社の利益は、管理楽曲の楽譜や舞台や映画や異なる歌手と編曲で様々に録音されることで増大する。しかし日本においては、レコード会社が自社製の国産の新作楽曲の権利を独占的に管理したのだ。

 多様な実演の場との分断という文化的な犠牲を顧みず、モノカルチャー的な制作手法によって本国では不可能な権利の独占を図った外資系レコード会社のやり口を、日本の音楽市場の「植民地化」と形容しても誇張ではないだろう。一方、そうした流行歌のレコード制作システムや、録音に特化した豪華なフルバンド編曲は、「外地」と呼ばれた植民地や、日本が侵略したアジア地域との関係では、「帝国日本」の権力と結びついて機能した。つまり、日本における電気録音による「流行歌」の成立は、デニングのいう「耳の脱植民地化」とは正反対に、「植民地化」と「帝国化」が同時並行する、近代日本に特徴的な両義性を呈している。

 その後、外資三社に加え、「流行歌浄化」を掲げてレコード業界に参入した大日本雄弁会講談社系列のキングと、古賀政男を重役待遇で引き抜いたことで台頭した関西の新興レコード会社テイチクが参入する。日米関係の悪化によって、1930年代後半には外資は引き上げるが、専属制度に基づく独占的な制作方法はその後も維持される。コロムビア、ビクター、ポリドール、キング、テイチクの五社に、1950年に、戦前大阪の代表的レコード会社の一つであったタイヘイが復興して改名した日本マーキュリー、その人員を引き抜いて1960年に設立された東芝レコードを加えた市場寡占体制は1960年代まで続く。

古賀政男(『アサヒグラフ』1948年1月28日号)

民謡・浪曲・書生節(艶歌)

 外資参入時点ですでに超人気種目であった浪花節は、こうしたレコード産業の再編の流れにも乗った。広沢虎造は言わずとしれたこの種目の(現時点での)最後の大スターだが、技術はあるが声量が小さい彼が絶大な人気を得るうえで、マイクロフォン技術が必須だった。また、真鍋昌賢の快著『浪花節 流動する語り芸』で詳述される寿々木(すずき)米若(よねわか)の「佐渡情話」のように、歌の要素を大きく取り入れた演目が大人気を博す例もあった。これは、ビクターが民謡「佐渡おけさ」を含む新作を、と米若に注文したもので、同曲は芸妓からレコード会社専属歌手に転じた(ビクターに「落籍(ひか)された」とも形容された)勝太郎の得意曲だった。同曲の人気はラジオ放送による「民謡」の全国的な普及とも重なっている。ラジオ、レコード、お座敷、舞台というメディアをまたいで、民謡と浪花節が交差しているのだ。その意味で、デニングの「電気録音革命」の図式により適合的な事例といえるかもしれない。

 一方で、浪曲ほどの圧倒的な人気はないにせよ、大正期にははやり唄を作り広めるうえで重要な役割の一端を担っていた大道の艶歌師(書生節)は、レコード会社製の流行歌によって周縁化されたといってよいだろう。艶歌師は、大道での演唱によって耳目を集めたうえで、歌詞や楽譜を掲載した歌本を販売することを生業としていたが、外資系レコード会社は、自社製流行歌の歌詞や楽譜をレコードの販売促進のために無料配布したため、業態自体が成り立たなくなり、一曲歌って小銭を稼ぐ、門付けに近い業態への変容を余儀なくされたともいう(桜井敏雄『ザ・ヴァイオリン演歌』CDでの発言)。古賀メロディの影響によって、伴奏楽器もヴァイオリンからギターに変わる。

 ビクター、コロムビアと並ぶ外資系三社のポリドールから初めて発売された国産楽曲は、「のんき節」で知られる書生節の石田一松による「酋長の娘」(コロニアル!)で、この時点での書生節の重要性がうかがえるが、管見の限り、大正期に活動していた艶歌師が、外資系参入以降のレコード会社と専属契約を結んだ例は他には見当たらない。関東大震災後に大阪で活躍した艶歌師で「籠の鳥」の作者でもある鳥取春陽は、1926年にオリエントレコードと歌手兼作家として日本初ともいわれる専属契約を結んでいるが、ほどなく他社(非外資)でも吹込みを行っており、1932年に夭折している。戦前の歌手では岡晴夫、作曲家では上原げんとが艶歌師の出身だが、彼らが流しとして活動したのは1930年代であり、すでにレコード会社製の流行歌(とりわけ古賀メロディ)の影響が入り込んでいたと考えられる。

戦後流行歌に流入する「巷」の音楽性

 「流し」の主題や音楽的影響が流行歌の中に本格的に入り込んでゆくのは、むしろ戦後になってからだ。北海道から高卒後上京し、渋谷の流しとして6年過ごした大野穣青年が、流しの雰囲気を色濃く持つ流行歌手・北島三郎としてデビューするに至る、レコード歌謡史の背景を駆け足で振り返ってみよう。

 戦後の「艶歌調」は、大阪で闇屋のグループが放吟していた春歌を田端義夫が採譜し、歌詞を変えてギター二本伴奏のみで吹き込んだ「ズンドコ節」(1947)、典型的な古賀メロディだが、ギター流しの失恋を歌って大ヒットした「湯の町エレジー」(1949)あたりが嚆矢といえるだろう。美空ひばりの映画『東京キッド』でも、川田義雄とひばりが「湯の町エレジー」と「トンコ節」を歓楽街で流す場面がある。この二曲は、当時の左派系の知識人の流行歌批判の中で常套的に取り上げられていた。

 高峰秀子主演の『銀座カンカン娘』は、彼女と笠置シヅ子の親友コンビが岸井明と組んで銀座の「流し」で稼ごうと企むが、やくざな世界に嫌気がさして、灰田勝彦演じる画家の恋人と田舎で暮らすことを選ぶ、という物語だ。

 この「やくざ」という含意は重要だったようで、時代劇の侠客を主題とするいわゆる股旅歌謡を指して「艶歌」ないし「艶歌調」と形容する例が散見される。股旅歌謡は、日中開戦後に東海林太郎「赤城の子守唄」をきっかけに連発されたスタイルだが、戦後、農村で大流行した「やくざ踊り」で盛んに用いられた。これは、仮装した素人が股旅歌謡レコードに合わせてデタラメに踊る娯楽で、軍隊内での演芸会から復員兵が持ち込んだとされる。コロナ前までは、地域の伝統芸能に近い「股旅舞踊」として、岩手県遠野市で「全国大会」がひらかれていた。現在の大衆演劇の舞踊ショーにも間違いなくつながっている。

 さらに、昭和30年代に入ると、ギター流しではないが、戦前には民謡の一座で北海道から東北を巡業していた三橋美智也が、民謡調の歌手として大人気を博す。同時期には、北海道・東北から東京に出てきた人々を主な顧客とする民謡酒場も広まっている。三橋の最初のヒットは「おんな船頭唄」(1955)だが、その次に発売した「ご機嫌さんよ達者かね」は、北島三郎の師匠である作曲家・船村徹の最初のヒットとなった。夭折した作詞家・高野公男と船村のコンビによる春日八郎「別れの一本杉」の特大ヒットはさらにその直後だ。船村は栃木の比較的裕福な家に生まれ、私立の東洋音楽学校(現在の東京音楽大学)を卒業しているが、その後は作詞家の高野公男ともども困窮生活を送り、その際に流しの経験もあった。

 同じ頃、浪花節から流行歌への転向が続く。二葉百合子(1957)、三波春夫(1957)、村田英雄(1958)などが代表格だが、それに先立って、芙蓉軒(ふようけん)麗花(れいか)「ろうきょく炭坑節」(1955)のヒットがあることも強調しておきたい。二葉、三波、村田のシリアスな雰囲気に対して、「テケレッツのパア」という珍妙な囃子言葉をもつ「ろうきょく炭坑節」は、大阪のタイヘイレコードにちなんだ浪曲漫才(「浪漫ショー」とはなんと洒脱なネーミングか!)のタイヘイトリオや、後に浪曲の大看板から漫才に転じる宮川左近ショーにつながる、浪花節のコミカルな側面を際立たせている。「しゃべくり」に特化する以前・以外の漫才は、日本の(とりわけ上方の)在地音楽を考える際の極めて重要な部分だ。北島三郎がデビュー前に、師匠の船村に命じられ「ゲルピンちん太・ぽん太」なる歌謡漫才コンビを組まされていた、という有名なエピソードも、こうした文脈で理解されるべきだ。

 そして、いうまでもないが、「ギターを持った渡り鳥」小林旭である。映画全体の雰囲気は西部劇風の「無国籍アクション」であり、主題歌も三連のリズムやギターの音色がカントリー&ウエスタンを思わせる。しかし、映画内で「流し」の滝伸次としてアキラが歌うのは、「ズンドコ節」や「ダンチョネ節」のような、洋風の派手な編曲が施されたナンセンスでエロティックな俗謡・民謡であり、「北帰行」や「さすらい」のように叙情的で古風な「詠み人知らず」風の曲だ。

小林旭「ギターを持った渡り鳥」

 さらに、大阪の歓楽街、北新地の流しから高級ナイトクラブ「アロー」の専属ラテン歌手に転じたアイ・ジョージも、1959年末にメキシコのトリオ・ロス・パンチョスの前座を務めたことから注目を集め、「世界の流し」として世界各国のレパートリーをギターで弾き語った。

 一方で、1950年代後半は、左翼系音楽運動が台頭する時期でもあった。そこでは、レコード会社製の「はやらせ唄」に対する敵対心あるいは蔑視がきわめて強く、「プロレタリアの歌」としての「民謡」や、商業主義的な回路の外部から自然発生的に現れた「詠み人知らず」の歌が、左翼系合唱運動から派生した歌声喫茶という新たな若者向け娯楽施設を中心に人気を集めていた。前述の「世界の流し」アイ・ジョージも、左派系の音楽鑑賞団体である労音を主な活動の舞台としていた。

 歌声喫茶から生まれた定番曲は多いが、ダーク・ダックスらが競作した「北上夜曲」、先述の小林旭が録音した「北帰行」といった戦前の学生歌に起源を持ち、「北」のイメージを喚起する曲が流行歌の文脈でも成功している。三橋美智也らの民謡調の「望郷」歌謡のなかで、「故郷」が「北」に設定されていったこととも呼応している。これはもちろん、北日本の農村部から東京への人口移動と関わっている。故郷を離れるのは家を継ぐ長男ではなく、次男以下である。「北の島」である北海道から出てきて辛酸を嘗めた「三男坊」という芸名は、こうした観念連合に基づいている。

 同時期には、占領期の米軍クラブに端を発するアメリカ音楽実践の波も押し寄せてくる。1958年の「日劇ウエスタンカーニバル」にはじまるロカビリー・ブームであり、1959年の永六輔と中村八大コンビによる水原弘「黒い花びら」のレコード大賞受賞であり、米軍キャンプ起源の芸能プロダクションとテレビの蜜月時代である。ロカビリー・ブーム以降、芸能プロダクションとテレビを核とする新たな芸能界システムによって、それまでのレコード会社の専属制度が動揺し、GSブームをきっかけに本格的に解体する過程は、現在では、戦後大衆音楽史および芸能界史の「本流」として扱われているだろう。このあたりは佐藤剛による一連の著作や、新潮新書近刊の『芸能界誕生』(戸部田誠)にきわめて明晰に描かれているためそちらを参照されたい。

 強調しておきたいのは、ロカビリー・ブーム以降、日本の大衆音楽が一気に「アメリカ化」の傾向を強めた、というわけではない、ということだ。ロカビリー以降の若い芸能プロダクション系歌手と、前述した、浪曲や民謡や「流し」といった巷の音曲の要素の流入、さらに、歌声喫茶の「アンチ流行歌」としての「詠み人知らず」の歌への志向が交差し、1960年前後に「リバイバル・ブーム」が起こっているのだ。

「リバイバル」の潮流のなかで―北島三郎デビュー前夜

 前述の歌声喫茶系の「詠み人知らず」の歌の発掘と、そのレコード化による商業的成功と同時期に、若いロカビリー系の歌手が、ジャズ喫茶や日劇のステージからレコードに活動の場を広げるにあたって、戦前の流行歌をカヴァーする傾向があらわれている。「ロカビリー三人男」に次ぐ「三人ひろし」の一人、井上ひろし(後の二人は水原弘と守屋浩。水原が六八コンビの「黒い花びら」(1959)でブレイク後、かまやつひろしと交代。かまやつもバタヤンの「かえり船」をカヴァーしているが鳴かず飛ばずだったようだ)による戦前の流行歌「雨に咲く花」(1960)と、続く「別れの磯千鳥」のカヴァーが先駆的だ。

 それ以前に、ロカビリー・ブームが興った1958年にすでに平尾昌晃が「夕焼小焼」や「五木の子守唄」をロック編曲で演奏している。平尾については、当時のロカビリー・ブームの中で、彼らのレパートリーである英語のヒット曲が競合し、ネタ切れになったため民謡や童謡に手を出した、と説明されることが多い。若いロカビリー歌手が、旧来の専属作家による新曲を歌いたがらなかった、逆に、専属作家がどこの馬の骨ともつかない連中に曲を書きたがらなかった、というような要因もおそらくあったと思われる。さらに、音楽業界全体としては、ファッツ・ドミノ「ブルーベリー・ヒル」のカヴァーの成功などを参照し、アメリカに倣って「古い歌を新しい装いで売る」ことで、既存のレコード制作手法と新規参入のロカビリー系歌手との折り合いをつけようとする産業的な目論見があったと考えられる。

 洋楽系歌手によるリバイバル・ブームの最も有名な例は、おそらく1961年の日本レコード大賞を受賞したフランク永井「君恋し」だろう。フランクは若いロカビリー歌手よりは年長だが、元は「16トン」を得意とするジャズ歌手で、「有楽町で逢いましょう」の大ヒットはロカビリー・ブームの前年、1957年だ。前述のように「君恋し」は、外資系レコード会社製国産歌謡の嚆矢であり、その意味で「流行歌の元祖」ともいえる。

 レコード会社製流行歌よりもさらに古い俗謡も、若い歌手に取り上げられるようになる。森山加代子が1961年に大正時代のナンセンスなはやり歌をリバイバルさせた「じんじろげ」「パイのパイのパイ」だ。前者は、インドに由来するとされる京都の旧制三高で行われていた踊りの歌で、後者は、アメリカ南北戦争時の軍歌「ジョージア・マーチ」に書生節の添田さつきが歌詞をつけたもの。同時期の守屋浩「有難や節」も、浜口庫之助作詞・作曲となっているが、名古屋で歌われていた俗謡に基づくものだった。ちなみに浜口庫之助は、北島にとってもっとも重要な作詞家・星野哲郎の出世作である「黄色いサクランボ」の作曲者でもある。

 ロカビリーを歌いそうな十代の少年歌手が昭和10年代スタイルの典型的な股旅歌謡を歌って大当たりをとった橋幸夫「潮来笠」(1960)も、こうしたロカビリー・ブーム後の復古調の動きの一部といえる。やや趣は異なるが、浪曲師から転向した村田英雄の最初のヒット曲「人生劇場」も戦前の古賀メロディだ。楽曲ではなく題材のリバイバルといえるのが、新国劇の坂田三吉物語に題材を採った村田英雄「王将」だ。1961年に発売され、翌年爆発的ヒットとなった。村田と同じ新栄プロダクション(元は浪曲興行を行っていた)に所属した北島三郎は、「王将」のヒット記念パーティーで新人としてお披露目されている。

 このように、成立から約30年を経て、専属制度が一種の制度疲労を起こしつつあるなかで、また、かつて一世を風靡した浪花節が退潮してゆくなかで、古い歌や芸態に対する新解釈と再編成がレコード業界の内外で進んでいた。渋谷の街では知られた「流し」であり、3000曲のレパートリーを持つと豪語する北島三郎がデビューした背景には、そのような、巷の古い(古臭い)歌に対する新しい関心の高まりがあったことは疑いない。彼のデビュー曲は、巷で歌われていた春歌の替え歌「ブンガチャ節」であり、続いて代表曲となった「なみだ船」は、戦前・戦後のバタヤンを引き継ぐ「船もの」だった。このことは、彼が、当時のリバイバル・ブーム及び「復古調」を背景として登場した新人であったことをはっきりと物語っている。

 かなりの駆け足にはなったが、なんとか北島三郎デビューまでこぎつけた。次回は、北島自身の伝記的な事柄にも触れながら、初期のキャリアをみてゆきたい。

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考える人とはとは

 はじめまして。2021年2月1日よりウェブマガジン「考える人」の編集長をつとめることになりました、金寿煥と申します。いつもサイトにお立ち寄りいただきありがとうございます。
「考える人」との縁は、2002年の雑誌創刊まで遡ります。その前年、入社以来所属していた写真週刊誌が休刊となり、社内における進路があやふやとなっていた私は、2002年1月に部署異動を命じられ、創刊スタッフとして「考える人」の編集に携わることになりました。とはいえ、まだまだ駆け出しの入社3年目。「考える」どころか、右も左もわかりません。慌ただしく立ち働く諸先輩方の邪魔にならぬよう、ただただ気配を殺していました。
どうして自分が「考える人」なんだろう―。
手持ち無沙汰であった以上に、居心地の悪さを感じたのは、「考える人」というその“屋号”です。口はばったいというか、柄じゃないというか。どう見ても「1勝9敗」で名前負け。そんな自分にはたして何ができるというのだろうか―手を動かす前に、そんなことばかり考えていたように記憶しています。
それから19年が経ち、何の因果か編集長に就任。それなりに経験を積んだとはいえ、まだまだ「考える人」という四文字に重みを感じる自分がいます。
それだけ大きな“屋号”なのでしょう。この19年でどれだけ時代が変化しても、創刊時に標榜した「"Plain living, high thinking"(シンプルな暮らし、自分の頭で考える力)」という編集理念は色褪せないどころか、ますますその必要性を増しているように感じています。相手にとって不足なし。胸を借りるつもりで、その任にあたりたいと考えています。どうぞよろしくお願いいたします。

「考える人」編集長
金寿煥

著者プロフィール

輪島裕介

1974年石川県金沢市生まれ。音楽学者。大阪大学文学部・大学院人文学研究科教授。専門はポピュラー音楽研究、近現代音曲史、アフロ・ブラジル音楽研究。東京大学文学部、同大学院人文社会系研究科(美学芸術学)博士課程修了。博士(文学)。2010年に刊行した『創られた「日本の心」神話 「演歌」をめぐる戦後大衆音楽史』(光文社新書)で、2011年度の国際ポピュラー音楽学会賞、サントリー学芸賞を受賞。著書に『踊る昭和歌謡 リズムからみる大衆音楽』(NHK出版新書)など。Twitter:@yskwjm

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