シンプルな暮らし、自分の頭で考える力。
知の楽しみにあふれたWebマガジン。
 
 

北島三郎論 艶歌を生きた男

2023年5月30日 北島三郎論 艶歌を生きた男

第8回 「日本クラウン」の誕生

著者: 輪島裕介

クラウン設立のキーパーソン

 さて、長沼と対立して辞職し、クラウンを設立することになる伊藤正憲は、1926年に日本コロムビアの前身、日本蓄音機商会に入社している。三重県で製茶と製糸を営む名家の出身で、普通部(中学)から東京の慶応義塾に通っている。予科2年時に補欠入隊、除隊後すぐに、紡績関係の材料を扱う企業を起こすが失敗し、手元に残っていた材料がレコードにも使えるとのことで、慶応時代の友人が勤務していた日蓄に売り込みに行ったことがきっかけで入社している。

 彼の回想録『レコードと共に四十五年:私のアルバム』(1971)には、「当時レコード商売というものが比較的新しい企業だったこともあって、将来性を考え、結局入社することになってしまった」(p.58)といい、入社以前の音楽的嗜好については全く記述がない。入社後はセールスマンとして働き、京城(ソウル)でのコロムビア製品不買運動を鎮圧し同地の支店長を経験してもいる。戦中は、統制で作られたレコード全社を統合した配給会社に所属し、戦後になって同社が解散するとコロムビアに戻り、東京支店長を経て1947年に取締役に就任し、文芸部長に就任。このとき、美空ひばりを見出し、周囲の反対をよそに契約している。その他、「トンコ節」「ヤットン節」「こんな私じゃなかったに」など、芸者歌手のお座敷調を多く制作している。これらは当時最も低俗とみなされたタイプの流行歌だった。1955年に宣伝部長、翌年に営業部長となり、1961年にレコード事業部長として常務取締役に就任している。

 五木寛之の「艶歌」に登場する「艶歌の竜」こと高円寺竜三のモデルは周知のように、ディレクターの馬淵玄三だが、年齢や経歴についてはむしろ伊藤正憲を思わせるところがある。しかし、現場に執着する「艶歌の竜」とは異なり、基本的には営業畑を歩んできた人物だった。レコード制作に情熱を燃やす「叩き上げ」というより、社歴が長いという意味で「生え抜き」というほうがふさわしい。

北島三郎の代表曲のレコードジャケット(著者私物、撮影・新潮社)

 当の伊藤正憲自身、回想録では、長沼の名は挙げずに、1961年に自身がレコード事業部長として常務取締役に就任して以降のコロムビアの動静について次のように述べている。

 

 このレコード業界がなが年にわたって培ってきた貴重な資産を、ことごとく踏みにじるような方向へと進んで行った。

 だから、新たに打ち出される施策は、どれもこれも私の意にそぐわないものばかりだった。(略)

 「このジェット時代に、伊藤君のようなプロペラ商法は感心しない。あのような古くさい人間がいるから、コロムビアは発展しないんだ」

 という意味のことを重役陣が言っているのを間接に聞くたびに、私の不愉快な感情は次第に高まっていった。

 そうした矢先、昭和三十八年、当時の社長が私を呼んで、

 「このへんで、ひとつ後進に道をゆずってもらいたいんだが…」

 と切り出した。

 社長とは、なが年一緒に仕事をしてきた仲だったので、私は言った。

 「あんた、私にやめてくれなんて、よく言えた義理か!」

 すると社長は、

 「実は会長がそう言うもんで―」

と遠慮がちに言う。

 そのへんの事情はすでに読めていたから、私は別に驚きもしなかった。また、社長の立場もわかりすぎるほどわかっていたから、社長をせめるつもりは毛頭なかった。

「心配しなくてもいい。この五月は任期が満了になるんだから、その時は、私はだまってやめるから―」

 と言い、そして五月二十九日、株主総会で取締役に再選されることもなく、任期切れと同時に私は追い出された。(pp.227-229)

 

 伊藤の意にそぐわなかった「施策」が具体的にどのようなものであったかについて、彼自身は述べていない。ただし、ヒントになりそうな記述が当時の経済雑誌のなかに見つかった。

 「あなたの利殖雑誌」というキャッチコピーの経済誌『商工経済』1963年12月15日号(実際の発売は、日本クラウンの第1回新譜発売の12月1日頃だろう)の記事「重役の座を離れた教祖ふたり:元コロムビア伊藤常務と山一証券山瀬常務」では、「ナニワ節・人情篇」という小見出しのもと、伊藤のコロムビア退職から日本クラウン設立に至る過程を報じている。

 そこでは、伊藤の退職理由は「長沼弘毅会長、瀬谷藤吉社長と伊藤常務との間」の「レコード政策[ママ]についての重大な意見の相違」だとする。「会長、社長がレコード会社の経営を近代化しレコードもコジキ節・流行歌中心でなく、芸術的なクラシック音楽中心に、レコード大賞や芸術祭賞に輝くようなもので、コロムビアの真価を問うべきとしたことに対し、伊藤常務はレコード製作は人間と人間の結びつきが大事であるとして、会長・社長の意見に反対した」(p.20)という。長沼はレコード事業自体にそれほど興味はなかったと考えられるが、レコード軽視の背景の一部として、既存の流行歌への蔑視があったことは想像に難くない。

「コジキ節」―戦後の流行歌蔑視

 ここで用いられる「コジキ節」という差別的な表現は、敗戦直後以来、レコード会社製の流行歌の低俗性を非難するときの紋切型だった。そのなかでも、最も低俗とみなされる歌を量産していたのが、伊藤が文芸部長を務めていた時代の日本コロムビアだった。やや寄り道になるが、重要なポイントなのでみておこう。

 流行歌についてこの語を用いた戦後の代表的な例は、『漫画:見る時局雑誌』1949年7月号に徳川夢声が「含宙軒夢聲」の筆名で執筆した「流行歌今昔」(その後、1951年刊の随筆集『雁のあとさき』に収録)と考えられる。

 

 哀調を帯びたものでないと、日本の全国的流行歌になれない。と品よく云う代りに、

 ―乞食節でないと圧倒的には流行らない。と云つたら、随分怒る人があるだろう。いくら怒つたつてその通りなら仕方があるまい。

 まつたく、このごろ放送などで大衆が大騒ぎする歌謡曲を聞いて見ると、殆んど全部がこのコジキ節だ。

(略)

 この『コジキ節』という言葉は私が作り出したものでなく、辰野隆博士が或る座談会で云つたのを

 ―ウン、乞食節とは巧く云つた!

 と感服して以来、私が用いることにしたのである。(p.25)

 

 ここで夢声のネタ元として言及されている辰野(ゆたか)は、東京駅などを設計した建築家・辰野金吾の息子で、東京帝大仏文科の教授。帝大助教授時代にフランス留学経験を持ち、随筆家としても活躍した。夢声が参照しているのは、おそらく1947年に刊行された『河童随筆』所収の「好悪問答」だろう。文学青年と老書生の問答形式で書かれた随筆のなかで、文学や洋酒についての蘊蓄を披瀝した後、「日本の歌曲は嫌ひですか」という問いに対して、「殆ど悉く乞食節なので閉口です」と答えている。ここではやや漠然と「日本の歌曲」と言及され、とりわけ義太夫が取り上げられ、流行歌を名指ししているとは言い切れない。

 遡って、1938年刊行の『書斎閑談』所収の「フランス音楽の思出」では、辰野はより直接的に流行歌を指して用いている。「僕は音楽にはズブの素人で音楽を語る資格なんかないのだが」としつつ、「十五年前巴里にいた時分の音楽的スウヴニイルとでも云つたものを話して見ますか」と書き出し、その謙遜とは裏腹に、著名作曲家や演奏家の評判からオペラや現代的傾向まで該博な知識を並べ立てた上で、最後の段落でやや唐突に日本の音楽について述べる。「日本のオルケストルで物足らないのは」管楽器とハープである、と苦言を呈し、「然し最近に於ける日本の音楽は非常に進んだのでせう。軍需科学の進歩と少年音楽家の輩出が最近十年間の日本の特色ではないでせうか」と持ち上げる。

 続けて、件の語が全体のオチとして一番最後に現れる。「尤も流行の小唄などは問題にもなりませんね。あれは例外なく、大道芸人の乞食節ですよ」(p.280)。典型的な「出羽守」スタイルで呆れ果てる。2年もパリに滞在して大道芸人の音楽を見下すとは所詮官費留学の限界か、と憎まれ口も叩きたくなる。しかし、当時の知識人の「水準」はこの程度だったのだろう(とあえて挑発的に言ってみる)。この随筆は、1946年刊行の『随筆選集』にも収められていることから、ある程度広く読まれたと考えられる。

 時代を下って、こうした知識人の流行歌蔑視は、1960年代後半以降、竹中労や五木寛之によって流行歌の民衆性を擁護する態度に基づいて反転させられ、やがて「艶歌」ジャンルを生み出す重要な否定的媒介となってゆく。竹中は、その記念碑的な労作『美空ひばり』(1965)のなかで、流行歌を「低俗の代名詞」「日本の後進性の象徴」として蔑視する戦後の文化人を激しく非難している。

 

 徳川夢声が、「流行歌は亡国の音楽である」といったのは、敗戦の翌四六年だった。夢声は「泣き節」「あきらめ調」と流行歌の感傷性をきめつけ、それは封建制下の桎梏から生まれた「奴隷の歌」であると極論した。(p.237)

 

 残念ながらこの文章には出典が示されておらず、「四六年」に夢声が流行歌を非難した文章は、ざっと調べた限り見つけられなかったが、前掲の「流行歌今昔」とぴったり重なる内容であり、記憶ちがいの可能性も考えられる。

 一方、五木寛之は、「艶歌」のなかで、「艶歌の竜」こと高円寺竜三が、若い頃流行歌を軽蔑していたが、やがて転向する、という文脈で、昭和初期にレコード会社に入社した当初は「なにしろ酔うとドイツ・リートやシャリアピンの〈蚤の歌〉などを口ずさむモダン・ボーイだった。日本の流行歌など、乞食節だと軽蔑しきっていた」としている。

 『商工経済』誌での「コジキ節」という語の使用は、辰野や夢声の流行歌蔑視と、それを自覚的に反転させた竹中や五木の、中間あたりに位置しているように思える。一つの記事の、おそらくはかなりカジュアルな用法から過大な解釈を引き出すのは避けねばならないが、日本コロムビアの内紛と日本クラウンの設立を報じる経済記事の中で、流行歌の社会的地位をめぐる象徴的な表現が用いられていることはやはり興味深い。

日本クラウンの「七人の侍」

 同記事では、会長と対立し失職した伊藤が「江湖に放浪するどころか、新しいレコード会社設立の夢」を実現してゆく過程を紹介し、資金を調達した有田一寿や、伊藤を慕ってコロムビアを離脱した幹部社員たちについて、「同志的結合、ナニワ節的義理人情のなせるわざ」と形容し、「決して金にひかれたわけではないのだ」と念押しする。ここで伊藤の退職から、有田一寿と組んでの日本クラウン設立までの「ナニワ節的」経緯を簡単に説明しておこう。

 1963年5月に退職した伊藤を慕い、慰労した人々の中に、北九州・筑豊の石炭積出港をはじめ港湾建設を扱う若松築港社長の有田一寿(1916-1999)がいた。有田は、1962年に自伝『愛はほとばしる泉の如く』を出版し、その記念パーティーで伊藤と知り合っている。刊行と記念パーティーを取り仕切ったのは、美空ひばりの元マネージャー、福島通人だった。

 植民地朝鮮に生まれ、早くに両親を失い北九州の叔父に引き取られ、苦学して中学から師範学校を経て東京帝大文学部に入学。卒業してすぐ従軍し、戦後は地元の女子高の校長や教育委員を経て、養子に入った妻の実家が経営する若松築港に入社、やがて社長就任、という波乱万丈の人生は、筑豊から東京での学生生活を舞台とする成長小説という点で、後の五木寛之『青春の門』を想起させるところもあり、植民地朝鮮から九州へ、苦学して上京という経歴も似通っている。ちなみに有田と五木の交流については、有田の晩年の回想録『人生は荒波のなかの小舟』(書名のセンスが一貫している!)に「クラウンにいた五木寛之氏」という文章が収められている。

 『愛はほとばしる泉の如く』については、1962年7月1日の朝日新聞書評欄に、「小説に品行方正学術優等の主人公がでてきて、どんな不幸にも不運にも打ちかち、ついに努力と忍耐によって、幸運をかち得る出世美談を書いたらだれも読むものはあるまい」「それが真実に満ちた実話であり、著者の素朴な自叙伝であってみれば、一読の価値を見出すのである」とする書評が掲載されている。「事実は小説より奇なり」を地でゆく、ほぼ非現実的な立身出世譚として肯定的に受容されたことがうかがえる。

 この書物に感銘を受けた伊藤は、これをレコード化する企画を立て、有田自身に作詩を依頼し、遠藤実作曲、高石かつ枝歌唱の「愛はほとばしる」として発売している。また同作は新派劇として新橋演舞場でも上演されており、それが縁で、クラウンを成功させた後に松竹の社長就任を打診され、固辞したというエピソードもある。

 伊藤の回想録では、有田と伊藤は「最初の出会の時からすでに、おたがいに通じ合えるなにかがあった」という。

 

 クラウン設立の記者会見のおり会社設立の事情を説明するくだりで、「私が最初から伊藤さんに惚れ込んでしまったのが原因で…」というような話をされておられたが、私のほうにもそうした気持はあった。

 この人となら一緒になにかやれる、心からの結びつきが持てる、といった確信のようなものがあったのだ。(p.233)

 

 有田は伊藤について「古武士のような人物」と評し、「シャーロック・ホームズの訳者としても知られている近代的なタイプの長沼氏と伊藤氏では全然ちがうタイプだから、いつか衝突するだろうと、私は私なりにそんな感触をもっていた。やめたと聞いた時は、やはりそうか、と思っただけで驚きもしなかった」とする(『人生は荒波のなかの小舟』p.14)。

 伊藤はまた、5月の退社から、7月末に新会社設立の相談のため有田を訪れるまでの間、周囲に今後のことを問われると、「仮名手本忠臣蔵」になぞらえて「いつやるのかと聞かれた時はただ一言、「由良之助の一力茶屋だよ」と答えるだけにしていた」という(『レコードと共に四十五年』p.234)。

 伊藤から新会社設立の協力依頼を受けた有田は、当時の東京放送社長・鹿倉吉次に相談している。この人脈も『愛はほとばしる泉の如く』のテレビドラマ化が関わっていたようだ。もちろん多大なリスクを背負う決断ではあるが、単に「義理人情」だけで設立に協力したわけではなく、一定の勝算があったのかもしれない。

 伊藤の協力依頼を受け入れた有田は、資本金の1億円を8月11日からのわずか6日間で集めている。彼が属していた九州出身の企業経営者の親睦団体「宝満会」の人脈を頼ってブリヂストン、出光興産、大日本印刷、雅叙園観光、三菱電機、三菱商事、学研の協力を取り付けている。興味深いのは、資本金を全額負担してもよい、という三菱電機のオファーを、「どこにも過半数の株をもっていただきたくない」「第二の人生をかけて集まってくれる社員の立つ瀬がない」として断っていることだ(p.18)。

 このオファー自体、当時の家電業界とレコード業界の密接な関係を示している。長沼と伊藤の対立はつまり家電事業とレコード事業の対立だったことを考えると、これを断ったことは不自然ではないように思えるが、当時の経済界の常識からは逸脱するものだったかもしれない。というのは、8月31日の第1回の記者会見と9月6日の設立総会の間、9月3日の読売新聞には、「レコードに進出 三菱電機」という見出しで、「三菱電機を中心とする、日本で七番目のレコード製作会社「日本クラウン」が、資本金一億円で今月六日設立される」という小さな記事が掲載されている。最初の記者会見の時点では、レコード専業の独立企業というあり方は、経済記者には想像しにくかったのだろう。

 有田が資本金を工面する間、伊藤ははじめてコロムビア時代の友人に新会社設立の意志表示をし、賛同者は8月24日に有田邸に集まるよう話したという。そこで集まったのは、吉田雄二郎、目黒賢太郎、亀井武綱、斎藤昇、馬淵玄三、の5人。これに有田と伊藤を加えて、「まさに七人の侍である」(p.238)。その後、さらに長田幸治、石渡長三郎、林中、土屋重五が加わる。この中で本連載にとってとりわけ重要な人物は、北島三郎の担当ディレクターだった斎藤昇と、五木寛之の「艶歌の竜」のモデルとなった馬淵玄三だろう。また、守屋浩、飯田久彦、佐々木功など、若者向けの歌手を担当してきた長田幸治は、クラウン設立後は、新人スター・西郷輝彦を担当し、経営の安定に大いに貢献することになる。

「日本人の手による日本人の音楽を」―憂国の大演説

 設立までの経緯を簡単にまとめておこう。9月6日にパレスホテルで創立総会が開かれる。10月22日には赤坂ミカドで創立披露パーティーが行われ、1500人の招待客を目の当たりにして伊藤は「人知れずうれし泣き」したという。さらに12月1日には第1回新譜として19枚のシングルが一斉に発売されている。担当の馬渕ディレクターと作曲家の米山正夫との関係で移籍が噂された美空ひばりは残留したが、「ご祝儀」のかたちで、米山が作詞作曲した「関東春雨傘」を歌っており、レコード番号CW-1が与えられている。続くCW-2は、我らがサブちゃんの「銀座の庄助さん」だ。作詞の三宅立美は石本美由起主宰の歌謡同人誌で星野哲郎と同門だった広島の作詞家、作曲のいづみゆたかはコロムビアに残留した市川昭介の変名。同月4日には所属歌手総出演の「クラウンレコード歌謡大行進」が読売ホールで開催されている。

 一連の動きの中で、当初は「三菱電機のレコード産業進出」と捉えられていたクラウンの設立は、にわかにナショナリスティックな枠組に意味づけられてゆく。

 設立総会後の1963年10月8日読売新聞夕刊では、「レコード界の新勢力 クラウン旋風」という5段の記事が掲載されている。見出しは「日本調で切りこむ」で、リード文は以下の通り。

 

 新しいレコード会社の日本クラウンが九月六日に設立総会を開いてはっきりレコード制作の意思を表明してから、レコード界はてんやわんやの大騒ぎ。

 一億の人口にたった六つのレコード会社ということで太平のねむりをむさぼっていたレコード界にとっては、まさに幕末時代の“黒船”にも匹敵するクラウンの登場だ。

 

 ここではクラウンが「黒船」になぞらえられているが、同記事内で伊藤の発言はむしろ、黒船の外圧への抵抗者としての立場を強調するものだ。

 

 いまのレコード界をみてごらんなさい。金額で言えば、外国製の洋楽が七、国産の邦盤が三という比率なんです。これでは日本はことレコードにかんしては完全に外国の植民地になってしまう。私はそれに目をつぶることはできない。日本人の手による日本人の音楽をクラウンで作っていきたいのです。日本人の音楽というのは、子どもからお年よりまで、日本中のだれでもが愛着をもって歌える歌ということです。いまのレコード界をみていると、各社がせりあって高い金額をはらい外国のレコード会社と契約し、月に何枚出すというノルマのために、売れても売れなくても洋楽をプレスしている。あちらさんのいただきものを、無批判にプレスしているだけだ。こんなレコード界なのだから、純粋に日本人の手によるレコードだけを作っていこうという、私のような人間がいてもいいと思うんですよ。

 

 この長い憂国の大演説が、インタビュー記事ではなく設立についての報道記事に収められていることからも記者の共感が伝わる。ほかにも、「長い間いっしょに仕事をしてきて、人間的な信頼感で結ばれた仲間がみんなクラウンに移ったので、私も新会社につれていってくれといとう専務にお願いしたのです。オーバーな表現を使わせてもらえば“男の決意”とでもいうんですかね」(米山正夫)、「ぼくたちを一人前の作曲家に育ててくれた馬渕ディレクターがいなくなったのでは、コロムビアで仕事をする意欲はもうありません」(市川昭介)、「気のあった人たちとでないと、いいレコードができませんものね」(美空ひばり)といった発言から、記事全体のトーンが「義理と人情」で貫かれていることがはっきりわかる。

 ここで伊藤が述べる洋楽7と邦楽3という比率が正確なのか、「金額」が制作費ベースなのか収益なのかは定かではないが、少なくともこの時点で、洋楽レーベルと契約せず洋楽を扱わないレコード会社は一社もなかった。外国レーベルと契約しない、流行歌を中心とした国内制作のみのレコード会社、しかも大手企業の傘下ではない独立採算企業という日本クラウンは、当時の業界慣習を逸脱する衝撃的なものだったことは間違いない。

 あえて喩えれば、当時「外国人レスラーを呼ばないプロレス団体」を立ち上げるようなものだろうか(とはいえ基本的に団体内の選手だけで興行を行う女子プロレス団体はずっとあったのだが)。ただし、「人間的な信頼感」「気のあった人たち」と形容される、社員ディレクターを中心とする専属制度もまた、外資系レコード会社の市場寡占のなかで確立したものであったことにはいま一度注意を促しておきたい。三十数年前の「近代的(植民地主義的)」な囲い込み制度が、ここでは「人間的な信頼感」へと横滑りしているのだ。

 ちなみに、国外レコード会社との契約の問題は、数年後に改めてコロムビアに危機をもたらすことになる。1968年の日本企業への外国資本の自由化(レコード会社は50パーセント)を見越して、CBSは日本コロムビアのレコード事業部との合弁を希望していたが、日本コロムビアの電機事業部がそれを認めなかった。CBSを懐柔するために、洋楽部の収益を上げる必要があった。その苦肉の策として、洋楽部での国産曲制作がはじまり、これが「和製ポップス」とその後の「グループ・サウンズ」を準備することになる。結局CBSはソニーと合弁会社を設立し、日本コロムビアはCBSを失うことになる。CBSソニーに続いて、ワーナー・パイオニアや東芝EMIのような合弁会社が作られ、一方では、洋楽と外国のメジャーレコード会社のプレゼンスがさらに高まることになり、他方、これらの新しい合弁会社では、旧来の専属制度はそもそも用いられなくなる。

「一億国民に愛され親しまれる歌」―演歌専門のレコード会社へ

 かくして日本クラウンは、12月1日に第1回新譜を発売し、同4日には、所属歌手総出演の「クラウン・レコード歌謡大行進」をよみうりホールで開催している。同公演がテレビ放送される12月15日の読売新聞には、社長の有田と専務の伊藤連名の「クラウンレコード発売に際して…」という挨拶文と、19枚の第1回新譜の一覧が掲載されている。旗揚げ公演のテレビ放送に合わせた新聞広告掲載は、この時点でテレビが流行歌の流通における中心的なメディアとなっていることを示している。

 

 全国の歌謡曲ファンのみなさまの絶大な期待と、関係各位の暖かいご支援のもとに、

 このたびクラウンレコードが誕生いたしました。

 クラウンレコードは、我が国のレコード界に清新の気風を送りこみ、歌謡曲史の新しい扉を開くことを創業の精神としております。

 これからは、一億国民に愛され親しまれる歌、暮しの夢となり、仕事の原動力となる楽しいレコードをたくさんつくっていくつもりです。

 

 ここでは、「歌謡曲ファン」に呼びかけ、「歌謡曲史」の新しい扉を開くと宣言する。つまり、クラウンが制作するレコードはもっぱら「歌謡曲」であることが繰り返し強調されているわけだ。日本のレコード会社が歌謡曲、つまり日本語の大衆歌謡を専門に制作するのは、当然のように思われるかもしれない。

 しかし、ここまで繰り返し強調してきたように、昭和以降のレコード産業はむしろ、洋楽(いわゆるクラシックを中心に、それに準ずるものとして捉えられたポピュラーも含む)を規範として成立してきた。先の長沼の「アメリカの原譜を売り、合せて国内の歌手の音楽を売るという建前で会社がスタートして」いるという発言もそれを裏書きしている。そこでは、いわゆる流行歌(歌謡曲)は、少なくともその成立当初は、「日本の音楽」というより、「日本語で歌われる洋楽」と捉えられていたといえる。

 それに対し、ここでは「歌謡曲」が「一億国民に愛され親しまれる歌」として、国民全体を代表する音楽であることが謳われているのだ(ただし、「流行歌」と「歌謡曲」の使い分けについてはより詳細な検討が必要かもしれない。先の10月8日の読売新聞記事では、クラウンは「流行歌、ホーム・ソング、純邦楽だけで出発する」とされており、それらを包摂するものとして「歌謡曲」という語が選ばれた可能性も考えられる。「歌謡曲」は放送での「流行歌」の言い換え語だが、元々は和楽器を用いた新作歌謡を指す用法があり、また、戦前には芸術歌曲を指す用法もあった。つまり「流行歌」よりも少しだけ高尚な響きをもっていたといえる)。

 やや先取りして、さらに時代を下ると、クラウンはざっくり「演歌専業」と理解されるようになる。「演歌」が一種の流行語だった1971年に刊行された伊藤正憲の回想録に寄せられた多くの関係者の推薦の辞は、そのことをはっきり示している。

 クラウンの出資者のひとりでもあるブリヂストンタイヤ社長の石橋幹一郎は、設立時の有田の協力依頼を、「並のレコード会社でなく、この道数十年というベテラン七人の侍を中軸として、演歌専門の会社をつくるというのである」と振り返り、発起人会で伊藤に初めて会った際についても、「「演歌のみのレコード会社です」との考えもこの人の口から出ると疑いを返す余地のないものとなった」と述べる。同書の本文では、伊藤自身の言葉として「演歌」を用いている箇所は一つもなく、おそらく伊藤の言葉では「流行歌」(あるいはせいぜい「歌謡曲」)だったのだろう。それが10年弱後には、「演歌専門」「演歌のみ」と記憶が上書きされているのだ。

 また、大日本印刷社長の北島織衛は、このころ紋切型になりつつあったフレーズを直接的に用いている。「伊藤さんは〈演歌は日本人の心〉という自説を貫いて、神楽坂はん子たちを掘り出した実績に恥じず、北島三郎・西郷輝彦・美川憲一・山田太郎・水前寺清子・笹みどりなど数々の歌手を、ユニークな企画と抜群の選曲で次々に世に送り出した」。

 このなかでは少なくとも神楽坂はん子や西郷輝彦を「演歌」と形容するのは違和感があるが、「(旧来型の)日本の流行歌=演歌」という図式が成り立っていたのだろう。これらの中高年経営者の言葉は、音楽業界や芸能ジャーナリズムの用語法を気にする必要がないだけに、むしろ「演歌」を素朴に受容した層の印象を正確に伝えているかもしれない。

 今回はついにサブちゃんがまったく出てこなかった。しかし、今後彼が「艶歌ひとすじ」を標榜してゆくうえで、日本クラウンへの移籍はきわめて重要な背景となる。のみならず、日本の庶民的真正性を体現する流行歌という含意で「演歌/艶歌」という語が定着するうえでも、「流行歌(≒演歌)専業」である同社の浪花節・忠臣蔵めいた創立譚が果たした役割は決して小さくない。

 次回は北島三郎の側から見たクラウン騒動、お楽しみに。

 

*次回は、6月上旬ごろ更新の予定です。

この記事をシェアする

ランキング

MAIL MAGAZINE

「考える人」から生まれた本

もっとみる

テーマ

  • くらし
  • たべる
  • ことば
  • 自然
  • まなぶ
  • 思い出すこと
  • からだ
  • こころ
  • 世の中のうごき
  •  

考える人とはとは

 はじめまして。2021年2月1日よりウェブマガジン「考える人」の編集長をつとめることになりました、金寿煥と申します。いつもサイトにお立ち寄りいただきありがとうございます。
「考える人」との縁は、2002年の雑誌創刊まで遡ります。その前年、入社以来所属していた写真週刊誌が休刊となり、社内における進路があやふやとなっていた私は、2002年1月に部署異動を命じられ、創刊スタッフとして「考える人」の編集に携わることになりました。とはいえ、まだまだ駆け出しの入社3年目。「考える」どころか、右も左もわかりません。慌ただしく立ち働く諸先輩方の邪魔にならぬよう、ただただ気配を殺していました。
どうして自分が「考える人」なんだろう―。
手持ち無沙汰であった以上に、居心地の悪さを感じたのは、「考える人」というその“屋号”です。口はばったいというか、柄じゃないというか。どう見ても「1勝9敗」で名前負け。そんな自分にはたして何ができるというのだろうか―手を動かす前に、そんなことばかり考えていたように記憶しています。
それから19年が経ち、何の因果か編集長に就任。それなりに経験を積んだとはいえ、まだまだ「考える人」という四文字に重みを感じる自分がいます。
それだけ大きな“屋号”なのでしょう。この19年でどれだけ時代が変化しても、創刊時に標榜した「"Plain living, high thinking"(シンプルな暮らし、自分の頭で考える力)」という編集理念は色褪せないどころか、ますますその必要性を増しているように感じています。相手にとって不足なし。胸を借りるつもりで、その任にあたりたいと考えています。どうぞよろしくお願いいたします。

「考える人」編集長
金寿煥

著者プロフィール

輪島裕介

1974年石川県金沢市生まれ。音楽学者。大阪大学文学部・大学院人文学研究科教授。専門はポピュラー音楽研究、近現代音曲史、アフロ・ブラジル音楽研究。東京大学文学部、同大学院人文社会系研究科(美学芸術学)博士課程修了。博士(文学)。2010年に刊行した『創られた「日本の心」神話 「演歌」をめぐる戦後大衆音楽史』(光文社新書)で、2011年度の国際ポピュラー音楽学会賞、サントリー学芸賞を受賞。著書に『踊る昭和歌謡 リズムからみる大衆音楽』(NHK出版新書)など。Twitter:@yskwjm

連載一覧


ランキング

イベント

テーマ

  • くらし
  • たべる
  • ことば
  • 自然
  • まなぶ
  • 思い出すこと
  • からだ
  • こころ
  • 世の中のうごき

  • ABJマークは、この電子書店・電子書籍配信サービスが、著作権者からコンテンツ使用許諾を得た正規版配信サービスであることを示す登録商標(登録番号第6091713号)です。ABJマークを掲示しているサービスの一覧はこちら