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あなたには世界がどう見えているか教えてよ 雑談のススメ

 「考えるってどうやるんですか」と聞かれることがよくある。

 わたしは、子どもの頃からたくさん考える人だった。いろいろなことについて「なぜだろう」としつこく考えていたのは、わからないことを減らしたかったからだろうか。

 子どもの頃のわたしが何を考えていたのかと言えば、「なぜみんなができることが、自分はできないのか」「なぜ嫌われてしまうのか」「なぜうまくいかないのか」などと、考えるきっかけはいつもネガティブな要素だったように思う。幼い頭で考えたところで答えが見つかるわけではないのだが、なんでだろうと疑問に思わずにはいられなかった。

 「なぜ自分はこうなんだろう」という疑問や他者との比較が、自分への視点の原点であり、「考える」やり方の原点にもなった。ネガティブな入口から入って、俯瞰の視点で観察し、まるで他人事のように自分を取り扱う癖は、こうして子どもの頃に出来上がったんだなと思う。

 頭の中で考えるだけではなく、本を読んだり調べたりもした。本の中の誰かの言葉で救われたこともたくさんある。「自分だけではないんだな」とわかって安心することもあれば、大人が書いた文章に「子どもだからではなくて大人になっても悩むのか」とガッカリすることもあった。

 子どもだったわたしは、とにかくたくさん考えてはいたが、考えていることを人に話すことはほとんどなかった。小学校5年生のとき、日記を書いて提出する宿題があり、思っていることを正直に書いたら、それを読んだ担任の先生に「なぜもっと子どもらしくいられないのか」と、残念そうに言われたことがあった。みんなの前で読まれて、同級生たちに「不幸のヒロインかよ」などと言われることもあった。そんなことから、「考えていることや思っていることをそのまま出すと、いいことがない」と思うに至り、外に出すのをやめたのだった。

「考える」ときのふたつのやり方

 大人になってからも、考えることをやめなかった。次々と襲ってくる様々な困難に対峙するには、「どうすればいいか」を考えなければいけなかったからだ。そんな状況の中で、考えることは、自分の行動を決めるための強い味方だった。

 子どもの頃のように、自分に向けた「なぜ」という答えのない疑問から、今度は、答えをひとつ決めて行動するために考えるようになった。「シングルマザーが少ない時間でどう稼ぐか」「どれくらい稼いだら心配ないか」「限りある時間をどう使うか」など、解決するために、わかるまでしつこく考え続けた。これは本当にできてよかった。考えるのを諦めた途端に、社会や環境に飲み込まれ、よくない方へ流れていってしまうのは明白だからだ。

 こうしてわたしは、「自分について考える」と「行動を決めるために考える」ふたつの考え方を手に入れた。

 前者は「内省」とも言われる。内省は、自分の行動や思考を観察し、分析して、自分を知るための行為だ。これは、主に過去を振り返り、考えること。わたしが未来について考えるのが苦手で、過去を取り扱うことが好きなのは、子どもの頃から内省が得意だったからだろう。

 そして、大人になってから手に入れた「行動を決めるために考える」は、未来に目を向けて「どうなりたいか」や「どうなりたくないか」から考えはじめ、今と未来の行動を決める。どうすればいいか行動に落とし込むまで考え続けるので、内省と違って、深く潜り込みすぎたりぐるぐると反芻したりすることはない。

 この手段を身につけることができて本当によかった。それまでのわたしは、どんなにたくさん考えても、自分が一体どうしたいのかがよくわからなかった。内省だけでは、何かで蓋をして出てこなくなった自分の欲を取り出すのは難しいのだ。

 内省して自分がどんな人間かを知ることと、自分にとってよりよい状態に向けて行動することは、両方とも大事だが、そのふたつを繋ぐ間には「自分の欲を知る」が欠かせない。

 欲を知るためには、出てこないように邪魔している思い込みを剥がさなければならないのだが、この、「思い込みを見つけ、剥がし、欲を知る行為」は、ひとりではなかなかできない。他者が必要だ。

 誰かにとってその「他者」になるために、わたしは雑談の仕事をしている。

大事にするものを自分で決める

 マンツーマンの雑談を通して、わたしが一番伝えたいのは、「自分で選ぶこと、決めることを諦めないでほしい」ということだ。一緒にいる人を、仕事を、信頼する相手を、時間の使い方を、言葉を、食べるものを、考え方を、美しさを、得る知識を、お金の使い道を、大事にするものを、自分で決めていいんだよ。と、言い続けたい。

 これはまさに、過去の自分に向けて言いたいことばかりだ。内省ばかりして、自分のことを知ったつもりになって、「ないものはないから仕方がない」と諦めていた、かつてのわたしに言いたい。欲を無視してなかったことにしても、傷つくことは避けられないし、どこにも行けない。一時的な痛みを麻痺させることはできても、どこに行きたいのかわからない人はどこに行っても居心地が悪く、自分の居場所にならない。

 だから、雑談をしながら、自分が一体どうしたいのかの欲を知り、何を大事にするのかを自分で決める。その体験を一緒にできるといいと思っている。

今までのやり方を自覚する

 「自分で決める」ができるようになるには、練習を重ねるしかない。

 そのためにまずは、いかに自分で決めていないかを自覚する必要がある。誰かに決めてもらおうとしたり、他者からの評価に自分の価値を委ねたり、人のせいにしたりと、他人のプールに入り込んでいることに気が付かないといけない。

 自分にとって当たり前のやり方は、ひとりでは自覚しにくい。他にやり方があるとわからないくらい、身に馴染んでしまっているからだ。馴染みすぎているから「わたしはこういう性格なので」と、自分の一部かのように勘違いしてしまうこともある。たしかにそこに意思はなく、自動的にそう動いてしまっていると感じるのはわかる。しかし、自分が他人のプールに飛び込んでしまっている―そんな選択をしているのだと気がつかないと、他のやり方を選べない。

 わたし自身、このことを自覚したときは、かなりショックだったのを覚えている。「え、わたし??」と驚いた。「ずっと周りのせいで不幸だと思ってたけど、自分でそうしていたの?」と、認めるのがとてもつらかった。ぎゃー、ヤバいー、と、のたうち回った。めちゃくちゃ恥ずかしいし、つらいけど、その自覚が「自分で決める」道への第一歩だった。

自分の欲に責任を持つ

 「自分で決める」には、当然責任が生じるし、リスクも負う。人のせいにして自分で決めていなかったことで、その責任から逃れていた事実を突きつけられるのも、かなりショックだった。

 何に責任を持つのかと言えば、行動に対してではない。行動すれば、うまくいかなかったときのリスクは負うものだが、行動に責任を持とうとすれば、いわゆる自己責任論に通じる厳しさがつきまとい、行動しにくくなるだけだ。責任を持つべきは、「自分の欲」だ。他人がどうだろうと自分はこうしたいのだという気持ちに責任を持って、それを叶えるための行動を決めるのだ。

 自分の欲に責任を持つと言っても、なにか罰があるわけではない。欲は、自分のプールの中に湧く水であり、自由に泳ぐためには欠かせない。そして、その水は他者に奪われることはない。自分で決めて責任を持つとは、欲をちゃんと出すために、自分で自分に許可を出すことさえできればいいのかもしれない。それができれば、あとはその欲を叶えるために、自分が決めたことを、自分との約束として守るだけだ。

内省だけでは自分の欲を知ることができない

 自分の欲を知ることに、他者が必要なのはなぜか。

 それは、自分ひとりで内省するだけだと、深く潜ることはできるが、循環が生まれにくいからだと思う。

 自分の性格や思考の癖がどこから来たのかと考えると、もちろん生まれながらのものも一部あるが、ほとんどが環境や周囲の他者からの影響によってできたのではないか。そう思うと、他者の存在によって考え方が作られてきたのがわかる。自分ひとりでそうなったわけではないと。

 かつて身近な他者や環境によって影響を受け、考え方や捉え方の癖がついた。いい癖はそのまま残せばいいが、よくない癖は取り除きたい。

 他人をどう扱うかのやり方も、どんな人が周りにいたのかによって適切な態度は変わる。顔色を窺って先回りしないと不機嫌を爆発させる人がいつも近くにいたら、自分の身を守るために他人の顔色を見る癖がつくのは当然だ。しかし、大人になってまともな人に対しても同じ癖が出てしまうと、あまりいい結果にならない。むしろ逆効果ということも多々ある。いいことが起こらないのであれば、その癖をなくしたい。そう思うとき、まずやるべきなのは、いい環境に身を置くことだ。

 環境に影響されてついた癖は、新しくいい環境に身を置き、いい影響を受ければ、いい癖がついて上書きできる。周囲に影響されて考え方がつくられる力をそっくりそのまま使うのだ。

 自分がどうしたいかを出してもいいと思える安全な場所に身を置かないと、自分の欲は出てこない。安心できる状態でないと、出てこないのだと思う。だから、何はなくともまずはいい環境に身を置くべきなのだ。

 ここで言う「いい環境」とは、つまり「誰と関わるか」ということだ。古い癖を取り、新しい癖をつけ、自分の欲を知るためには、他者が必要なのだ。

君といて、僕を知る

 「君といて 僕を知る」。これは、ハナレグミの「マドベーゼ」という曲の歌詞に出てくるワンフレーズだ。

 わたしは、誰といるかで自分の気質や性格はいくらでも変わると思っている。「変わらない揺るぎない自分」を見つけようとするよりも、誰といるとどんな自分になるかを知る方がいいと思う。

 そして、この歌詞のように、誰かといることでいろんな自分が出てきて、それが好ましいものだけではないとしても、見たことのない新しい自分を知る。人と関わるとは、そういうものだと思う。

 ひとりで考えて、自分のことをどれだけ観察しても、思ってもいない発見は得にくいし、循環は起こらない。人と関わることでしか、自分のことはわからないとさえ思う。

 誰といるときにどんな気持ちになるか、どんな感情が出てくるか。そしてそれをどんな形で伝えようとするのか。じわじわと染み出すこともあれば、パーンと破裂することもある。驚きと共に、こんな自分がいたのかと知る。

 誰かに向けて話すときに、何を話すか、何を知ってほしいと思うかでわかることもあるし、誰かの話を聞くときに、聞きながらどう感じるかでわかることもある。

 話をして、話を聞く——。その繰り返しの中で、相互作用が生まれ、互いに引き出し合い、自分と相手の中に循環が生まれる。

 また、人といて、誰かと話すことで、自分の中にも循環が生まれる。凝り固まっていた思い込みを外に出してみたら、別の形が見えてきたり、人に言われた言葉で別の角度から見えるようになったりする。滞っていた感情が動き、戸惑うこともある。ドロドロだった血流が良くなるように、感情がさらさらと出やすくなることもある。

雑談をしよう

 雑談をすることで、自分の中に循環を起こし、さらに自分と他者の間にも循環を生む。循環が生まれて巡るようになると、何かに抑えられて枯渇していた泉が復活し、自分のプールに水が湧いてくる(欲が出てくる)のだと思う。

 自分を中心に考えるとか、自分を大事にするとか、優先するには、自分の欲を知らないとできない。どうしたいかわからない人に、何をしてあげればいいのかわからないのと同じだ。

 一体自分がどうしたいと願っているのか。それを知って、願いを叶えるために行動を決める。何を大事にするかを決める。誰かの期待に応えるために行動するのではなく、自分の願いを叶えるために行動する。すべての人がそうできるといいと思っている。

 他者と関わることで自分を知り、新しい自分が生まれ、それをまた他者に渡していく。その循環を生むために「雑談」は欠かせない。

 どうしたって人と関わりながら生きていくのだから、せっかくなら自分を面白がるために、雑談をしよう。

 

 

 連載「あなたには世界がどう見えているか教えてよ 雑談のススメ」は今回が最終回です。「雑談」を仕事にして、いろいろな人と話しながら思ったことや考えたことを、思うままに書き続けてみました。ここで書かれてきた「雑談」は、一般的に言われる「雑談」とは少々イメージが違うかもしれませんが、人と関わりながら生きていく中で、自分と他者のやり取りの手段として、会話や対話は欠かせません。そして、そこには悩みも尽きません。「雑談をしよう」というススメは、いい循環を生むために「深呼吸しよう」というのに近いかもしれません。この連載を通して、滞りが減り、少しでも楽に感じることができるといいなと思います。読んでくださり、ありがとうございました。

 

 

 *本連載は、2025年秋に書籍化の予定です。ご愛読に感謝申し上げます。

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考える人とはとは

 はじめまして。2021年2月1日よりウェブマガジン「考える人」の編集長をつとめることになりました、金寿煥と申します。いつもサイトにお立ち寄りいただきありがとうございます。
「考える人」との縁は、2002年の雑誌創刊まで遡ります。その前年、入社以来所属していた写真週刊誌が休刊となり、社内における進路があやふやとなっていた私は、2002年1月に部署異動を命じられ、創刊スタッフとして「考える人」の編集に携わることになりました。とはいえ、まだまだ駆け出しの入社3年目。「考える」どころか、右も左もわかりません。慌ただしく立ち働く諸先輩方の邪魔にならぬよう、ただただ気配を殺していました。
どうして自分が「考える人」なんだろう―。
手持ち無沙汰であった以上に、居心地の悪さを感じたのは、「考える人」というその“屋号”です。口はばったいというか、柄じゃないというか。どう見ても「1勝9敗」で名前負け。そんな自分にはたして何ができるというのだろうか―手を動かす前に、そんなことばかり考えていたように記憶しています。
それから19年が経ち、何の因果か編集長に就任。それなりに経験を積んだとはいえ、まだまだ「考える人」という四文字に重みを感じる自分がいます。
それだけ大きな“屋号”なのでしょう。この19年でどれだけ時代が変化しても、創刊時に標榜した「"Plain living, high thinking"(シンプルな暮らし、自分の頭で考える力)」という編集理念は色褪せないどころか、ますますその必要性を増しているように感じています。相手にとって不足なし。胸を借りるつもりで、その任にあたりたいと考えています。どうぞよろしくお願いいたします。

「考える人」編集長
金寿煥

著者プロフィール

桜林直子

1978年、東京都生まれ。洋菓子業界で12年の会社員を経て、2011年に独立。クッキーショップ「SAC about cookies」を開店。noteで発表したエッセイが注目を集め、テレビ番組「セブンルール」に出演。20年には著書『世界は夢組と叶え組でできている』(ダイヤモンド社)を出版。現在は「雑談の人」という看板を掲げ、マンツーマン雑談サービス「サクちゃん聞いて」を主宰。コラムニストのジェーン・スーさんとのポッドキャスト番組「となりの雑談」( @zatsudan954)も配信中。X:@sac_ring

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