2025年9月26日
岡ノ谷一夫『人間の心が分からなかった俺が、動物心理学者になるまで』試し読み
まえがき&第一章「少年時代」
著者: 岡ノ谷一夫
岡ノ谷一夫さんの連載「おかぽん先生青春記」が、『人間の心が分からなかった俺が、動物心理学者になるまで』として9月18日に発売されました。
小学生のとき、ある日突然人間がロボットに見えた。それはいつの間にか治ったが、以来、人との距離の取り方が下手なままだ。大学を卒業後、研究への想い止まず日本を飛び出し、アメリカの大学院に留学したものの、苦労の連続。日本に帰って来てもそれは変わらず、ポスドク地獄の果て、わらしべ長者のごとく、俺は少しずつ研究者への道を歩み始めた――。
「人間がロボットに見えた」という幼少期が分かる、まえがきと第一章「少年時代」を公開!
一 少年時代
読書のめざめ
僕が字を読めるようになったとき、家にはほとんど本が無かった。『家庭の医学』はあったが、親はその閲覧を禁止した。五歳のころ初めて買ってもらった本は『かみのこうさく』という題であった。父母が水道屋運営で忙しかった僕の家では、小さな僕を連れ歩くのはほとんどが祖母であり、この本も祖母に買ってもらったに違いない。僕はこの本を「神の子ウサク」と間違って分節化して解釈しており、神の子ウサクがどのような冒険をするのかどきどきして持ち帰ったのだが、当然のごとくこの本は「紙の工作」の本であった。それでもこの本は僕の長年の愛読書として、工作技術の基本を教えてくれた。今も工作が得意なのは、五歳でこの本に出会ったからである。
僕が七歳のころだっただろうか、聖書を売り歩く男が家を訪問してきた。聖書がタダ同然の価格であったこと、男の身なりのみすぼらしさから我が母はこの男に同情し、何冊かの福音書を買った。それらはルカ、マタイ、ヨハネによる福音書であった。わら半紙に印刷されており、すべての漢字にルビ(ふりがな)があったため、七歳の僕にも読めた。そして聖書というのは、他に何も読むものがない場合には非常に面白いのであった。イエスの数々の奇蹟を、七歳だった僕は本気にしない分別を持っていた。それらを比喩であるとわかっていた。それでも面白かった。人間のあり方や希望や差別や不条理を学んだ。
聖書で読書に目覚めた僕は、その後絵本ではなく、主に字がたくさん書いてある本を読んだ。僕が少年だったころの本は、大人向けでさえほとんどルビがついており、まあなんでも読めたわけだ。九歳のとき、小学三年生の夏休みには『巌窟王』を読んだ。当時は知らなかったが、モンテ・クリスト伯の子ども向け版である。本自体はとても面白かったのに、宿題であった感想文が書けなかった。原稿用紙二枚ほどだったはずだが、そのほとんどをあらすじに費やし、最後に「ぼくは、ダンテスはとてもえらいと思いました」と常套句を書いて初めての読書感想文をまとめた。我ながら情けなかったが、その僕が後に読売新聞の読書委員として書評を書いていたのだから、小学生には感想文など書かせるべきではないと思う。
その後は、本を読みたがる僕を面白がって叔母が買ってきた『吾輩は猫である』を読んだ。聖書の読解では力量を見せた僕だが、『吾輩は猫である』は完全に猫の話として読んだ。そのころからさまざまな動物を飼育しており、動物の側から見た人間に興味があったから、夏目漱石は猫に詳しいんだなと感心したものだ。それだけに、猫がおぼれ死ぬ様は気の毒であった。これに力を得て、『草枕』を読んだが、一〇歳の児童が『草枕』を読んでなんとかなるはずがない。夏目漱石はつまらぬかも知れぬ、と思い始めたが、次に『行人』を読んでこの思いは決定的になった。これが覆るのは、中学の国語教科書で『こころ』を読んでからである。『こころ』は今でも手元にある。愛読書というより、表現の大げささを楽しんでいるのかも知れない。
忘れられない先生たち
本と同じように少年期の僕に影響を与えたのは、それぞれに思い出深い先生たちだ。先生たちの影響は性のめざめから勉強の態度、研究とは何かまで広範にある。その中でも三人の先生の思い出を語ろう。
幼稚園の武田先生:黄金の性のめざめ
まずは幼稚園の先生。青春記に幼稚園の先生が出てくるのか。幼稚園のころだって青春だったのだ。好きな先生いたし。武田先生。でも好きだったのかな。強く意識したことは確かだ。ある事件以降、意識せざるを得なかったのだ。昭和三〇年代、水洗便所はまだない。ぼっとん便所だ。僕は幼稚園でもよおしてしまい、通常避けていたことだが大のほうをしていた。力んだあげく、気がついたら世界が黄色くなっていた。息ができない。立ち上がった。息ができた。幸いそこまで深くはなかった。つまり、落下したのだ。昭和三〇年代には、幼児用の和式便器などなかった。大人と同じだ。今と違ってやせっぽちだった僕は、力み方、手の位置、呼吸その他もろもろの要因が合致し、結果として落下していた。お尻からだ。
その後の記憶はない。たぶん咆哮したのであろう。気がついたら井戸で洗われていた。そして、その後の記憶もない。気がついたら家についていた。問題はここからだ。全身黄金にまみれ着替えもない僕は武田先生の着替えを借りて帰ってきたのであった。大人の服なので、上着のシャツの下は、パンツのみであった。武田先生は女性であったので、そのパンツは女物であり、当時はパンティと呼ばれていたものであった。僕は四歳にして女装したのである。しかし、昭和三八年という時代には、女装を文化とみなす余裕はなかった。僕は便所に落ちたことより女装して帰ってきたことについて、父からも母からも祖父からも祖母からも叔母一同からも、要するに一族郎党─そのころ家族は一一人、その全員─から、嘲笑を浴びたのであった。
そして一二年がすぎ、あるとき高校の帰り道、武田先生にばったり会った。一二年たったのに、お互いをよく覚えていた。僕はパンツを貸してくれた先生として、彼女は便所に落ちた愚かな小児として。武田先生の面影は、まだうっすらと僕の心にフリル付きで残っている。あのパンツ、返したのかなあ。
小学校の佐口先生:研究とは何か
小学五、六年の担任であった。授業初日、僕たち悪ガキは入り口の引き戸に黒板消しを挟んでおいた。先生は当然のように左手で引き戸をあけ、右手で黒板消しを受けた。拍手が起きた。この先生が担任でなかったならば、僕は今研究者でいなかったかも知れない。
小学五年の僕は、自分がとてつもなく体育ができないことに悩んでいた。いわゆる、運動神経がない、ってやつだ。ボールがとれない、走るのが遅い、逆上がりができないの三重苦であった。だから、体育の時間はとてもつらかった。いつもは仲の良い友達たちも、体育の時間は僕と同じチームに入ると嫌そうな顔をした。ところが佐口先生は、一学期の最後に通知表を渡すとき、「おめえは勉強できるんだから体育が一(五段階評価の最底辺)でもいいんべ」(栃木弁)と言って渡してくれた。僕はこれで、開き直ることができたのだ。実際、そのときの僕の通知表では体育が一であった。「ひとりくれえ一つけなきゃしめしつかねんだから、しょうがねんべ」と先生はおっしゃったが、僕はこの言葉に先生の優しさを感じた。
このように、佐口先生は僕にとっては良い意味で非常識だった。家庭訪問で僕の家に来て「今度の理科の授業で月の満ち欠けについてやるんだけど、教え方一緒に考えてくれ」と言われたことを覚えている。家庭訪問なのに、僕が先生の相談に乗ってあげてしまったのだ。スポンジのボールに懐中電灯を当てて、ボールを持ちながらゆっくりと懐中電灯の周りを回ると、月の満ち欠けが表現できた。佐口先生はこれを授業で採用してくれた。またある日、テスト中、早めに終わった僕がぼーっとしていると、「ひまだべ。これ読め」と、模型飛行機の雑誌を渡してくれた。僕はそのころUコンという模型飛行機に夢中になっていた。先生が渡してくれたのは「Uコン技術」という、この模型飛行機の専門誌であった。それから僕のテスト時間の半分は、「Uコン技術」を読む時間になった。
当時僕は、他の二人の生徒と共に水中微生物に興味を持って、その種類を図鑑で調べていた。だが佐口先生は、それは研究ではないと言う。先生は、自分の目でみないと駄目だと言って、理科の専門教員であることを良いことに、僕たちのためにカメラ付き顕微鏡を買ってくれた。僕たちはそれで、どういう水たまりにどういう水中微生物がいるかを調べる「研究」をした。だが先生はそれでも研究ではないと言う。「仮説を作るんだよ」と先生は教えてくれた。仮説を作って、それにもとづいて実験をして、仮説に合うかどうか試すのが研究だと。つまり科学哲学でいう仮説演繹法だ。昭和四〇年代に仮説演繹法を習っていた小学生は僕たちくらいじゃないだろうか。でもそのころの僕にはどうしても「仮説」を作ることができなかった。申し訳ないと思った。だから僕は、今、研究の中でたくさんの「仮説」を作っているのだ。
佐口先生は、道徳の授業で「概念くずし」という話をしてくれたことがある。生徒は先生が同級生に対してとる態度によって、その生徒への評価を作ってしまう。だから、時々そのような「概念」をくずすように、私はわざと意表を突くことをやるんだ、という概要の話だった。教師としての内幕を話すところからして、佐口先生は非常識だった。でも、僕は先生の非常識さによって、とてつもなく体育ができず、体育の時間は仲間はずれになってしまう自分を受け入れることができたのだろう。体育が「一」である通知表は、記念に手元に置いてある。
中学校の田部井先生:学ぶ態度
中学生になって最初の英語の授業で、僕は英語が生半可な努力では身につかないことを知った。田部井先生はまず、「英語はおまえらにはできん」と言った。「嘘だと思うなら、LとRの違いをちゃんと発音できるかやってみろ。いいか、まずLだ。でも目をあけていると余計なことを考えるから目をつぶってからだ」。先生は生徒一同に目をつぶらせると「エール」と言った。発音できそうな気がしたが、僕は黙っていた。「次にRだ。いいか、いくぞ」。そして先生は「アウー」と言った。これは手強そうだ。無理かも知れぬ。観念した。次に先生は、名簿順に名前を読み上げ、生徒たちに順繰りにLとRを発音させた。生徒が無難に「エル、アール」と言うと、「だめだ、エール、アウーだ」とだめ出しをした。先生は四〇名すべての生徒にだめ出しをし、不敵な笑いを見せた。「まあ、おまえら中学三年やっても俺みたいな発音はできねえ。あきらめるんだな」。
先生は、授業のルールを伝えた。「いいか、俺が問題を出したら、まず目をつぶれ。答えがわかったら手をあげろ。誰かを指して、答え終わるまで目をあけちゃだめだ」。「問題を出して誰かを指名する前に、俺が『ご苦労さん』と言うことがある。もしそのとき手をあげてなかったら、お前ら椅子の上に正座しろ。正座している奴がもう一回『ご苦労さん』を喰らったときには、今度は教壇まで出てこい。しごいてやる」。田部井先生は、重くて硬い棒にビニールテープを巻いた「しごき棒」を持参していた。僕も数回、しごき棒を喰らったことがある。かなり痛いし、こぶができる。が、翌日には治る程度のこぶである。「いいか、間違ってもかまわん。手をあげてない奴がしごかれる」。田部井先生は約束を守っていた。間違っても訂正されるだけだが、手をあげないとしごかれる。僕が驚いたのは、たまに薄目をあけてみんなの様子を観察すると、田部井先生の規則を全員受け入れていたことだ。これは何なんだ。どういう人心掌握術なんだ。
田部井先生はわが中学の軟式庭球(テニス)部を関東大会準優勝まで持って行った名顧問である。生徒はみんなそれを知っていたから、滅茶苦茶なことをやっていてもそこはかとない敬意を抱いていたんだと思う。そして僕は、少なくとも問題を出されたら考えるようになったし、挙手するようになった。授業内容は正直覚えていないのだが。僕は田部井先生に憧れ、軟式庭球部に入った。ところが、階段昇降で息を切らしているところを先輩に見つかり、「君には無理だね」とあっけなく首になってしまった。
スポーツができない
僕が育った栃木県足利市上渋垂町は、お寺の庭がみんなの遊び場だった。野球場二面とれるくらいの広さだった。ガキどもは、低学年は「手ゴロ」、中高学年は野球をやっていた。手ゴロとは、野球を簡略化した遊びで、ころがしたボール(駄菓子屋で売っていたぺこぺこのボールだ)を拳ないし手の平で打つ。ぺこぺこなのであまり飛ばない。ゴロとして転がって行くだけだ。だから手ゴロというのだ。僕はこれが苦手だった。ボールに当たることはまれだし、外れても手の甲をすりむく。守備に回れば、僕はボールをことごとく逃がし、凡打をホームランにすることしばしばであった。
そのころ僕も人並みに「巨人の星」を少年マガジンで読んでいたから、手ゴロだってうまくなりたかったよ。でもどうしても当たんないんだよ、これが。それにどうしてもボールがとれないんだよ、これが。しかしガキの世界は厳しい。ボールがとれず打てない僕は、「つまんない奴」と評価され、試合に出ることはなくなった。みんなが遊んでいる間、お寺の境内でカマキリやナメクジを見つけて一人遊んでいたんだ。まあそれが今の僕を作ったところもあるからしょうがないな。
小学校三年になると、今度は野球だ。さすがに軟球だが、当たると痛い。僕は初めてのバッターボックスで、手ゴロと同じ失敗はすまいと、せめてバントくらいはしようと思っていた。結果、背を曲げすぎてしまって、胸に死球を喰らった。塁に出ることはできたが、守りに入ると今度はライトフライを落球した。それ以降ガキどもは、僕に死球を喰らうことを要求した。どうせ打てないんだから、死球喰らって塁稼げと。一方僕は死球が当たった肋骨がぎしぎし痛むので、野球で試合に出たのはそれっきりであった。
お寺の広場には、時折中学生が来て小さなエンジンがついた模型飛行機を飛ばしていた。二本の長いワイヤーで昇降舵を上下させて半径一〇メートルくらいの円を描いて飛ばす。これをUコンと言う。佐口先生からもらった雑誌は、このUコンの雑誌である。僕は野球からは離れ、中学生のUコン飛行機飛ばしを見るほうが楽しかった。
小学校高学年になると、いよいよ自分が運動音痴であることを自覚することになった。一キロほどの持久走では僕ともう一人太っちょの子とでビリを競っていた。僕は今でこそふくよかだが、そのころはやせぎすで、体重のせいで遅いのではなく、純粋に心肺機能と筋力に劣っていたのだ。三キロ、四キロと走るようになると、体育の時間は地獄になった。とはいえ持久走はまだよい。毎回ビリではなく、もう一人の太っちょとビリを争っていたから。でも五〇メートルや一〇〇メートルでは必ずビリだったし、水泳も水に浮かぶところまでしかできなかった。
もっとも地獄を感じたのは球技である。ボールの大きさにかかわらず、僕はみんな苦手だった。ボールが飛んでくる、ころがってくる、それら動きのある物体に合わせて自らの行動を調整することなど、僕にはとうてい無理であった。なぜか例の太っちょは球技はうまかったから、僕はほんとにビリだった。なんでみんな物理の勉強なんかしてないのにボールが落ちる位置がわかるんだろう。それが疑問だった。密かに微分方程式勉強してたのかよ。仲の良いスポーツ小僧になんでボールが飛んでくる場所がわかるのか聞いてみると、なんとなくわかるという。僕はそれが、どうしてもわからない。僕のこの症状は一生続くのだと思う。高校生になって物理の勉強をしても、僕は結局ボールをとれるようにならなかった。ボールを投げるのも僕には苦痛で、キャッチボールで僕の相手になった奴にはいつも迷惑をかけた。僕のボールは飛ばない。たぶん放すのが遅すぎるのだ。また、筋力が弱すぎるのだ。わかっていても、今でもやっぱり飛ばず、ボールは二メートルくらいで地面にぶち当たるのだ。
中学・高校と、体育の時間の苦しさは増していった。中学に入ると各種スポーツテストというのがあり、僕は中学生の基準にあらゆる面で合格せず、体育の補習を受けさせられたが、やはりできないものはできない。教師も途中であきらめた。クラスの中で僕は、面白いことを言うこと、勉強がそこそこできることで中くらいの立ち位置を確保していたが、体育の時間になると級友たちはみな僕と同じチームになることを避けようとするのだ。僕がミスるばかりに試合に負けると、チームの級友たちは何も言わず黙々と着替えをする。とてもつらかった。そして中学・高校時代とは、スポーツができない男子には青春はないのだ。仲良くなった女子がいても、スポーツができないため、彼女たちと「交際」することは全く望めなかった。義理チョコという概念がなかった昭和四〇年代、バレンタインデーには全くチョコをもらえない僕と、抱えきれない程のチョコをもらう畳屋のせがれ石山や遅刻常習犯の井出などとは全く世界が異なっていた。僕が好きだった女の子たちも、この日は僕に話しかけず、チョコレートはスポーツ万能の男らに回っていくのである。冷酷な世界であった。そしてそこで僕はどう生きていけるのだろうか、と本気で悩んでいた。
人間がロボットに見える病気
一一歳になった僕は、突然、人間が人間に思えなくなる病気にかかった。姿かたちはそれまでと同じなのだが、周りの人たちが突然精巧なロボットに置き換わってしまっていた。ロボットとはいえ、それまでと同じようなことを言い、それまでと同じように行動している。だから自分も同じようにふるまうしかない。つらいし、孤独だった。不思議なことに人間以外の動物たちはそのまま動物たちであった。そのころ読んでいた手塚治虫の漫画「火の鳥」にそれに似た描写が出てきたような気がする。影響されたのかも知れない。
あまりにみんながロボットに見えるし、でもおかしいのは周りではなく自分であるという確信があったために、母に「どうしてもお母さんがロボットに見える。これは何かおかしいから入院させてくれ」とお願いし、僕の住む町から見れば大都会であった足利市中央部にある、日本赤十字社の病院に入院した。人間がロボットに見えることから、僕はいつも気持ちがわるくて嘔吐したい状態になっていた。嘔吐しても物を食べないので胃液しか出なかった。
今になって思うことだが、この状態は、精神医学でカプグラ妄想と言われるものに似ている。そしてその症状が食欲を無くし、嘔吐を誘発していたのではないだろうか。僕の場合はロボットだったが、多くの場合、友人や家族が瓜二つの別の人間と入れ替わってしまったと思う妄想であるとのことだ。これは妄想型統合失調症によくあらわれるという。僕がぼんやりと覚えているのは、病院で行われた治療で、目をつむって頭に何かをかぶったら、目の裏に雷のようなランダムな映像が見えたことだ。なんらかの電流を頭に加えていたのだろうか。映画「カッコーの巣の上で」にそのような場面が出てきたが、そういう治療が当時も行われていたのだろうか。その他、空気を飲み込む症状があったらしく、胃炎の薬をたくさん飲んでいたような気がする。空気を飲み込む症状は「呑気症」と診断されたが、親からは「お前はのんきだからのんき賞だべ」と言われたものだ。僕にとっては深刻な問題だったが。
このような治療はあったが、概ね退屈であったので頻繁に外に出て、本屋に行った。本屋というものは僕の村になかったから、一人で本屋に行ったのはたぶんそれが初めてである。もらっていた小遣いで二冊の文庫本を買った。一つは興津要編集の『古典落語』、もうひとつは筒井康隆の『筒井順慶』。古典落語の本のうち、特に「千早振る」は完全に記憶し、親の前で披露したところ、父親に没収された。「お前は落語家になるのではなく、水道屋になるのだ」と。僕はこれで水道屋になるのが運命なのかなあと思い、落語家は諦めた。『筒井順慶』のほうは、今思うと筒井康隆にしては難解なのだが、これをきっかけに当時のゴールデンコースとでも言うべき、筒井康隆、小松左京、遠藤周作、北杜夫へと読書が広がっていった。
本を読んでいるうち、人間がロボットかどうかは決定不能な問題のような気がした。そして、何人かの級友がクラス全員からのお見舞いの手紙を持って病院に来てくれて、彼らがロボットでは困ると思うようになった。お見舞いに来てくれた生徒の中には、僕がひそかに好きだった娘もいて、その子までロボットのはずはないと思ったのだろう。一週間ほどで、病気は治った。他人が人間なのかどうか、ロボットでないかどうかは、諦めて生きるのが正しい道なのだと悟ったとも言える。級友たちは、僕がラーメンの食べ過ぎで胃炎になったと思っていた。もしかしたら本当にそうだったのかも知れない。
退院すると、テレビでは三島由紀夫が割腹自殺したというニュースが流れていた。三島は僕とは違う悩みを持っていたのかな、と思った。
逆さ語
僕の通っていた中学は、部活動と言えば運動部ばかりだった。文化部的なものは園芸部があったが、これは女子しかいなくて入部を躊躇してしまった。僕は運動ができない。勇気を出して入部した庭球部も三ヶ月で退部勧告されてしまった。僕はこうして、帰宅部に入部することになった。帰宅部には僕の他にも何人かいた。近所の畳屋のせがれ、石山いつおは運動神経抜群なのによく部活動をさぼって帰宅部に合流した。中学時代から甘いマスクの井出は、封建的な部活動になじめず帰宅部であった。僕以外の二人は、バレンタインデーにチョコをもらえる人たちだった。
僕たちは家が近所だったので、よく一緒に下校した。下校しながらしょうもない話をしたり遊びをしたり、中坊らしくつるんでいたのである。その中で習得したものに「逆さ語」がある。当時流行していた高石友也の「受験生ブルース」を石山が不思議な歌詞でうたっていたのを耳にしたのが逆さ語を知った初めだった。
石山が発明した逆さ語は、発話を文節単位で区切り、逆転しながら実時間でしゃべるという、今にして思えば途方もない芸当である。「おはよう! 市蔵」は、「うよはお、うぞちい」である。僕はこの芸当に感銘を受け、弟子入りし、何人かで逆さ語クラブを作った。掃除をさぼって職員室に呼ばれたときも、僕と石山は逆さ語でしゃべり続け、「ちゃんと日本語しゃべれこのやろー」と教師に平手打ちを喰らったものである。この教師は僕たちの言葉が日本語であることを見抜けなかったこと、また、この言葉の本質を知ろうと努力しなかったことから、僕たちの軽蔑を買い、僕たちはますますこの教師に平手打ちを喰らうようになった。
そのころ焼きそば屋が屋台を引きながら焼きそばを売っていた。新聞紙を折った包みに焼きそばが盛られる。小が二〇円、大が三〇円であった。僕らは焼きそばを食べながら逆さ語で会話していた。焼きそば屋さんは「それは中国語かい?」と尋ねてくれた。僕たちは正直に「これは逆さ語です」と答えた。僕らはこの焼きそば屋さんを好きになった。
そして最近、中学の同窓会がおこなわれた。僕と石山いつおは、目が合うなりいきなり逆さ語で話を始めた。「きんげかたっだ?」「おつい、だまごさかさるべしゃ、いごす」。若いころ身につけた技はなかなか錆びないものである。僕が言語について強く意識するようになったのは、逆さ語を話せるようになってからだ。その点で、石山は僕の師匠である。後年僕は逆さ語をしゃべるのに必要な分節化能力に興味をもち、人間にはこの能力が出生直後から備わっていることを示す論文を書いている。
(続きは本書でお楽しみください)
【目次より】
まえがき
一 少年時代
二 高校から浪人へ
三 大学教養部
四 大学研究室
五 留学
六 帰ってきた異邦人
七 さえずり研究事始め
八 ポスドク蟻地獄
九 そして大学教員になる
一〇 歌文法の発見
あとがき
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岡ノ谷一夫
帝京大学先端総合研究機構教授。1959年生まれ。東京大学大学院教授を経て、2022年より現職。著書に『「つながり」の進化生物学』『さえずり言語起源論』などがある。
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MAIL MAGAZINE
とは
はじめまして。2021年2月1日よりウェブマガジン「考える人」の編集長をつとめることになりました、金寿煥と申します。いつもサイトにお立ち寄りいただきありがとうございます。
「考える人」との縁は、2002年の雑誌創刊まで遡ります。その前年、入社以来所属していた写真週刊誌が休刊となり、社内における進路があやふやとなっていた私は、2002年1月に部署異動を命じられ、創刊スタッフとして「考える人」の編集に携わることになりました。とはいえ、まだまだ駆け出しの入社3年目。「考える」どころか、右も左もわかりません。慌ただしく立ち働く諸先輩方の邪魔にならぬよう、ただただ気配を殺していました。
どうして自分が「考える人」なんだろう――。
手持ち無沙汰であった以上に、居心地の悪さを感じたのは、「考える人」というその“屋号”です。口はばったいというか、柄じゃないというか。どう見ても「1勝9敗」で名前負け。そんな自分にはたして何ができるというのだろうか――手を動かす前に、そんなことばかり考えていたように記憶しています。
それから19年が経ち、何の因果か編集長に就任。それなりに経験を積んだとはいえ、まだまだ「考える人」という四文字に重みを感じる自分がいます。
それだけ大きな“屋号”なのでしょう。この19年でどれだけ時代が変化しても、創刊時に標榜した「"Plain living, high thinking"(シンプルな暮らし、自分の頭で考える力)」という編集理念は色褪せないどころか、ますますその必要性を増しているように感じています。相手にとって不足なし。胸を借りるつもりで、その任にあたりたいと考えています。どうぞよろしくお願いいたします。
「考える人」編集長
金寿煥

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