「楕円構造」の中の自由

宇野 中世ヨーロッパの自由観についても随分お書きになっていますね。本書で紹介されていた堀米庸三の『正統と異端』は、私も大好きな本です。

猪木 非常に論理的で、かつ含みのある、素晴らしい本です。

堀米庸三『正統と異端』(中公文庫、2013年〔1964年初版〕)

宇野 キリスト教は、原罪を負った人間の自力救済を徹底的に否定し、神の恩寵によってのみ人間は救われうると強調する宗教です。では、何もしなくていいのかと言えば、そうでもない。人間は有限で無力な存在ながらも、神の真理と栄光を目指して、頑張って進んでいくことができるとも言う。

猪木 しかし、それが行き過ぎると異端になってしまう。『正統と異端』では、当初異端視されていたアシジのフランシスコ会が、どのような経緯を経て、正統のカトリック教会に組み込まれていくかが描かれています。キリスト教の強みは、絶えず異端が出てくることによって正統の緊張感が保たれ、またその異端を取り込むことによって正統が強化されていくところにある。もちろん、そこには限界もあるのですが……。

宇野 自由という観点から見れば、神の真理に向かって自らの自由意志で歩む人間は、過ちを犯し罪人へと堕落するかもしれないけれど、だからこそ人間に生きる意味を与えてくれる。中世ヨーロッパの自由意志論は、このような正統と異端の緊張関係を軸に展開されています。本書では中世の大神学者トマス・アクィナスにも言及されていますね。

「聖トマス・アクィナスの勝利」(ベノッツォ・ゴッツォリ作)
 

猪木 トマスに興味を持ったのは、京都大学の学部生の頃です。理学部で物理を研究していた少し天才肌の友人がトマスに傾倒していて、その影響で私も創文社の『神学大全』を読み始めました。大阪大学に就職した後も、経済学史の大家だった大野忠男先生がトマス好きで、よく議論させていただきました。私はあの大著の一部を読んだだけですが、それでも正義の徳を論じた第二部のⅡ.やキプロス王に献呈された『君主論』は夢中になって読みました。現実を冷静に見つめる目を持つ一方で、さらにその現実の上にある理想も追求する、その現実主義と理想主義の絶妙なバランス感覚に魅入られました。
 たとえば、「神ではない人間が、他の人々を統治することは倫理的に正当化できるのか」という大問題に対して、トマスは「群生動物である人間集団の中で“統治”が生まれるのは“自然”であり、そこに選択の余地がない」と現実を見据えた結論を導き出しました。その一方で、だから統治は世俗の政治的権威だけが行えば良いとするのではなく、最終的には神の恩寵が必要であると論じました。

宇野 「神の恩寵は自然を破壊せず、これを完成する」、ですね。

猪木 はい。その一節を読んだ時、私は深く胸を打たれました。現実に「理念が人を動かす」というトマスの信仰が表れていると感じました。もしかしたら「人間的統治」と「神的統治」の二つの焦点を持つ楕円構造の社会の方が、人間は自由でいられるのかも知れません。

宇野 私も普段はあまり公言しませんが、じつはトマス的な考え方に憧れると言うか、一番しっくりくると感じるときがあります。どこまでが人間の力でコントロールできることで、どこからが神の恩寵に頼るしかないことなのか。それをきちんと見極めるのが本当の知性であり、人間が自由でいられるための条件なのではないかと思います。

「フランチャイズ」と自由

宇野 私は政治思想史の授業で、自由について講義しています。最初に、古代ギリシア人にとっての自由とは、アゴラ(広場)に出かけて政治に参加することだったと説明すると、学生たちは「ふーん」という感じで、あまり共感しないんです。

猪木 政治参加というのは、いまの学生にとっては理想論というか、建前論のように聞こえてしまうのでしょうね。

宇野 そのようです。で、次にキリスト教の教父、哲学者のアウグスティヌスの話をします。神の被造物である人間に自由意志はあるのか、その自由意志にどれだけの意味があるのか、アウグスティヌスはいろいろ迷いながらも、最後は神の恩寵によってのみ人間は救われると考えた……というような話をすると、学生たちはまったくピンとこないようで、遠い目をしている(笑)。

アウグスティヌス(354年―430年)
 

猪木 なるほど(笑)。

宇野 で、中世に入り、自由を表す言葉に「フランチャイズ」というものがあったと説明します。要するにコンビニと同じで、たとえば「セブン-イレブン」という商標を与えて、本部から情報や商品も送るけど、あとは基本的にそのお店のオーナーに経営を任せる。同様に、中世ヨーロッパでは中央権力が全国を直接統治するのではなく、各地の封建領主たちに「この地域はお前に任せる。支配権を保護してやるから、あとは自由に統治しろ」と言う。これが中世的な自由の観念だ――こう説明すると、学生たちはようやく合点がいくようです。
 つまり、「自分の部屋には親は入ってこないでね。部屋の中では、誰にも干渉されず、安心してまったり過ごしたい」というのが、今の学生たちが考える自由に一番近いということでしょう。

猪木 本書でも引用していますが、シェイクスピアの『ジュリアス・シーザー』では、シーザーを暗殺した後にキャシアスが「Liberty, freedom, and enfranchisement!」と叫びます。この3つの単語は、日本語では皆同じ「自由」を意味しますが、じつはそれぞれ微妙にニュアンスが違う。福田恆存は「自由! 解放! 万歳!」と訳していますが、この最後のenfranchisementは宇野先生が指摘された「フランチャイズ」と近いわけですね。

シェイクスピア『ジュリアス・シーザー』(福田恆存訳/新潮文庫)
 

宇野 そうですね。一口に「自由」と言っても、ヨーロッパの政治思想史の文脈から検討すると、実に様々なニュアンスがあります。

猪木 堀米庸三の論考「自由と保護――ラントフリーデ研究の一序論――」では、自由は単なる「無拘束や放縦」ではなく、「自由とはただ護られてのみ存在する価値であり、自由とそれを護る力は不可分の関係にある」とあります。つまり、自由と保護という一見対立しあっている概念が、実は融合していると言う。これも「フランチャイズ」的な自由の考え方ですね。

宇野 はい。ある種の条件付けや半強制的な制約の中で、人間ははじめて自由を享受できるようになった。猪木先生の本を読んでいると、ヨーロッパの人々がどのように自由という概念を構築してきたのか、追体験できてとても面白かったです。第3回へつづく

※この対談は、月刊誌「波」(2016年6月号)に掲載された「自由と不自由のあいだ」に加筆修正をしたものです。