前回の記事へ

中村 女権が落ちていくのと同時に男権が上がっていく、その境目が14世紀頃であり、遊女、いわゆる売春婦も地位をおとしめられる、それが連動しているというご指摘が面白かったです。

大塚 網野善彦が指摘していて、私も古典を読んでいるとその実感がありました。性の価値が落ちてるんですね。

中村 「やりまん」万歳の時代から、女性蔑視、売春蔑視へと流れていく。貞淑さというのはいつ頃から求められ始めたんでしょうか。たとえば処女崇拝なんて。

大塚 処女は微妙なものがあるんですよね。天皇家に入内するには処女が良い、みたいな考え方は昔でもあるんですが、藤原高子は在原業平と散々遊んでから、清和天皇に入内しています。天皇家だからといって、必ずしも処女とは限らなかった。
 でも光源氏は、やった女が処女だとつまらなかった、これが友達の妻なら風情があるのになあ、なんてことを言ったりもする。

中村 処女はつまらんと(笑)。

大塚 大体、光源氏は人のものが好きなんですね(笑)。藤壺にしてもお父さんの女だし、朧月夜は兄の女、夕顔は親友の女でしょう。そういうのが楽しかったんでしょうね。

中村 遊び人だからスリルがある方がよかったのか。
 ところで白拍子が平清盛の愛人になったりしていますが、それは今で言うと、芸能人とか、売れっ子アイドルをものにする、みたいな感じなんでしょうか。売春婦と蔑まれたりはしていなかった?

大塚 そうですね。それに白拍子は誰彼構わずではなくて、本当に一握りの、時の権力者でないとモノに出来ませんでした。後世でいえば、花魁の、もっと上級な感じとでもいいましょうか。天皇や藤原道長も、白拍子を愛人に持っています。源義経の愛人だった静御前は、当時トップクラスの白拍子、それを愛人にした義経に対する源頼朝の嫉妬めいた感情が、当時の史料を読むとすごくよく分かります。

中村 頼朝が義経を殺したのは、政治的な意味合いもあったけど、男の嫉妬もあった?

大塚 あったでしょうね。そもそも政治的にも義経のことは殺さねばならなかったんです。というのは義経の母親の常盤御前というのは、はした女で劣り腹というイメージがありますが、彼女は源義朝が亡くなった時点での正妻、唯一の後家なんです。頼朝の母はもう亡くなっていましたから。当時、後家の地位は高く、長男よりも高かった。それは武士においてもそうでした。だから常盤御前は、源家の中で、一番地位が高かったんですよ。いってみれば北条政子のようなことが出来る立場だったんです。
 後世から見れば、源頼朝が正嫡だった、生母も熱田神宮の神官の娘で、よっぽど高貴なように思われていますが、それは頼朝側が後に喧伝したこと。実際には義経の生母である常盤御前が、源義朝が亡くなった時点での正妻だったからこそ、義経は「御曹司」と呼ばれています。源氏の「御曹司」だから、源頼朝は是が非でも義経を倒さねばならなかったわけです。

中村 源頼朝にしたら、自分の身を危うくするライバルだった、それに加えて白拍子まで愛人にしやがってと。自分は妻の北条政子が怖かったから、そんなこと出来ないというのもあったでしょうね。

大塚 ええ、北条政子は嫉妬にかられて、頼朝の愛人の家を壊したりしましたから、怖かったでしょうね(笑)。頼朝は、舞の名手と名高かった静御前に、舞うように再三、強制しました。静御前は、かたくなにそれを断っていましたが、どうしても断りきれなくなって、八幡宮でしぶしぶ舞ったのが「しづやしづ しづのをだまき くり返し 昔を今に なすよしもがな」「吉野山 峰の白雪 ふみわけて 入りにし人の 跡ぞ恋しき」という義経を慕う歌でした。これに頼朝は激怒しますが、北条政子がとりなしました。

中村 頼朝も静御前とやりたかったんでしょうか。

大塚 やりたかったかもしれないですね(笑)。白拍子の地位が高かったことを示す逸話としては、承久の乱が、そもそもは後鳥羽院が、愛人だった亀菊という白拍子に与えた土地の権益を巡る、鎌倉方との対立がきっかけだった、などというものもあります。

 
 

中村 先日『エッチなお仕事なぜいけないの? 売春の是非を考える本』という、売春をテーマにした対談集を上梓したんですが、風俗嬢から学者まで、いろんな方と話していく中、売春反対派にはフェミニストが多かったんです。立場的に反対だという。女がいろんな男とやるのは自由じゃないかと思うんですけど。フェミニズムは女の権力を上げよう、権利を獲得しようという運動なのに売春はダメ、男から女への性的搾取だからという。でも、必ずしも搾取とは限らないじゃないかと、私は思うんですね。フェミニストの売春禁止というのは、どうも変だと。大塚さんの今回の本を読んでいても、思いました。

大塚 女の権力が高かった時代には、セックス自体が重要なんですね。古事記や日本書紀のイザナキ、イザナミの国産みの神話をみても分かるように、古代人は性におおらかだったというよりも、性をとても大事にしていたんです。古典を読むと、性を本当に重要視している印象を受けます。

中村 権力者にとっては血筋が大事だから、セックスは当然大事ですよね。この男としかしちゃいけないという管理された性じゃなくて、いろんな男女が入れ替わり立ち替わりする性もあったりしたんでしょうか。

大塚 あります。万葉集の時代には歌垣という習俗がありまして、男女で集まって歌をよみながら相手を物色するわけです。筑波山は、そのメッカだったんですが「鷲の住む 筑波の山の 裳羽服津もはきつの その津の上に あどもひて 娘子壮士をとめをとこの 行き集ひ かがふかがひに 人妻に 我も交はらむ 我が妻に 人も言問へ この山を うしはく神の 昔より いさめぬわざぞ 今日のみは めぐしもな見そ 事もとがむな」という歌があります。筑波山に集まって男女皆でやりまくる、俺も人妻とやるし、うちの妻ともやっちゃってくれ、ひらたくいうと、そういう歌です。それが山の神をことほぐことであり、それを見た山の神も喜ぶぞと。

中村 そんな(笑)! 山の神も変態っぽい!

大塚 それで神が喜ぶとされたんですね。祭には本来そういうものが多かったんです。近年まで、田舎の、辺鄙なところでは、中世から続く古い祭などにその片鱗が見られました。大学時代に民俗学の研究会に入っていたんですが、それで長野の霜月祭という祭に出かけたことがあります。見学していたら、袖を引っ張られて「あっちの方に行こうよ」って地元の若者が言うんですね。意味が判らず「はあ」とついていきそうになったら、先輩から「やめといた方がいいよ」と止められて。祭の夜は「木の根」を枕にして「やる」風習があって別名「木の根祭」とも呼ばれていたという(笑)。思いもよらず経験しちゃいそうになったんですが、そういう本来の「祭」の姿が、辺鄙なところには脈々と残っていることがあります。その後、10年ほど前に行った時は、全然そういうのはない感じでしたが。

中村 そういう祭で、誰の胤か分からない子を産むこともあったんでしょうね。

大塚 ありましたね。古典では、女神が赤ん坊を産んで、それがある程度育ったら、男神たちを集めて宴席をもうけて、その子がよちよち歩きでまず誰に酒をつぐか、それを見守って、一番につぎに行った男神を父親にしたという話もありますから、珍しいことではなかったんでしょう。みんなを集められたということは、その時まで継続して彼らとやってたのか、証人のためにその他の神も呼んだのかは分かりませんが。

中村 そんないい加減に父親を決めてたのか! 父親と一緒に住むわけじゃないし、正直、誰でもよかったんですかね。

大塚 まあ、そうだったんでしょうね(笑)。そういう話が古典の中には多々あります。

中村 じゃあ、その頃は、「やりまん」な女に対して侮蔑もなく、むしろモテモテで凄いなあ的な視線が……。

大塚 少なくとも、侮蔑はないですね。『源氏物語』以前、少なくとも平安初期ぐらいまではないです。和泉式部が尻軽的に言われていますが、あれは「選んだ男が悪かった」的な意味合いが強くて、同じようなことをしていても、伊勢御息所は尊敬されてますから。

中村 和泉式部は「ダメンズ」だったがゆえに。

大塚 はい。たいした病気もありませんでしたしね。梅毒も当時はなかったですから。

つづく

書籍紹介

女系図でみる驚きの日本史

大塚ひかり/著

2017/9/15発売