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食べる葦

 アフガニスタンの首都カブールからバーミヤン石仏に行く途中、運転手のアトム君が道を間違えた。幹線道路から西に入る谷を、一本手前の谷で曲がってしまったらしい。
 山道から山道へ走りまどっているうちに、ぞっとするような断崖に出た。
 直立に近い断崖の中腹を、未舗装の狭い一車線の道路がくねって続いている。ガードレールもないし、カーブミラーもない。崖の向こうから不意に対向車が現れる。あわててブレーキを踏んで路肩いっぱいに寄り、ぎりぎりでかわす。車の窓からのぞくと、下にあるはずの道路は見えず、100メートルほど下で岩を噛む谷川が見えた。高所はわりと平気な方だが、このときは膝の力が抜けた。

山道のすれ違いで、崖のギリギリに寄る。車の窓の下は、そのまま100メートルの断崖だった

 この日はカブールのホテルを午前5時に出発した。朝食は途中で食べればいいと考えたので、ホテルの朝食は食べていない。迷い道をさんざん走り、やっと本来の道路に戻ったときは、午前9時を回っていた。かなり腹が空いている。そのとき、道路左手に村が見えた。「あそこで飯が食える」とアトム君がいって、シャツの袖で汗を拭いた。
 トタン屋根の食堂は、粗末な民家ふうの作りだった。土のままの床にテーブルが置かれている。清潔とはとてもいえない雰囲気だが、出てきた料理はすばらしい味だった。
 肉煮込み汁とインド風のナン。それに牛肉の串焼きカバブ。
 肉煮込み汁には、羊のあばら肉が骨付きのまま2本入っていた。トマトと一緒に煮込まれた脂身がほろほろと、とろけそうになって湯気を立てている。
 牛肉のカバブもあばら肉だった。鉄串に刺したぶつ切り肉だ。塩味のきいた脂身は軽く焦げ、したたった脂が皿に落ちている。ホテルのぱさぱさした肉とは大違いだ。
 ナンはカレー屋で出てくるタイプのやつ。それをちぎり、肉をはさんで食べる。肉汁がしみて、すきっ腹にはたまらない。それで3人分が300アフガニ、600円ほどだった。
 食べ終わって残った煮込み汁を見たら、皿にへばりついた野菜くずと思ったものが、実は蛾であると分かった。鍋の中に飛び込み、そのまま煮込まれてしまったようだ。でも、料理は食べ終わっているので、今さらどうしようもない。調理場の親父さんに「ほら、蛾がいたよ」と見せると、いらないというのにお代わりを持ってきた。すると運転手のアトム君がぺろりと平らげた。道を間違えたことで、よほどエネルギーを消耗していたらしい。

 2005年6月、イスラム武装勢力のタリバン政府が米軍に倒されたあとのアフガニスタンに入った。
 取材が一段落した後、タリバンが破壊したバーミヤンの石仏がどうなっているか見たくなった。新聞社のカブール支局助手、ジャヘド君は「私の車では無理です」といって、友人のアトム君を連れてきてくれた。バーミヤンへの道は海抜3000メートル級の悪路だが、彼のハイラックスなら行けるという。
 片道約180キロだが、険しい山道続きでスピードは出せない。バーミヤンまで7時間ほどかかる。夜は走れないから往復で2日の行程だ。それでいいか、という。よし、それで行こう、ということになった。その道中で道に迷ってしまったのだ。

 本来の正しい道に戻った後も、車はトラブルの連続だった。パンクが2回、配電の断線が2回。でこぼこ道のせいだ。しかし風景は抜群だった。シバール峠でヒンズークシ山脈を越える。谷の両側の山はともに5000メートルはあるだろう。山並みは青空を背に真っ白の万年雪だ。こんな光景は日本では見られない。

万年雪が美しいヒンズークシの山脈

 バーミヤンには午後1時に着くはずだったが、そんな色々があったために到着は午後5時を回ってしまった。すでに日は傾いている。とにかく石仏に直行した。
 石仏は55メートルの大石仏と、38メートルの小石仏の2体がある。その2体とも破壊されて崩れ落ち、がれきになって地面に積もっていた。
 構内に入ると監視員が出てきて、入場券を買ってこいという。しかし売り場に人はいない。すると監視員は「では自分に200アフガニ(約4ドル)払え」といった。
 1500年以上も昔につくられた仏教の大遺跡は、石仏が破壊された後もほとんど無管理状態だった。子どもたちが羊を追って入り込み、走り回る。石仏の周りには、大昔の仏教僧が修行した石窟せっくつがいくつもあるが、2001年にタリバンが石仏を破壊した後、内戦の難民が住みついた。石窟の中で炊事をしたため、どの石窟もすすで真っ黒になっている。
 崩れた石窟を途中まで上った。目の前に5060メートルのコヒババ山の雪の峰が夕日を浴びてそびえている。すばらしい眺めだった。

タリバンに爆破された石仏は、土くれになって下に積もっていた

 バーミヤンの町に戻った。ホテルは「ゾウハク・ホテル」の一軒で、町の真ん中にある。5部屋しかないホテルで、1室3ベッド。私たち3人で合せて30ドルのドル払いだ。私たちのほかには国際NGOや国連関係者が長期で泊まっている。チェックインし、部屋に荷物を置いてから街を歩いた。
 街は70メートルほどの通りが一本あるだけだ。ホテルのほかに衣料品店、お茶屋、肉屋、パン屋の4軒の商店があった。パン屋の店先にはナンが山と積まれている。
 中東のパン屋では、売っているのは平パンだ。イランでもそうだった。それがアフガニスタンに入るとナンになる。ナンはカレーについてくるパンで、インドが本場だ。ああ、ここは中東ではなくてアジアなんだ、と実感する。
 ナン屋の店の奥には石釜が2つあり、鍋の内側に練った小麦粉を張り付けて焼いていた。次々とナンができていく。作業をしているのは男ばかりだ。アフガニスタンはイスラム的慣習の強いところで、女性が他人の前に出てくることはまずない。タリバン時代は、医者が女性患者を直接診察することさえ禁じられていた。女医もいないので、女性は病気になると、カーテン越しでしか医師の診察を受けられなかった。
 ナン屋の若者に、写真を撮っていいか尋ねた。彼は、何のために撮るのかといった。
 「日本の新聞に載せたい」
 「写真の載った新聞を送ってくれるか」
 「バーミヤンに郵便で送るのは、ちょっと難しいと思う」
 「…そうか。まあ、撮るのはかまわない」
 礼をいってシャッターを押した。

 ホテルに戻った。食堂ではチキンの骨付きモモ肉とサフランライス、それにここでもナンが出た。食べ終わると猛烈に眠くなった。疲れていたのだろう。かなり寒かった。毛布をもう一枚貸してもらい、横になるとすぐ眠ってしまった。

 翌朝4時、助手のジャヘド君が起こしてくれた。帰り道は南の谷道を通る予定だという。これだと昨日より道は険しいが、一本道なので迷わずにすむのだそうだ。
 出発すると昨日のシバール峠に向かわず、すぐ南に折れる。谷川沿いに走り、ハジガク峠を越える道を上った。5060メートルのコヒババ山の山腹を走るルートで、岩ガラガラの難路だ。ほとんどセカンドギヤだけで走る。
 しかし、あいかわらず眺めは素晴らしかった。道路右側の斜面は北向きで雪が残り、高さ2メートルの雪の壁をつくっている。一方で左側の南向き斜面は下の方の雪が融け、濃い緑色の草原だ。そこに点々と白い羊がいる。一つの斜面に100頭以上いるだろう。牛もいる。そして驚いた。羊飼いの男が、肩にカラシニコフ自動小銃を背負っていたのだ。
 「何かあっても、パトカーなんか来てくれないから」とジャヘド君がいった。「国家権力」は険しい谷道のはるか遠くにあり、住民の生活には届いていなかった。

 アフガニスタンの道路は多くが険しい悪路だ。入国したときもそうだった。
 パキスタンのペシャワールから車でカイバル峠を越えて入国したのだが、国境のトルカムまで50キロの登り道を2時間かかった。パキスタンからの物流を支える大動脈なのに、舗装はあったりなかったり。狭い谷道を、20トントラックがぎりぎりでかわしながら行き交っている。そしてここにもガードレールはなかった。このあたりの運転手は「ガードレールなんて邪魔だ」と思っているのではないだろうか。
 トルカムの入管は小さな一軒家で、気が付かずに通り過ぎてしまうところだった。狭い室内に入るとひげだらけの先客がいた。30代前半で、5歳ぐらいの男の子を連れている。
 「パスポートを」
 「これだ。自分と妻の分だ」
 「妻はどこだ?」
 「先に行かせた」
 「それではだめだ。そんなことも知らんのか。連れてこい」
 「なんだと? なんだその言い方は!」
 男はパスポートを机にたたきつけて前に出た。すると役人は黙って引き出しを開け、大きなピストルを取り出して立ち上がった。これにはびっくりした。集まってきた人々が止めに入って何とか収まったが、隣に立っている男の子は泣き出しそうな顔で震えている。その肩を押さえてやりながら、アフガニスタンというのはえらいところだと思った。
 通関が済んで、国境のトルカムから首都カブールに向かった。その道もひどかった。カブール川渓谷沿いの150キロは舗装がない。急な山道の繰り返しで、上りきれない大型トラックがあちこちでスタックしていた。谷下を見ると、転落車があちこちに転がっている。カブール市内に入って舗装道路になったときは、まるで雲の上を走っているようだった。

 アフガニスタンは、ヒンズークシの5000メートル級の山々が連なる地帯にある。国土の4分の3は険しい山岳だ。尾根が谷に連なり、人々はその谷々にへばりつくように暮らしている。3000メートル、4000メートルの峠を越さないと隣の谷に行けない。
 民族はさまざまだ。東にはパキスタンとつながるパシュトン人が45%。北には、その先のタジキスタンとつながるタジク人が25%。西のイランとつながるハザラ人が10%。北西のトルクメニスタンとつながるトルクメン人、北東のウズベキスタンとつながるウズベク人もいる。いわばそれぞれの国が、山が険しくてそこから先の統治をあきらめた「民族の尻尾の地域」の集まりだ。それがアフガニスタンなのである。
 もともとこの地域に国家などというものはなかった。それぞれの谷に族長的な指導者がいる社会があっただけだ。谷ひとつ隣はよそ者の世界なのである。
 しかし、高所に位置してアジアと中東の2つの世界を見下ろすアフガニスタンは、軍事的には非常に重要な価値を持った。そのため19世紀、インドから攻め上がってきた英国がこの地域を線で囲い、「アフガニスタン」と名付けて保護領にしてしまった。
 1919年、アフガニスタンはその国境線のまま独立した。しかし、国民も言語もなにもかも、国家としての一体感からはほど遠かった。首都カブールで、中央政府の権力争いが続き、クーデターが起きる。地方の谷の住民にとって、それは遠い世界の話だ。カブールで誰かが何か騒いでいるらしい、といった感じだっただろう。とても「一つの国家」とはいい難い状態だった。

 そのアフガニスタンに、国家的統合のチャンスが一度だけあった。マスードという若い指導者が現れたときだ。
 1979年、ソ連が侵攻し、アフガニスタンを占領支配した。これに対し、谷の住民たちは「ムジャヒディン(聖戦の戦士)」を名乗り、合同して抵抗した。
 その指導者アフマド・シャー・マスードは、パンジシール渓谷出身のタジク人で当時26歳。大学を出たばかりの読書好きな青年だったが、軍事的な才能があり、戦闘のたびにソ連軍に大打撃を与える。「パンジシールの獅子」と呼ばれて他の部族からも信望があり、「国民の99%から支持がある」といわれたほどだ。
 アフガニスタンを統治しきれなくなったソ連は、89年に撤退する。その撤退に際してもマスードは名を上げた。ソ連兵捕虜を無条件で解放し、撤退するソ連軍を攻撃しなかったのだ。それはソ連将兵に感銘を与え、のちのタリバンとの戦いでロシアがマスードを支援する大きな要因となった。
 ソ連撤退後、ムジャヒディンはカブールに政権を樹立した。マスードは38歳で国防相に抜擢される。
 彼がそのまま政治の中枢にいたら、アフガニスタンを統一国家に導くことができたかもしれない。しかし、そうはならなかった。
 東のパシュトン勢力に支援されたイスラム武装集団タリバンは96年、ムジャヒディン政府をカブールから追い出し、タリバン政府をつくる。それに対し、マスードらは「北部同盟」をつくって戦った。北部のタジク人、ウズベク人、西部のハザラ人らで構成された同盟だ。それもマスードいてこその同盟だった。その彼の存在を憎悪したのがオサマ・ビンラディンである。
 2001年9月9日、ベルギー人のジャーナリストとカメラマンがパンジシールのマスードを取材に訪れた。インタビューが始まり、カメラマンがカメラのシャッターを押した。とたんに爆発が起き、マスードは即死した。2人は実はアルカイダのアラブ人テロリストで、オサマ・ビンラディンに送りこまれた者たちだった。
 この自爆テロでアフガニスタンの夢は消えた。マスード48歳だった。

 マスード暗殺2日後の9月11日、タリバン庇護下のオサマ・ビンラディンは米国同時多発テロを引き起こす。米軍は10月、アフガニスタンを空爆し、侵攻が始まった。その年末にタリバン政権は倒れる。しかしタリバンのゲリラ攻撃は止まず、米軍は7万近い地上部隊を送りこまざるを得なかった。
 山道は険しく、国家の力はそれぞれの谷までは容易に届かない。国家は幹線道路の舗装さえ満足にできない。カブールから180キロのバーミヤンで殺人事件が起きても、パトカーなど来てくれない。破壊された世界的遺跡に人が住みついて煤で真っ黒にしても、国家はそれを止めることができない。政府の警戒の目を盗んで、テロは続く。
 国家である以上、国境は必要だ。しかしもっとも必要なのは、国民が「自分はこの国家の国民だ」という国民意識を持つことではないだろうか。山岳国家アフガニスタンでは、その意識の統一はむずかしかった。
 そもそも国家となるには無理のある地域だったのかもしれない。それが住民の知らぬ間に、外部の力で国家とされてしまった。そこからすべての困難が始まった。
 アフガニスタンの人々が共通して持つ認識は、パンが平パンではなくてナンであること―。それだけだとすれば、ちょっと悲しい。

バーミヤンのパン屋の店先にはナンが山盛りになっていた

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 はじめまして。2021年2月1日よりウェブマガジン「考える人」の編集長をつとめることになりました、金寿煥と申します。いつもサイトにお立ち寄りいただきありがとうございます。
「考える人」との縁は、2002年の雑誌創刊まで遡ります。その前年、入社以来所属していた写真週刊誌が休刊となり、社内における進路があやふやとなっていた私は、2002年1月に部署異動を命じられ、創刊スタッフとして「考える人」の編集に携わることになりました。とはいえ、まだまだ駆け出しの入社3年目。「考える」どころか、右も左もわかりません。慌ただしく立ち働く諸先輩方の邪魔にならぬよう、ただただ気配を殺していました。
どうして自分が「考える人」なんだろう―。
手持ち無沙汰であった以上に、居心地の悪さを感じたのは、「考える人」というその“屋号”です。口はばったいというか、柄じゃないというか。どう見ても「1勝9敗」で名前負け。そんな自分にはたして何ができるというのだろうか―手を動かす前に、そんなことばかり考えていたように記憶しています。
それから19年が経ち、何の因果か編集長に就任。それなりに経験を積んだとはいえ、まだまだ「考える人」という四文字に重みを感じる自分がいます。
それだけ大きな“屋号”なのでしょう。この19年でどれだけ時代が変化しても、創刊時に標榜した「"Plain living, high thinking"(シンプルな暮らし、自分の頭で考える力)」という編集理念は色褪せないどころか、ますますその必要性を増しているように感じています。相手にとって不足なし。胸を借りるつもりで、その任にあたりたいと考えています。どうぞよろしくお願いいたします。

「考える人」編集長
金寿煥

著者プロフィール

松本仁一

1942年、長野県生まれ。東京大学法学部卒。1968年朝日新聞社入社。ナイロビ支局長、中東アフリカ総局長などを経て編集委員。2007年退社後はフリーで活動。『アフリカを食べる』『カラシニコフ』『アフリカ・レポート』『兵隊先生』等、著書多数。

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