2019年4月3日
前篇 五感をひらく自然描写
ヨーロッパ文芸フェスティバル2018
著者:
イタリア文学界の最高峰「ストレーガ賞」を受賞し、世界39言語に翻訳された国際的ベストセラー『帰れない山』の邦訳出版を記念して、著者のパオロ・コニェッティさんによる朗読とトークイベントが行なわれました。対談相手を務めたのは、〈新潮クレスト・ブックス〉を立ち上げ、多くの優れた外国文学を日本に紹介してきた元新潮社の編集者で、現在は作家として活躍する松家仁之さん。前篇ではまず、二人の少年が出会う物語の冒頭部分を紹介し、自然を描写することについて語っていただきました。
松家:
みなさん、こんにちは。これからここで一緒にお話しするパオロ・コニェッティさんの長篇小説『帰れない山』は、イタリアでは30万部以上も売れたというベストセラーですけれど、日本では先日(2018年10月)出たばかりです。まだ読んでいない方も多くいらっしゃるのではと思います。まずはごく簡単に内容をご紹介したあと、ご本人に朗読していただきます。
『帰れない山』の主な舞台は、北イタリアです。ヴェネト州の山間部で生まれ育った戦争孤児の父親を持つ「僕」が主人公で、おそらくこの「僕」には、コニェッティさん自身が色濃く反映されているはずです。
主人公「僕」の父親は、なによりも山が大好きなんですね。それで、「僕」を頻繁に山に連れて行くのですが、この父親の山登りのスタイルが独特というか、有無を言わせないものなんです。景色を楽しむといったことにまったく関心がない。とにかく最短時間で頂上に辿り着くことだけを目的にしている。疲れたとか、喉が渇いたなんて愚痴ろうものなら、烈火のごとく怒り出すわけです。そしてやっと登頂したと思ったら、頂上にいることを味わう余裕もなく、「さ、降りるぞ」と全力で駆け降りていく。山登りを楽しむどころではなく、まあほとんど苦行なんですね。何が楽しいのかというくらいの、攻撃的で機嫌の悪い山登り(笑)。
そんな父親の希望で、一家は北イタリアの山間部にある山荘を借りることになります。山荘というと立派な「別荘」のようなものを想像しますが、この山荘があるのは、いかにも過疎の村といった感じの、たんなる田舎です。この山荘には大家さんがいて、「僕」は大家さんの甥にあたる、同年代の少年と知り合いになります。「僕」自身はミラノの都会で生まれ育った、どこか内向的な少年。それとは対照的に、大家さんの甥のブルーノは、まるで野生児といった感じの、牛の番をさせられて育ってきたような少年なのです。典型的なミラノの都会っ子と、北イタリアの山間部の、満足に教育も受けられない野生児が出会うことで、物語が大きく動かされていきます。物語の序盤で二人が出会うシーン。コニェッティさんならではの素晴らしい自然描写が盛り込まれています。さっそくご本人に朗読していただきます。
(朗読の日本語訳)
その夏の日々、沢が僕の探険の舞台となった。境界線が二か所に設けられ、僕はそれより先に行くことを禁じられた。上流の境は小さな木の橋。そのむこうは両岸が切り立ち、V字谷になっていた。下流の境は断崖の下にある藪で、水の流れはそこから谷底のほうへと続いていく。要するに山の家のバルコニーから母の目が届く範囲だったのだけれど、僕にとってはまるごと一本の川に匹敵した。沢は最初、幾重にも連なる斜面を飛び跳ねるようにして、水沫をあげながら流れくだる。僕は大きな岩塊のあいだから身を乗り出して、銀色の光を反射する川底を眺めた。やがて少し下流に行くと、それまで少年だった沢がいきなり大人になったかのように幅が広くなり、何本かに枝分かれし、白樺の生えた中州を縫って流れていく。そのあたりなら、岩から岩へと跳び移って反対岸へも渡れた。さらにその先では、倒れた木々が折り重なり、行く手をふさいでいた。下には岩溝が口を開けていて、冬のあいだの雪崩によってなぎ倒された木々や枝が水の中で朽ちていたのだけれど、その当時の僕にはそういった知識はなかった。ただ川が、その生涯において、障害物に行きあたって進めなくなり、どうしたものか思い悩んでいるのだと思っていた。そして沢に来るたびに、そのあたりに座っては、水面のすぐ下で揺れる水草を観察していた。
岸辺の牧草地には、草を食む牛の番をする少年がいた。母から聞いた話によると、僕たちが借りた家の大家さんの甥だということだった。少年は、持ち手がくるりと曲がったプラスチック製の黄色い棒をいつも持ち歩き、その棒で牛の脇腹を叩いては、丈の高い草のほうへと導いていた。茶色のぶちがある若くて落ち着きのない牛ばかり七頭。牛たちが勝手な方向へ行くと、少年の怒鳴り声がするのだった。悪態をつきながら一頭のあとを走って追いかけていたと思ったら、また別の一頭を追うこともあった。放牧の時間が終わると先頭に立って斜面を登り、ふりかえっては、こんなふうに声をあげて呼んだ。おーい、おーい、おー。あるいは、へーい、へーい、へー。すると牛たちはしぶしぶ少年のあとにしたがい、小屋へと帰っていった。牛たちが草を食んでいるあいだ、少年は少し高いところの地べたにしゃがみ、ジャックナイフで木片を彫りながら、牛を見張っていた。
「そこに入るな」一度だけ、彼が僕に言葉をかけた。
「どうして?」僕は尋ねた。
「草を踏んでる」
「どこならいいの?」
「あっち」
少年は顎をしゃくって沢の対岸を示した。僕は、いまいる場所から反対岸に渡るにはどうしたらいいのかわからなかったけれど、彼に訊きたくはなかったし、牧草地を通る許可を求めるのも癪だった。そこで靴を履いたまま沢にずんずん入っていった。ためらっているのを悟られないよう、流れのなかでも胸を張って歩いた。歩いて川を渡るくらい朝飯前だとでもいうように。渡りおえると、ぐしょ濡れのズボンと水がぼたぼた垂れる靴のまま、岩に座った。ふりむいてみると、少年はもう僕のほうなど見ていなかった。
そんなふうに、彼は沢のむこう岸、僕はこちら岸で、互いに視線を交わすこともなく日々が過ぎていった。
「お友達になったらいいのに」ある晩、ストーブの前で母が言った。家は長い冬のあいだに湿気を溜め込んでいたので、夕飯の支度をするときにはストーブを焚き、寝る時間まで部屋を暖めることにしていた。僕と母はそれぞれ別の本を読んでいた。たまに、ページをめくる拍子に炎がぽっと燃えあがり、会話が弾むのだった。黒々とした大きなストーブが僕たちの話に耳を傾けていた。
「でも、どうやって?」僕は答えた。「なんて話しかけたらいいかわからないよ」
「やあって声を掛けて、名前を訊けばいいのよ。牛の名前も訊いてみたら?」
「そんなの無理」僕はそう言うと、物語に没頭するふりをした。
母は、僕よりもはるかにスムーズに村人たちと関係を築いていた。村には店がなかったので、僕が一人で沢を探険しているあいだ、母は牛乳やチーズを買える牛小屋や、野菜を売ってもらえる畑、木くずを分けてもらえる製材所を見つけていた。朝と夕方、牛乳のタンクを回収しにライトバンで通りかかるチーズ工房の少年とも仲良くなり、パンを運んでもらったり買い物を頼んだりしていた。どのようにしてかはわからないけれど、一週間が過ぎるころには、バルコニーにプランターを吊ってゼラニウムの花でいっぱいにした。お蔭で僕たちの家は遠くからでも目立つようになり、たまに通りかかるグラーナの村人たちが母を名前で呼び、挨拶をしていった。
「とにかく、いいから」一分ぐらい間をおいて、僕は言った。
「なにがいいの?」
「友達にならなくていいんだ。僕は一人で遊ぶのも好きだから」
「ふうん、そうなんだ」と母は言い、さも重大な問題だと言うように真剣な面持ちで本から顔をあげ、念を押した。「本当にいいのね?」
結局母は、僕の手助けをすることにした。誰もがそうとは限らないが、母は、他人のことだろうと放っておけない性分だったのだ。それから二、三日後、ほかでもない僕たちの山の家の台所で、あの牛飼いの少年が僕の椅子に座って朝ご飯を食べていた。彼が来ていることは、姿を見る前に、においでわかった。少年は、家畜小屋や干し草、凝乳、湿った土、それに薪の煙といったもののにおいをまとっていた。以来、僕にとってはそれが山のにおいとなり、世界のどこの山へ行こうとも、おなじにおいに再会することになる。
少年は、名をブルーノ・グリエルミーナといった。グラーナ村の住民はみんなグリエルミーナという名字だけど、ブルーノという名前は俺だけなんだ。そう彼は得意げに説明した。1972年の11月生まれで、僕よりも数か月、歳上なだけだ。母がふるまったクッキーを、生まれてこの方こんな旨いものは食べたことがないという勢いでほおばっていた。意外にも、牧草地で会ったとき、僕が彼を観察していたのと同様に、彼のほうでも僕を観察していたらしかった。なのに、二人して素知らぬ顔をしていたわけだ。
「川が好きなんだろ?」ブルーノが尋ねた。
「うん」
「泳げるか?」
「少しだけ」
「釣りは?」
「たぶんできない」
「来いよ。いいもの見せてやる」
そう言うと、ブルーノは椅子からぴょんと立ちあがった。僕は母と目配せすると、ためらうことなく彼のあとを追って駆け出した。
ブルーノが向かったのは、僕も知っている場所だった。小さな橋が架かっていて、流れが陰になっているところだ。岸辺に着くと、物音を立てず、姿も見せないようにとブルーノが小声で命じた。そして、岩陰からほんの少しだけ身を乗り出し、反対岸の様子をうかがった。僕に向かって、その場で待つようにと手で合図をする。僕は待っているあいだブルーノのことを観察した。亜麻色がかったブロンドの髪に、陽焼けした首すじ。だぶだぶのズボンの裾を足首のところで巻きあげ、股ぐりがずり落ちているその恰好は、大人のカリカチュアのようだった。態度も大人びていて、声にも仕草にもどこか威厳のようなものが感じられた。こっちに来るようにと合図をよこすので、僕はしたがった。岩陰から身を乗り出し、ブルーノの視線が向かう先を目で追ったものの、なにを見ればよいのか僕には見当もつかなかった。岩のむこうには小さな滝があり、その下に、ちょっとした滝壺のような薄暗い淵があった。淵といっても、せいぜい膝ぐらいの深さだろうか。滝から流れ落ちる水の勢いで、表面だけが波立っていた。隅には泡がいくつか浮いており、流れに垂直になってつかえた太い枝で、草や濡れた枯れ葉が堰きとめられている。それはどこにでもある光景で、単に水が山を流れているだけなのだけれども、見るたびになぜか魅了されるのだった。『帰れない山』(関口英子訳/新潮クレスト・ブックス)より
松家:
ありがとうございました。いま朗読していただいたところだけでも、パオロ・コニェッティさんの小説の素晴らしさが伝わるのではないかと思います。読んでいると、眠っていた五感が、ひとつひとつ開かれてゆくような気がします。目の前に光景が広がって、匂いも漂ってきますし、さまざまな音も聞こえてくる。「こういう小説って、かつてはあったなあ」と感じるのですが、最近は滅多にお目にかからない気がします。あるようで、なかなかない小説。最初に読んだときにそう思いました。イタリアでいろんな書評が出ていますけれど、そのひとつにこういうものがあるんですね。「えてして深いテーマを避けがちな現代の文学界において、別の時代から落ちてきた隕石さながらの存在感を放っている」。ほんとうにそうだと思います。
まず、最初にお聞きしたいのですが、このような小説を書こうと思ったきっかけはどういうところにあったのでしょうか?
コニェッティ:
まずは、こんなにたくさんの方々にご来場いただき、ありがとうございます。私は少年の頃、ミラノの小さなアパートに住んでいて、夏の間だけ山の家に行くことができました。私の両親は田舎の出身で、経済成長期に都会に出てきた人間でしたから、都会にいるときは常に、自然がないことのもどかしさを感じていたようです。それで、ある時期から山の家を借りるようになったのですが、その山の家があった村は、まるで一世代昔にもどったような感じのする場所で、そこで私は初めて自由になれた気がしました。というのも、子どもにとってミラノはあまり楽しくない街だったのです。大都市ですから交通量も激しく、さまざまな危険もあるので、ミラノでは母はなかなか私を自由に外に出してくれませんでした。ところが夏の山に行くと、好き勝手に遊ばせてくれる。山に行くということは、私にとって、自由に何でもできる時間を意味しました。私がなぜ自然に親しむようになったかというと、自然=自由という感覚があったからなんです。
やがて私は大人になり、親元を離れてミラノで都会暮らしを続けていましたが、ある時期にいろんなことで行き詰まってしまいました。そのとき、子どもの頃に山で自由を得た幸せな思い出がよみがえってきて、もういちど山の生活をしてみようと思ったわけです。それ以来毎年、1年のうちの長い時間を山で過ごすようになりました。それまで、私は都市を舞台にした若者たちの短篇を書いてきたのですが、自分が山に戻って自然の中で過ごすようになって、山の小説を書きたいと思うようになったのです。
自然の情景を描くということについてですが、一般的に自然描写というと、物語の背景として、美しい風景が差し込まれるように描かれるものなのでしょうけれど、私としては、自然を小説の中の「登場人物」のひとつとして考えるようにしています。
松家:
自然が登場人物のひとつと聞いて、なるほどと思いました。今のお話でキーワードだなと思ったのは、「自由」という言葉です。自然の中に自由がある、と感じる小説だということですね。都会で生まれ育った人間にとっては、大自然の中にいると不自由を感じるほうが多いはずです。この小説には電気も水もないような小屋が出てくる。端的に言って、不便な小屋です。でもそこでこそ自由を感じる登場人物たち、ということなんですね。自然というものが現代文学においてどのような意味を持つのか、という問題にもつながりそうです。
(後篇へつづく)
撮影・菅野健児(新潮社写真部)
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帰れない山 (新潮クレスト・ブックス)
パオロ・コニェッティ/著
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パオロ・コニェッティ
1978年ミラノ生まれ。大学で数学を学ぶも中退、ミラノ市立映画学校で学び、映像制作の仕事に携わる。2004年、短篇集『成功する女子のためのマニュアル』で作家デビュー。2012年短篇集『ソフィアはいつも黒い服を着る』でイタリア文学界の最高峰「ストレーガ賞」の最終候補となる。初の本格的な長篇小説となる『帰れない山』で、「ストレーガ賞」と同賞ヤング部門をダブル受賞した。幼い頃から父親と登山に親しみ、2018年10月現在は1年の半分をアルプス山麓で、残りをミラノで過ごしながら執筆活動に専念する。
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松家仁之
1958年、東京生まれ。1982年、新潮社に入社。1998年、「新潮クレスト・ブックス」を創刊。2002年、季刊誌「考える人」を創刊。「芸術新潮」編集長を兼務ののち、2010年に同社を退職。以降、作家として活動する。2012年発表のデビュー長編『火山のふもとで』で第64回読売文学賞を受賞。2018年『光の犬』で第68回芸術選奨文部科学大臣賞、第6回河合隼雄物語賞を受賞。その他の小説作品に『沈むフランシス』『優雅なのかどうか、わからない』『泡』。共著に『新しい須賀敦子』。
撮影:清水玲那
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とは
はじめまして。2021年2月1日よりウェブマガジン「考える人」の編集長をつとめることになりました、金寿煥と申します。いつもサイトにお立ち寄りいただきありがとうございます。
「考える人」との縁は、2002年の雑誌創刊まで遡ります。その前年、入社以来所属していた写真週刊誌が休刊となり、社内における進路があやふやとなっていた私は、2002年1月に部署異動を命じられ、創刊スタッフとして「考える人」の編集に携わることになりました。とはいえ、まだまだ駆け出しの入社3年目。「考える」どころか、右も左もわかりません。慌ただしく立ち働く諸先輩方の邪魔にならぬよう、ただただ気配を殺していました。
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手持ち無沙汰であった以上に、居心地の悪さを感じたのは、「考える人」というその“屋号”です。口はばったいというか、柄じゃないというか。どう見ても「1勝9敗」で名前負け。そんな自分にはたして何ができるというのだろうか――手を動かす前に、そんなことばかり考えていたように記憶しています。
それから19年が経ち、何の因果か編集長に就任。それなりに経験を積んだとはいえ、まだまだ「考える人」という四文字に重みを感じる自分がいます。
それだけ大きな“屋号”なのでしょう。この19年でどれだけ時代が変化しても、創刊時に標榜した「"Plain living, high thinking"(シンプルな暮らし、自分の頭で考える力)」という編集理念は色褪せないどころか、ますますその必要性を増しているように感じています。相手にとって不足なし。胸を借りるつもりで、その任にあたりたいと考えています。どうぞよろしくお願いいたします。
「考える人」編集長
金寿煥
著者プロフィール
- パオロ・コニェッティ
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1978年ミラノ生まれ。大学で数学を学ぶも中退、ミラノ市立映画学校で学び、映像制作の仕事に携わる。2004年、短篇集『成功する女子のためのマニュアル』で作家デビュー。2012年短篇集『ソフィアはいつも黒い服を着る』でイタリア文学界の最高峰「ストレーガ賞」の最終候補となる。初の本格的な長篇小説となる『帰れない山』で、「ストレーガ賞」と同賞ヤング部門をダブル受賞した。幼い頃から父親と登山に親しみ、2018年10月現在は1年の半分をアルプス山麓で、残りをミラノで過ごしながら執筆活動に専念する。
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