ブドウの葉でご飯を包んだ「ドルマ」。ギリシャでは一般的な伝統料理だ。そのドルマに、なんと中東のヨルダンで出会った。
直径1センチ、長さ5センチほどの筒型の一口サイズ。刻みタマネギやヒツジのひき肉、香料が入ったご飯を、ブドウの葉でくるんで蒸す。それを葉っぱごと食べるのだ。ブドウの葉のほのかな酸っぱさが口の中に広がり、さっぱりしていていくらでも食べられる。
なぜブドウの葉?
「含まれている酸に除菌効果がある」といわれたことがある。梅干しみたいなことか。そういえば、わが国では昔から笹寿司や笹餅が保存食としてあった。中国ではチマキ。笹にも除菌効果があるのだろう、たぶん。
でも、ギリシャ起源のドルマがなぜ「ほぼ内陸国」のヨルダンで普通にたべられているのだろうか。不思議に思っていた。その答えが、ヨルダン国王と会って分かった。
1993年10月12日の朝、当時カイロの特派員だった私のところに、ヨルダンの助手のジャラード君から電話が入った。フセイン国王(57)との単独会見のOKが取れた、と興奮した口ぶりだ。
「すごいぞ。会見はいつ?」
「明日の午後3時半です」
なんだって、明日? 大急ぎで旅行代理店に電話して飛行機を予約し、ヨルダンの首都アンマンに飛んだ。
1993年に中東和平交渉の開始が合意された後、当事者であるイスラエルのラビン首相、PLOのアラファト議長と、相次いで単独会見することができた。さて、あとは隣接アラブ国であるヨルダンの王様の意見を聞きたい。それでジャラード君にアレンジを頼んだ。会見が取れたらもちろんボーナスを払う、という条件付きだ。少し時間がかかったが、彼はみごとにアポを取り付けたのである。それにしても、明日とは。
翌日の昼食後、スーツに着替えて王宮に向かった。なにせ相手は王様だ。
王宮に着いたのは2時半ごろだった。政府職員の案内で控室に通された。約束の時間まであと1時間ある。
ソファに腰を下ろして、ふと気になった。最初に何と挨拶すればいいのだろうか。国王などと呼ばれる人とサシで話をした経験はない。「ハウドゥユードゥー」だけではちょっとまずいだろう。「ユア・マジェスティー」でなければいけないだろうな。うわ、舌を噛んでしまいそうだ。
3時半を少し過ぎたころ、補佐官が顔を出した。
「どうぞ、お入りください」
執務室に入る。正面に、オーク材の立派な執務デスクがあり、わきにヨルダン国旗が立ててあった。その前、ペルシャじゅうたんの上に応接セットが置かれている。
ソファに座って3分も立たないうちに奥のドアが開き、国王が入ってきた。アラブ服ではない。ふつうのスーツに青のネクタイ。広い額に短い白髪。160センチに満たない小柄な体。テレビで見慣れた姿だ。
あわてて立ち上がる。手を差し出して「ハウドゥユードゥー、ユア・マジェスティー?」。そういったつもりだが、つっかえながらのしどろもどろ。しかし王様はにこにこしながら手を握り、ソファを示した。
「プリーズ・シットダウン・サー」
王様が私に「サー」といった!
それまで、アラブ諸国の政治指導者と会ったことは何度もある。しかし、多くは尊大でふんぞり返り、新聞記者ごとき、という態度だった。会見のアポをすっぽかされたことは多い。会見すると呼んでおいて3週間待たされたこともある。そんなことばかりだったので、新聞記者に「サー」をつける王様がいるなんて思いもしなかった。
「国王からサーといわれるなんて、私の人生で最大の光栄です。この録音テープは家宝にします」というと、国王は大笑いしていった。
「そんなことでお帰りになってはいけません、まだほかにも質問がおありでしょう?」
横でメモを取る補佐官が笑い出した。
ともあれ、そのやりとりのおかげで、あとはスムーズな会見となった。国王はこちらの質問をはぐらかすことなく、正面からきっちり答えてくれた。
パレスチナ暫定自治協定について、ヨルダンはどうするか。
「われわれは全面的に支援する。パレスチナ警察の訓練はすでに始めている」
和平達成後の経済開発について、どんな具体的な計画があるか。
「イスラエルのエイラート港、ヨルダンのアカバ港の合同港湾開発、合同国際空港建設という考えは大きな可能性がある」
旅券にイスラエルの入国スタンプがあると、これまでヨルダンに入国できなかったが。
「わが国については、もはや問題はない。だれでも入国できる」……
会見が終わったのは、約束の1時間を30分も過ぎていた。
ホテルに帰って電話に飛びついた。日本時間はもう午後11時すぎ、都下版の締め切り時間が来ている。メモ帳を見ながら原稿を送った。私たちの用語でいう「勧進帳」である。原稿を書いている時間がないとき、頭の中で記事をつくり、それをまるで原稿を読んでいるように電話で読み上げる、という非常手段だ。そしてとにかく、それは翌14日の朝刊の1面トップとなった。
その後、記事を見た在カイロの日本商社から、ヨルダンでの経済開発について多くの問い合わせがあった。ヨルダン経済はどんな状態か。開発計画はどんなものがあるか。ジョイントの窓口はあるか――。
フセイン国王は、目の前の新聞記者なんか大して気にかけていなかったに違いない。有名ジャーナリストではないし、英語はへたで、風采もパッとしない。ただ国王は、その記者の後ろに誰がいるかを知っていた。このパッとしない男の書く記事を、日本の政治家、官僚、財界が読む。和平後の経済発展のことを考えれば大事な会見だ。だとしたらこの記者に、ヨルダンにいい印象を抱いてほしい。そのためだったらこの男に「サー」をつけるぐらいなんということはない。そう判断したのではないだろうか。
フセイン国王はエジプトと英国で教育を受けたあと、17歳で王位を継いだ。中東戦争やヨルダン内戦、湾岸戦争など数々の政治的危機に見舞われたが、そのつど巧みな対応で乗りきってきた。「生き残りの達人」の異名を持つ。
中東戦争でヨルダンに逃れてきたPLO各派が、国内でわがもの顔にふるまい始めた時期がある。1970年ごろのことだ。武器を密輸入して武装集団をつくる、ヨルダン発の国際便航空機をハイジャックする、パレスチナ難民から勝手に税金を徴収する……。
国内の秩序が保てないと考えた国王は1970年9月、徹底的な弾圧に踏み切り、彼らをレバノンに追い出した。ヨルダン内戦だ。国王はこれでPLOの恨みを買う。
その直後、国王は専用機で英国からの帰路、自国の空軍戦闘機に襲われ、銃撃を受けた。PLO支持の空軍パイロットがいたのだ。
銃弾の数発が国王専用機の機体を貫いた。右に左に旋回して襲撃を避ける操縦士。しかし戦闘機の方がずっと速い。ぴったり後ろにつかれてしまった。万事休すと思われたとき、国王が操縦席に飛び込み、操縦士の肩越しに無線機をつかんで叫んだ。「国王は死んだ、国王は死んだ!」。それで空軍機は攻撃を止めて去って行った。そんなエピソードがある。
フセイン国王は頭のいい人なのだ。機転がきくし、危機管理能力がある。日本の新聞記者との会見で、自分の方が格が上だとか、記者ごときにサーをつけたら沽券にかかわるとか、そんな体面はあっさり無視できるタイプの王様だった。
会見の翌々日、助手のジャラード君から、自宅の夕食に招かれた。
単独会見の成功でボーナスが入った。そのお礼ということであるらしい。「母がどうしても、夕飯にあなたをお呼びしろというのです」という。
あまり気乗りしなかった。アラブ社会では、食事に招かれてもその家の主婦は絶対に顔を見せない。台所で食事をつくるだけで、給仕するのも食卓に座るのもホストの男性だけなのだ。いつも顔を合わせているジャラード君と食事するくらいなら、町のレストランの方がましだ。しかし「どうしても」という彼に敗け、付き合うことにした。
アパートの3階が彼の家だった。驚いたことに、お母さん自身がドアを開け「よくおいでくださいました」と笑顔で迎えてくれた。50歳代半ばの美しい人だ。長めのスカートをはいているが、スカーフで顔を隠すようなことはしていない。ジャラード君は「ヨルダンのイスラム教徒は開放的ですから」と笑った。
ダイニングキッチンに通される。お母さんもいっしょに座った。テーブルの上には、料理がいっぱいに並んでいる。
テーブルの中央に平パンが積まれている。それに付けるための「ホモス」。ひよこ豆とオリーブ油のペーストだ。それから「タヒーナ」。これは練りゴマのペースト。ふだんだったらパンとこれだけで、私は腹いっぱいになれる自信がある。
大きな皿に、ソラマメのコロッケの「ターメイヤ」。ヒツジ肉と松の実の炊き込みご飯、「マンサフ」。などなどなど。大変なごちそうだ。
その横にあったのがドルマだった。
お母さんは「これは国王の好物なんですよ」といった。
え? お母さんが何で国王の好みを知ってるの?
しかし、それよりおなかが空いていた。口に入れるとブドウの葉の酸っぱさが広がる。さっぱりして、いくらでも食べられる。うん、これはいい酒のツマミになる。
そんな私の考えを見抜いたように、ジャラード君がビールを持ってきた。冷えたハイネケンの缶。「ヨルダン製です。ライセンス生産しているのです」。お母さんは飲まなかったが、ジャラード君は私に付き合ってくれた。
「イスラム教で飲酒は禁じられていますが、ビールぐらいならいいんです。コーランは、深酒はいけない、酔っぱらうほど飲んではいけないといっているのです。コーランに書いてあるそのままではなく、その精神を守ればいいのです」
ゆるやかなイスラム、柔らかいイスラムだった。
イスラム圏でも、全部が禁酒国家ではない。「絶対にダメ」はサウジアラビアやイラン、湾岸諸国の一部ぐらいで、いくつかの国では自国でビールを製造さえしている。エジプトやヨルダン、サダム・フセイン時代のイラクなどがそうだ。エジプトの「ステラ」なんかは結構いける。こんなイスラムなら、私だって楽しく付き合える。
ヨルダンはスンニ派イスラム教徒が9割だ。しかしフセイン国王がイスラム過激派に厳しい態度を取っており、自由化・近代化が進んでいる。それが宗教的な柔らかさを生み出した。国内にハイネケンの工場があっても、テロの標的になどなっていない。
ドルマをつまみながら、ジャラード君とハイネケンの缶を何本も空けた。
「よく国王とのアポが取れたね」というと、彼は頭をかいた。
「いや、実は、閣僚の中に母のいとこがいるのです。それで母に少し動いてもらいました」
え? ジャラード君はパレスチナ人だ。73年の第4次中東戦争のとき、お母さんに連れられてヨルダンに逃れた。そのとき、彼は8歳になるかならないかだったという話を聞いたことがある。パレスチナ人のお母さんが、なぜヨルダンの閣僚といとこ同士?
「その閣僚もパレスチナ人なんですよ。知りませんでしたか」
なるほど、それでお母さんは国王の好物を知っていたのか。
ヨルダンは、ヨルダン川西岸地域の領有を主張していた。その西岸地域が、4次にわたる中東戦争でイスラエルに占領され、多くのパレスチナ人がヨルダンに逃れた。その結果、ヨルダン600万人口のうち400万人、6割以上がパレスチナ人、ということになってしまった。国民の6割が「外国人」という国である。
その上、難民であるパレスチナ人は生きていくために必死で努力する。苦しい生活の中でより上の教育を受けようとする。そのため、大学教授とか政府の要職とか銀行の頭取とか、各界の幹部はみなパレスチナ人になってしまったのである。政府の職員も学校の先生も銀行員も、圧倒的にパレスチナ人だ。パレスチナ人抜きで国は成り立たない。フセイン国王の専用機を襲った空軍パイロットもパレスチナ人だったとジャラード君はいった。
頭がこんぐらかってきた。
つまり、たとえば朝鮮半島で戦争が起きて難民が日本に逃げ込んできたとする。それが前からいる日本人の数を上回ったとする。それでも彼らは日本人意識を持ち、日本という国は日本として動いていると、そういうわけ?
「まあ、そういうことでしょうね」とジャラード君はいった。
そういえば紀元5、6世紀ごろ、日本の大和朝廷の要職はほとんど半島からの渡来人が占めていたといわれる。その後に始まった遣隋使・遣唐使だって、多くはそういう人たちだった。彼らは日本人として、日本の利害のために活動した。かつてはわが国もそんな国家だったのだ。
ヨルダンの場合、それに加えて人々はみなアラブ人で、同じアラビア語をしゃべる。ヨルダンで教育を受け、ヨルダンで兵役を務め、ヨルダンで就職して税金を納める。ヨルダン社会の暮らし心地がよければ、その中で生きていくことに不自然は感じないのだろう。
ヨルダン自体、第一次大戦前は国ではなかった。トルコ帝国領の「トランス・ヨルダン」という地域があっただけだ。「ヨルダン川の向こう側」という意味だ。それは英国支配下のエルサレム側、つまり西欧から見た言い方で、アラブ側からの言い方ではないのである。
ヨルダン川の向こう側の砂漠の中にアンマンとかアカバとかの町があり、そこにアラブ人が住んでいた。国などなかった。第一次大戦でトルコを破った英仏がそこに勝手に国境線を引いて「国」とし、アラビア半島の豪族だったハシム家の息子を落下傘的に国王にした。それがヨルダンの歴史なのである。
国民はだれでもそのことを知っている。大昔の国づくり神話などないし、万世一系ストーリーなどもない。右翼や国粋主義者なんかいない。国王も国民もおかしなイデオロギーにとらわれず、ドライに社会を考えられる国なのだ。
「だからフセイン国王は、経済発展に望みをかけているのです」とジャラード君はいう。ヨルダンには、周りの国と違って石油資源などはない。砂漠の中の小さな国なのだ。
「そんな国でも、がんばって働けば必ず食えるようになる。働こうと思えば必ず職がある。そういう健全な経済さえあれば、国民はこの国を大事にしようとする。国王はそんな社会をつくろうとしているのです」
そういえば国王は「アカバ港開発」を強調していた。海があるのだ。海があれば、ギリシャの食べ物が伝わってきてもおかしくない。それに、パレスチナ人はシリアやレバノンに大勢いる。その対岸はギリシャじゃないか。中東という地域は、いってみれば地中海の共同文化圏なのだ。
フセイン国王は99年に63歳で亡くなった。今は息子のアブドラ―国王の時代だ。
中東和平は、イスラエル右派とパレスチナ過激派の憎悪の対立のせいで頓挫した。アカバ港合同開発計画も吹っ飛んだ。トランプ大統領の登場で、米国は和平の仲介者の座を放り出してしまった。東隣のイラク、北隣のシリアでは、イスラム過激派のISの出現で国がめちゃめちゃになった。にもかかわらずヨルダンの「柔らかいイスラム・合理的な経済活動」は変わらない。
ヨルダンはよくやっている。フセイン国王の精神は生きている。「サー」といわれたからだけではなく、そう思うのである。
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松本仁一
1942年、長野県生まれ。東京大学法学部卒。1968年朝日新聞社入社。ナイロビ支局長、中東アフリカ総局長などを経て編集委員。2007年退社後はフリーで活動。『アフリカを食べる』『カラシニコフ』『アフリカ・レポート』『兵隊先生』等、著書多数。
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はじめまして。2021年2月1日よりウェブマガジン「考える人」の編集長をつとめることになりました、金寿煥と申します。いつもサイトにお立ち寄りいただきありがとうございます。
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手持ち無沙汰であった以上に、居心地の悪さを感じたのは、「考える人」というその“屋号”です。口はばったいというか、柄じゃないというか。どう見ても「1勝9敗」で名前負け。そんな自分にはたして何ができるというのだろうか――手を動かす前に、そんなことばかり考えていたように記憶しています。
それから19年が経ち、何の因果か編集長に就任。それなりに経験を積んだとはいえ、まだまだ「考える人」という四文字に重みを感じる自分がいます。
それだけ大きな“屋号”なのでしょう。この19年でどれだけ時代が変化しても、創刊時に標榜した「"Plain living, high thinking"(シンプルな暮らし、自分の頭で考える力)」という編集理念は色褪せないどころか、ますますその必要性を増しているように感じています。相手にとって不足なし。胸を借りるつもりで、その任にあたりたいと考えています。どうぞよろしくお願いいたします。
「考える人」編集長
金寿煥