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食べる葦

2018年8月15日 食べる葦

ガーナのお餅は最高の味!

著者: 松本仁一

 西アフリカには「フーフー」という食べ物がある。ナイジェリアやベナン、トーゴなどのギニア湾沿岸地方でよく食べられている。
 キャッサバという根茎を砕いて粉にし、こねてモチ状にする。それを主食にして、肉や魚をトマトで煮込んだシチューにつけて食べる。そのシチューがやたらと辛いのである。
 野菜バナナをキャッサバのかわりにすることもある。野菜バナナというのは甘みのない白いバナナで、大きいものは30センチ以上もある。
 あちこちで食べたフーフーだが、ガーナが最高だった。大きな木臼で15分もつきあげたキャッサバは粘って腰が強く、絹のように光沢があり、プチンとかみ切れるような歯ごたえがあったのである。
 その最高のフーフーと、ガーナの国家元首だったローリングス大尉の顔が、私の頭の中ではいつもダブってしまう。

家庭でフーフーをつくのは女性の仕事だ。木臼は脱穀・製粉・もちつきとあらゆる用途に使われる(ガーナの首都アクラで)

 国連の食糧農業機関(FAO)が、アフリカに駐在する日本の新聞特派員をガーナに招待したいといってきた。1986年のことだ。アフリカの大飢餓の後のガーナの食糧生産の実態を日本に伝えてほしい、交通費や宿代は払えないが取材のアレンジはする、という内容だ。
 ガーナはチョコレート原料のカカオ豆の産地として有名だ。しかし東アフリカに駐在している私たち朝日・毎日・読売と共同通信の4人の特派員にとって、遠い上に直行便がなく、内戦などの緊急ニュースもなく、なかなか行くことがない国だ。いい機会だから一緒に行こうということになった。
 ナイジェリアのラゴスで飛行機を乗り換え、ガーナの首都アクラについた。FAOが手続きをしておいてくれたにもかかわらず、取材許可証の取得に半日かかった。
 翌朝、FAOの車で北部のコメ作地帯に向かった。一帯はかつては粗放農業で収量が少なかったが、FAOの指導で大きく収量が上がったという。
 国道1号線でアクラの市街地を外れるや、道路が悪くなった。舗装が破れているのだ。というより「道路に舗装が残っている」といった方が近い。舗装がはがれた部分はえぐられて深い穴になっている。道路の中央を走っていたらそんな穴に突っ込んでしまう。私たちのランドクルーザーは、路肩を時速30キロぐらいでそろそろと走っていく。
 何時間もそんな低速運転を続けた後、突然、きれいに修理された道路になった。アクラから北に500キロ、テシマンという村を過ぎたあたりだ。私たちの運転手は、後れを取り戻そうとスピードをあげた。時速80キロは出ていただろう。その直後の事故だった。
 下り坂のゆるいカーブを曲がったとたん、前方の脇道から車が出てくるのが見えた。こちらに気が付いていないらしいその車は、狭い国道を曲がりきれず、斜めに道路をふさいで止まった。こちらの運転手が、大声で叫びながら急ブレーキを踏む。だが間に合わない。ハンドルを左に切る。タイヤが道路の穴に突っ込んだ。車は大きくバウンドし、スリップして、側面で体当たりするように相手の車にぶつかった。
 ガンと激しい音、ショック。そのまま相手の車にのしかかるようにもんどり打って半回転した。座席から投げ出されて目の前がぐるぐる回り、あとはどうなったのか覚えていない。

 気が付いたときは、車はさらに半回転して立ち上がっていた。私は後部座席の床に投げ出され、あおむけにひっくり返っていた。車の窓ガラスが割れ、座席の上いっぱいに散らばっている。座席に置いていたショルダーバッグとカメラが割れた窓から飛び出し、道路の真ん中に転がっていた。どこかにぶつけたようで、右肩と右腰が痛い。シャツの下に触ってみたが、血は出ていない。どうやら大丈夫だったようだ。
 起き上がろうとして、隣に座っていたA紙の記者がうずくまったままなのに気が付いた。見ると右腕一面にガラスの破片が刺さり、血が流れている。おまけに頭を打ったようで、首をおさえてうめいている。ひしゃげたドアを蹴とばしてこじ開け、運転手といっしょに彼を運び出した。
 近くの集落の人々が集まってきた。テシマンまで戻るとキリスト教の診療所があるという。車は動くことは動く。人々に手伝ってもらって、A紙記者と、相手の車の運転手とを診療所に運んだ。さいわい2人ともけがは大したことはなかった。
 さて、次は警察で事故証明書を出してもらわなければならない。テシマンの駐在所に行く。
 「右腕に、けがを、した、と。―けがという字はどう書いたっけかな」
 のんびり構えた警官を相手に、調書の作成は夕方までかかった。ボディーがひしゃげてガラスが割れた車に戻り、ふたたび破れ舗装の悪路を走った。けが人を乗せた車は30キロも出せず、目的地に着いたのは深夜だった。結局、その日の取材はできなかった。
 ガーナに限らず、アフリカの道路のひどさは見事というしかない。それも大幹線の国道1号がそうなのである。舗装に大きな穴が開いていても、誰も補修をしない。
 だめになった舗装道路は、未舗装の道路より始末が悪い。残った舗装の端に角が立つ。高速で走っていてそんな穴に突っ込むとタイヤが切れてしまうのだ。車はどれも、穴の開いた道路の中央を避け、路肩の未舗装部分を選んで、のろのろと走っている。
 ガーナの場合、このどうしようもない国道1号線に頼って、国内生産の40パーセントに当たる穀物を、北部の農村から延々800キロ、南の首都アクラに運び出しているのだ。トラックはすぐ壊れる。パンクもする。しかし外貨不足で、タイヤや部品を買う金はない。動けるトラックはどんどん少なくなる。
 その結果、北部農村で十分な収穫があっても、首都には運べないという状態になる。農民は仕方がないから、せっかくとれた穀物を、手近の国境を越えて他国に売りに行く。ガーナ北部の余剰食糧はブルキナファソやコートジボワールに持ち出されていた。したがって、干ばつが終わっても、国としては相変わらず飢餓状態ということになる。
 アフリカで道路が壊れ始めるのは、きまって雨期に入ったときだ。未舗装道路から舗装の幹線道路に入ってきた車が、タイヤの泥を落として走る。泥の中の小石が舗装の表面に傷をつける。その小さな傷が、何台もの車のタイヤで拡大されていく。雨期の始まりの一週間で、アフリカのほとんどの国で舗装にいっせいに穴が開きはじめる。
 行政が定期的に補修していれば何ということはないのだが、穴が開いたままいつまでも放ったらかしだ。建設省や運輸省は、他人事みたいに何もしない。アフリカ飢餓の大きな原因は流通インフラの整備不足にあったのだが、政府の役人たちにはそれを理解しようという気さえないように思えた。


 アクラに戻った翌日、FAOの事務所から、国家元首のローリングス大尉との会見アポが取れたとの連絡があった。
 クーデターが多いアフリカでも、2度のクーデターに成功しているのは彼だけだ。めったに会えないと聞いている。その大尉に会えるなら、交通事故なんて帳消しだ。

記者会見するローリングス大尉。4文字言葉の連発だった(アクラの国家元首執務室で)

 ジェリー・ローリングス空軍大尉、当時39歳。1979年、腐敗しきったアクフォ政権を倒したのが最初のクーデターで、そのとき32歳だった。3か月後、約束通り民政移管してあっさり権力の座から降りる。
 ところが民政は再び腐敗を始める。81年の大みそか、2度目のクーデター。それから5年、軍事政権が続いている。しかし大尉の評判は悪くない。身辺が清潔だからといわれる。
 ガーナは1957年に独立した。どん底の経済が続いていたが、国際通貨基金(IMF)や世銀のテコ入れで持ち直しかけている。ローリングス政権下、どちらかといえば社会主義寄りの計画経済型だったガーナが、なぜ突然、IMFの優等生に変身してしまったのか。そのあたりを聞きたい。質問状をつくり、事前に渡した。
 国家元首執務室に通されてしばらく待つと、大尉が補佐官を伴って入ってきた。180センチを超す大男。迷彩服。まくり上げた袖から丸太のような腕が出ている。白人との混血の浅黒い顔。五分刈りの頭。大きな目はぎょろりと迫力がある。席に着くや、勝手にひとりでしゃべり始めた。こちらの質問状など、まったく見向きもしない。以下、テープから起こした元首の発言である。
 (着席してすぐ)「日本の子どもはどうして自殺なんかするのかねえ、え?」
 「人間には、生きようとする強烈な意思が必要だ。波間に漂う浮き輪に、自分から泳いで行こうという意思が必要なんだ。今のアフリカにはその意思がない。浮き輪が横にあるのに、助けを求めて騒いでいる。ファッキング! ガーナは去勢男どもばかりだ!」
 びっくりして、私たちは顔を見合わせた。国家元首が「ファッキング」といった? いったよな? 
 「ファッキング!」とか「ファック・ユー!」といった言葉をあたりさわりなく訳すとしたら、「くそったれ!」ぐらいが妥当なところだろう。Fuckという英語は「××××する」に当たる4文字言葉のスラングで、ののしり言葉としてはもっとも汚い文句だ。「ファック・ユア・マザー!」なんていったら、それこそ最大級の下品な言葉である。しかし大尉は、あっけにとられている私たちに頓着する風もなく、一人でしゃべり続けている。
 「アフリカには大きな問題がある。生きるのに懸命になろうとしないことだ。楽して得することばかり考えている。だからアフリカは腐敗するんだ。ファック・ユア・マザー!」
 「国際社会の中でアフリカの声がこんなに小さいのはなぜだと思う? 経済基盤や安全保障の基盤がないからだ。私が最初のクーデターをやったとき、ガーナはひどいものだった。今だってひどい。だれもガーナのいうことに耳など貸してくれない。ファック・ユー!」
 「アラブには石油という経済基盤があるものな。…しかし、アラブはひどいぞ。石油が足りなくて、リビアに頼みに行った。カダフィ大佐は、いくらでも持って行ってくれといってくれた。喜んだオレがばかだったよ、払わなくていいと思ってしまったんだ。後になって、こんな厚さ(と両手で30センチぐらいの厚さを示す)の請求書が送られてきた。ファッキング!」
 「アフリカの人間の程度はどうしてこんなに低いのかとつくづく思うよ。字さえ読めればなあ。字さえ読めれば、自分が置かれた状況も分かるし、人を教えることもできる。しかし見てみろ、この国を! (席を立って両腕を振り回し)医者を育てようと思って優秀な若者をイギリスに留学させると、医者になってそのまま帰ってこない。ファック・ユア・マザー! 先進国には途上国から医者を奪う権利があるというのか!」

 「ガーナが変身した? いいか、この世の中には共産主義も資本主義もないんだ。ナントカ主義なんていうのは月の世界の話だ。ぜいたくに暮らすか貧乏に暮らすか、死ぬか生きるか、それしかないんだ。ファッキング!」
 指導者たちは、国の将来より自分の利権ばかり考える。国民は努力せず、ラクして得することばかり考える。国政はちっとも進まない。そのことに真剣に悩み、いらだち、怒りをぶちまける。そんな印象だった。
 「そうそう、去勢されたガーナの男どもを立ち上がらせるためのいい方法があるんだ。この国の女たちはよく働く。女をパイロットや空挺隊員にするのさ。男どもはあわててついてくるに違いない。アッハッハ」
 会見の後、大尉自身が官邸を案内してくれた。「こんなこと、初めてです」と補佐官があわててついてくる。英国植民地時代の総督府の一部を改造して官邸にしてある。大尉は「これは当時の井戸、これは昔の牢獄」と先に立って歩き回る。
 官邸の2階の奥に、大尉一家の居住用の部屋があった。3LDKアパートぐらいの広さで、驚くほど質素だ。幼い女の子が3人、「パパだ!」と叫んで飛び出してきた。
 中に入った大尉が持って出てきたのは、大きな模型グライダーの、2メートルもある片翼だった。
 「この模型は前のクーデターの後で妻が買ってくれたものだ。片翼をつくったところで次のクーデターだ。それから5年、完成させる暇がない。ファッキング!」


 その夜、FAOの現地職員の案内でアクラの町を歩いた。
 土地の料理が食べたいというと、彼は「うまい店があります」と大通りを外れ、横道に入った。首都といってもネオンきらめく感じとはほど遠い。大通りを外れたら舗装は途切れ、道路は暗い。ときどき、空き地に裸電球の下がった露店があるていどだ。その向こうの露店からいい匂いがしてくる。職員氏はその店に入った。
 道ばたの原っぱに、がたついたテーブルとベンチが置いてあった。その奥にレンガ積みの大きなコンロがあり、四角い鉄鍋がかかっている。いい匂いはそこからだった。
 「フーフーを食べさせる店です。この店がアクラでは一番うまい」と職員氏がいう。女主人がやってきて、無愛想にテーブルを拭いた。
 鍋は、牛肉の大辛・中辛と、ヤギ肉の大辛・中辛の4つに区切ってあった。汁はトウガラシで真っ赤になっている。私はヤギ肉の中辛を注文した。職員氏は大辛を頼んでいる。
 店の裏手に大きな木臼があった。そこにふかしたキャッサバ粉のかたまりを入れると、筋骨隆々の男が上半身裸になり、杵をにぎって、ドカドカ、ドカドカとつきはじめた。
 「われわれのフーフーをついているんです。あの男は雇いの餅つき男です」
 キャッサバつきはなかなか終わらなかった。餅つき男は汗みどろになっている。背中の筋肉が裸電球にてらてら光って迫力十分だ。15分もついていただろうか、やっとわれわれのフーフーができあがった。アルミの皿で出てきたそれは、まさに餅だった。
 やや黄色みをおびていて、絹のようにキメが細かく、光沢がある。腰が強くて歯ごたえがよく、噛むとプチッと切れる感じだ。ほのかに甘みもある。そのつきたてのほやほやを煮込み汁につけて食べた。中辛を頼んだのに涙が出るほど辛い。そして熱い。赤道の下の熱帯夜だ。たちまち汗が噴き出してきた。
 「熱くて辛いから、みんなフーフーいって食べる。だからフーフーというんです」と職員氏は笑いもせずにいった。
 フーフーはガーナ以外の西アフリカ地域でもよく食べた。しかしこんな餅のような粘りや歯ごたえはない。ガーナだけが特別なのだろう。
 「ガーナの人間はこの粘りを好みます。キャッサバみたいな粘りのない穀物を、粘りが出るまで時間をかけてつくから、きめが細かくてうまくなります」
 勘定を払うとき、「とてもうまかった」と女主人にいったら、無愛想な顔を崩してニヤリとした。ローリングス元首の「ガーナの女はよく働く」という言葉を思い出した。しかし、餅つき男も汗びっしょりで働いていた。働いていないのは、最重要な道路さえも放ったらかして平気な政治家や役人たちだけのように思えた。

アクラの中央市場で。働いているのは女性ばかりで、「マーケット・マミー」と呼ばれている

 経済改革の成果でガーナは年率5パーセントの成長をなしとげ、いまでは域内の優等生だ。
 ローリングス元首は92年、国政を民主化して複数政党選挙を導入、初代大統領に選ばれる。96年の第2回選挙でも圧倒的な人気で再選されるが、2000年には3選禁止規定を守って出馬しなかった。
 今年で71歳になったはずだ。写真を見ると頬ひげを生やしたようだが、その髭は真っ白になっている。あれから30年余、模型グライダーは完成したのだろうか。

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 はじめまして。2021年2月1日よりウェブマガジン「考える人」の編集長をつとめることになりました、金寿煥と申します。いつもサイトにお立ち寄りいただきありがとうございます。
「考える人」との縁は、2002年の雑誌創刊まで遡ります。その前年、入社以来所属していた写真週刊誌が休刊となり、社内における進路があやふやとなっていた私は、2002年1月に部署異動を命じられ、創刊スタッフとして「考える人」の編集に携わることになりました。とはいえ、まだまだ駆け出しの入社3年目。「考える」どころか、右も左もわかりません。慌ただしく立ち働く諸先輩方の邪魔にならぬよう、ただただ気配を殺していました。
どうして自分が「考える人」なんだろう―。
手持ち無沙汰であった以上に、居心地の悪さを感じたのは、「考える人」というその“屋号”です。口はばったいというか、柄じゃないというか。どう見ても「1勝9敗」で名前負け。そんな自分にはたして何ができるというのだろうか―手を動かす前に、そんなことばかり考えていたように記憶しています。
それから19年が経ち、何の因果か編集長に就任。それなりに経験を積んだとはいえ、まだまだ「考える人」という四文字に重みを感じる自分がいます。
それだけ大きな“屋号”なのでしょう。この19年でどれだけ時代が変化しても、創刊時に標榜した「"Plain living, high thinking"(シンプルな暮らし、自分の頭で考える力)」という編集理念は色褪せないどころか、ますますその必要性を増しているように感じています。相手にとって不足なし。胸を借りるつもりで、その任にあたりたいと考えています。どうぞよろしくお願いいたします。

「考える人」編集長
金寿煥

著者プロフィール

松本仁一

1942年、長野県生まれ。東京大学法学部卒。1968年朝日新聞社入社。ナイロビ支局長、中東アフリカ総局長などを経て編集委員。2007年退社後はフリーで活動。『アフリカを食べる』『カラシニコフ』『アフリカ・レポート』『兵隊先生』等、著書多数。

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