「ブルボス」というのは、南アフリカ名物の大型の粗挽きソーセージのことだ。初期オランダ系入植者がつくりだした。太さ3センチ、長さは50センチもあって、ドデンととぐろを巻いている。
牛肉や豚肉の粗挽きを腸詰めにしたもので、血を混ぜたのもある。これをあぶって食べるのだ。粗挽きどころか「粗々挽き」という感じで、肉のかたまりがごろごろ入っている。まるで肉そのものを食べているような豪快な食感がある。
南ア白人はバーベキューが好きで、休日にはどこの公園でもバーベキューをやっている。南アではバーベキューのことを「ブライ」というが、ブルボスなしのブライなんて考えられない、と彼らはいう。
そのブルボスを、なんとオーストラリアのパースで食べることになった。1987年のことだ。
南アのアパルトヘイト(人種隔離)政策が終焉に向かう1980年代、南ア白人の国外移住が急激に増えた。だれもがアパルトヘイトはもう終わりだと思っていたが、体制の大変革の際には何が起きるか分からない。黒人側からの暴力的報復があるのではないか。その不安が大きな原因だった。そうした白人の国外脱出は「エクソダス」と呼ばれた。
1982年のエクソダス白人の数は6800人。それが85年には11000人を超し、86年には13711人を記録した(南ア中央統計局調べ)。主な出国先は旧宗主国の英国(5407人)だが、2番目はオーストラリア(3987人)だ。この2国だけで1万人近くを占める。
なぜオーストラリアが移住先として人気があるのか。オーストラリア移民局は、①国情が安定している、②英語が通じる、③南アと同じ南半球の同緯度に位置して気候が似ている、などを挙げる。
そのオーストラリアだが、南ア白人は西海岸の都市パースに集中した。当時人口約100万人のこの町に、85年の移民局調査で6300人の南ア移住者がいた。
しかし「西オーストラリア・南ア人会」の事務局長ベブ・モファットさん(32)は、実際には16000人以上いるはずだと見ている。南ア以外の、たとえば英国やオランダのパスポートなどで移住してくる人は統計に出てこないからだ。しかも移住は、年に1000人のペースで増えているという。
なぜシドニーやメルボルンなどほかの都市でなく、パースなのか。
モファットさんは「パースはオーストラリアの中でも気候が南アのケープタウンそっくりなんです」といった。東海岸のシドニーなどは湿度が高すぎるのだそうだ。「それに、パースは南アにいちばん近いのです」。ヨハネスブルクーパース間はジェット機で9時間だが、シドニーだとさらに4時間もかかる。
「夕日の向こうに故郷がある。パースはそんな場所なのです」
80年代の南ア移住者には、高学歴の専門職が多かった。名簿を見せてもらうと、パースの医師の4分の1は南ア移住者だった。新聞記者の1割。ほかにも弁護士、計理士、技師……。
モファットさん一家は81年、ヨハネスブルクから移住した。ヨハネスブルクで夫はホテル支配人、モファットさんは同じホテルの経理マネジャーだった。父は初期オランダ系移民の子孫のアフリカーナー、母はスコットランド系の3代目だ。
モファットさんはアパルトヘイトに批判的だった。その彼女がエクソダスを決意した理由は3つだ。
一、 いずれやってくる黒人支配への不安。
一、 白人政権下での兵役義務への嫌悪。
一、 アパルトヘイト体制の中で特権を持つ側(白人側)にいることの精神的重荷。
「6年前に長男が生まれたとき、夫と話し合いました。将来に安定した見通しが持てる生活、子どもを人種対立の兵役に送りださなくてもいい生活。そんな生活が欲しかったのです。ちょうどパースのホテルが支配人を探していた。それで出国を決意しました」
16年間住んだ家を売り、パースにやってきた。パースの空港に着いたときの安堵感は一言ではいえないものだったという。
「肩や足から力が抜けてしまった感じ。安心したというか、ホッとしたというか、タラップがうまく歩けなくて、涙が出てとまらない。私にとって、アパルトヘイトはそれほど重荷だったのです」
南アでは、ヨハネスブルク郊外の住宅地の2000平方メートル・プール付きの家に、黒人のメイド、庭番付きで暮らしていた。パースの家はその4分の1にも満たない大きさで、プールはないしメイドもいない。
「でも、この方がずっと健全な生活だと思います。黒人の低賃金労働に乗っかって貴族みたいな暮らしをするのはおかしい。アパルトヘイトの中で私たちは、そのおかしな感覚にならされて麻痺していたのです」
パースの南ア人会に所属しているのは約500人。ほとんどが新来者だ。南ア人会は日本の県人会のような親睦組織とは少し違う。新来者が生活に慣れるまでの世話をするのが大きな目的だ。生活に慣れた人から退会していく。
「ちょうど明日、南ア人会のクリケット大会があるのよ。出場しません?」
モファットさんがいった。クリケット試合に出場する気はなかったが、終わった後、南ア風バーベキューのブライをやるという。そっちが楽しみで、翌日、公園に行ってみた。
クリケットで汗を流した南アからの移住者たちは、わいわい大騒ぎしながらバーベキューを楽しんでいた。
当然のごとく、ブルボスがあった。とぐろを巻いたソーセージを7~8センチの長さに切り分け、網の上で焼く。肉が焼けるこうばしい香りがする。それを紙皿に取ってくれた。香辛料が効いていてうまい。まるで南アの白人地区の公園と同じ光景だった。
私が南アから来たというと、最近のヨハネスブルクはどんな様子かと、逆に質問攻めにあった。プレトリアはどんなだったか。ケープタウンは? サントンは?
サントンというのはヨハネスブルク郊外の高級住宅街で、東京でいえば松濤とか成城などにあたるだろうか。
ビールをごちそうになりながらブルボスを食べていると、一人の移住者がいった。
「いま、オーストラリア人のバーベキューには、必ずブルボスが入っているんだぜ。われわれの影響さ」
1994年、南アではマンデラ大統領が就任した。これでアパルトヘイトは完全に終わった。流血の変革も、黒人側の暴力的報復もなかった。平和的に権力が移行したのは、白人最後のデクラーク大統領と、黒人最初のマンデラ大統領の両者による、並々ならぬ努力の成果だった。
2000年ごろになると、エクソダス白人の傾向が変わった。白人専門職ではなく、白人未熟練労働者の出国が増えたのである。
アパルトヘイト時代、南アには「職業確保法」(Job-Reservation Act)という法律があった。ある種の職業は白人労働者のために確保され、黒人は就くことができないという法律だ。鉱山の現場監督、発破技師、銀行窓口、スーパーのレジ係、重機の運転手、バス運転手など。これによって低学歴未熟練でも白人労働者は職にあぶれることなく、100パーセント就職することができた。白人の失業者はいなかった。
しかしアパルトヘイト廃止でこの法律がなくなる。白人が独占していた職種は、あっという間に黒人労働者に取って代わられた。白人の失業者が急増する。彼らは将来に見切りをつけ、外国に出て行った。出て行く先はやはりオーストラリア、そしてパースだった。
南ア移住者だけではないが、パースは外国人の流入でオーストラリア一の人口急増都市となり、2010年には人口が200万人を超えた。
アパルトヘイト時代の南アで白人低所得者層が住んでいたのは、ヨハネスブルク周辺でいえば町工場のあるメイフェアとか国際空港ちかくのスプリングス、工業団地に近いボクストンといったあたりだ。それでも白人用住宅は1区画が500平方メートルはあり、必ずプールが付いている。
2000年代になってからの白人のエクソダスで、そうした家が売りに出された。「築16年4LDKプール付き、商店街近し。39000ドル」などというビラが不動産屋に張り出された。投げ売りだ。
それを買ったのは、中国人だった。
南アには、中国本土からの出稼ぎ者が増えている。増え始めたのは、アパルトヘイト関連法が全廃された1991年ごろからだ。
それまで南アで、中国人は「カラード」(有色人)の扱いだった。日本人は「名誉白人」の待遇で、ホテルやレストラン、列車などの白人施設を使えたが、中国人はそれがだめだった。ヨハネスブルクには、旧英領の香港などから昔やってきた中華料理店主など、数人が住んでいただけだ。しかしアパルトヘイトがなくなると、中国人の移入が一気に増えた。
彼らは親戚から集めた資本で南アに渡り、衣料や雑貨の卸売業を始める。これまで黒人向けの低価格商品の店がなかった南アで、その商売は当たった。いまヨハネスブルクには、8か所の中国系大規模卸売センターがあり、入居は2000店を超える。南ア経済の衣料・雑貨卸売りの分野は、いまや完全に中国人が牛耳っている。
成功した者を頼って、親戚や知人の若者がやってくる。香港とヨハネスブルクの間にはキャセイ航空と南ア航空がエアバスを日に1便ずつ飛ばしているが、乗客のほとんどは中国人だ。そして彼らの何人かはそのまま南アに居残る。
彼らにとって、中国本土でプール付き500平方メートルの家に住むなんて考えられないことだ。しかし南アでは、少しがんばれば実現できる。夢ではないのだ。そんな生活を手に入れてしまったら、もう帰国するつもりはない。ずっと南アにとどまり、結婚し、子どもを増やし、「南ア人」になる気だ。
南アの中国人は、今や30万人を超して増え続けている。南アからあふれた中国人は、ビジネスチャンスをねらって、さらに周辺のアンゴラ、モザンビーク、ナミビアなどに流れ出す。アフリカ全体で、中国人の人口は100万人をすでに超したといわれる。私が特派員をしていたケニアでは、街を歩くと「コンニチワ!」と声をかけられたものだ。それがいまでは「ニーハオ!」である。
南アの各地に中国人街ができた。ヨハネスブルクではシリルデーンがもっとも有名だろう。そこには中国野菜の八百屋があり、豚肉をあつかう肉屋があり、携帯電話屋があり、旅行代理店がある。看板はすべて中国語だ。
そして中華料理屋がある。それは安くてうまい。南ア人の客も多い。彼らがよく食べているのは焼きそばだ。
オーストラリアではブルボスがはやり、南アでは焼きそばがはやる。世界では今も人の動きは止まっていない。
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松本仁一
1942年、長野県生まれ。東京大学法学部卒。1968年朝日新聞社入社。ナイロビ支局長、中東アフリカ総局長などを経て編集委員。2007年退社後はフリーで活動。『アフリカを食べる』『カラシニコフ』『アフリカ・レポート』『兵隊先生』等、著書多数。
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とは
はじめまして。2021年2月1日よりウェブマガジン「考える人」の編集長をつとめることになりました、金寿煥と申します。いつもサイトにお立ち寄りいただきありがとうございます。
「考える人」との縁は、2002年の雑誌創刊まで遡ります。その前年、入社以来所属していた写真週刊誌が休刊となり、社内における進路があやふやとなっていた私は、2002年1月に部署異動を命じられ、創刊スタッフとして「考える人」の編集に携わることになりました。とはいえ、まだまだ駆け出しの入社3年目。「考える」どころか、右も左もわかりません。慌ただしく立ち働く諸先輩方の邪魔にならぬよう、ただただ気配を殺していました。
どうして自分が「考える人」なんだろう――。
手持ち無沙汰であった以上に、居心地の悪さを感じたのは、「考える人」というその“屋号”です。口はばったいというか、柄じゃないというか。どう見ても「1勝9敗」で名前負け。そんな自分にはたして何ができるというのだろうか――手を動かす前に、そんなことばかり考えていたように記憶しています。
それから19年が経ち、何の因果か編集長に就任。それなりに経験を積んだとはいえ、まだまだ「考える人」という四文字に重みを感じる自分がいます。
それだけ大きな“屋号”なのでしょう。この19年でどれだけ時代が変化しても、創刊時に標榜した「"Plain living, high thinking"(シンプルな暮らし、自分の頭で考える力)」という編集理念は色褪せないどころか、ますますその必要性を増しているように感じています。相手にとって不足なし。胸を借りるつもりで、その任にあたりたいと考えています。どうぞよろしくお願いいたします。
「考える人」編集長
金寿煥