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北島三郎論 艶歌を生きた男

2026年6月16日 北島三郎論 艶歌を生きた男

第10回 1965年の北島三郎 (1)仕掛けられた演歌ブーム

著者: 輪島裕介

2022年にデビュー60周年を迎えた北島三郎。日本の演歌界をリードしてきた不世出の歌手の名前と、「函館の女」「与作」「まつり」といった代表曲を知らぬ人はいないでしょう。しかし、そのキャリアや音楽的功績について、どれだけの人が正しく認識しているでしょうか――。著書『創られた「日本の心」神話』で、演歌というジャンルの“起源”に鋭く斬り込んだ音楽学者が、「北島三郎とは何者か」という壮大な問いに挑みます。

3年間のご無沙汰でした

 前回の「クラウン騒動」編から果てしなく長い間が空いてしまった。玉置宏の「一週間のご無沙汰でした」どころかほぼ3年のご無沙汰だ。なんとも面目ない。

 「三年経てば三つになる」とはよく言ったもので、この3年間何もしていなかったわけではない。連載中断の直接の理由は、2023年度下半期の朝ドラ「ブギウギ」に合わせて『昭和ブギウギ:笠置シヅ子と服部良一のリズム音曲』(NHK出版新書)の書き下ろしに入ったことだ。執筆のための調査の過程で、実演の重要性と、そこにおける在来の感性の連続性に改めて気付かされた。近代日本の娯楽文化史のなかでもひときわ「洋風」「アメリカ的」と目されてきた(実際そういう側面もあるのだが)笠置と服部を、「洋楽=音楽の受容」としてではなく、大阪庶民の「音曲」の近代的変容という観点から論じきれたことで、この「北島三郎論」も含む「近代音曲史」構想に弾みがついた。

 しかし、すぐには戻れなかった。刊行後の各種催しや、勤務先で開催した笠置・服部の展示に際して、実演を含むイベントを多く企画したことで、いま現在活動する多くの優れた実演者と知り合うことになったのだ。これには、2023年1月に阿部万里江『ちんどん屋の響き』(世界思想社)の翻訳書を刊行したことで、多くのちんどん屋実践者の方々と知り合うことができたことも関わっている。厳格な流派や家元制度とは別に、融通無碍に異種混淆かつ和洋折衷の音曲を奏でている演者のみなさんにいたく刺激された。さらに自分自身も和洋合奏団をつくり実演に手を出すようになってしまった。こちらは数年前から習っている地歌(ぢうた)の師匠(異能の一匹狼箏曲家(そうきょく)・森川浩恵)に誘われたので否応もない。どんな芸事でも素人の道楽が裾野を広げてきたのだ、と嘯きながら、さまざまな現場に顔を出しては、時にイベントを企画したり、果ては自分でも演奏しているうちに時間が経ってしまった。

 とりわけ、「橋の下世界音楽祭」や、各種のオルタナティヴ盆踊りに大いに触発された。サブちゃん関連で言えば、「橋の下」の常連、柳家睦とラットボーンズの「まつり」カヴァーのバカバカしさは絶品だ。また、初代桜川唯丸(さくらがわただまる)流の江州音頭(ごうしゅうおんど)をはじめとする日本の民謡や俗謡を、ブルガリア風のハーモニーとブラジル風のギター伴奏で聴かせるすずめのティアーズと中西レモンを知り熱中している。というような現在の民謡および盆踊りシーンの活況について、「近代音曲史」構想と絡めて、台湾や韓国やフランスやオランダから呼んでもらった際に話したりもした。

 実演と祝祭への熱が高じて、2025年春には、私自身の「歌と踊りに満ちた祝祭」の原体験であるブラジル・バイーア州サルヴァドールのカーニヴァルを訪れた。10年前にも学会のついでに一度再訪しているが、カーニヴァルは実に25年ぶりだ。ここ数年のカーニヴァルの王者といえる「バイアーナシステム」のパレードでもみくちゃにされ、久しぶりに圧倒的な興奮と年相応の疲労を感じた。と同時に、1990年代に目眩を覚えるほどの刺激を伴って続々と発明されていた新たな演奏スタイルやダンスが、いまや良くも悪くも「歴史」のなかに破綻なく位置づけられていることを確認し、やはりあれは特別な時期だったのか、と甘苦い気持ちになった。バイーアのカーニヴァルは自分の出発点で、常に参照点であり続けているけれど、自分がやるべき仕事はやはり日本と東アジアのことだな、とも改めて実感した。そして2010年代の東アジアは、民謡や盆踊りをめぐって、あるいは日本に限らず韓国のOBSGや台湾の百合花など、伝統的な音楽や舞踊をヴァナキュラーな形で(高級芸術文脈ではなく)現代化する動きに関して、かなり面白いことが起こっているのではないか、とも感じた。

北島三郎公式YouTubeチャンネル

 その間も本連載のことを忘れていたわけではない、が、今現在起こっていることを優先しているうちに時間が経ってしまった。本連載開始のきっかけはサブちゃんのほぼ全シングルが各種ストリーミングサービスで配信され始めたことだったが、レコードに記録された音を頼りに、実演の重要性を語る、という企図自体が難しいようにも思えていた。

 しかしそんなことも言っていられなくなった。なぜなら昨年夏にYouTube北島三郎公式チャンネルが開設され、昨年末ごろから徐々に過去の実演の映像を公開し始めたのだ。古くても1990年代の映像だが、新宿コマ劇場の豪華な舞台装置や大仰な司会者のセリフ、要所で映し出されるバンドの奏者など、あくまでも記録とはいえ実演の雰囲気をうまく伝えている。

 今年の正月はそれらを流しっぱなしにして過ごしていた。その勢いで正月休みのうちに連載も再起動するつもりだったのだが、YouTubeの自動再生でたまたまサブちゃんに続けて流れた初代京山幸枝若(きょうやまこうしわか)の浪花節にドハマリし、その方面を掘っていったことで短い冬休みは終わってしまった。とはいえ、軽やかな美声でリズミカルな節回しを聴かせ、笑いの要素もふんだんに入った幸枝若の浪曲は、私がサブちゃんに感じているのとほとんど同じ方向の魅力を備えている。ギターやオルガンを取り入れた和洋折衷の伴奏も面白い。任侠ものや武士道ものが多いとはいえ、それよりも己の技と才覚で世間を渡る左甚五郎ものや相撲ものが素晴らしい。江州音頭や河内音頭とも(少なくとも素人の耳には)ごく自然につながっている。過剰に「国民的」な意匠や道徳を強調する三波春夫や重苦しい「男らしさ」を強調する村田英雄の系列とは異なる、浪花節と音頭と流行歌のリンクに気付かされた。浪花節という芸全体に開眼した、ということではなく、自分が「音曲史」という切り口を用いて、さまざまな芸態のどのような側面に光を当てたいのか、ということがよりはっきりと自覚された。とはいえ連載再開までにはあと一押し必要だった。

 今年3月末に日本農業史学会という学会で、JAが農村向けに出している雑誌『家の光』に関連する歌についての発表をした。そのために、『家の光』誌にあらわれた昭和初めから高度経済成長前期頃までの大衆文化(とりわけ歌謡と芸能)について調査することになった。恥ずかしながら久々に目的を持った資料調査をまとまって行い、特に1950-60年代の資料に改めてどっぷり浸かったことで、この連載の続きがようやく見えてきた。

 この調査を通じて、昭和初期以来の都市と農村の間の文化的差異や、高度経済成長期におけるその相互影響と再編成について改めて考えさせられた。「田舎的」(あるいは「非都会的」)と目されてきた曲調や感性や演者が、いつどのように全国化してゆくのか、という問題は、北島三郎の出現や「艶歌」ジャンルの形成にとって決定的に重要な問題である。しかも『家の光』は「艶歌」概念をめぐる最重要人物の一人、五木寛之が小説家になる前にライターとして農村探訪記事を書いていた媒体でもある。ようやく時は来たのだ。

というわけで、連載再開でございます

 ということで、クラウンへの移籍を経て、「1965年の北島三郎」編に移りたい。

 1965年にレコード発売された「兄弟仁義」(3月)「帰ろかな」(4月)「函館の女」(11月)という3曲によって、北島三郎はスターの地位を盤石にし、また、この3曲はそれぞれ彼の今後のレパートリー類型の雛形となってゆく。

 「1965年の北島三郎」といいながら、この年に発売された3曲の実際の流行は、その前後の年にまたがっている。「帰ろかな」は前年の1964年12月にNHKテレビ「夢であいましょう」の「今月のうた」として歌われたことで認知を高めた。一方、「函館の女」の本格的なヒットは1966年に入ってからだ。「兄弟仁義」も、レコード発売時から好評だったようだが、1966年に同名の任侠映画が作られ、それが1971年まで9本にわたってシリーズ化する過程で定着していった。

 それでも「1965年の」とするのは、柳澤健の名著『1976年のアントニオ猪木』(文藝春秋)を気取りたかった、というだけではなく、この年に「演(艶)歌調ブーム」がはっきりと業界内で仕掛けられた、という事実を重視するためだ。「流し」出身の歌手や、夜の盛り場で歌われていた作者不詳の小唄風の歌をはじめ、さらにはそれまで「日本調」や「民謡調」や「浪曲調」などと呼ばれてきた曲調までひっくるめてひとしなみに「演(艶)歌調」ないし「演(艶)歌」と呼ぶ例が、この年を境に、芸能ジャーナリズムにおいて定着してゆくのだ。

 今回は、「1965年の演歌ブーム」を概観したうえで、1965年にレコード発売された北島三郎の3曲は、単に仕掛けられたブームに乗っかったというだけではなく、「演(艶)歌」の含意やその音楽性を拡張するような側面を持っていた、ということを強調したい。

空前の演歌ブーム

 東京オリンピック後の不況と絡めて、「不景気になると演歌がはやる」という「法則」を旗印に、レコード各社が「ブーム」を仕掛けている。1964年12月13日付朝日新聞朝刊の「来年は演歌ブーム?」という記事に基づく分析は、拙著『創られた「日本の心」神話』に記したとおりだが、ごく簡単にその骨子をまとめると以下のようになる。

「演歌ブーム」の根拠として喧伝された「不況になると演歌がはやる」という主張は、おそらく音楽評論家の園部三郎が1962年に刊行した『日本民衆歌謡史考』(朝日新聞社)を下敷きにしている。園部は、左翼的な社会進化論と反映論に基づいて、社会の頽廃期には日本的な哀調を湛えた歌が流行する、という「法則」が見いだせることを否定的に論じた。園部の意図とは裏腹に、これを「不況になると日本的な演歌がはやる」と肯定的に読み替えてレコードの宣伝に転用したのが「演歌ブーム」である。

「日本的な哀調を湛えた歌」の総称として「演歌」という言葉が選ばれたのは、1963年に添田知道『演歌の明治大正史』が岩波書店から刊行されていたことも関わっているかもしれない。しかし、より具体的な背景として、オリンピック終了後から、作者不詳の盛り場の歌「お座敷小唄」が松尾和子とマヒナスターズの録音を通じて爆発的に流行し始めたことがあった。

 以上、15年前の私の見立ては基本的には的を外してはいないと思うが、近年目覚ましく整備された国会図書館デジタルコレクションを用いて改めて雑誌類を調べてみると、いくつか付け加えるべき点がみえてきた。

 まずは、作者不詳の巷のはやり歌に加えて、1964年後半に、井沢八郎「男船」「あゝ上野駅」や都はるみ「アンコ椿は恋の花」など、いわゆる「コブシ」を効かせた流行歌がヒットしており、そうした特徴的な歌い方をする歌手やその曲調も「ブーム」を狙う「演歌調」に含まれていたこと。次に、本連載にとってより重要なのは、北島三郎をロールモデルとした「流し出身歌手」が多く売り出されていたこと。さらに、作者不詳の盛り場のはやり歌と、コブシを効かせた歌と、流し出身歌手の歌は、それぞれかなり異なる側面を持ち、また、論者や記事によって念頭に置いているものはかなり異なるにせよ、それらの区別を曖昧なまま包摂する語として「演(艶)歌」(「演」と「艶」の使い分けは媒体や書き手によって流動的だが「演」のほうが若干多いようにみえる)という言葉が用いられていること、である。

『週刊明星』1965年1月17日号では「レコード界は“艶歌ブーム” 各社の新人歌手作戦」が掲載される。「昔から世の中が不景気になると、手拍子入りのメロディがはやるといわれる」と書き出され、「歌こそ、時代の反映だ、不況の風が吹くときには、お座敷ソングや哀調の艶歌ブシが大流行する」という古賀政男のコメントが続く。各社競作で発売される「いわゆる“小唄もの”」を「お座敷小唄」以下「裏町小唄」「鴨川艶歌」「ピヨピヨ節」(「“流し”出身の北野登美夫がキングで吹き込み」)「松の木小唄」(小林旭は「グングン節」のタイトルで吹き込み)「愛恋節」「網走番外地」と列挙した後、「各社がことし社運をかけて勝負する、艶歌調歌手を総ざらい」として以下の名前がレコード会社ごとに列挙される。

 

キング:春日八郎、三橋美智也、新川二郎(のち「二朗」と改名。以下では当時の表記に従う)、大月みやこ、二宮ゆき子、牧悦子

コロムビア:美空ひばり、村田英雄、こまどり姉妹、神戸(かんべ)一郎、都はるみ、小林幸子、大下八郎、草野四郎、京ふたり子、玉川勝太郎

ビクター:橋幸夫、マヒナスターズ、小高林太郎、小桜姉妹、長谷川兄姉

東芝:松山恵子、藤島桓夫、井沢八郎、中村佳代子、渚幸子

テイチク:三波春夫、田端義夫、石原裕次郎、戸川ユリ、長島一郎、久美悦子

グラモフォン:西田佐知子、園まり(「流行歌に転向」とされる)、大木伸夫、叶修二、原耕二、十和田充、北村あけみ

クラウン:北島三郎、西郷輝彦、水前寺清子、一節太郎、船橋浩二、橘恵子

 

 当時の大物では島倉千代子、守屋浩、舟木一夫あたりの名前が見えないのが気になるところではあるが、明らかに洋楽寄りの歌手を除いたかなり雑多な歌手が「艶歌調」に括られていることがわかる。都はるみについて、「最大の収穫」「これぞ艶歌の申し子」と称賛されているのも興味深い。

 同誌の翌週号では「演歌調の新星」の見出しで、チータこと水前寺清子の写真が全頁で掲げられ、紹介文は「昭和40年は演歌の年といわれている。井沢八郎、都はるみら優秀な歌手が続々と登場し空前の演歌ブームをまきおこしそうだ」と始まる。若手ホープの紹介記事は「すいせん者」が添えられるのが定番で、チータの場合は同じクラウンレコードの北島三郎が務めている。紹介文でも「演歌調では天下一品の北島三郎が目標」とある。

 『週刊読売』1月31日号では「またも“流し”歌手」の見出しと「北島三郎に続いて、また“流し”出身の歌手がデビューした」という書き出しで、バーブ佐竹のデビューが紹介される。ここで興味深いのは、「流し出身というと、すぐ演歌調を想像するが、佐竹はブルース調の、モダンな味の持ち主である」とされていることだ。御存じの通りバーブ佐竹のデビュー曲「女心の歌」は、水商売の女性の心情を男性歌手が歌う、という、森進一らによって継承・拡張されその後の「演歌」の定番となるスタイルの先駆であるが、ここでは「ブルース調」は「演歌調」とは区別されている。とはいえ、前述『週刊明星』の「艶歌調歌手総ざらい」では西田佐知子の「ブルース」は「艶歌調」のなかに位置づけられているため、むしろ、「ブルース調」と「演(艶)歌調」の関係や、そもそも「演歌調」の含意自体が流動的だったことを示している、と考えるべきだろう。

演歌は「日本人の心の歌」

『平凡』3月号では、「演歌ブームだ!若い歌手ハッスル座談会」というサブタイトルで、「根性で歌おう! こころの歌」という座談会が掲載されている。「根性」は、東京オリンピック以降、とみに強調されるようになった当時の流行語の一種といえる。井沢八郎(東芝)、大下八郎(コロムビア)、小高林太郎(ビクター)、久美悦子(テイチク)、新川二郎(キング)、都はるみ(コロムビア)が参加し、若手から「先生」と呼ばれる大ベテランの春日八郎(キング)が司会を務めている。クラウンからの出席者がいないのが気になるところだが、この時点ではまだ北島三郎と五月みどりの移籍をめぐってコロムビアとクラウンの法廷闘争が続いていたからかもしれない。

 冒頭で、春日が「(感心したように)なるほどねえ。それぞれ個性のちがいはあってもみんなは演歌調の人ばかりだねえ」と語ると、新川が「ということは、先生、本格的な歌手ばかりなんですよ」と返し、一同が「同感、同感(笑)」と受ける。そこから春日は、「うん、うん。ぼくのいいたいのもそこなんだよ。演歌というと、歌謡曲の中の一つの種類のように思われるけれど、演歌というのは、むしろ、歌謡曲の本筋だと思うんだ」と語り、小高が「日本人の心の歌ですね」と返し、「そうだね。“いつでも大衆とともにある―”それが演歌というものなんだ」とまとめる。大手芸能誌の座談会で実際にこの通りのやり取りがあったと考える必要はないが、それぞれかなり異なる歌唱法(この座談会での次の話題となる)の歌手たちを包摂して「演歌」なるものが流行歌の「本筋」として存在し、それを「日本人の心の歌」と呼ぶような構えが、記事の送り手側に明確に存在していたことをうかがわせる。

 続いて『近代映画』4月号には「“艶歌調”ブームをめざす〈三匹の若い侍たち〉」という記事が掲載される。リード文は「ことし一九六五年の歌謡界をリードするのは新演歌調路線―各レコード会社はベテラン、新人を総動員、ブームをめざして大進軍を開始しました」というもの。タイトルの書き文字では「艶歌調」だが、リードや記事の中では「演」の字が使われている。そのあたりの用字法が確定していないことをうかがわせるが、用字制限の問題が関係しているのかもしれない。

 ここでの「三匹の若い侍」は井沢八郎、新川二郎、そして北島三郎である。前年にデビューし大ヒットを放った前二者に対し、サブちゃんはこの三人の中で唯一、実際の「流し」出身。ちなみに井沢は歌手を目指して青森から上京し作曲家に弟子入りしており、新川は、石川県金沢市のヘルスセンターで歌っているところを巡業中の村田英雄にスカウトされた(ただしこの記事では、巡業中に村田に弟子入りを志願したとされる)。サブちゃん紹介パートは次のように書き出される。

 

 北島三郎、北野登美夫、小高林太郎、柴田錦吾といった演歌調歌手が、いずれもかつては東京・渋谷の盛り場を流して歩いた―というわけで、最近の渋谷界隈は、トラックの運転手、床屋さん、お手伝いさんといった歌手志望の若い人たちでたいへんな賑わい。

 このブームの先鞭をつけた北島三郎さん(本名・大野実[ママ、正しくは穣]、北海道出身)が、無名時代の五年間を流しの演歌師として送り、「渋谷の大ちゃん」として知られた名物男だった話しは、もはやあまりにも有名です。

 

 恥ずかしながら、サブちゃんのエピゴーネンがこんなにいたことは今回調べるまで知らなかった。小高林太郎は、かつて先輩の北島とコンビを組んでいたという触れ込みで売り出されていた。北野登美夫は、レコードデビュー後に全国を「流し」で行脚するというプロモーションを行っている(『週刊平凡』4月8日号)。同年末にも、「北島先輩よろしく」と題された銀座の流し出身という白浜章の紹介記事が掲載されている(『週刊平凡』11月25日号)。北島三郎が、レコード産業の中で「流し出身歌手」のロールモデルとなっていたことがはっきりとわかる。

「流しの演歌師」と「お座敷小唄」の残り香

 こうした「流し」出身レコード歌手の氾濫や、「最近の渋谷界隈は(略)歌手志望の若い人たちでたいへんな賑わい」という記述は、レコード業界内での「流し」への注目を示すものだが、その反面、「流し」という稼業の側から見れば自立性の喪失とレコード産業への従属が強まってゆく傾向を表しているようにも思える。実際、当時は「流し」という業態の衰退期でもあったようだ。

 4月3日の読売新聞には、「‛時代’に流される演歌師」というコラムが掲載されている。「ここ数十年間、最低四十人はいたといわれる銀座の流しが、ことしから、半分に減ってしまった。新宿、渋谷、池袋などの盛り場でも大同小異。かつての演歌師のメッカ・浅草がさびれてからもう久しい」という。現在の演歌師は「盛り場の監視を兼ねた暴力団のヒモつきと、芸道修行者の二つのグループがあるといわれて」おり、「今の世に、唖蝉坊(あぜんぼう)のような反骨の士はいない」と過去の「起源」に言及し、現状との差異を強調する。現在の演歌師の衰退の原因は、「暴力団締め出しのムードもさることながら、第一の原因はやはり不況の余波」という。「三曲二百円が相場」だが、「気ぐらいの高い銀座では」「千円札のお釣りは、みんなチップ。ところが、社用族は例外なく経費削減」、加えて「近ごろはジューク・ボックスを備えつける店もふえた」ため、「一曲二十円、三曲五十円。ずっと格安」に楽しめる。さらに、演者の側では、「むかしとちがって、歌謡学校もふえてきた。大衆に接して、おのれの芸をみがかなくとも、専門の学校に入学したり、プロダクションに所属したほうが、ずっとデビューが早い」とされる。演歌師がレコードデビューを目指すことが自明視されていることがわかる。

 この記事からは、「不況時には演歌がはやる」というお気楽かつ根拠薄弱なレコード会社の宣伝とは裏腹に、オリンピックに際しての暴力団の排除とその後の不況によって、現実の業態としての「演歌師」が窮地に陥っていることがはっきりとわかる。のみならず、ジューク・ボックスによる流行歌のレコード自体が、演歌師の仕事を奪っているともいえる。もしかすると、「暴力団のヒモつき」でもあった実際の「流し」稼業に由来する種々のリスクやスティグマを、もはやそれほど考慮しなくてもよい程度に衰退しつつあったからこそ、レコード会社は「流し」の「古き良きアウトロー」のイメージを、「演歌」のなかに安心して流用・搾取することができた、と考えることもできるかもしれない。

 同様のことは、「お座敷」についてもいえるだろう。つまり、「お座敷小唄」と題された特定の曲が受け入れられる、ということは、「お座敷での宴会」自体がもはや当たり前ではなくなったことを示しているのではないか。

 試みに「お座敷小唄」で国会図書館デジタルコレクションのキーワード検索を行うと、マヒナのレコード以前に、お座敷で歌われる小唄の類を総称して呼ぶ用法が多く見られる。マヒナの「お座敷小唄」は、その意味で、レッド・ツェッペリンの「ロックンロール」や憂歌団の「ザ・エン歌」やザ・ブームの「島唄」などと同様、類概念をあえて固有名詞として用いたかなりトリッキーな曲名といえる。それが示しているのは、上記の例と同様、その類概念を自明なものとしない受け手をターゲットにレコードが制作されている、ということだろう。

 そもそもお座敷で気の利いた小唄を歌うことが常態である芸能者や客にとっては、「お座敷小唄」という呼称自体が、種目名にせよ曲名にせよよそよそしく感じられるのではないか。類概念を示すのであれば単に「小唄」で十分だし、そこに含まれる特定の曲は「ナントカ小唄」(あるいは「ナントカ」のみ)で示すのが自然だろう。焼きそば入りのお好み焼きを「広島風お好み焼き」と呼び、出汁につける玉子の多いたこ焼きを「明石焼き」と呼ぶのは、広島や明石以外の人だ。曲としての「お座敷小唄」が実際に花柳界発祥であったとしても、それを「お座敷小唄」という曲名でレコード化することはかなり異例なことのように思える。

 さらにいえば、「お座敷小唄」や、そのフォロワーといえる「まつのき小唄」には、従来の小唄調や音頭調の流行歌にはつきものだった囃子詞(はやしことば)(ないしは各連に共通する繰り返しの文句)が含まれていないことも気になっている(庶民的な音曲における囃子詞の重要性については、『歌う日本語:歌謡曲の言語と文学』[文学通信]という日本語学系の論文集に寄稿した「囃子詞の近代音曲史」を参照されたい)。

 たとえば、同じく作者不詳の巷の歌である「ブンガチャ節」の「キュキュキュ」「ブンガチャッチャ」が、強烈に巷の下世話な香りを放っているのとは対照的だ。この囃子詞が実際の流し時代の仲間によって吹き込まれていることは、初期のサブちゃん紹介記事でも強調されている(『近代映画』1963年5月号)。同じく1962年発売の五月みどり「一週間に十日来い」も「トコトン」が連呼される。合いの手や唱和に不可欠な要素といえる囃子詞の不在は、「お座敷小唄」が、「お座敷」をモチーフとしていながら、録音物としてはお座敷や酒場での実践の感覚とは切断されたものとして構成されていることを示しているように思える。

 ハワイアンの楽器編成を伴うコーラスグループであるマヒナスターズによる、1961年にフィリピン経由で大流行した「国産ラテン」であるドドンパのリズム(拙著『踊る昭和歌謡』[NHK出版新書]を参照のこと)を強調した絶妙な和洋折衷の演奏が「お座敷小唄」の大ヒットの理由の一つだったと思われ、私自身も大好物なのだが、その一方で、巷のはやり歌の本質的な特徴であり続けてきた囃子詞がそこから欠落していることは、「うた(うこと)」に関する庶民的・日常的な感覚の大きな変容を示しているようにも思える。

 つまり、「流しの演歌師」にせよ「お座敷」にせよ、現実においてはすでに過去のものになりつつある状況において、その雰囲気がレコード業界に流用されたといえるのではないか。その意味では、1960年前後の「浪曲調」も同じ構図といえる。その前の「民謡調」についても同じ図式が成り立つかについてはもう少し検討の余地があるようにも思えるが、ともあれ、戦後~高度成長期を通じて、従来それぞれ別の文脈にあったさまざまな音曲的実践のエッセンスまたは残り香を、そもそも新しく人工的で産業的な(それゆえ半ば必然的に都市的な)歌の形態である流行歌に取り入れることで、レコードを前提とし、それに媒介される「うた」の領域が、世代や地域を超えて拡大してゆく。それらを束ねる便利なタグが1965年においてはたまたま「演歌」ないし「演歌調」であった、ということだろう。

「古い歌謡調=演歌」と「新しい歌謡調=リズム」

 ただし、レコード会社が仕掛けた「1965年の演歌ブーム」は、業界側が期待したほどの成果を挙げられなかったようだ。

 早くも『キネマ旬報』1965年4月上旬号では「歌謡曲を斬る」という大規模な特集が組まれ、低年齢層を狙った歌手の粗製乱造やレコード会社の商業主義を批判している。「お座敷小唄」のレコード売上二百万枚突破記念パーティの様子から始まるルポルタージュ「流行歌という怪物」では、次のように指摘される。

 

 ことしは演歌時代といわれて、大量の演歌が市場に出ているが、レコード会社、一部ジャーナリズムのアピールにもかかわらず演歌は迎えられていない。演歌時代を見越して、大型新人として大宣伝を行って売り出した小高林太郎(ビクター)は、レコード出荷枚数の半数以上が、消化されないままストックとなっている。

 レコード会社及びこれに便乗するジャーナリズムの懸声だけでは動かされないのも大衆=流行歌支持者である。

 

「レコード会社のお仕着せだけに満足するほど一般のファンたちは単純ではなかった」という評言は、朝日新聞1965年12月22日夕刊掲載の「トピックスその後② 流行歌」にも見られる。前述の「来年は演歌ブーム?」記事に対応する「クイズ☆正解は1年後」的な連載企画で、「昨年末の“流行歌予報”によると、一九六五年は演歌調が大いに浸透するということだったが…その予測は天気予報と一緒でかならず当るとは限らなかった」とまとめられている。ただし、テレビ主題歌として人気を取った美空ひばり「柔」の人気を、東海林(しょうじ)太郎のLPと同様の「古い歌謡調に対するファン心理」と位置づけ、また「お座敷小唄」以降の「宴会ソング」の堅調な人気に触れて、「こうしたお座敷ものも広い意味の演歌だと制作側ではいう」とする。そのうえで、橋幸夫や舟木一夫の「リズムもの」をとりあげて「演歌を古い歌謡調というなら、これは若人の新しい歌謡調なのだろう。しかもこのリズムは古い歌謡調のなかにぐいぐいと食い込んでいる」とする。

 ここで重要なのは、「演歌ブーム」が実現したかどうか、ということよりも、浪曲調やお座敷調など相異なる曲調を「演歌」という語で束ね、それらをひとしなみに「古い歌謡調」として「新しい歌謡調」と対比する、という新しい用語法が、業界内に定着し始めた、ということだ。

 ちなみに、この記事と同じ面では、正月映画「エレキの若大将」の批評とドイツ出身の双子デュオ「ケスラー・シスターズ」の来日公演評が掲載されている。一見すると当時の「ポピュラー(洋楽)」への傾斜がうかがえる配置だが、米英中心のフォーク/ロック体制以前の主流的ショービズの国際性をもうかがわせる。

 ヨーロッパ版ザ・ピーナッツというべきケスラー姉妹は、来日ステージでは、当時「無国籍歌謡」とも呼ばれたカンツォーネ風の日本製楽曲「ウナ・セラ・ディ・トーキョー」も歌ったというが、彼女らはイタリア版「夢であいましょう」といえる国営放送RAI制作のアメリカナイズされたショー番組Studio Unoのオープニングテーマ“Dadaumpa”を歌ったことで知られている。これはまさしく「お座敷小唄」と同じドドンパなのだ。そう考えると、「古い歌謡調=演歌」と「新しい歌謡調=リズム」という対比自体がかなり恣意的なものであることが改めて痛感される(ちなみに「エレキの若大将」も今の視点で見ると途中の営業シーンの「日光和楽踊り」の演奏が最もカッコいいような気がする、というとさすがにへそ曲がりがすぎるだろうか)。

 

*次回「1965年の北島三郎(2)」は近日公開予定です。

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考える人とはとは

 はじめまして。2021年2月1日よりウェブマガジン「考える人」の編集長をつとめることになりました、金寿煥と申します。いつもサイトにお立ち寄りいただきありがとうございます。
 「考える人」との縁は、2002年の雑誌創刊まで遡ります。その前年、入社以来所属していた写真週刊誌が休刊となり、社内における進路があやふやとなっていた私は、2002年1月に部署異動を命じられ、創刊スタッフとして「考える人」の編集に携わることになりました。とはいえ、まだまだ駆け出しの入社3年目。「考える」どころか、右も左もわかりません。慌ただしく立ち働く諸先輩方の邪魔にならぬよう、ただただ気配を殺していました。
 どうして自分が「考える人」なんだろう―。
 手持ち無沙汰であった以上に、居心地の悪さを感じたのは、「考える人」というその“屋号”です。口はばったいというか、柄じゃないというか。どう見ても「1勝9敗」で名前負け。そんな自分にはたして何ができるというのだろうか―手を動かす前に、そんなことばかり考えていたように記憶しています。
それから19年が経ち、何の因果か編集長に就任。それなりに経験を積んだとはいえ、まだまだ「考える人」という四文字に重みを感じる自分がいます。
 それだけ大きな“屋号”なのでしょう。この19年でどれだけ時代が変化しても、創刊時に標榜した「"Plain living, high thinking"(シンプルな暮らし、自分の頭で考える力)」という編集理念は色褪せないどころか、ますますその必要性を増しているように感じています。相手にとって不足なし。胸を借りるつもりで、その任にあたりたいと考えています。どうぞよろしくお願いいたします。

「考える人」編集長
金寿煥

著者プロフィール

輪島裕介

1974年石川県金沢市生まれ。音楽学者。大阪大学文学部・大学院人文学研究科教授。専門はポピュラー音楽研究、近現代音曲史、アフロ・ブラジル音楽研究。東京大学文学部、同大学院人文社会系研究科(美学芸術学)博士課程修了。博士(文学)。2010年に刊行した『創られた「日本の心」神話 「演歌」をめぐる戦後大衆音楽史』(光文社新書)で、2011年度の国際ポピュラー音楽学会賞、サントリー学芸賞を受賞。著書に『踊る昭和歌謡 リズムからみる大衆音楽』(NHK出版新書)など。Twitter:@yskwjm

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