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北島三郎論 艶歌を生きた男

2026年7月1日 北島三郎論 艶歌を生きた男

第10回 1965年の北島三郎 (2)「帰ろかな、帰るのよそうかな」:望郷の変貌

著者: 輪島裕介

2022年にデビュー60周年を迎えた北島三郎。日本の演歌界をリードしてきた不世出の歌手の名前と、「函館の女」「与作」「まつり」といった代表曲を知らぬ人はいないでしょう。しかし、そのキャリアや音楽的功績について、どれだけの人が正しく認識しているでしょうか――。著書『創られた「日本の心」神話』で、演歌というジャンルの“起源”に鋭く斬り込んだ音楽学者が、「北島三郎とは何者か」という壮大な問いに挑みます。

放送局主導の健全な大衆歌謡

 前回最後、ケスラー姉妹のドドンパからやや強引に「夢であいましょう」に言及したところで、1964年12月に同番組の「今月のうた」として放送された「帰ろかな」の話に移ろう。

 「帰ろかな」のレコード発売は1965年4月で、3月発売の「兄弟仁義」の次だが、テレビを通じて多くの人目に触れたのは「帰ろかな」のほうが早い。いうまでもなくサブちゃんの最重要レパートリーのひとつで、これまで紅白でも7回歌われ、1973年と1992年には大トリで歌われている。1973年はサブちゃん初の大トリだ(この年は美空ひばりが諸事情で辞退した)。もちろん私も大好きだが、個人的には、分厚い合唱を配し童謡「七つの子」をアンコに入れた紅白バージョンはちょっと大仰すぎて鼻白むところもないではない(世代的に「カラスの勝手でしょ」に自動変換されてしまうこともある)。その後、アマチュアの作曲公募番組「あなたのメロディー」入選作「与作」(1978)や、「みんなのうた」の「北風小僧の寒太郎」(1982年版)、アニメ「おじゃる丸」の主題歌「詠人(うたびと)」(1998)など、NHKとの関係で「国民的」な認知を得る楽曲を多く歌うことになるサブちゃんだが、最初のNHK由来の楽曲がこの「帰ろかな」だった。

 念のため説明しておけば、「夢であいましょう」の「今月のうた」は、番組の放送作家の永六輔と音楽担当の中村八大が番組のために毎月新曲を書き下ろす企画。「上を向いて歩こう」や「こんにちは赤ちゃん」や「遠くへ行きたい」など、レコード化され大ヒットまたはスタンダード化した曲もあるが、基本的には放送のために作られる曲であって、「俗受け」を狙わない高尚な曲調のものも多く、またレコード発売されるとも限らない。放送局主導で俗悪な流行歌に代わる健全な大衆歌謡を創出する、という、昭和10年代から続く放送音楽の理念に連なり、当時、一定の成功を収めていたといえる。第6回でも触れたように、1963年に「こんにちは赤ちゃん」がレコード大賞を獲得したことは、従来の俗悪で商業的なレコード会社製流行歌から、放送と芸能プロダクションが主導する清純で健康な「ホームソング」への覇権の移行、と解釈され話題となった。

 いうまでもなく「夢あい」の「今月のうた」に北島三郎のような「艶歌調」の歌手が起用されたことはそれまでになく、「こんにちは赤ちゃん」のレコード大賞受賞からわずか一年のうちにかなり大きな変化が現れたことになる。もちろんそうした変化は、北島三郎の歌唱自体の魅力によって、また永六輔や中村八大の趣味や感覚によって促された部分もあるにちがいないが、巨視的にみれば、少し前までは、テレビの「敵」とまではいわないものの少なくとも積極的に差異化を図るべき対象であった田舎風でややアウトローがかった歌手や曲調を、放送局主導の楽曲制作のなかに取り込みうる、または取り込む必要があるほどに、階層や地域や世代を超えてテレビ的な公共性の影響圏が拡大した(しつつある)ことを示しているようにも思われる。

「六・八・三トリオ」

 「帰ろかな」のレコード発売を報じる『近代映画』1965年3月号「六・八・三の新トリオで!」と見出しが付された記事では、「特に北島三郎のために書き下ろされたという問題作」とされ、「これまでの二人の作品傾向は、日本の流行歌といっても、つねにポピュラー的な感覚の作品が多く、今度ははじめて艶歌調歌手、北島のための“艶歌”を手がけたというところが話題ともなっている」と説明される。一応説明しておけば、坂本九を含む「六・八・九」に対する「新トリオ」である。記事によれば、中村と北島は、数ヶ月前に巡業中に偶然出会い、北島が「僕の曲も書いてくださいよ」と頼み、中村が「君の巧さには感心しているんですよ。できたら僕のレパートリーを広げる意味でもそのうち書かせてもらいますよ」と受けたことが作曲のきっかけとなったという。

 興味深いのは、この曲が作曲され「夢あい」で歌われたとき、六・八コンビは二人とも東京を離れていたということだ。中村八大は「上を向いて歩こう」が改題された「SUKIYAKI」の世界的大ヒットを受けて、1964年8月から1年間の長期休暇でニューヨークに滞在していた。一方、永六輔もオリンピックの喧騒を避けて大阪に拠点を移し上方芸能の研究に没頭し、その成果がやがて近代芸能史を彼の視点で一望した著書『わらいえて:芸能100年史』(1965)に結実する。

 「帰ろかな」は、それぞれ「異郷」に暮らす二人が東京と故郷の間で揺れる上京者の心情をモチーフに作った曲を、「苦労の末成功した北海道からの上京者」である歌手が歌った、ということになる。ただし、永が中村に送った当初の歌詞は「帰ってこいよ」というもので、むしろ永から八大に「帰ってこい」と呼びかけるようなものだったが、中村が曲をつけて送り返してきた楽譜で「帰ろかな」に変更されていたという。このあたりの経緯は、六・八コンビの「上を向いて歩こう」や「黄昏のビギン」に関する見事な評伝を著した佐藤剛によるエッセイ「冬のカナダを旅した中村八大がニューヨークに戻って作った「帰ろかな」(北島三郎)」を参照されたい。

 中村八大が約10か月のアメリカ滞在を終えて帰国したことを報じる『週刊サンケイ』7月5日号の記事は「ジャズと艶歌と中村八大と」と題されており、「ジャズ」と対比される「日本的」な大衆音楽の総称として「艶歌」の語が用いられている。コラム記事の半ばで「北島三郎をほめる」という小見出しが立てられており、日本におけるアメリカ音楽受容の貧しさを批判した秋吉敏子と対比して、「北島三郎という歌手を、「うまい歌手だ」と賞賛する中村八大の考え方は注目されるべきだろう」とし、目下の「艶歌ブーム」を擁護する方向で中村の談話が紹介される。

 「“夢であいましょう”で北島三郎君が歌ってくれた“帰ろかな”はたいへんなうまさで本当にびっくりした。譜面だけであれほどうまく歌うとは思わなかった。小澤征爾さんもこれが一番いいといってくれましたよ」と笑う彼である。

 「流行歌に対する偏見が日本では多いが、私はそうは思わない。スペインで聞いた歌のいくつかがきわめて艶歌的であったけれど、確かに艶歌というのは日本的な個性のある音楽といえると思う」と彼はためらいなく流行歌を肯定するのである。

 9月ごろから仕事を開始するというのだが、アメリカ的なものと、日本の風土的なものが、中村八大の中で、どのような統一をとげるか興味深い。

 ここでは「スペインで聞いた歌のいくつか」を補助線として、つまり国際比較の視点を導入したうえで「艶歌」と「日本の風土的なもの」が結びつけられている。こうした視点は、東京オリンピックを契機に、国際的な枠組の中で、旧来は単に旧弊や封建残滓として、いわば普遍を体現する「西洋近代的なもの」に対する劣位と考えられていたような心性や表現が、肯定的な「日本らしさ」の表現として再評価されていく当時の雰囲気を感じさせる。青木保が『「日本文化論」の変容』で論じたように、「日本人」ないし「日本文化」を語る言説が、「歴史的相対性」の認識を経て「肯定的特殊性の時代」へと転換してゆく過程がはっきり読み取れる。

やればやれそな東京ぐらし―望郷歌謡の変質

 1964年の12月、つまり昭和30年代の最後の月に放送された「帰ろかな」は、六・八コンビの異色作であると同時に、農村から都会への急激な人口移動を背景として昭和30年代に量産された「望郷調」歌謡の掉尾を飾るものといえる。寺山修司や見田宗介(みたむねすけ)から藤井淑禎(ひでただ)『望郷歌謡曲考』まで、これを扱った文章は硬軟とりまぜて枚挙に暇なく、屋上屋を重ねるには及ばないが、ごく基本的な事項を確認しておく。これは田舎の故郷と都会の間で分かれて暮らす家族や恋人の間の心情的な紐帯を主題とした歌謡を指し、北島の師匠である船村徹とその盟友で夭折した作詞家高野公男が作り春日八郎が歌った「別れの一本杉」(1955)や、「民謡調」の第一人者である三橋美智也の「リンゴ村から」(1956)などを雛形とするもので、後の「演歌」ジャンルの重要な構成要素となってゆく。

 「望郷」という主題自体はすでに定番ではあったが、「帰ろかな」はその変質を示している点が興味深い。つまり、「帰ろかな、帰るのよそうかな」という揺れる心情が、「やればやれそな東京ぐらし」という認識を介して、曲の最後では「帰ろかな、迎えに行こうかな」と変化してゆく。故郷に帰るかそれとも東京に親を呼んで一緒に暮らすか、という選択が可能な、いわば余裕のある状況での逡巡は、従来の望郷調歌謡の切実さや悲壮感とはかなり異なっている。

 こうした「望郷」の変質は、同じ1964年に大流行し、「お座敷小唄」と並んで翌年の「演歌ブーム」の仕掛けの大きなきっかけになったと考えられる井沢八郎「あゝ上野駅」、新川二郎(前回同様、当時の表記に従う)「東京の灯よいつまでも」の二曲からも看取できる。

 「あゝ上野駅」では、「故郷」そのものではなく「故郷の香り」を乗せた列車が発着する上野駅への心情を主題としており、上野駅から始まった東京での「くじけちゃならない人生」を、「お店の仕事は辛いけど」といいつつ「胸にゃでっかい夢がある」と肯定するものだ。曲間のセリフでは「今度の休みには必ず帰るから」と、帰省が容易とは言わずとも可能であることが示される。この曲は、『家の光』誌上で歌詞を一般公募した曲を毎朝帯番組で放送する「田園ソング」の一曲であり、1959年からラジオ放送されていた同番組がテレビでも放送されるようになった直後の歌詞募集によって作られた曲だ。本来、農村向けの「ホームソング」(あるいは労作歌)を創作することを目指していた番組から、農村を離れ東京に出てきた若者を主題としたヒット曲が生まれる、という状況は皮肉だが、ラジオ及びテレビを通じて、農村と都会の音楽的趣味が互いに近づいてきたことを示しているかもしれない。

 一方、新川二郎「東京の灯よいつまでも」では、東京から故郷を思うのではなく、東京での淡い恋の記憶と、外苑や日比谷や羽田の情景が重ね合わせて回想される。歌詞の主体が、単に東京を訪れたのか、それともしばらく住んだ後に帰郷したのかは判然としないが、羽田ということは飛行機移動ができる程度の経済的な余裕があったことをうかがわせる。1964年におけるヒットという点では、北島三郎を凌駕していたと言わざるを得ない二人の若手男性演歌調歌手が歌った二曲は、「帰ろかな」と並んで、「望郷」という主題にかかわる社会的な了解が変容しつつあることを示している。

「ラドレミソ」歌謡の先駆性

 ただし、旋律の鳴り響きの点では、「あゝ上野駅」「東京の灯よいつまでも」の二曲と「帰ろかな」の間の差異は決して小さくない。

 「あゝ上野駅」が「ミーミラーシドシラドミー、ララミドシララファミー」(どこかに故郷の 香を乗せて)という、いわゆるヨナ抜き短音階(ラシドミファ)、「東京の灯よいつまでも」が「レミレーミレドラソミーラソ、ドーレミソソレドー」(あゝ東京の灯よ いつまでも)とヨナ抜き長音階(ドレミソラ)で、どちらもきわめて慣習的な流行歌の旋律であるのに対し、「帰ろかな」は「ミソソミラ、ラドドラレドラソラ」(帰ろかな、帰るのよそうかな)というラドレミソの五音音階(「二六抜き短音階」「民謡音階」などと呼ばれる)で旋律が作られている。

 美空ひばり「リンゴ追分」(1952)や三橋美智也「達者でナ」(1960)など、「帰ろかな」と同じ音階で作られている佳曲はそれまでにも存在するが、一般的な流行歌では「ヨナ抜き」の長短音階が圧倒的に多く、そのことはしばしば、多くの西洋音楽系批評家や学者によって流行歌が音楽的に単純で低級であると断じる根拠となってきた。

 それに対して、民謡で多用される「ラドレミソ」については、民族音楽学者の小泉文夫が、日本の基層的な民族性を唯一体現する音階であるとする主張を1950年代末から行っていた。加えて、この音階はブルースをはじめとするアメリカ黒人音楽で多用される「ブルーノート」を含む五音音階とも共通する(典型的にはアート・ブレイキーの「モーニン」など)。「ドレミソラ」と「ラドレミソ」は、構成音は同じながら、その和声及び旋律的な意味合いにおいてはかなり大きく隔たっていたのだ。

 中村八大が批評家や音楽学者の音階論やそれに基づく流行歌批判の文脈をどの程度意識していたかはわからないが、日本の民謡とアメリカのブルース系音楽の音階的な共通性が、「帰ろかな」作曲の発想の源のひとつだったのではないかと思われる。

 あくまでも傍証だが、「帰ろかな」のB面には、1963年12月の「今月のうた」で丸山明宏(現・美輪明宏)が歌った「誰も」のサブちゃん版が収録されている。一聴して笑えるほどデイヴ・ブルーベック「テイク・ファイヴ」そのままの5拍子(3+2拍子)リズムで、同曲のテーマともかなり近いラドレミソ五音音階のメロディで作られている(変拍子をさらりと歌いこなすサブちゃんはさすがだが、この手のニヒルを気取った曲はやはり丸山明宏のほうが似合う。以前CSで再放送された「夢であいましょう」での歌唱は素晴らしかった)。さらに連想を働かせると、「テイク・ファイヴ」のイントロのコード・リフは「帰ろかな」のそれにも似ているように思えてくる。

 なお、1960年代末以降、おそらくはアメリカ黒人音楽やアメリカで成功したセルジオ・メンデス(セルメン)のボサ・ノヴァの影響下にラドレミソ系の流行歌が多く現れ(典型的には美空ひばり「真赤な太陽」やピンキーとキラーズ「恋の季節」など)、それを小泉文夫は、明治以降ヨナ抜きによって歪められてきた日本の音楽的な民族性の地金が現れた、と解釈して肯定的に捉えた。その認識は、『歌謡曲の構造』としてまとめられるその後の彼の歌謡曲論の骨子をなすものだが、同じく音階を重視する近代日本大衆音楽史である佐藤良明の『J-POP進化論』(のち『ニッポンのうたはどう変わったか』と改題されて文庫化)は、そこにアメリカ黒人音楽の影響をより強く聞き取っている(音階論についての私の考えは同書の文庫版のための解説にまとめている)。

 いずれにせよ「帰ろかな」は、ひばりやピンキラに数年先立つラドレミソ歌謡といえ、そのこともサブちゃんの先駆性を示す例として興味深い。とはいえ「帰ろかな」に先立つ1964年8月の橋幸夫「恋をするなら」(吉田正作曲)も、後半ではラドレミソ以外の音も用いているが前半の旋律はラドレミソだけで構成され、その「元ネタ」になったのではないかと推測されるアメリカのアストロノウツのエレキ・インスト「太陽の彼方に」は実にラドレミだけでできている。元のインスト盤に無理矢理「のってけのってけ」という歌を重ねた日本オリジナル盤も有名だ。「帰ろかな」は、先述のように「リンゴ追分」「達者でナ」のような民謡調の偉大な先達に連なるものともいえるが、「恋をするなら」と並んで、アメリカから押し寄せる新たなラドレミソの波に反応した最初期の国産楽曲の例ともいえる。

 1970年代以降、流行歌で用いられる音階が「ヨナ抜き」に留まらず多様化して以降は、歌唱旋律の音階論的分析それ自体はさほど有効ではないと私自身は考えているが、「まつり」がラドレミソで作られていることも一応指摘しておく。さらに付言すれば、1965年12月の「今月のうた」では、再びサブちゃんが起用され「男の歌」を歌っている。これはラシドミファのヨナ抜き短音階で、この音階は中村八大の作風とは合わないことが痛感される、と言わざるを得ない。そのB面「恋のカクテル」は、セルジオ・メンデス&ブラジル66を意識したと思しきボサ・ノヴァのリズムを取り入れた和声的短音階の曲だ。ピンキラ「恋の季節」から平田隆夫とセルスターズ「ハチのムサシは死んだのさ」や敏いとうとハッピー&ブルー「星降る街角」に至るまで、ジャズ風ボサ・ノヴァのリズムに短調の旋律が乗った曲調は、1960年代末以降、レコード会社専属のソングライターに代わって新世代のフリーランス作家が台頭するうえで大きな位置を占めており、こうした「セルメン歌謡」の系譜においてもサブちゃんの先駆性は際立っている。ただし、こちらはサブちゃんの歌う曲調として似合っているとは言い難い。「六・八・三トリオ」がそれ以上継続することはなかったのは残念だが、作風の違いは如何ともしがたかったのかもしれない。

 レコード会社主導の「艶歌ブーム」自体が、六・八コンビを筆頭とする、特定のレコード会社と専属契約を結ばないフリーランス作家の台頭に対する反動的な企図であったとも考えられる。とすれば、一方で既存のレコード業界主導の「艶歌ブーム」を牽引すると同時に、当時のレコード業界的な思惑から逸脱し、「望郷歌謡」のお約束からも離れ、「ラドレミソ」の前景化という点でレコード会社専属制度解体後の時代を予見するような側面を持つ「帰ろかな」を、NHKの色に必要以上にあわせることなくしれっと歌いこなすサブちゃんのしたたかさはさすが、と思わざるを得ない。

 ところで、「夢であいましょう」発の「帰ろかな」は当然のように1965年の紅白でも歌われているが、「艶歌ブーム」が喧伝されたこの年を通じて民放のラジオやテレビで積極的に歌われたのは、前年12月発売の「あばよ東京」だったようだ。「帰ろかな」は「夢あい」の印象が強すぎたのかもしれないし、業界あげての「艶歌ブーム」にふさわしいのは、より一般的な流行歌に近い「あばよ東京」の方だと考えられたからかもしれない。同曲のジャケットはギターを構えた流しスタイルの写真で、B面は「艶歌船」であることから「艶歌ブーム」の尖兵と位置づけられていたことが想像される。恋に破れて一人で旅に出る男の心情を、ヨナ抜き長音階のダイナミックなメロディで歌い上げ、ゆったりとしたテンポでラテン系の打楽器がリズムを刻む「あばよ東京」は、(後知恵だが)「函館の女」の前哨戦ともいえる。ということで、次回は逆巻く波を乗り越えてはるばる行ってみよう。

 

*次回「1965年の北島三郎 (3)「函館の女」」は近日公開予定です。

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考える人とはとは

 はじめまして。2026年7月1日よりウェブマガジン「考える人」の編集長をつとめることになりました、松本太郎と申します。いつもサイトにお立ち寄りいただき、ありがとうございます。

 2002年7月4日、季刊誌「考える人」が創刊されました。

 目次には当代随一の執筆陣がずらりと並び、B5判240ページの誌面の隅々から知の香りが立ちのぼってくるかのようでした。

 当時、入社3か月の営業部員だった私は、見上げるような思いで手に取り、発売日には編集長の松家仁之さんと創刊のご挨拶のために書店にうかがいました。

 まだ書店訪問にも慣れておらず、編集長ともほぼ初対面の中、次のお店の約束の時間に間に合うだろうかと時計ばかりが気になって、終始、そわそわしていました。そんな私に松家さんがやわらかな笑顔で接してくれたこと、そして、新雑誌の門出を祝うようなすっきりと晴れた一日だったことを覚えています。

 あれから四半世紀が過ぎ、ウェブマガジンとして衣替えした今でも、創刊時に掲げられた「Plain living, high thinking(シンプルな暮らし、自分の頭で考える力)」という言葉は古びていません。AIに尋ねれば瞬時に答えが返ってくる時代だからこそ、それらしい言葉に飛びつくのではなく、自分の頭で考え、心の声に耳を澄ませることの大切さは増しているように感じます。

 創刊号には、養老孟司さんのロングインタビューが掲載されています。養老さんはその中で、恩師である中井準之助先生の口癖だった「人の心がわかる心を教養という」という言葉を紹介しています。

 読んだ瞬間に立ち止まり、さまざまな思いが湧き上がってくるような文章に、楽しみながら出会える場であり続けたいと思っています。

「考える人」編集長
松本太郎

著者プロフィール

輪島裕介

1974年石川県金沢市生まれ。音楽学者。大阪大学文学部・大学院人文学研究科教授。専門はポピュラー音楽研究、近現代音曲史、アフロ・ブラジル音楽研究。東京大学文学部、同大学院人文社会系研究科(美学芸術学)博士課程修了。博士(文学)。2010年に刊行した『創られた「日本の心」神話 「演歌」をめぐる戦後大衆音楽史』(光文社新書)で、2011年度の国際ポピュラー音楽学会賞、サントリー学芸賞を受賞。著書に『踊る昭和歌謡 リズムからみる大衆音楽』(NHK出版新書)など。Twitter:@yskwjm

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