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戦争の感性論

2026年8月14日 戦争の感性論

第2回 戦争のリアルはどこにあるのか:銀幕、YouTube、ドローン

著者: 難波優輝

 なぜ人々は戦争をするのか。人は言う、戦争は政治の延長であると。つまり、理性や合理や政治の力学といった、クールな理由で戦争は開始されると。果たしてそんなことはあるのか。戦争に惹かれる人間のありようを、感性の方から分析することで、「戦争的感性」を内側から壊せはしないか。

 本連載は、『物語化批判の哲学』(講談社新書)、『本とは何か』(新潮新書)等の話題作を次々執筆し、今大注目の若手哲学者/美学者・難波優輝さんによる、戦争の批判美学の試みです。

戦争を伝えることはできるのか

 人間は、戦争に魅入られてきた。昔は絵画、銀幕で、そして、いまはYouTubeで。ここで私が問いたいのは、「それらはリアルなのか」という問いだ。とりわけ、映画、YouTube、そして、「戦争を体験した」人の語り、これらは、戦争の「リアル」を伝えているのだろうか。私は、リアルというものを信じない。私は、私たちの表現や経験を離れた、透明なリアルというものを信じない。それは、たんに私の「美学」というわけではない。むしろ、「リアル」という言葉は、私たちを沈黙させる悪しき力を持っているがゆえに、この言葉をすり抜けようと思うのだ。「君たちは戦争のリアルを知らない」と言うことで、人は、戦争に反対しようとする私たちの声をかき消すことができる。だが、私は、これから、リアルなどどこにもない、と主張したいのだ。

 まず、映画について考えてみよう。戦争のリアルを伝えなければならない、と挑戦した日本の作家たちの姿を(しかしそれはおおむね、国民に戦争に向かわせ勇気づけるためのことであったが)、歴史社会学者の大月功雄『戦争映画の誕生』にみることができる。そこでは、一九二〇年代のモダン芸術の技法をさらに発展させながら、劇作品としての映画と記録としての映画の二つの「リアリズム」をどのように組み合わせたのかが考察されている。

 たとえば、アジア・太平洋戦争の開戦から三ヶ月後、日中戦争開戦から五年間にわたって戦争の「ニュース映画」を観てきた日本人たちは、ニュース映画に飽きてきたという。一九四二年三月一八日の『日本ニュース』に対する反応が映画批評欄でこう記されている。

 

今週のニュースは総じて普通号の感じである。筆者は初日より大分遅れて見たのであるが、既に見たひと数人に「今週のニュースはどう?」と聞いたのに対し「大したことはない」と答えてゐる。第一線に活躍される撮影班の方には申訳ない言葉であるが、映画の観客は映画館に何か新奇なもの、スリル、笑ひなどを求めに来るらしい。〔…〕従つて例へば、実際に撮影されたショットであつても、その画面の意味がまぎらわしいばあいには、むしろ作りものの意味をはつきりしたカットの方が、観客を迷はさない効果のあることを知らなくてはならない。(大月 2025, 219より引用)

 

 大月は「もはや日中戦争の頃とは異なり、現場のカメラマンをして戦争の現実を『工夫』なしに『ありの儘』で撮影して来ることを許さない声さえ高まっていた」とまとめている(大月 2025, 219)。ただたんに現実の戦争を記録した映像では、もはや市民は盛り上がりはしないのだ。このグロテスクにさえ思える、私たちの感性というものについて真剣に考える必要がある。

 ここでは、「戦争の現実」に迫ることは、必ずしも、それが人々に「リアルさ」を感じさせるわけではないということ、もし感じさせたとしてもそれが「迫真性」というもの、あるいは「生々しさ」という美的性質を生み出すわけではないことが明らかにされていることを確認しておきたい。

 ここで美的性質というのは、「かっこよさ」「美しさ」「大胆さ」「クールさ」「親密さ」といった、美的な性質のことを意味する。こうした性質は、私たちが日々出会うものであり、芸術作品に限らず、自然の風景や何気ない通勤・通学の途中でも出会うものであり、さらには、食器や椅子といった道具やインテリアにも感じられうる独特な性質のことである。人々が「リアルさ」というとき、しばしば、それが、「現実の経験と因果的に関わっている」といったような意味で「因果的リアリズム」のことを指すことがある。例えば、戦地で撮影した写真は、戦地という場所と因果的につながっている。それに対して、スタジオなど撮影場で創作した写真は、この種のリアリズムは持たない。だが、人々が惹きつけられるためには、こうした因果的リアリズムだけでは足りない。これに加えて、あるいは独立に、「生々しさのリアリズム」が必要になる。これは、美的性質としてのリアリズムのことだ。因果的なつながりがあるかどうかはさておき、ともかくも「生々しい」と感じられるような性質があるかどうか。それが人が、表現や作品や記録に対して感じる感性的な意味で重要な「リアリズム」であることは間違いない。多くの議論は、この因果的リアリズムと生々しさのリアリズムを混同しているために混乱に陥りがちである。

 戦時中の映画監督たちが「リアリズム」を追って戦地に向かったとき、そのリアリズムというものは、因果的リアリズムのことなのか、生々しさのリアリズムのことなのか、本人にも混じり合って感じ取られていたことだろうと思う。戦後ウルトラマンシリーズによってその名を轟かす、円谷英二による「特撮」もまたこうした因果的リアリズムと生々しさのリアリズムのすれ違う場所だった。

 アジア・太平洋戦争の直前、海軍報道部は次のように悩んでいた。「現代の海戦といふものは水平線の彼方に、それこそまだ軍艦の姿が眼に入らない前から撃ち合ひますので実際は写真にも映画にもならぬのです。…なんとか特殊な技術をもつて撮れないかといつも考へてをつたのですが」(大月 2025, 191-192より引用)。そんななか、「特殊な技術をもつて撮れる」という人物と出会う。それが、東宝の円谷英二その人だった。円谷は真珠湾攻撃の後の翌一九四二年の一月に初めて海軍省を訪れ、制作に対する強い意欲を持ち、プロジェクトを開始した。その成果が映画史に名高い『ハワイ・マレー沖海戦』である。

 特殊撮影の舞台は、東宝第二撮影所内に設営した、一八〇〇坪の巨大な真珠湾セットであった。なぜこのサイズになったのか。それは、敵艦に魚雷が命中した際に湧き上がる「水柱(水煙)」へのこだわりにあった。どれほどこだわったのかというと、できるだけ小さく、なおかつ本物らしく見える水柱を作り、そのサイズに合わせて軍艦の大きさを決定したのだ。つまり、水柱の技術的な制約を起点として、軍艦や海のサイズを決めたほどのこだわりだった。そして、水柱の立ち始めて消えるまでの速度も、撮影速度を速くすることで、重量感を増やしたりとこだわりは重なる(大月 2025, 194-195)。そのおかげか、この四二年一二月三日に封切られた『ハワイ・マレー沖海戦』は、「日本映画史上の最大の観客動員数を記録する大ヒット作となった」(大月 2025, 196)のだ。

 だが、驚くべきことに、円谷は「周囲のカメラマンたちからあのもっともこだわったはずの『水柱』の表現をめぐって苦言を呈される」(大月 2025, 196)。

 

野村 僕は一寸遅いやうな感じがしたんですが。

円谷 水柱はあれでも本当のものより可成り早いですよ。

田中 それは映画的実感からいふと極めておそいものだな。

野村 自爆の落下速度、さういふものが遅いやうな感じがしたのです。

円谷 そうですか。

野村 それは実際は見たことはないからわからないですがね。

〔中略〕

円谷 そうです実際海軍の当時射撃した勇士に指導して貰つて、撮影して見たものは編集が出来ない程、間が抜けてゐました。

横田 そこに劇場的誇張がいるわけですね。

三谷 飛行機も実際のものを撮つたら間が抜けます。やはり少し誇張しないと…。(大月 2025, 197より引用)

 

 円谷は現実の水柱ではなく、技術によって模倣できた水柱をすべての基礎に据えるという意味で因果的リアリズムを達成しようとしたにもかかわらず、その爆発による水煙の速度の遅さを周囲のカメラパーソンによって批判される。想像だが、円谷の内心、憤懣やる方なしといったものではなかったか。円谷は「因果的リアリズムこそが真のリアリズムだ」という前提を内心に潜ませていたはずだ。それがゆえに、わざわざ水柱を基準に軍艦や湾のスケールを決定したのだし、カメラ速度も調整したのだ。

 だが、円谷に対して好き勝手言うように見える座談会の人々の言葉の方が、実は核心を突いている。もし、因果的リアリズムだけが真のリアリズムだとすると、なぜ人々を驚嘆させるような編集が必要なのか。映画や表現そのものの存在意義が失われていく。ほんとうに体験を完全に再現することが目的なのならば、物語も何も必要ない。だが、それが映画や表現である限り、美的性質を作り出すことが目指されている。とりわけ「生々しさ」という美的性質を作りたいと表現者は感じているはずだ。その美的性質の創造は、因果的リアリズムとは、実のところ因果的につながっていない。どれほど作り物であろうが生々しく感じさせるものは作れるのだから。戦時中の監督たちが(あるいは、戦争に反対するために戦争の「リアル」を伝えんとする人々が)誤っているのは、因果的リアリズムと生々しさのリアリズムが全然別の種類のリアリズムであるということを十分に理解していなかったところにある。

ドローンのリアリズム

 いまの最先端の戦争のイメージはYouTubeの、とりわけドローンの空撮・空爆映像にある。ドローン映像を介したウクライナ・ロシア戦争の映像を研究するフランシス・ハンガーは「市販品:ロシアのウクライナ侵攻におけるソーシャルメディア上のオペレーション用ドローン映像の再美学化」という二〇二五年の論文で、二〇二三年に収集した約五〇本の映像戦争を分析している(Hunger 2025)。ハンガーが指摘するのは、軍事上のオペレーション用のドローン映像がTwitter/X、Telegram、YouTubeなどのSNSに投稿される際に、軍のロゴや勇壮な音楽やナレーションなどとともに、長い作戦映像の一部を切り出すなどの複数の編集がなされることで、単なる作戦用の映像が、見栄えのするものになっていることだ。その見栄えというものは、ドローンのふつうの使い方、つまり、日常のドローン撮影の見栄えとリンクしている。戦地でインタビューを受けるウクライナ兵士はこう語る。「ウクライナ全土はすでに、我々にどんな『Mavic』〔ドローン〕が必要かを知っている。〔…〕私たちはパイロットの国だ。最高の結婚式、葬儀、出産の〔動画〕が撮れるだろう」 (hromadske 2023, 33:06)。

 ハンガーは、ウクライナ軍によるドローン映像には、三つの映像のジャンルがあると言う。第一に、俯瞰と爆発(overview and explosion)だ。ロシア軍の装甲車両が向こうから接近してくる様子が、数百メートルの高さからドローンの低画質の広角の俯瞰ショットで映し出される。カットは切り替わる。強いコントラストで、ミサイルを発射するウクライナ兵が映し出される。そのミサイルの弾を少しカメラが追尾する。もう一度ドローンの俯瞰ショット別の場所からウクライナ兵が発射したミサイルが命中し爆発する様にズームインしていく。ヒップホップをモチーフにした音楽が流れている。ここで、ハンガーは、民間人が撮影するふつうのドローンと比較してこう述べる。「インフルエンサーによるドローン飛行が自然や文化的景観の美的効果に焦点を当てるのに対し、戦争映像は破壊の崇高さを狙っている」。美しい自然、雄大な自然を俯瞰するショットは、ドローンあるあると言えよう。それをウクライナ軍のドローン編集映像も踏襲しようとしている。だがもちろん、戦場は美しくも雄大でもなく、「土壌の長年にわたる汚染を示す農地の暗いクレーター、金属によって傷つけられた木々、 かつての都市が破壊され、居住不能となった姿が、軍事暴力の露骨な描写と組み合わさっている」。その汚れた崇高さを美的に魅力的なものだとして、人々の目を奪うことがここでは目指されていると言えるだろう。

 第二に、真上からの視点、とりわけ、手榴弾の投下(from above―grenade drops)だ。例えば、逃げるロシア兵の姿を追跡するドローン映像がある。高画質で、鮮明、コントラストも十分にある。ドローンが兵士の周囲を旋回し、やがて、その真上に位置づけられ、手榴弾を投下し、爆発が起こる。「冒頭のシーケンスは、インフルエンサーの動画を彷彿とさせるような飛行による接近で構成されている」。注目すべきは、こうした映像が、インフルエンサーがYouTubeに投稿する他の普通のドローン映像と同じく、映っている人間への距離の近さ、「親密さ」を生み出していることにある。メディア論研究者のヘンドリック・ベンダーとマックス・カンダースケは、「個々の兵士の苦痛を浮き彫りにすることで、その映像は視聴者と戦争の犠牲者の間に覗き見的な関係を生み出す」。そして「親密ではあるが、思いやりに満ちたものとはいえない」視線が生まれると主張する(Bender& Kanderske 2024, 152)。

 普通のドローンで人間の喜びの表情を撮影するように、はっきりと、ロシア兵の苦悶の表情までがドローンカメラに収められる。それによって、この映像を観ている人間は、ロシア兵に対して、距離の近さを感じる。だが、それは、普通のドローン映像とは異なり、冷たく、嗜虐的ですらある、残酷な距離の近さの快楽である。まるで、映画の中で、正義の味方によって敵役がやられるのを眺めるような酷い快楽だ。

 第三に、飛行する目(flying eye,flying bomb)である。ドローン自身が爆弾となって、ロシア兵に体当たりし、爆発し、映像が途切れる。他のドローンでその様子が撮影されているカットへと切り替わる。たんに広く全体を眺めるのでもなく、真上から見下ろすのでもなく、ドローン映像が、一人称的に、敵に対して動きながら急速に接近していく。これもまた、多くの非戦闘的なドローン映像でみかけることのできる映像の文法と同じだ。例えば、家を紹介する際に、家中をドローンで飛び回るような映像の快さと同じものだ。それにさらに最後の爆発のクライマックスが付加されている。

 以上、俯瞰、真上からの視点、飛行というドローン映像の文法の指摘は、ドローン映像によるリアリズムというものが、いかに日常的な、非戦闘映像のリアリズムの文法に準拠しているかを物語るものだ。ここで、先ほどの因果的リアリズムと生々しさのリアリズムのずれを再確認できる。ドローンのもともとの作戦用の映像は、全然見栄えがしない。それは退屈であり、生々しくないのだ。もちろん、その作戦用の映像の方が、因果的には有用であろう。どのくらいの時間が経ってから、どのような経過を経て接敵し、攻撃がなされ、どのような角度で殺害できたのかが分かるほうが、あとで作戦を評価するには使えるだろう。だが、そうした作戦用の映像では、SNSを観ている人間は喜ばない。

 ウクライナ軍によるドローン映像は、まるでゲーム画面のようだ。そこでは、一人の人間であるロシア兵たちが逃げ、呆然とし、ドローンを撃ち落とそうとする。だが、「成功」した映像ばかりが流れているのだから当然だが、彼らは殺害される。その映像は、少なくとも私にとっては「リアル」ではない。そのリアルでなさがいっそう奇妙だ。ウクライナ軍によるドローン映像は、現実の「リアルでなさ」を伝えているようにさえ思われる。ドローンの映像がこれまでのリアルさの映像とはずいぶんと異なる映像の文法に従っているがゆえに、私にとってはリアルではないとさえ感じられるのだ。それはゲーム的過ぎるし、ドローン映像的過ぎるのだ。

戦争体験の真実味

 いや、と反論があるかもしれない。「映画にせよ、ドローン映像にせよ、それらが作り物であることは認めよう、だが、『戦争体験』はどうか。『戦争の語り』や『従軍日記』あるいは『兵士の手紙』といったものは、まさに『リアルそのもの』ではないか。あなたは戦争の語り部の言葉すら否定するのか」と。野上元は『戦争体験の社会学』において、元兵士であった作家たちによる「戦争文学」あるいは「戦争記」の研究を行い、「戦後日本社会において『戦争』についての語りは必ず『体験』や『実感』に参照され、それとの整合性において判定されてしまう傾向を宿命として持っている」と指摘する(野上 2006, 39-40)。なるほど、兵士の語り。あるいは、市民の語りは、もっともリアルなものとみなされるものだろう。それを「作り物」と呼ぶことは、多くの戦争に苦しんだ人々をないがしろにするような発言に聞こえるかもしれない。けれども、私は、私たちの経験が作り物であることをはっきりと見つめることこそが、一人ひとりの経験を真に尊重することに他ならないと考えている。どういうことか。

 例えば、原民喜による原爆の描写をみたい。「夏の花」において、広島で馬車を進んでいく原は、「さっと転覆して焼けてしまったらしい電車や、巨大な胴を投出して転倒している馬を見ると、どうも、超現実派の画の世界ではないかと思えるのである。〔…〕この辺の印象は、どうも片仮名で描きなぐる方が応わしいようだ。それで次に、そんな一節を挿入しておく」と述べて、こう書きつける。

 

ギラギラノ破片ヤ

灰白色ノ燃エガラガ

ヒロビロトシタ パノラマノヨウニ

アカクヤケタダレタ ニンゲンノ死体ノキミョウナリズム

スベテアッタコトカ アリエタコトナノカ

パット剥ギトッテシマッタ アトノセカイ

テンプクシタ電車ノワキノ

馬ノ胴ナンカノ フクラミカタハ

プスプストケムル電線ノニオイ 

 

 原が、「超現実派の画の世界」であると経験し、「片仮名」という言葉のタイプでその経験を示すことを選んだように、私たちの経験に純粋なものなどない。私たちの経験は既に「超現実派の画」を知っている頭と眼によってしか経験しえない。そして、その経験を示すためには、「片仮名」というこれまた特殊な表現を用いることでしか表現できないのだ。ここに確かにリアリズムはある。だがそれは、因果的なリアリズムというよりは、もちろん、生々しさのリアリズムである。

 あるいはもう一つだけ、当時情報将校であった、日本文学研究者ドナルド・キーンは、「敗走した日本軍の遺留品の日記や文書から軍事的に重要な情報を抽出」していた(野上 2006, 117)。キーンは、日本兵士の遺書の日記を眺めて以下のような感想を抱く。

 

 かりに書き手がまだ安全地帯にいるあいだ、つまり日記の初めの部分が、文学的になんの面白味もないものだったとしても、一旦彼が南太平洋に向かう輸送船に乗り込み、アメリカの潜水艦の脅威を感じ出したり、部隊が前線に出撃を命じられたり、あるいは彼自身、マラリアとか、他の熱帯病に罹ったりした時、日記は途端に、ほとんど耐えがたいほど感動的になってくる。こうした場合には、いわゆる美しい章句よりも、平明で、むしろ非文学的な表現のほうが、はるかに効果的なのである。「痛い!」といった単純な叫びのほうが、精妙に使われた比喩などよりも、もっと深く心を動かすのである。(キーン 2011, 24-25)

 

 日本軍兵士の死体から奪った日記を読むキーン、そして、その彼が、「効果的」と呼び「もっと深く心を動かす」と書きつけることの異様さを私は感じつつも、多くの人がキーンのこの記述に納得するのではないか。そう、これこそが「生々しさのリアリズム」なのだ。因果的なつながりではなく、「効果的」かどうか「心を動かす」かどうかが重要なのだ(とはいえもちろん、いくら心を動かそうが、キーンは死体から奪われた日記を盗み見ることをやめはしないし、戦争の調停のために動いたりはしない。人間が読むことで他人に心を動かされたとしても、身体を動かすとは限らない。この点は、『本とは何か』(新潮新書)で詳しく論じたので、ぜひ読んでもらえればと思う(難波 2026))。

 それゆえ、こうした語りに特権的なリアリズムを与えることもまた、深く注意を払うべきだと私は主張したい。なぜなら、私たちの記憶というものは、つねに改訂されて呼び出されるものであるからだ。そしてまた、戦場のまさにそのときに感じたことは、確かにまさにそのときに感じたことであるのは間違いない。だが、その感じたことが、「純粋に」感じたことではない。他でもないその戦場に立った誰かが、これまでの人生経験に基づいてその時に感じたことである。だが、それは、「現実そのもの」というわけではまったくない。生きた血の通った一人ひとりの人間が、同じ戦場であってもまったく異なることを感じていることだろう。それはこの同じ時間を生きているはずの、この文章を読んでいるあなたと、書いている私の間でも、驚くほどに違った経験をしていることからも明らかではないか。もしあなたと私が同じ列島の同じ時間を生きていても、全然違う経験を日々している。だとして、あなたと私は同じ戦場にいたとて、全く同じに感じるだろうか。もちろん、何機の飛行機が襲いかかってきたかを数え合わせることはできるかもしれない。だが、それ以上は、その戦場に絶望したのか、喜んでいたのか、悲しんでいたのか、希望を感じたのか、それはもちろん同じではない。それゆえ、「語り」とはいえ、それは、その作り物の作り方の種類はもちろん違うけれども、作り物性という点では映画やドローンと変わるところはない。既に私やあなたが何かを経験する時点で、私やあなたというカメラが世界を切り取っているのだ。そして、その切り取られた経験を、さらに「言葉」という表現のメディアを用いて語る。さらには、その語り方もまた、私やあなたがこれまで読んできた「言葉」に影響を受けざるを得ない。どのようにこの言葉にできない経験を言葉にするかを試みるとき、私たちは完全に透明な言葉を用いることはできない。不透明な言葉を使って、人に伝わるように経験を語るのだから。それゆえ、私たちの経験それ自体、そして、言葉の語りもまた、作り物なのだ。だが、作り物であることはもちろん、それが虚偽であることを意味はしない。私たちの経験は虚偽などではない。だが、本当でもない。

戦争のイメージ制作の方法

 私たちは、語り口なしでは語ることができない。その語り口は、フィクションや表現や芸術を素材としている。狐が身の回りにいたころは狐憑きが、デジタル技術が発達すると電波が、医学が発達するとマイクロチップが身体に埋め込まれる、という妄想が症状として現れるように、現実はフィクションを始めとする「作り物」なしでは理解することができないのだ。

 だとすると、戦争の映像というものは、「リアル」なものだとみなされるけれど、その映像の「リアルさ」すらも、私たちが馴染んでいる「リアルさの文法」に沿っているからリアルだと感じられるに過ぎない。私たちにとってのリアルは、作り物のリアルさであり、それ以外の作り物ではないリアルというものはない。

 しかし、本論の議論に基づくならば、戦争のリアルとは、どこにも存在しない。私たちがどのように戦争を捉えるかによって戦争のリアルの基準は変わり続けるのだ。

 もちろん、始めからプロパガンダ映画としての機能を担うことを意図されていた国策映画やドローン映像から、兵士の日記にいたるまで、様々なイメージには、作り手の意図に違いはある。けれども、いずれのイメージにしても、私たちは、完全に透明な眼を持つことができないということを強調したいのだ。

 戦争が、勇敢なもの、勇ましいもの、死をもってもやるに値するものである、という「リアル」をどう突き崩すことができるのかが、私たちの課題である。それは、「現実のリアル」を持ってくれば済むという話ではない。戦争の現場に行って撮影すれば、それが「リアル」になるわけではない。むしろ、人々が知っている「リアルさの文法」に従わなければ、それは人々に「迫真性」をもたらすことはないだろう。

 ここで私は、「イメージから離れて現実に向かうべきだ」と言いたいわけではまったくない。私は、「私たちは、イメージなしでは現実を捕まえることはできないし、イメージこそが現実なのだ」と考えているのだ。もちろん、私たちは、五階から落ちれば相当な重傷を負うだろう。だが、私たちは生命を維持しなければならないという欲求とイメージを持っているが、私たち以外の観点からみれば、それはイメージでしかない。私たちにとって重要な一つの構造が破壊されるのは、私たちにとっては非常に重要なイメージであり、「現実」としか言いようがないが、しかし、それは絶対の現実ではない。宇宙からみれば、ほとんどなんの変化も起きていない。そして、私たちにとっての視点とイメージと、宇宙からの視点やイメージは、別にどちらがより「真実」か、などと問うことはできない。すべては私たちの生命や文化から作られたイメージなのだ。

 それゆえ、戦争のイメージというものも、どれが「真実」であり、どれが「現実」であるということはできない。ここで私は、手紙・映画・YouTubeのイメージに抵抗して、本当の戦場を持って来ようとは思わない。そうではなく、よりよいイメージを作り上げること、すなわち、別のイメージを作ることで、戦争を停滞させ、解体させ、戦争を厭わしいもの、ダサいものとみなせるようなイメージを作り上げることが必要になるのだ。

戦争のリアルさをどう解体できるのか

 私たちは、現実に語らせることはできない。私たちは、戦争の「勇猛リアリズム」に対して、別の新しいリアリズムを提示することで、その勇猛リアリズムを真正面から、あるいは裏側から批判し、転換させることなしには、「戦争の勇猛リアリズム」を解体することはできないのだ。現実を持ってくるだけでは足りない。

 では、別の新しいリアリズムとはどういうものであるべきなのだろうか。それは、勇猛リアリズムをどう批判できるものになるべきなのだろうか。その一つの方法は、案外にシンプルだ。それは、作り物がどう作られているのかを明らかにすることである。例えば、現在人々を魅了するYouTubeやSNSコンテンツの一つに「丁寧な暮らし」コンテンツがある。これは、普段の暮らしを丁寧に過ごしているインフルエンサー自身が、何気ない暮らしを撮影して伝えている、という体のドキュメンタリーである、とみなされている。しかし、その実、その映像の撮影現場は奇妙である。なぜなら、家中に三脚が置かれ、台所の上からカメラが調理風景を捉えている家のどこが「丁寧な暮らし」なのだろうか。それは、「丁寧に撮影される暮らし」であり、人の目がどこまでも入り込んだ異常な暮らしである。だが、映像上はとても自然に見えてしまう。まさしく「丁寧な暮らしリアリズム」がそこで発動している。人々は、「こうした暮らしをしたい」と憧れてしまう。あまりにも「リアル」に見えるために、「本当にこういうふうに生きているのだ」と思わされてしまう。そこで、こうした撮影現場がどのようになっているのかを明らかにすることは、一つの解体の試みにはなりうるかもしれない。

 もう少しこの方向を辿ってみたい。技術的な作り物の洗練を、その作り方を知ることで解体するという方向には、そもそも私たちがなぜ作り物の洗練に騙されてしまうのか、説得されてしまうのか、という私たちの認知や知覚をめぐる分析と批判も役立つはずだ。先ほどの丁寧な暮らしの映像は「ドキュメンタリー」とみなされているが、しかし、それは作り物である。長年ドキュメンタリーの哲学を展開してきたカール・プランティンガは、こう言う。「ドキュメンタリーとは、構造化され、媒介され、創造された言説であり、その主張がいかに暗黙のものであれ、ある主張を提示するものである。すべてのドキュメンタリー映画制作には、人間の想像力による作業が伴う」と(Plantinga 2020, 116)。また、もう一人、一九六〇年代〜一九八〇年代に活躍したアメリカの著名なドキュメンタリー映画監督・プロデューサーであるエミール・デ・アントニオは、その頃流行した「シネマ・ヴァリテ」という、手持ちカメラをもちいて取材対象の「ありのまま」を撮影しようとする潮流を批判する。

 

 シネマ・ヴァリテは第一に嘘である。第二には、映画の本質についての子どもじみた思いこみから成り立っている。シネマ・ヴァリテなど笑い話だ。頭が空っぽな虚偽だ。無偏見を約束するなどと。カメラをある方向に据えて作らない映画など、この世にはない。ある意味ではカメラを据えるということは偏見、そして感情を表現するジェスチャーにほかならない。偏見を完全に排除して映画を削除したり編集したりすることなど、できるわけがないのだ。(カミングス 2004, 101より引用)

 

 なぜ私たちは、映像を現実そのものだとみなしてしまいがちなのだろうか。この謎を解く手がかりになるのが、美学者のロバート・ホプキンスによる「崩壊(collapse)」という概念だ(Hopkins 2016)。ホプキンスによれば、写真的フィクション映画には、少なくとも三つの層がある。第一の層は、スクリーン上に現れるイメージだ。第二の層には、そのイメージが実際に記録している撮影現場の出来事がある。俳優、セット、衣装、小道具、照明、演技、カメラの前で実際に生じた動きのことだ。第三の層が、それらによって語られる物語世界である。映像はカメラの前で起きた出来事を写し、その撮影された出来事が、さらに物語上の人物や場所や事件を指し示す。これが三層に重なっている。ここまでは言われてみれば当たり前の話ではある。

 しかし、私たちが映画を観るとき、この三層構造はつねに意識されていない。スクリーンに映る俳優を観ながら、「これは『俳優がセットのなかで演技しているところ』だ」と逐一考えてはいないだろう。「俳優が兵士の格好をして銃を撃つ」のを観るのではなく、「兵士が銃を撃つ」のを観る。つまり、第一の層「スクリーン上のイメージ」と第三の層「物語世界」とのあいだにあるはずの第二の中間層「撮影された出来事」が、消え去っている。ホプキンスはこの現象を「崩壊」と呼ぶ。

 錯覚ではない。観客は、映像を現実そのものと取り違えているわけではない。映画館にいること、スクリーンを観ていること、フィクションの場合ならば、そこに映っているものが作られたものであることも、観客はもちろん分かっている。けれども、単純に第二の層がスキップされる。いちいち「俳優が兵士の格好をしているのだなあ」と思わない。

 これもまた、これだけなら、些細な指摘に思える。けれども、この議論をドキュメンタリーや戦争映像に拡張していくと、映像が持つリアリズムの怪しい力が現れてくる。ドキュメンタリーの場合、私たちはそれをフィクション映画とは異なり、現実の記録として観る。それゆえ、第一に、スクリーンの層があり、第二に、記録された撮影現場がある。そして、第三の層は? それは、ふつうは「現実そのもの」だとみなされている。

 ドキュメンタリーの映像を観るとき、撮影者の位置、編集の判断、被写体の自己演出、カメラの技術的条件といった第二の層は消える。そして、映像の向こうに第三の層である「現実そのもの」が見えているように感じられる。ドキュメンタリーは、フィクションよりもいっそう危険だ。フィクションの場合は、まだしも第三の層が「物語世界」だと分かっていられるが、ドキュメンタリーの場合は、映像に映っているものが完全な現実だとみなされてしまう。ドキュメンタリーを観ているときに「ああ、これは、実際の市民が映っているけれど、この市民は特定のインタビュアー、撮影スタッフたちが作る特定の雰囲気の場所で撮られているのだなあ」と思うことはできない。

 そして、戦争をめぐるドキュメンタリー的映像にもこの危険は通底し、よりいっそう危険な力を発揮する。現実の戦争はそのままカメラに収めることができない。技術的な制限以上に、カメラを撮影する人もまた、どのように戦争を切り取ろうか、と創意工夫をつねに繰り広げているからだ。第二層における工夫。それこそが、アジア・太平洋戦争でも監督たちが腐心したものであった。

 その最新形が、ドローンのカメラであり、そしてそれもまた一つの特有な撮影方法である。戦争を、上空から把握可能な空間として私たちに見せている。ドローンのカメラは、ただ現実を写しているのではない。特定の仕方で、現実を切り取り、強調し、私たちに知覚可能にしている。

 私たちは、つねに第二層の、崩壊してしまう中間層に気づき続けなければならない。あらゆるカメラは、世界に開かれた透明な窓ではない。それは、人間が特定の知覚を作り出すために作った機械であり装置であり人工物である。映像を信じることは、カメラを忘れることだ。私たちは何度もカメラを思い出さなければならない。

 そしてまた、カメラとは、私たちの「言葉」と「語り」であり、私たちの「経験」であり、私たちの「眼球」と「脳」そのものでもある。私たちが世界を認識するのは、透明な眼や透明な経験を介してではない。

 私たちがイメージの制作現場を見ることで、わずかなりとも戦争のイメージの「真実らしさ」を削ぐことができる。そうすることで、戦争のイメージの侵略をすり抜けて、「それは、現実そのものではもちろんなくイメージでしかない。そして、さらには、私たちが掴みたい現実のイメージは別にあるのだ」という考えに向き合うことができるだろう。そのためには、戦争のイメージの分析をさらに展開していく必要がある。こうした、「リアリズム」の批判プロジェクトを、次章では「戦争シミュレーション」というトピックに焦点を当てて、さらに行ってみたい。

 

参考文献

大月功雄、二〇二五年『戦争映画の誕生:帝国日本の映像文化史』人文書院。

野上元、二〇〇六年『戦争体験の社会学:「兵士」という文体』弘文堂。

原民喜、一九九八年『夏の花』岩波文庫。

カミングス、ブルース、二〇〇四年『戦争とテレビ』渡辺将人訳、みすず書房。

キーン、ドナルド、二〇一一年『百代の過客 日記にみる日本人』講談社。

Bender, Hendrik. and Kanderske, Max. 2024. "Consumer Drone Warfare:Practices, Aesthetics and Discourses of Consumer Drones in the Russo-Ukrainian War." in E. Serafinelli ed. Drones in Society. Cham: Springer Nature Switzerland.

Hopkins, Robert. 2016. "Realism in film (and other representations)." Current Controversies in Philosophy of Film. Routledge. 76-96.

hromadske. 2023. «Це найважчий місяць для нас» репортаж з Бахмута. YouTube. Available at: https://www.youtube.com/watch?v=IMLBhxhXIoE.

Hunger, Francis. 2025. "Commercial-off-the-shelf: The Re-aestheticization of Operational Drone Videos During Russia’s Invasion of Ukraine on Social Media." Media Theory 9(1): 225-254.

Plantinga, Carl. 2020. Alternative realities. Rutgers University Press.

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「考える人」から生まれた本

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考える人とはとは

 はじめまして。2026年7月1日よりウェブマガジン「考える人」の編集長をつとめることになりました、松本太郎と申します。いつもサイトにお立ち寄りいただき、ありがとうございます。

 2002年7月4日、季刊誌「考える人」が創刊されました。

 目次には当代随一の執筆陣がずらりと並び、B5判240ページの誌面の隅々から知の香りが立ちのぼってくるかのようでした。

 当時、入社3か月の営業部員だった私は、見上げるような思いで手に取り、発売日には編集長の松家仁之さんと創刊のご挨拶のために書店にうかがいました。

 まだ書店訪問にも慣れておらず、編集長ともほぼ初対面の中、次のお店の約束の時間に間に合うだろうかと時計ばかりが気になって、終始、そわそわしていました。そんな私に松家さんがやわらかな笑顔で接してくれたこと、そして、新雑誌の門出を祝うようなすっきりと晴れた一日だったことを覚えています。

 あれから四半世紀が過ぎ、ウェブマガジンとして衣替えした今でも、創刊時に掲げられた「Plain living, high thinking(シンプルな暮らし、自分の頭で考える力)」という言葉は古びていません。AIに尋ねれば瞬時に答えが返ってくる時代だからこそ、それらしい言葉に飛びつくのではなく、自分の頭で考え、心の声に耳を澄ませることの大切さは増しているように感じます。

 創刊号には、養老孟司さんのロングインタビューが掲載されています。養老さんはその中で、恩師である中井準之助先生の口癖だった「人の心がわかる心を教養という」という言葉を紹介しています。

 読んだ瞬間に立ち止まり、さまざまな思いが湧き上がってくるような文章に、楽しみながら出会える場であり続けたいと思っています。

「考える人」編集長
松本太郎

著者プロフィール

難波優輝

1994年生まれ。美学者、会社員。修士(文学、神戸大学)。専門は分析美学とポピュラーカルチャーの哲学。newQ / 立命館大学衣笠総合研究機構ゲーム研究センター客員研究員 / 慶應義塾大学SFセンター訪問研究員。『SFプロトタイピング』(共著、早川書房)、『物語化批判の哲学』(講談社)、『なぜ人は締め切りを守れないのか』(堀之内出版)、『本とは何か』(新潮新書)など、著書多数。


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