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戦争の感性論

2026年7月10日 戦争の感性論

第1回 戦争の合理性?

著者: 難波優輝

 なぜ人々は戦争をするのか。人は言う、戦争は政治の延長であると。つまり、理性や合理や政治の力学といった、クールな理由で戦争は開始されると。果たしてそんなことはあるのか。戦争に惹かれる人間のありようを、感性の方から分析することで、「戦争的感性」を内側から壊せはしないか。

 本連載は、『物語化批判の哲学』(講談社新書)、『本とは何か』(新潮新書)等の話題作を次々執筆し、今大注目の若手哲学者/美学者・難波優輝さんによる、戦争の批判美学の試みです。

はじめに

 なぜ人々は戦争をするのか。

 人は言う、戦争は政治の延長であると。つまり、理性や合理や政治の力学といった、クールな理由で戦争は開始されると。戦争は必要悪であり、避けるべきものではあるが、しかし、よりひどい状況を避けるための次善の策なのである、と。最終的な合理的解決策なのだ、と。

 そんなことはありえるのだろうか。

 人を殺すことはリアリスティックなのか。組織的な人殺しが理性と合理で説明できるのだろうか。むしろ、人々は戦争に魅せられているがために戦争をする、のではないか。

 私の祖父が徴兵され出征する直前、市街に焼夷弾が降り注いだ。逃げ惑う人々の間で、祖父は死を覚悟した。なので、逃げる途中、誰もいない酒屋の店先で酒樽を見つけて、それを割って飲みまくった。泥酔状態のまま、祖父は火の中を逃げた。焼夷弾の中をふらふらと逃げてきた。その後、出征を前にそのまま終戦を迎えた。今、その結果、私がここに生きている。私は酒を飲むたびに、祖父を救った功績を讃えている。

 何の火器も持たない市民たちを苦痛のうちに殺しまくるための焼夷弾を落とすアメリカ人兵士たちは、シラフだったのだろうか。爆発的に燃える焼夷弾まみれの市街を千鳥足で逃げていく祖父は酔っていたのだろうか。むしろ、逆だったのではないか。戦争の熱に冒された時代は、時代そのものが悪夢的に泥酔していたのではないか。むしろ、酒を飲むことで、祖父はシラフに戻り、逃げ去ることができたのではないか。

 ルイ十四世の大砲には「ultima ratio regum」、すなわち「王たちの最後の手段」という標語が刻まれていたという。戦争は「ratio/理性」的なのだろうか。むしろ、戦争とは、「人民の究極の感性——ultima aesthesis populi」なのではないか。

 私は、戦争に惹かれる人間のありようを、戦争という悪魔的な美に冒される人間を、感性の方から分析したい。つまり、これから「戦争美学(war aesthetics)」を展開しようと思う。

 戦争美学という言葉で、私は戦争を称揚するつもりはない。私がしたいのは、人々がなぜここまで戦争に惹きつけられるのか、その感性のダイナミズムの分析だ。

 ここで戦争についてかんたんに定義をしておこう。「戦争とは、対立する国家や共同体によって組織された集団間、あるいは内戦に動揺する国内の対立する共同体間における、死者を伴う紛争である」(Mann 2023a, 13)。のちに、戦争を広く捉える議論も行うが、ひとまずこの戦争概念で進めよう。

戦争はほんとうに合理的に始まるのか

 戦争美学を展開しようと言ったとき、違和感を覚える人も多いかもしれない。

 なぜなら、戦争は合理的な理由から始まるものだ、という信念も根強いだろうから。戦争は、感性的な理由ではなく、徹頭徹尾合理的で政治的な理由に基づいて行われるのである、と。

 私は、戦争を始める人々は、合理的判断によってのみ始めるのではなく、特定の敵のイメージ、戦争の輝かしさ、といった美的判断、美的理由に基づいて始めるのである、という説を主張したい(そしてむしろ、後者の美的理由の方が強烈に行動を左右するのではないかと考えてもいる)。

 それにあたって、まず、ここでは、戦争を始める理由が少なくとも合理的なものだけでは説明できない、ということを説得的に整理したい。これは、これから論じていくこの連載の出発点を明確化する作業でもある。

 政治学者、ジェイムズ・フィアロン(一九六三年生まれ)による一九九五年に発表された著名な論文がある。「戦争の合理主義的説明(Rationalist explanations for war)」と題されたこの論文は、二〇二六年現在で、六七八四件引用されており、これは少なくとも人文学、政治学でもトップクラスの被引用数だ(Fearon 1995)。

 フィアロン自身は、戦争開始には合理的な理由がある、と主張する。とはいえ、あえてそう主張するのにも理由がある。戦争は一見不合理にみえる、とフィアロンも認める。戦争がコストを伴うにもかかわらず反復されることを「中心的なパズル」と呼び、解くべき問題だとみなしているのだ。

 なぜコストがかかる戦争が始められるのかについてのフィアロンの説明には、大きく三つある。

 第一に、指導者が非合理的であり、戦争のコストを軽視したり、行為の帰結を誤解したりする。第二に、戦争を命じる指導者は利益を得るが、コストは兵士や市民が負う。第三に、コストとリスクを考慮する合理的指導者でも戦争を選ぶ。

 フィアロン自身は第三の「合理主義的説明」に焦点を当てる。合理的な指導者であっても戦争を選ぶことがあるとすれば、それはどのような場合なのか。たとえ勝つとしても、戦争なしに同じ結果を得られるなら、その方がいいのではないか。

 常識的な発想で考えるならば、もし戦争にコストがかかるとすると、戦争を始める前に、双方が戦争よりもましだと思える妥協案を探せるはずだ。どちらもが戦争するよりも、ましな分け方がどこかにあるはずだ。つまり、戦争をしてAという決着となる場合、もし戦争なしでも他の面で妥協してAという結果を得られるなら、双方とも戦争にかかるコストを負担せずにすむ、ということだ。なら、なぜ戦争よりましな取引ができないのか。

 フィアロンによれば、その理由は主に二つある。

 一つは、相手の力や本気度について、お互いの国家が正確には知らないことである。相手は本当に戦う気があるのか。どれくらい損害に耐えられるのか。軍隊はどれほど強いのか。同盟国は助けに来るのか。こうした情報は、外からは完全には見えない。しかも、国家には嘘をつく理由がある。本当は戦う気がなくても、「いや、この土地の支配権を争うというならすぐさま戦争だ」と強がった方が交渉で有利になる。本当は軍事的に弱くても、強く見せた方が相手を抑止できる。

 もう一つ、国家が戦争を始める理由は、約束を守らせる仕組みがないことにもある。国家同士のあいだには、最終的に約束を執行してくれる「世界政府」のようなものがない。たとえば、いまは弱い国が「将来強くなっても、あなたを攻撃しませんよ」と約束したとする。しかし、その国が本当に将来強くなったとき、その約束を守る保証はどこにもない。

 以上のような、フィアロンの合理主義的説明は、戦争がいかに愚かで高くつくものであっても、情報を信じられず、約束を信じられない状況では、合理的な計算そのものが戦争を導き出してしまう、という残念な事態を説明しようとするものだ。

 もし戦争が合理的に開始されるとしても、そこでいう戦争の合理性とは、相互不信のなかで計算した結果の、ひどく貧しい合理性なのである。

戦争開始の非合理性について

 フィアロンの説明は、現在でも国際政治学や戦争理論、まとめていえば「国際関係論(International Relations: IR)」研究の基盤になっているといえる。近年の国際関係論研究は、この抽象的なモデルを具体化する方向に進んでいる。例えば、国内政治、意志決定の際の心理・感情・イデオロギー・敵イメージの要素を組み込もうとしている。

 とはいえ、合理性のニュアンスはそれでもなお疑わしい、と私は感じている。というのも、こうした戦争開始の合理主義的説明論は、国家同士の相互不信や国内政治の要素といった「やむにやまれぬ」理由によって戦争が始まるというヴィジョンを前提として進んでいるからだ。玉突き事故のように、誰もが避けたいのに不可抗力的にぶつかっていくようなイメージだ。

 だが、ほんとうにそうなのだろうか。ほんとうにそんな非自発的な、自然現象的なものなのだろうか。合理主義的説明論に組み込めていない奇妙な理由が存在するのではないか。

 歴史社会学者のマイケル・マンは、二〇二三年に刊行した大著『戦争について(On Wars)』(未邦訳)において、戦争開始の非合理性を主張している(Mann 2023a; Mann 2023b; Mann 2024)。

 マンの議論で重要なのは、誰が戦争を始めるのかを明確化するところだ。フィアロンを代表とするような、数理的・モデル化志向的な国際関係論研究においては、戦争について分析する時「国家」という抽象的な存在が主役になってしまう。マンは、先ほどのフィアロンの議論を評価しながらも、問題点を指摘する。フィアロンの想定する戦争開始の行為者は依然として、真に合理的な一枚岩の国家だ。それは、感情、イデオロギー、国家内部の権力闘争を取り外された存在だ。

 だが、戦争を始めるのは、そのような姿かたちのない「国家」などではない。ごくシンプルに考えて、近世であれば君主、現代であれば、大統領・首相、あるいは、独裁者・軍部、もしくは、側近・顧問・内閣の一握りのメンバーたちだ。彼ら少数の統治者たちが戦争を始めるのである。となると、戦争開始が合理的かどうかは、戦争開始する統治者たちが合理的かどうかを考えれば明らかになる。

 では、こうした戦争を開始する統治者たちは、先ほど紹介した相互不信のなかで導き出された貧しい合理性のレベルで戦争開始を決定しているのだろうか。

 そうではないようだ。まず、アメリカの法学者のクインシー・ライトはこう述べる。

 

 国際紛争は実際には国家間のものではなく、国家の歪んだイメージ同士の間で起きる。こうした歪曲、固定観念、そして風刺画的描像こそが、国際紛争の状況における主要な要因である可能性が高い〔…〕。こうした虚像は、当面の状況に関する誤った情報に基づくのではなく、遠い歴史、国民文化、あるいは意思決定プロセスにおける重要人物の心の中に根ざした、偏見に満ちた概念や態度に基づいている。(Wright 1957, 267)

 

 つまり、ライトは、戦争開始の原因を、合理的で理解可能な誤りではなく、歴史・文化——まさに、「役に立たない」と言われ続けている「人文学」がひたすらに扱ってきた対象だ——や戦争開始を意思決定する統治者が持つ偏見に見出す。

 さらに、マンはこう言う「統治者の開戦決定において合理性が支配的であるはずがないことは明らかだ」(Mann 2023b, 149)。なぜか。それは、統治者たちの動機は、次の三つから生まれるからだ。「貪欲、地位・名誉・栄光の複合、そして支配の快楽」。

 第一に、貪欲とは、領土、財貨、税収、資源、奴隷、交易路、植民地、従属国を求める動機だ。これはずいぶんと分かりやすい動機ではあるだろう。これまでもしばしば戦争の歴史的研究では指摘されてきたことでもある。一つ飛ばして、支配の快楽とは、略奪、征服、植民地支配、虐殺、強姦、服従の強制において現れる。こちらも、日常生活を生きている人々にとっては、おぞましいものでしかないが、しかし、統治者たちが戦争を始める動機としてかなり主要なものだろう。このいずれも、本連載では注目していくことになるだろう。

 もっとも意外かもしれないのは、地位・名誉・栄光だ。統治者は、自分自身の名誉と国家の威信を同一視する。国家が大きくなれば自分が大きくなる。敵を屈服させれば自分の名誉が高まる。勝利が記念碑、凱旋式、称号、歴史的記憶として残れば、自分の栄光は死後も続く。これも分かりやすいが、人命や損失よりも地位・名誉・栄光が重要だというのは、大多数の人間にはあまりピンとこないかもしれない。

 キングス・カレッジ・ロンドン戦争研究学部の国際政治理論名誉教授の国際政治学者、リチャード・ルボウは、『なぜ国家は争うのか』(二〇一〇年、未邦訳)において、一六四八年から二〇〇八年までの主要国間(ヨーロッパ諸国と一八九〇年代以降の米国、日本、一九四九年以降の中国)の九四の戦争に関するデータセットにおいて、戦争を開始する者たちの一〇七の支配的な動機を抽出した(Lebow 2010, ch.4)。

 そのうち地位・名誉への欲求が六二、そして十一が報復的な領土修正への欲求によって動機づけられていた。物質的な貪欲さは、八件だった。

 地位・名誉(ないし復讐)が約七〇%を占めていたということだ。つまり、戦争開始の歴史を観察すると、国家はしばしば言われているように、安全保障や富のために戦争をしてきたというより、自国の地位を高めるため、失われた名誉を回復するため、侮辱に応答するため、偉大さを示すために戦争してきた。

 戦争は「リアリスティック」な動機ではなく、地位・名誉・栄光をめぐる、非常に人間的な、かたちのない価値——私の言葉で言えば「美的価値」と呼べるだろうもの——をめぐって始められてきたのだ。それは、近代国際関係論が見落としてきたものであり、同時に、戦争開始において最も重要なものでもあった。

 もう一つだけ具体例を。名誉と戦争開始の関係を数量的に検討した論文がある(Dafoe & Caughey 2016)。著者たちは他の地域より、名誉を重んじるとされるアメリカ南部を出身とする大統領に注目し、名誉と武力行使の関係を調べた。結果として、南部出身大統領下の国際紛争は、そうでない場合よりも、武力行使を含む確率が約二倍、持続期間も平均で約二倍、勝利で終わる確率も約三倍だったとされる。

 つまり、統治者が名誉を重んじるかどうかによって戦争に対する態度が変わるということだ。戦争の開始が領土・資源・安全保障を計算した合理的でロジカルでクールな判断だけに基づくのではなく、弱腰に見えるか、面子を保てるかという名誉の感覚に強く左右される。こうした感性的な動機こそ、「リアリズム」を醸し出したい国際関係論では見逃されがちであるが、美学的なアプローチによって迫れるものだ。

戦争を解体する

 以上の議論に基づくならば、戦争を避けるために何ができるのか。私たちには二つの方向がある。

 一つは、戦争を決定する人々がほんとうにリアリスティックになることによって、なんとか妥協点を見つけることができるのではないか、という方向だ。

 だが、ここでも「リアリスティックになる」とはいったいどういうことなのか。つまり、フィアロンの議論でも前提されていたように、リアリスティックになるためには、人命と土地、あるいは、それらの戦略的価値を同じ「数」として、重みづけは異なっていたとしても、計算する必要がある、ということになる。

 なのだが、そもそも、フィアロンが仮定するように、戦争を始める意思決定者は、いったい人命や都市の焼失や土地の破壊をどのようにしてコストとして計算しうるのだろうか。その仮定可能性そのものが奇妙にも感性的な領域に入り込んでいるように思える。

 人間の命を他のものと計算可能に均すことは、ほんとうにリアリスティックだと言えるのだろうか。それはそれで一つの、「リアリスティック」という酷薄さやクールさ、ハードさを旨とするような世界観、つまり美的感覚に基づいてしかありえないと思うのだ。

 例えばそうしたリアリスティックさのバッドエンドの極北には、ユダヤの人々を虐殺のためのガス室へと移送するための計画を立案する類のクールさを発揮する悪夢的な感性が立ち現れる。

 それゆえ、リアリスティックであることは、真の意味でのリアリスティックではありえない。それは、完全に中立でクールな立場などではないのだ。

 だとするならば、別の道はないものか。私が提案したいのは、「戦争がダサいものだ」と人類全体を美的説得していくことだ。

 戦争を決定する人々が、必ずしも私たちとは完全に異質な人間ではないというところにまず注目することから始まる。プーチンにせよ、トランプにせよ、彼らは人間である。それゆえ、彼らは私たちが生きているこの世界と時代の美的感性に影響を受けて育ち、生きている。彼らが利用可能な美的感性のなかに、上に挙げた論者たちが論じてきたような、戦争を可能にしてしまう感性的なレパートリーがある。

 では、逆に、彼らが戦争をダサいものとして認識したとしたらどうだろうか。戦争をダサいものであると感じるプーチン、トランプたちが登場する世界であればどうだっただろうか。もちろん、彼らは戦争の代わりに他の行為を成したであろうが、少なくとも戦争は醜いものとして避けたのではないだろうか。だとしたらそれは、戦争を回避するためのもっとも合理的なシナリオであるはずだ。

 つまり、私たちの誰が未来の戦争の開始者になるのかは分からないなかで、私たちが自らの美的感覚によって、戦争をダサいものとして、戦争はセンスがないものとして、当たり前に判断する世界になるなら、どんなダークな素質を持った支配者も、戦争を選択することはなくなるだろう。

 ここですぐさま、次の反論が出てくるだろう。「いや、戦争は人類の本性だ。人間はいつの時代も殺し合ってきた。どれほど戦争をダサいものだと説得しようとしても、人間の奥底に暴力への欲望があるなら、無駄な試みにすぎないのではないか」。

 こうした反論は、私が抵抗したいものの一つである。

 先ほどのマンが丁寧に整理しているように、戦争が人類の遺伝的本性に組み込まれているという見方は、考古学的にも、人類学的にも、歴史社会学的にも支持されない(Mann 2023a, ch.2)。もちろん、人間は暴力を振るうし、殺人もするし、武力衝突もしてきた。これからも残念ながらしていくだろう。

 組織的戦争を示す考古学的証拠は遅れて現れる。集団間での致死的な衝突の例として挙げられるケニアのナタルク遺跡の事例は紀元前八〇〇〇年頃であり、二七体の骨格のうち一二体がよく保存され、そのうち一〇体に槍・矢・棍棒による死の痕跡があった(Lahr et al. 2016)。

 地域差も大きい。日本に至っては紀元前八〇〇年まで、暴力死の痕跡を示す骨格は約一.八%にすぎず、集団的な暴力による死の事例も発見されていない(Nakao et al. 2016)。人類が地上で生きてきた約一五万年のうち、九〇%以上の時間が過ぎたあとに、ようやく本稿の意味での戦争する国家が出現したのだ(戦争の定義次第では、数千年単位でもっと後になってくるだろう)。

 あるいは比較的最近のことを考えてみよう。二〇一三年の論文で、ダグラス・フライとパトリック・セーデルベリは、二一の移動性採集狩猟民社会を比較したが、そのうち二〇の社会では、一〜三年間での致死的暴力の中央値は三件だった(Fry & Söderberg 2013)。しかも、その六四%は、一人の加害者と一人の被害者による殺人や喧嘩であって、集団間紛争、つまり戦争ではない。

 しかもそのうち、別の集団の人間が殺された出来事は、二〇社会全体でわずか一二件だった。例外はオーストラリア北部のティウィで、全体の集団間紛争五〇件のうち、三八件、つまり七六%をこの一社会だけが占めていた。このティウィは、クラン社会、つまり、より大きな社会単位を形成しており、それが他のクランと鋭く区別されるがために、紛争が多発していたのかもしれない。

 マンが強調するのは、初期人類社会には対人的暴力はあったとしても、組織化された戦争はまれであり、地域差も大きかったということだ。

 実のところ、戦争は、人類が登場した瞬間から自然と繰り返されてきたものではない。戦争が始まるのには戦争を可能にする条件が必要だった。それは、定住、農耕、余剰、階級、国家、軍事組織といった文化・社会的条件である。特定の社会制度が、人間を戦争へと誘いかけるのである。

 私たちの知っていることを思い出すだけでもいいかもしれない。ヨーロッパは近代以前から近代にかけてきわめて好戦的だったが、第二次世界大戦後には急激に嫌戦争的な地域になった。日本も、戦国時代のように戦争が頻発した時代を経て、江戸期には長い平和を謳歌した。スイスやスウェーデンのように、長期にわたって対外戦争を避けてきた例もある。さて、もし戦争が人類の変わらぬ本性であるなら、このような時代差・地域差はなぜ生まれうるのだろうか。これは、戦争が社会的・文化的な産物であることを示唆していると私は考える。

 比喩で言うならば、参加者に殺し合いを強要するデスゲーム主催者が、殺し合っている姿を観て「人間の本能だ…」とうそぶいているのに似た滑稽さを感じる。殺し合わなければならない状況に置かれたら、人間が殺し合うのは、そりゃそうだ。殺し合わなくても良い状況に置かれたら人間は殺し合わないものでもある。

 フライとセーデルベリの議論をまとめるならば、移動性採集狩猟民の致死的暴力の多くは、戦争ではなく個人的殺人・復讐・嫉妬・争いである。したがって、戦争は人類の本性であるという強い主張は支持されない。

 もちろん、こうした致死的暴力を戦争と呼ぶかどうかは、議論の的になる。例えば、レイモンド・ヘイムズは、フライらに対する批判を行っている(Hames 2019)。というのも、チンパンジーの隣接集団関係には、小競り合い、侵入、孤立した個体への襲撃、さらには一方の集団が他方の集団を壊滅させて領域を奪うような事例が見られるからだ。

 したがって、集団間の連合的暴力それ自体は、人間が農耕や国家を発明してから突然生み出したものではなく、チンパンジーとも共有されうる古い系譜をもつ可能性がある。それゆえ、こうした致死的な抗争も戦争と呼ぶならば、戦争は霊長類の「本性」的な特徴とも言える。

 チンパンジーと人類は集団的な致死的暴力の傾向を共有しているが、人間(移動性採集狩猟民)は訪問、婚姻、交易、儀礼、資源共有を通じて、平和を構築してもいる。そのため、もし集団的な致死的暴力の行使を「戦争」と呼びたいとして、「「戦争」は人類の本性だ」と言いたければ言ってもよいが、しかし、それを言うなら同時に「「平和」は人類の本性だ」と付け加える必要がありそうだ——とヘイムズは述べる。えらくバランスの取れたよい考えであろう。

 そうであるならば、戦争はホモ・サピエンスの「本能」ではない。あるいは、戦争が「本能」だとしても、平和もまた同様に人類の「本能」である。戦争は、文化的・社会的に作り上げられる。なら、文化と社会を変えれば、戦争をなくすことだってできるはずだ。

 とはいえ、私たちが戦争をこの世から消すためには、戦争の悪を言い連ねることだけでは足りない。戦争を始める者たちは、その悪をとうに知っている。それでもなお彼らが戦争を始めるのは、戦争が美的に魅力的なものであるからである。彼らに栄光と栄誉をもたらし、支配の快楽をもたらすからである。戦争というものをよきものとして美的判断しているからなのだ。戦争が美にして悪だから、そのバッドテイストに酔いしれているのだ。

 さらには、ルボウが指摘するように、戦争を嫌悪することは、戦争を防ぐのには十分ではない。ひどいことに、統治者は、恐怖・名誉・安全保障の言説を使って、反戦的な市民を戦争支持へと動員できてしまうのだ。その典型が、イラク戦争である。ルボウによれば、この変化は、ブッシュ政権がサダムを九・一一攻撃や大量破壊兵器の脅威と結びつける広報戦略を展開した結果である(Lebow 2010, 8-9)。反戦感情は存在していたが、敵が恐るべき兵器を持っている、私たちの/国家の安全が脅かされている、いま行動しなければならない、と語られたとき、その反戦感情は恐怖によって戦争を支持する感情へと組み替えられてしまった。戦争は、恐るべき敵を打ち倒すための「必要な」暴力として、市民を納得させることができてしまったのだ。

 上記のような理由から、戦争を消すためには、私たちは戦争の美的判断を一つずつ分析し、それをダサいものとして解体していくアプローチをとることができると考える。これを「戦争の美的解体主義(Aesthetic Deconstructivism of War)」と呼ぼう。そして、対になるように、戦争ではなく、平和の方がイケてるということ、殺し合い以外の交渉やコミュニケーションの方がカッコいいということ、それを打ち出していくこともできるだろう。つまり「平和の美的構築主義(Aesthetic Constructivism for Peace)」だ。本連載では、前者の戦争の美的解体主義を主に実践していくことになるが、後者のアプローチへの接続可能性も考えていきたい。

 第一回となる本稿では、戦争を合理的な選択に基づいてのみ理解しようとする立場を批判した。むしろ、戦争とは非合理な理由から支配者たちによって開始されるものであることを、近年の研究を手がかりに主張した。その上で、戦争を廃絶させるためには、為政者が、より「リアリスティック」になることを期待するのではなく、戦争がダサいものである、と戦争の美的感性を解体していくこと、すなわち「戦争の美的解体主義」アプローチが、より適しているということを提案した。

 次回以降は、具体的に、様々な戦争の美的感性を解体していこう。ストラテジー的想像力、クリエイティビティ、武器の美、戦争の観戦や戦争画、ゲーム的感性や「軍神」、敵のイメージといった、様々な戦争の美的感性を捕まえて、それを解体していきたい。

 

参考文献

Dafoe, Allan and Caughey, Devin. 2016. Honor and War. World Politics 68(2): 341-381.

Fearon, James D. 1995. Rationalist explanations for war. International Organization 49(3): 379-414.

Fry, Douglas, and Söderberg, Patrik. 2013. Lethal Aggression in Mobile Forager Bands and Implications for the Origins of War. Science 341(6143):270–273.

Hames, Raymond. 2019. Pacifying Hunter-Gatherers. Human Nature 30(2):155–175.

Lahr, M. Mirazón, et al. 2016. Inter-group violence among early Holocene hunter-gatherers of West Turkana, Kenya. Nature 529.7586: 394-398.

Lebow, Richard Ned. 2010. Why Nations Fight. Cambridge University Press.

Mann, Michael. 2023a. On wars. Yale University Press.

Mann, Michael. 2023b. Wars, rulers, rationality. European Journal of Sociology/Archives Européennes de Sociologie 64(1): 123-152.

Mann, Michael. 2024. Explaining the Irrationality of War. New Left Review 145: 14-25.

Nakao, Hisashi, et al. 2016. Violence in the Prehistoric Period of Japan: The Spatio-Temporal Pattern of Skeletal Evidence for Violence in the Jomon Period. Royal Society, March 1.

Wright, Quincy. 1957. Design for a Research Project on International Conflicts and the Factors Causing Their Aggravation or Amelioration. Western Political Quarterly 10:263–275.

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考える人とはとは

 はじめまして。2026年7月1日よりウェブマガジン「考える人」の編集長をつとめることになりました、松本太郎と申します。いつもサイトにお立ち寄りいただき、ありがとうございます。

 2002年7月4日、季刊誌「考える人」が創刊されました。

 目次には当代随一の執筆陣がずらりと並び、B5判240ページの誌面の隅々から知の香りが立ちのぼってくるかのようでした。

 当時、入社3か月の営業部員だった私は、見上げるような思いで手に取り、発売日には編集長の松家仁之さんと創刊のご挨拶のために書店にうかがいました。

 まだ書店訪問にも慣れておらず、編集長ともほぼ初対面の中、次のお店の約束の時間に間に合うだろうかと時計ばかりが気になって、終始、そわそわしていました。そんな私に松家さんがやわらかな笑顔で接してくれたこと、そして、新雑誌の門出を祝うようなすっきりと晴れた一日だったことを覚えています。

 あれから四半世紀が過ぎ、ウェブマガジンとして衣替えした今でも、創刊時に掲げられた「Plain living, high thinking(シンプルな暮らし、自分の頭で考える力)」という言葉は古びていません。AIに尋ねれば瞬時に答えが返ってくる時代だからこそ、それらしい言葉に飛びつくのではなく、自分の頭で考え、心の声に耳を澄ませることの大切さは増しているように感じます。

 創刊号には、養老孟司さんのロングインタビューが掲載されています。養老さんはその中で、恩師である中井準之助先生の口癖だった「人の心がわかる心を教養という」という言葉を紹介しています。

 読んだ瞬間に立ち止まり、さまざまな思いが湧き上がってくるような文章に、楽しみながら出会える場であり続けたいと思っています。

「考える人」編集長
松本太郎

著者プロフィール

難波優輝

1994年生まれ。美学者、会社員。修士(文学、神戸大学)。専門は分析美学とポピュラーカルチャーの哲学。newQ / 立命館大学衣笠総合研究機構ゲーム研究センター客員研究員 / 慶應義塾大学SFセンター訪問研究員。『SFプロトタイピング』(共著、早川書房)、『物語化批判の哲学』(講談社)、『なぜ人は締め切りを守れないのか』(堀之内出版)、『本とは何か』(新潮新書)など、著書多数。


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