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往復書簡「小説⇔演劇」解体計画

2018年11月6日 往復書簡「小説⇔演劇」解体計画

(7)演出をしない劇作家は珍しい?

著者: 滝口悠生 , 松原俊太郎

松原俊太郎→滝口悠生

『カオラマ』お読みいただき、ありがとうございます。『カオラマ』は上演がないので、いつもと同じ書き方をすると、不満足感だけが残るということに初稿発表後に気づき、大幅な改稿となりました。

以前、滝口さんと、上演台本は買っても読まないよな、とお話したことを思い出しました。先日開かれた演劇計画IIのラボでも戯曲の読み方が話に上がりました。大森望さんは小説と同じように戯曲も読んできたとおっしゃっていましたが、書かれている数、書籍として刊行されている数から見ても戯曲は広く読まれているとは言えません。滝口さんのおっしゃるように地点の上演は戯曲を解体-再構築して作られるし、古典と言われるものが多いので原作戯曲にあたられることは多いでしょうね。僕は、劇作を始める前から、シェイクスピア、チェーホフ、イェリネク、ブレヒトなど、作家から入って特に上演のことは気にせず、読んできました。このような作家の戯曲と、いまの日本で劇作と演出を兼ねた、いわゆる「作演」の人による上演台本とは、かなり違う印象を受けます。滝口さんが上演を観られたあとに買われる台本は多くがこの形によるものかと思います。書かれたそれを上演台本と呼ぶか戯曲と呼ぶかは定義されていなくて、それぞれに使い分けられているようですが、「作演」だと、書かれたテクストのイメージと上演のイメージがかなり近しくなるので、上演と比較してしまうとテクストは分が悪いかと…僕自身も「作演」の上演を見たあとに台本を読むことは稀です。多くの舞台で現代口語が自明のものとして扱われていますが、現代口語はまだ読んでおもしろいと思えるほどのものにはなっていないのだと思います。

僕は、ここで「演出をしない劇作家」と紹介されてますが、歴史的に見れば演出をしている劇作家のほうが特殊な事例だと思います。第三回で地点と自作に関連して書いたように思いますが、劇作家と演出家が別であれば、戯曲に寄り添った演出がなされたとしても、ちがいは比較的大きくなるので、戯曲を読んだときと上演を観たときのちがいも出てくるのではないかと思います。戯曲全体の、人物の、台詞の立ち上がり方など、読んでも楽しめるのでは…と思っています。また、地点の最初の稽古で行われる読み合わせはおもしろいです。一人一役で読んでも、一行単位で振っていっても、聞こえ方が変わるので、やはり声に出して読むと楽しめるのかもしれません。

また、ゴダールの映画の台詞・引用の組み合わせが気になるように、その場を越えて溢れ出てくるような台詞、ドラマに収束しない台詞などがあると読んでみたくなるのではないでしょうか。文芸誌の『新潮』には戯曲が掲載されることもありますよね。戯曲もまた小説と同じく時代を越えて残るもの、と、よく慰めのように言われますが、無条件に残っていくものではなく、上演だけでなく読まれていくことも必要なことだと思います。劇評はあっても戯曲評といったものはあまりなく、読みの経験が蓄積されているようには思えません。上演もまた戯曲に対する一つの読みの提示であって、その提示と観客個々人の読みを突き合わせることができるのも戯曲の魅力かと思います。演劇計画IIでは、わざわざ上演を前提としないと設定したので、戯曲と観客(読者)との関係のあり方も探っていきたいと思ってます(あと半年ほどしかありませんが)

劇作から離れたときの読者としての僕は、小説と戯曲は遠からず近からずといったところで、読み方はそんなに変わらないですかね。上演台本は上演する舞台というテクストの外部を強く意識したうえでの読みになりますが、戯曲はテクスト単体でも読めるんじゃないかと思います。戯曲も小説もどちらも文字の集まりであることに変わりはなく、戯曲といっても読むときには、ト書きがあって、登場人物名が記されて、その下にその人物の発した言葉が記される書式のものぐらいに思ってます。それこそ登場人物の区別を無視して、モノローグ的にも読むことはできますし、僕はあまりしませんが登場人物マップを作って、関係性を頭に入れながら読むこともできるんじゃないかと。戯曲のト書きは簡素で、動きが()で挿入されて読みにくく、場所は殺風景と言いたくなるようなものが多く、人物の背景も小説ほどには書き込まれないので、読者が補う余白部分は多くなると思いますが、その余白が、読むうえで舞台や外の現実といった外部を要請しているかといえば、それは微妙なところだと思います。上演(外部)があってもなくても、書かれた人物たちはその場にいて、人物間やその場の因果律・環境のなかで、文字通りに発語しているという事実はあって、それを読んでいく楽しみみたいなものはあるんじゃないかと思います。これは小説でもそうで、外の現実との対応関係なしで読めるようになっていますよね。

『カオラマ』もまたテクストの外部を想定せずに書いたものです。滝口さんのおっしゃる、モノローグのように見える二人の会話というのは、『カオラマ』の第二稿のことですかね。僕自身は「退屈」で「鈍重」なことに価値を見出してはいないので修正していかねばなりません。しいて言えば、第二稿は、殺風景な部屋にある丸太に閉じ込められた女の会話で、見かけの差異も「檜」と「杉」しか与えられず、二人が丸太になっているという同じ状況に関して話すことが多いのでモノローグ的になっている、のかもしれません。書いている僕自身、あの状況でどうすればいいのかよくわからずに書いているということもあって「鈍重」な会話になっているんですかね。第二稿の公開、ラボを経て、その糸口が見えてきたので、最終稿ではまた変化が見られる、はずです!(作家がこんなことを言ってていいのかという気もしますが…)

「新潮」2018年11月号掲載の滝口さんの日記を読みました。日記は私秘的なもので、本来、誰かに向けて書かれるものではないですが、カフカやクレーの日記とは違って、滝口さんの場合、生きているあいだに公開されることを知りながら書いていると思うので、そのへんは微妙に違うのかもしれません。同号掲載の柴崎友香さんとの対談では、自分のことを書くのは難しい、とおっしゃってましたが、どうでしたか? 日記という形式が与えられることで小説とはまた違う「わたし」の書き方がとられたのではないでしょうか。滝口さんの日記には、何を言っているのかよく「わからない」他者といっしょに過ごす時間があって、よく「わからない」話を聞いたり、「呆然とする」顔を見たり、言葉に拠らない交歓があったり、通常の会話によるコミュニケーションとは違う、「わからない」ことを「わからない」ままに引き受けたうえでの他者との関わりが書かれているように思いました。滝口さんの言う「受動性、受け身」はそれとはまた違うのだとは思いますが、ちょうど同号掲載の丹生谷貴志の保坂和志『ハレルヤ』の書評と、そこに引かれたカフカの断片が興味深かったので引きます。《外出する必要はない。部屋で、机の前、耳を澄ます。耳を澄ます必要もない、ただ待つ。いや、待つ必要すらない、凝っとした沈黙の中、そうしていればいい。すると世界の方からお前に寄って来て仮面を外すだろう、世界は他に選びの余地なく、うっとりと、お前の前で翻転し身を躍らせる。》

「小説というのは結局のところ全部モノローグだと思う」、これは意外でした。そう言われれば、そうか、と納得する部分もありますが、全部とは思っておらず…しかしながら、また長くなりそうなので持ち越しにします。

日記のつづき、楽しみにしてます!

10月15日 松原俊太郎

『演劇計画Ⅱ -戯曲創作-』

委嘱劇作家:松原俊太郎、山本健介(The end of company ジエン社)
演劇計画Ⅱアーカイブウェブサイト http://engekikeikaku2.kac.or.jp/
京都芸術センター http://www.kac.or.jp/

茄子の輝き

茄子の輝き

滝口悠生

2017/06/30発売

離婚と大地震。倒産と転職。そんなできごとも、無数の愛おしい場面とつながっている。芥川賞作家、待望の受賞後第一作。

山山

山山

松原俊太郎

2019/05/08発売

プラトニック&アレゴリックな独白的文体に、選考委員も震撼! 純粋劇作家・松原俊太郎のデビュー作品集。第63回岸田國士戯曲賞受賞作品。

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考える人とはとは

 はじめまして。2021年2月1日よりウェブマガジン「考える人」の編集長をつとめることになりました、金寿煥と申します。いつもサイトにお立ち寄りいただきありがとうございます。
「考える人」との縁は、2002年の雑誌創刊まで遡ります。その前年、入社以来所属していた写真週刊誌が休刊となり、社内における進路があやふやとなっていた私は、2002年1月に部署異動を命じられ、創刊スタッフとして「考える人」の編集に携わることになりました。とはいえ、まだまだ駆け出しの入社3年目。「考える」どころか、右も左もわかりません。慌ただしく立ち働く諸先輩方の邪魔にならぬよう、ただただ気配を殺していました。
どうして自分が「考える人」なんだろう―。
手持ち無沙汰であった以上に、居心地の悪さを感じたのは、「考える人」というその“屋号”です。口はばったいというか、柄じゃないというか。どう見ても「1勝9敗」で名前負け。そんな自分にはたして何ができるというのだろうか―手を動かす前に、そんなことばかり考えていたように記憶しています。
それから19年が経ち、何の因果か編集長に就任。それなりに経験を積んだとはいえ、まだまだ「考える人」という四文字に重みを感じる自分がいます。
それだけ大きな“屋号”なのでしょう。この19年でどれだけ時代が変化しても、創刊時に標榜した「"Plain living, high thinking"(シンプルな暮らし、自分の頭で考える力)」という編集理念は色褪せないどころか、ますますその必要性を増しているように感じています。相手にとって不足なし。胸を借りるつもりで、その任にあたりたいと考えています。どうぞよろしくお願いいたします。

「考える人」編集長
金寿煥

著者プロフィール

滝口悠生

1982年、東京都八丈島生まれ。埼玉県で育つ。2011年、「楽器」で新潮新人賞を受賞してデビュー。2015年、『愛と人生』で野間文芸新人賞を受賞。2016年、「死んでいない者」で芥川龍之介賞を受賞。2022年、『水平線』で織田作之助賞を受賞。2023年、同書で芸術選奨文部科学大臣賞を受賞、「反対方向行き」で川端康成文学賞を受賞。他の著書に『寝相』『ジミ・ヘンドリクス・エクスペリエンス』『茄子の輝き』『高架線』『やがて忘れる過程の途中(アイオワ日記)』『長い一日』『いま、幸せかい? 「寅さん」からの言葉』『往復書簡 ひとりになること 花をおくるよ』(植本一子氏との共著)『ラーメンカレー』『三人の日記 集合、解散!』(植本一子氏、金川晋吾氏との共著)等。

連載一覧

松原俊太郎

作家。1988年熊本生まれ。2015年、処女戯曲「みちゆき」で第15回AAF戯曲賞大賞受賞。2019年、『山山』で第63回岸田國士戯曲賞受賞。他の作品に戯曲「忘れる日本人」、「正面に気をつけろ」(単行本『山山』所収)、小説「またのために」など。

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