8. ザ・カレー・シークレット
著者: 稲田俊輔
人気の南インド料理専門店「エリックサウス」総料理長にして、レシピ本から食文化にまつわるエッセイまで文筆家としても活躍中の稲田俊輔さんが、その原点である料理=「カレー」について考える連載です。おうちカレーから南インド料理の衝撃まで、私的な経験をベースにその進化や変遷を語っていきます。「もはやカレーは文化である」を合言葉に、国民的料理の真髄に迫る「活字カレー」の決定版!
「カレーの秘密」を暴露する一冊
ここに、“The Curry Secret”という1989年初版のペーパーバックがあります。著者はインド料理店オーナーシェフのKris Dhillon氏。これが実は色んな意味でとんでもない本なのですが、どうとんでもないのかを説明するにあたって、先ずはその序文を読んでいただくのが良いかと思います。以下、抄訳です。
インド料理店の料理の秘密を探ろうとする人の前には、多くの困難が立ちはだかる。人々はインド料理の料理本を買うが、伝統的なレシピや方法で作ると、がっかりすることが多い。しかしそれは驚くようなことではない。レストラン料理の技術とは非常に厳重に守られた秘密だからだ。
一流の料理人は、自分の料理人としての秘訣を厳重に守る。そんな同時代の料理人たちを怒らせる危険を承知の上で、私はそれら全てを明らかにすることにした。
(訳者傍白:さあ、面白くなってまいりました!)
これからのページではあなたが愛するカレーを、自分の台所で、あなたのお気に入りのレストランと同じ技法を使って、いかに簡単かつ正確に作るかを示していく。これまであなたが再現できなかった、あの特別な味を再現できる知識を提供する。
いかがでしょうか。いやあ、これほど本篇を読み進めたくなるイントロダクションもそう無いですね。言うなれば暴露本ですからね、これ。この人料理界追放されちゃうんじゃ?と心配するふりをして、腹の中ではただただ面白がってしまいます。
まずは「カレーソース」から
ではその「特別な味」の秘密が暴露されているらしい本文に進みましょう。先に言っておくと、本書は一般的なインドカレーのレシピ本とは、構成からして全く異なります。チキンカレーやキーマカレーなどお馴染みのカレーを作るために、まずやらねばならない大仕事があるからです。それが「ザ・カレーソース」です。それがいかなるものなのか、これもまた本書から一部引用します。
これはレストラン料理のあらゆる秘密の中でも、最も厳重に守られているものだ。非常に滑らかな質感と淡い黄金の色合いを持ち、味見すれば穏やかなカレーの風味が心地よい。
あらゆる優れたレストランはこのソースを常備しており、肉や魚が用意されていれば、数分のうちにさまざまな料理を作ることができる。
既にわかる人にはわかる感じになっていると思いますが、具体的にどういうレシピなのかをざっくり説明しておきます。このカレーソースは、簡単にいうと柔らかく煮た玉ねぎ、ニンニク、生姜、トマトなどをペースト状にして、そこにスパイスを加えたものです。
スパイスと言ってもごく少量のターメリックとパプリカだけなので、味にはあまり影響しません。どちらかと言うと色付けと考えた方がいいでしょう。本書には「穏やかなカレーの風味」とありますが、これだけ味見しても、あまりカレーらしいおいしさはありません。
これはまとめてたくさん作ります。本書では「家庭では冷凍してもいい」と親切なアドバイスが付け加えられています。
さあこれでいよいよカレー作りに取り掛かれる……と思いきや、もう少しやることがあります。肉の下準備です。チキンカレーであれば、チキンを少量の玉ねぎペーストと共に蒸し煮します。これもまたまとめてたくさん作ります。
「順列組み合わせ」のレシピ
というわけで今度こそようやくカレーの調理に入りますが、ここまで少し回り道した甲斐あって、後はあっという間です。チキンカレーであれば「カレーソース」と「調理済みのチキン」と数種のスパイス(チリ・クミン・ガラムマサラ・カスリメティ)をフライパンに入れ、混ぜながら加熱すれば(序文にもある通り!)数分で完成します。最後にちょっとした副材料(ここではトマトとパクチー)を加えて供します。
これで大体この本の構成が理解できたのではないかと思います。要するにこの本におけるカレーレシピは、まずまとめてカレーソースを作り、次にまとめて肉に火を通し、後はそれを一食分ずつ合体させ、スパイスと何がしかのオプション材料を加えてカレーに仕上げるというものが基本になります。
魚介は加熱に時間がかからないのでその都度生のまま、野菜は茹でるなどしてから使います。カレーに仕上げる方法は、もちろん同様です。つまり数分で仕上がります。
これが飲食店のオペレーションとして、素晴らしく合理的で効率が良いことはお分かりでしょう。そしてそれだけではありません。このシステムを活用すると、メニュー数をすぐにいくらでも増やすことができます。
本書の「チキンカレー」の次のページは「チキン・ブナ・マサラ」のレシピです。これはチキンカレーのトマトをピーマンとマッシュルームに入れ替え、赤の着色料で色付けしたものです。「チキン・ドピアザ」はトマトの代わりに玉ねぎスライスが入ります。「チキンコルマ」には刻んだカシューナッツと黄の着色料が入り、生クリームで仕上げられます。
レシピはまだまだありますが、これくらいにしておきましょう。もちろんマトンでも「マトン・ブナ・マサラ」などが同様に展開されます。つまり野菜や魚介も含めて、「順列組み合わせ」で無限と言っていいくらいメニューが増やせるんですね。
著者の言う「厳重に守られた秘密」とは、つまりこれです。飲食店ならではの調理オペレーションを一般に公開したのがこの本ということになります。
著者が料理界を追われたのかどうかは知りませんが、この本は結構売れたようで、20年後の2009年には、写真入りの立派なリイシュー版が出版されました。内容の大筋はさほど変わっていませんが、着色料はしれっと省かれました。レシピによっては油がオリーブオイルになったりもしています。勝手な想像ですが、料理人として飲食業界に留まることよりも、主婦層や料理オタクに受ける料理家として生きていく覚悟の決まったリイシュー、という気がしなくもありません。
ところで読者の多くは、ここであることが気になっているかもしれません。ということで、次回に続きます。
*次回は、9月4日月曜日更新の予定です。
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稲田俊輔
料理人・文筆家。南インド料理専門店「エリックサウス」総料理長。鹿児島県生まれ。京都大学卒業後、酒類メーカーを経て飲食業界へ。南インド料理ブームの火付け役 であり、近年はレシピ本やエッセイなど、旺盛な執筆活動で知られている。著書に『南インド料理店総料理長が教える だいたい15分!本格インドカレー』(柴田書店)『おいしいものでできている』(リトルモア)、『お客さん物語』(新潮新書)、『ミニマル料理』(柴田書店)、『異国の味』、『東西の味』(ともに集英社)、『稲田俊輔のおそうざい十二カ月 旬を味わう一汁三菜』(暮しの手帖社)など。
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とは
はじめまして。2026年7月1日よりウェブマガジン「考える人」の編集長をつとめることになりました、松本太郎と申します。いつもサイトにお立ち寄りいただき、ありがとうございます。
2002年7月4日、季刊誌「考える人」が創刊されました。
目次には当代随一の執筆陣がずらりと並び、B5判240ページの誌面の隅々から知の香りが立ちのぼってくるかのようでした。
当時、入社3か月の営業部員だった私は、見上げるような思いで手に取り、発売日には編集長の松家仁之さんと創刊のご挨拶のために書店にうかがいました。
まだ書店訪問にも慣れておらず、編集長ともほぼ初対面の中、次のお店の約束の時間に間に合うだろうかと時計ばかりが気になって、終始、そわそわしていました。そんな私に松家さんがやわらかな笑顔で接してくれたこと、そして、新雑誌の門出を祝うようなすっきりと晴れた一日だったことを覚えています。
あれから四半世紀が過ぎ、ウェブマガジンとして衣替えした今でも、創刊時に掲げられた「Plain living, high thinking(シンプルな暮らし、自分の頭で考える力)」という言葉は古びていません。AIに尋ねれば瞬時に答えが返ってくる時代だからこそ、それらしい言葉に飛びつくのではなく、自分の頭で考え、心の声に耳を澄ませることの大切さは増しているように感じます。
創刊号には、養老孟司さんのロングインタビューが掲載されています。養老さんはその中で、恩師である中井準之助先生の口癖だった「人の心がわかる心を教養という」という言葉を紹介しています。
読んだ瞬間に立ち止まり、さまざまな思いが湧き上がってくるような文章に、楽しみながら出会える場であり続けたいと思っています。
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著者プロフィール
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- 稲田俊輔
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料理人・文筆家。南インド料理専門店「エリックサウス」総料理長。鹿児島県生まれ。京都大学卒業後、酒類メーカーを経て飲食業界へ。南インド料理ブームの火付け役 であり、近年はレシピ本やエッセイなど、旺盛な執筆活動で知られている。著書に『南インド料理店総料理長が教える だいたい15分!本格インドカレー』(柴田書店)『おいしいものでできている』(リトルモア)、『お客さん物語』(新潮新書)、『ミニマル料理』(柴田書店)、『異国の味』、『東西の味』(ともに集英社)、『稲田俊輔のおそうざい十二カ月 旬を味わう一汁三菜』(暮しの手帖社)など。
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