開放的で楽天的。ぬるま湯体質。ハングリーさに欠ける。

 「長崎の県民性」として、よく出てくるキーワードだ。「鎖国時代に国際貿易港かつ天領として栄え、豊かな生活を送っていた」ことに基づくものなのだろう。ちなみに、かつて天領だったエリアは、現在の長崎市の中でもほんの一部だ。全県をカバーして語るにはあまりに狭いし特殊な場所だったが、それがあまりに“オンリーワン”だったので、長崎のイメージは江戸時代のままなのである。

 私は長いこと「天領」に暮らしてきたので、そのイメージは当事者としては若干の居心地悪さがある。だからといって「ほんとは閉鎖的で悲観的でネクラなんですよ」と言いたいわけではないのだが、その「居心地の悪さ」の中に、案外、大切なものが隠れているのではないかと思って手探りしてみるところだ。

 「ぬるま湯体質で、ハングリーさに欠ける」点については、これを日常生活の中で否定するのは難しいのだが、長崎の町と人が激しくなにかを求め、限界を超えて沸騰する日がある。10月7、8、9日に行われる、諏訪神社の秋の大祭「長崎くんち」だ。国指定重要無形民俗文化財で、龍踊(じゃおどり)や阿蘭陀船(おらんだせん、おらんだぶね)、唐人船(とうじんせん、とうじんぶね)などの異国情緒あふれる演し物が奉納される。全国ニュースでも紹介されるので、一度は目にしたことがあるのではないだろうか。(『くんち』と呼ばれる祭りは『唐津くんち』ほか、九州北部を中心に多数あるのだが、ここからは、長崎のそれを『くんち』と書く)

2016年のポスター。龍踊、川船、唐船祭、宝船・七福神、本踊、上町コッコデショ


 くんちの本番は3日間。江戸時代に区割りされた77の「踊町(おどりちょう、おどっちょう)」が、11ヶ町ずつ7つの組に分けられ、7年交代で受け持つ。人口減少などで参加を辞退する町もあり、例年、5〜7ヶ町ほどが奉納している。それぞれに工夫を凝らした踊りは、正味20分ほど。7年に一度の20分のために、6月の「小屋入り(こやいり)」から4ヶ月間、厳しい稽古を積む。それは、小屋入りまでにしっかり体を作っておかなければ耐えられないほどだ。

 10月7日朝の諏訪神社での奉納が、いわば「本番中の本番」だが、このほか「お旅所(おたびしょ)」など4つの「本場所(ほんばしょ)」で、合計9回のフルバージョン奉納を行う。重い船や龍を、それぞれのストーリーに合わせて演技しながら何度も回すので、1回の奉納だけでも大変な“重労働”なのだが、それを9回である。

諏訪神社で稽古する龍船(じゃぶね)
龍踊が町をめぐる


 しかも、本場所での奉納だけではない。官公庁や町中の家々、商店で1軒1軒“ショートバージョン”の奉納をする「庭先回り(にわさきまわり)」が、本場所の合間にぎっしりと入っている。たとえば、くんちの中でも人気が高い「コッコデショ(太鼓山)」では、約1トンの山車を40人ほどの男たちが担ぎつつ、これを3日間で5〜600回も放り上げては受け止める。

小学校の校庭で舞うコッコデショ


 各町が回る家や店の数は、踊りの種類によっても変わるが、2〜3千軒ほど。それが5〜7ヶ町分となれば、1〜2万回の“上演”である。くんちの3日間、約2km四方にすぎない旧町内を歩けば、あちこちから踊りの音が聞こえてくる。本踊や龍踊など、大きな船を使わないものであれば、車が通らない道にも入ってゆく。朝の神社に始まり、夜は飲屋街の路地までが、くんちの舞台なのだ。

夜の町をゆく本踊(ほんおどり)


 3日間演じ終えた出演者たちは、当然、声も体もボロボロだが、ここでしか到達できない心境があるという。そしてここには、一片の「ぬるま湯体質」も「ハングリーさの欠如」もない。むしろ、こんなにも熱くなにかを求め、理想と限界に挑むことがあるだろうか。

 私は小さいころからくんちを見て育ったので、祭りとは、こういうものだと思ってきた。しかし、長崎のことを考え、ほかの土地の祭りを見るうちに、くんちとほかの祭りとは違うのではないかと考えるようになった。

 見た目が豪華だとか踊りの完成度が高いなどという自慢ではなく、本質的な部分の違いだ。「楽天的」で「ぬるま湯体質」なはずの人たちを、4ヶ月もの間、激しく厳しい稽古に駆り立てるものはなにか。心身ともに空っぽになるまで船を曳き、龍をうねらせ続けるのはなぜなのか。

 くんちは、だれの、なんのための祭りなのだろう?

 その問題を考えることは、この町が持つイメージの奥に分け入っていくことにつながるかもしれない。

 まずはその歴史からたどってみよう。

 くんちが奉納される諏訪神社ができたのは、1625年。市中にあった「諏訪大明神」「住吉大明神」「森崎大権現」を、佐賀からやってきた修験者が集めてお祀りした。

 ただし、神さまたちが平穏に「市中にあった」とは言いがたい。禁教令が出され、多くの教会が破壊されたのは、ほんの11年前。殉教者もたびたび出ていたが、「踏絵(『絵踏み』とも)」はまだ行われていないという「禁教過渡期」のころだ。長崎の町の人は、まだほとんどがキリシタンだったから、神さまたちは「打ち棄てられた」「ひそかに祀られていた」のが実状だった。

 神社を建てるための材木の仕入れや、大工の雇い入れも妨害されて難儀したようだ。それでもなんとか社殿を造り、翌年には湯立神楽の奉納が始まったが、依然としてキリシタンであり続ける人が多く、町を挙げての本格的な祭礼までには、しばらくの年月が必要であった。

 禁教はしたものの、住民はまだキリシタン。

 幕府や奉行がそんな現実を放置できなくなってきたのか、禁教令から15年目の1629年に踏絵が開始された。聖像に足を掛けて“潔白”を証明するという、人間の心身双方にダメージを与えるこのシステムは、幕末の1857年に至るまで228年も続くのだが(禁教令の撤廃はさらに16年後の1873年)、毎年正月に行われたことから、いつしか俳句の季語として使われるほどの“年中行事”となってゆく。  

 その一方で、単なる締めつけ、あるいは貿易の利益配分などの現実策だけでは解決しないとも感じたのだろう。キリスト教を棄てたあとの「心の穴」を埋めるものとして、彼らの気を紛らすための祭りを行おうとした。

 その役割を担ったのが、くんちである。1634年、諏訪神社に祀られる「諏訪」「住吉」の神輿渡御(『森崎』が参加するのは、なぜか70年後)と、遊女による小舞の奉納で、ようやく“祭り”と呼べるものが開催された。九月七日と九日に行われたので(以下、旧暦の日付は漢数字で表記)、重陽の節句でもある「九月九日」から「くんち」となった(『宮日』『供日』説もあり)。

 市中の教会を破壊しつくした禁教令から20年、諏訪神社ができて9年、「踏絵」が始まって5年が過ぎた年である。

 くんちの始まりは、よく「キリシタン対策」などという言葉で表される。禁教令が出され、町と人心が荒廃した、その“穴埋め”だったのだと。実際に奉行所から多額の援助や貸し付けが行われたのだから、”行政主導の官製イベント“ではある。こう書いてしまうと、毎年うつつを抜かしている身としては悲しくもあるが、始まりがそうだったというのは認めざるを得ない。

 収穫祝い、怨霊退散、死者への慰め……古今東西の祭りの起源や由来は、その地に住むものの自発的な祈りや願い、感謝がほとんどであろう。なのに、くんちはどうだろう。“行政主導”である上に、祭りで高揚した神威によって“退散”を願われるのは、ほかでもないキリシタンの自分自身であるし、棄教した人であれば「かつての自分」なのである。「自分探し」どころか「自分退治」の祭りを強いられるというのは、かなり複雑な心境だったのではないか。

 彼らにしても受け入れがたかったようで、初期の神輿渡御では、たびたび妨害があったようだ。しかし、くんち開始を機に禁教は一層強化され、「参加せぬものは焼き殺す」とのお達しまで出された。

 それまでの心のよりどころを完全に否定されつつ、とにかく形だけでもやらなければ、火あぶりになる祭り。

 これ、どうすりゃいいの?

 私だったら、そう思う。

 現在語られる一般的な「くんちの歴史」は、「禁教令→神仏保護→キリシタンはくんちで対策→みんな喜んでやるから華美になっちゃってさ〜→これぞ長崎っ子の心意気!」というノリだ。でも、そのあいだには、葛藤や後悔や踏ん切り、屈折、反転、開き直り……ありとあらゆる感情が渦巻いていたはずだ。少なくとも、自分自身が棄教を経験した人と、その子や孫くらいの世代までは、親類縁者やお隣さんがどういう行動を取るのか、探り合い、牽制し合いながら、参加や運営が進められてきたのではないのだろうか。

 とはいえ、時代が下った江戸時代後期のくんち解説には「悪のキリシタンを征伐するため!」といった表現さえ見受けられる。厳しい禁教の時代には、そう書くのが自然だったのだろう。征伐され、対策「される側」だった長崎の人の意識は、いつしか「する側」へと転換していったようであるし、さらにそれは現在でも、たいして変わらないままなのだ。

 私としては、このおなじ地面の上で、かつて信仰を棄て、あるいは否定しながら生活することについて、悩み苦しんだ人たちとその胸の内を「征伐」や「対策」で片付けるというのは、もうやめたい。

 その上で、心の穴に無理矢理あてがわれた祭りを、長崎の人がどのように自分たちの血肉の通ったものにしてきたのか、くんちをこれほどまでの祭りに育て上げてきたのかということを考えてみたいのである。つづく
 (写真 ©Midori Shimotsuma)