幕末から明治にかけての開国と近代化により、貿易を主としてきた長崎の産業は、造船、石炭生産などの工業へ移った。それは時代とともに軍需産業と強く結びつき、第二次世界大戦ともなると、港の造船所では軍艦が、浦上川河口の工場地帯では大量の兵器が作られていた。鎖国時代の海外への窓口だったはずの町は、100年も経たないうちに、原爆投下の標的となってしまったのだ。
 終戦があと一週間早ければ落とされなかったのか、落とされたから戦争が終わったのかはわからない。
 1945年8月9日午前11時2分、プルトニウム型原子爆弾「ファットマン」が浦上の上空で炸裂した。7万4千人が亡くなり、7万5千人が傷つき、2万戸近くの建物が破壊された。西坂の丘にさえぎられていた長崎の旧市街も、延焼や爆風で大きな被害を受け、焼け野が原となった。

 原爆の痛みはたしかに大きかったが、この町にはそれ以前にも、国際都市ゆえの悲しみがある。日ごろ親しく挨拶を交わす人たちが、敵になってしまったのだ。

 明治後期以降の長崎では、水産業も発展している。それまでは沿岸漁業中心だったが、近代的な蒸気船を漁に使うことで、東シナ海という大漁場が開けたのだ。その起爆剤となったのが、1907年にトーマス・グラバーの息子、倉場富三郎(くらばとみさぶろう)が起した漁業会社である。大型のトロール船による底曳網漁に成功し、今日につながる長崎の水産業の基礎を築いた。そのかたわら、港に揚がる魚介類を日本画家に描かせ、「グラバー図譜(『日本西部及び南部魚類図譜』)」を作成。色鮮やかな約600種の魚たちは、現在も博物学的、美術的に高い評価を得ている。富三郎はまた、長崎の氏神「諏訪神社」の氏子にも迎えられ、名実ともに長崎人であった。
 1938年、三菱長崎造船所で戦艦武蔵の建造が始まると、造船所を一望する富三郎の自宅……グラバー邸は、軍の圧力により三菱への売却を余儀なくされた。さらには敵国の混血児、スパイとして厳しく監視され、終戦後の8月26日、長崎市復興のために多額の寄付を残して自殺した。

1939年半ばまで富三郎が暮らしたグラバー邸


 縁の深い中国との関係にも亀裂が走った。唐船貿易の商人に始まる近代の長崎華僑は、明治後期には約1000人に達していたが、1937年からの日中戦争で貿易は不能になり、華僑の行動も制限された。3分の1ほどが本国に引き揚げ、残る人々は監視やスパイ嫌疑を受けながらの生活を送った。
 江戸時代初期には、6〜7人に1人の割合で「唐人さん」が暮らし、中国文化が色濃く溶け込んだ長崎の町でさえ、戦争となれば暗雲が立ちこめる。いったん引き上げた華僑たちは、中国の内戦や日中国交の断絶もあり、ふたたび戻ることはなかった。

唐人屋敷跡の観音堂。華僑の所有であったが、第二次大戦中、土神堂(どじんどう)、天后堂(てんこうどう)もあわせ、長崎市へ強制的に寄付させられた


 戦争が終わってもなお、痛みと悲しみは続く。
 原爆によるケロイドや、当時は原因不明とされた放射能による体調不良への偏見、被爆そのものに対する差別もあり、貧困に陥る被爆者も多かった。戦後10年で大型施設や道路の整備は進められたが、被爆者の救済策はまったくと言っていいほど取られていない。
 1955年に平和祈念像が完成した際、原爆詩人の福田須磨子は「原子野に屹立する巨大な平和像/それはいい それはいいけれど/そのお金で なんとかならなかったのかしら/“石の像は食えぬし腹の足しにならぬ”/さもしいと言ってくださいますな」(『ひとりごと』より抜粋)と綴っている。

平和祈念像。島原の乱の地、南有馬町出身の北村西望作


 「原爆は“長崎”ではなく、“浦上”に落ちたのだ」などと言う人もいた。全市的な被害を受けたにもかかわらず、そうした見方が出てくるのは、単なる地理的な感覚からだけではないだろう。ふたつの土地のあいだには、禁教により、棄教と潜伏に道を分けたことで穿(うが)たれた心の溝が、依然として存在していたのだ。
 また原爆症と闘いながら『長崎の鐘』『この子を残して』などを著した、医師でカトリック信者の永井隆は、原爆とその犠牲者を「神の摂理」「汚れなき子羊の燔祭(はんさい。生け贄を焼くこと)」と表現して、様々な解釈や反論を呼んだ。
 平和祈念像が建った一方で、その3年後の1958年、被爆した浦上天主堂の遺構は撤去された。保存も検討されていたが、アメリカとのやり取りや、信者側が現地での教会再建を望んだことなどから、取り壊しが決まった。踏絵が行われた庄屋宅跡に、ふたたび天主堂を建て、日々の祈りを捧げることが、長年の踏絵への贖罪だったのである。

1959年にコンクリート造で再建。1981年のヨハネ・パウロ二世来訪にあわせてレンガ張りとなった


 浦上といえども、ひとつではなかった。
 江戸から明治にかけての浦上山里村には5つの郷があり、そのうち4つにキリシタンが暮らしていたが、1つにはそれを監視する役割を持つ人々が置かれていた。「浦上四番崩れ」で秘密教会に踏み込み、キリシタンを捕縛したのは彼らである。両者のあいだには激しい諍いや敵対関係が存在したが、それは社会構造と住民感情の両面から、為政者によって仕掛けられたものだった。
 彼らが住んでいた地区は、大正以降「浦上町」とされた。原爆で建物は壊滅し、住民の3分の1ほどが死亡。残る多くの人も町を離れた。戦後の区画整理では、町を分けるような広い道路が通され、先祖が眠る墓地も大幅に削られた。これにより浦上町は実質的に失われ、1964年の町界町名変更で、その名前も無くなった。
 ここには、都合の悪い歴史を忘れたいという為政者の、ひいては浦上、長崎全体の意識、無意識が働いていたのではないか。

浦上町の存在と原爆の被害を記す慰霊塔と「涙痕之碑」


 しかし、浦上町の人々のルーツをたどれば、長崎の町から移転させられたキリシタンである。禁教時すでに、罪人の捕縛や処刑に関する役割を担っていたが、宣教師やキリシタンの処刑に際し、その任を何度も拒否している。記録には残されていないが、それによって彼ら自身が殉教した可能性も、大いにあり得るのだ。

 分断、対立、差別。戦争と原爆は、長崎の人や町を殺し、傷つけただけでなく、封じていた歴史や人間の弱さまでをもさらけ出した。 
 これをあえて糧とし、汲むべきものを思うとき、そこには、ほかの町では見つからないものが現れるかもしれない。(写真 ©Midori Shimotsuma)

※次回は最終回。12月9日更新予定です。