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ソマリ人のきもち

 19世紀(明治時代)にソマリ世界を訪れた最も著名な人物である、詩人のアルチュール・ランボー。彼の生涯は謎に満ちているが、最大の謎はそれまで狂ったように放浪を繰り返していた元詩人が、なぜソマリ世界の周縁(具体的には現イエメンのアデンと同エチオピアのハラル)にたどりついてから、動きをピタリと止めてしまったのかということだろう。
 ヨーロッパから回ってきて、アデンに腰を落ち着けたというのはわかる。
 ランボー研究者の鈴村和成先生も『書簡で読むアフリカのランボー』(以下、『アフリカのランボー』で「海に開かれ、沙漠に通じる、酷暑のイスラム都市ということが、 寒さと農耕と定住生活とキリスト教をことのほか毛嫌いしたランボーのノマド的な気質に合っていた」と説明している。

 だが、それ以後はほとんど動いていない。ソマリランドやジブチ経由でエチオピアのハラルへ行き来するのみ。一度、アビシニア(現在エチオピアの首都であるアジス・アベバ周辺)まで仕事で出かけたときも、行く前はさんざん「そこは素晴らしく気持ちのいい土地なんです。住民はキリスト教徒で歓待の精神にあふれています」と褒めちぎっていたのに、いざ着いてみれば「この汚らしい土地では…」と悪態をついて二度と訪れようとしなかった。
 交通が困難だったからではない。『アフリカのランボー』によれば、当時アフリカやアラビアに滞在していた交易商は年に一度は休養や療養のためにヨーロッパに帰っていたという。感覚としては現在とさして変わらない。交通の便は極めてよかったと考えられる。なのに、ランボーはアデン到着後、一度もヨーロッパへ帰ろうとしていない。
 最後の3年間はハラルから外へは全く出なかった。彼は書簡ではタンザニアのザンジバル島のことを恋い焦がれた様子で語っており、行こうと思えば、東京の人間が大阪へ行く程度の気持ちで行けるはずなのに、実行していない。また「象狩りに出発する」と宣言したこともあるが、具体的な記述はなく、実際に行った形跡はない。
 鈴村先生もこのあまりの出不精ぶりを「不可解」と述べている。
 アデン到着後10年を経てようやくランボーが帰国したのは病気(梅毒とガンが併発したと思われる)が悪化したためだった。しかも手術で片足を切断してからもなおハラルに戻ろうと試み、途中のマルセイユで没した。

 彼にとってハラルとアデンの何がそれほど魅力だったのか?
 1つ考えられるのは「女性」である。妻もしくはそれに類する人がいた可能性はあるだろう。だが、書簡では女性についてはほとんど触れられていない。唯一、イタリア人の知り合いに紹介されて同居していたアビシニア女性に「暇を出した」と書いているだけだ。
 それにランボーのような極端に放浪気質の人が、一人の女性にそう執着するとは思えない。仮に妻や愛人がいたとしても、他の土地へ旅もしないのはいたって不自然である。私だってこよなく妻を愛しつつ、年に数ヶ月は外国を旅している(以上、公式声明です)。

 では、ランボーが放浪をやめてアデンとハラルに留まり続けたのはなぜか?
 さんざん気を持たせるような言い方をしてきたが、本連載をお読みになられている賢明な読者には明々白々だと思う。
 ランボーは「カート中毒」だったのだ。
 そうとしか思えない。
 だって、イエメンとハラルは現在でも世界のカートの中心地なのだから。

 そもそもカートとはどんな植物なのか。
 世界でも数少ないカートの専門書、Anderson,Beckerleg,Hailu&Klein ”The Khat controversy Stimulating the debate on drugs”(アンダーソン他著『カート問題 ドラッグについて大いに語ろう』〈未訳〉)によれば、野生種はアフガニスタンから南アフリカまで広く見られるが、カートの栽培自体は「何世紀もの間、アラビア半島のイエメンからケニアのメル高原までの狭い帯状の地域に限られていた」という。
 補足するなら、イエメンからハラルを通り、ケニアの東のメルに至る帯状の地域ということになる。ちなみに、イエメン、ハラル、メルは今でもカートの三大生産地である(南部ソマリアではメル産のカートを「ミロ」とか「ミラ」と訛って呼んで愛好している)。

 カートの栽培が始まったのは、イエメンかエチオピアのどちらかだと思われるが、どちらなのかはわかっていない。これは面白いことに「コーヒー」と「シバの女王」についての議論と同じなのだ。コーヒーの栽培が始まったのも、シバの女王が治めていた王国があったのも、紅海の東側すなわちイエメン側だという説と、西側すなわちエチオピア側だという説がある。ちなみに、現在のソマリランドやプントランドにシバの女王が住んでいたという人もいる。
 要するに、紅海両岸は昔から文化・経済的に密接なつながりをもっていたということだろう。
 『カート問題』によれば、カートについての最古の公式記録は「1330年、エチオピアのアムダ・シヨン皇帝の裏庭(バックヤード)に、イスラムの宗教指導者セブラディーンがカートの種をまいた」というものだという。
 アムダ・シヨン皇帝(在位1314—44)は生年不詳のようだが、後醍醐天皇(在位1318—39)とだいぶ重なっている。武力に優れ、エチオピア周辺を広く武力で制圧し、キリスト教に基づく強大なエチオピア帝国の基盤を作った。その統治は東はソマリランドからイエメンのアデンにまで及んだという。後醍醐天皇が知っていればさぞかし羨んだことだろう。
 もっとも、だからといって、カートの栽培や使用がこの皇帝の治世下で広まったと考えるのは早計で、なぜなら昔からずっとエチオピア正教ではカートの使用が禁じられていたというからだ。
 エチオピアに流布している伝説によると、神が地上に降り立ったとき、他の植物はみな頭を垂れていたのに、カートの木だけが毅然と頭をもたげていたため、神の逆鱗に触れ、「おまえなど永遠に人間の口で噛まれればよい」と呪いをかけられたんだそうだ。
 私のようなカート好きな人間にとってはそれは呪いではなくて「ラッキー!」なことだったが、クリスチャンはそう思わなかった。というより、これはカートを嫌うクリスチャンの創作した伝説なのだろう。
 一方でムスリムはカートの効用を歓迎した。カートがいつから使用されたかはわからないものの、少なくとも14世紀には皇帝の裏庭に種まきされると記録されるほどメジャーなものになっていたわけだ。
 14世紀といえば、前にイブン・バットゥータの回で見たように、イスラム世界ではスーフィー(神秘主義)が全盛だった。コーヒーも最初はスーフィーの徒が夜を徹してコーランを読誦するときに飲み、徹夜とカフェインの力が陶酔をもたらすのに効果があったと言われる。カートも同じ目的で用いられたことは容易に想像できる。
 そのためだろうか、「カートはムスリムとクリスチャンを区別するための象徴的なものとなっていた」(『カート問題』)という。
 その傾向は二十世紀まで続き、ランボーより少しあとに生きたリジ・イヤスという皇帝はハラルでムスリムと一緒にカートを食ったと糾弾されたことがきっかけで王位から追われたそうだ。
 そう考えると、最古のカートの記録は意味深長である。なぜクリスチャンの領土を広げた皇帝の裏庭でムスリム指導者がカートの種をまいたのか。もしかすると、それはムスリムとクリスチャンの共存、和解、あるいはムスリム側の服従を意味したのかもしれない。

 さて、長らくカートはヨーロッパ世界に知られていなかったのだが、最も初期にこれを報告した人物は誰かというと、『カート問題』によれば、驚いたことに『千一夜物語』の翻訳者としても知られる探検家リチャード・バートンだった。
 彼は1821年生まれで勝海舟より2つ年上である。言語の達人で、アフガニスタンのパシュトゥー語やペルシャ語、アラビア語、ヒンディー語など多数の言語に堪能で、ムスリムを装ってメッカに潜入し、つぶさに報告した初めての西洋人でもある。
 1856年にハラルにやってきたバートンはカートにすっかりハマり、1866年にそれについて次のように報告したという。
「ハラルの人々は毎日9時から12時までそれ(カート)を食べ、昼食をとってから雑穀(ヒエの類い)の酒や蜂蜜酒を飲む」
 おお、当時のハラルの人たちはまるでダメ人間じゃないか。ていうか、羨ましい。カートは効いているときは素晴らしく気持ちがいいが、切れてくると異常に神経過敏になり、風の音にさえ怯えてしまう。そんなとき酒を軽く飲むと、日常へソフトランディングすることができる。
 1866年といえば、ランボーが12歳の頃だ。そして、中東アフリカ方面へ向かうにあたり、当然バートンの報告も知っていたことだろう。バートンは当時の有名人である。もしかするとアデンやハラルに向かったのもバートン報告の影響があったのかもしれない。
 『カート問題』によれば、バートンの報告は「(カートについて)ヨーロッパ人による最も初期の報告の1つだっただけでなく、もっとも肯定的なものの1つ」だったという。換言すれば、他の報告はカートについて大半が否定的なものだったということだ。
 ヨーロッパ人の目には、人々が地面に敷いたゴザの上にべったり座って、緑の草をぐちゃぐちゃ噛んでいるなど、およそ非文明的な行為に見えたのだろうし、何と言っても仕事にならない。現地人を働かせて搾取したい植民地政府にとってもゆゆしき問題だったにちがいない。

 エチオピアのクリスチャンと西洋人が忌み嫌ったカート宴会。
 根っからの不良気質であるランボーがカートに魅了されないはずがない。しかもカートは酒の酔いと異なり、覚醒作用がある。幻覚は起こさないが、何か「ヴィジョン」のようなものが見えるのだ。私もカートの酔いで「ソマリランド・スター誕生計画」とか「ソマリランドで七人の侍のリメイク映画を撮る」などのプロジェクトで大成功を収めるというヴィジョンを得た(そしてカートが醒めて絶望した)。
 カートの中毒性については、私は正直、よくわからない。私の場合、ソマリ世界へ行くと1カ月や2カ月は毎日カート漬けになる。毎日噛まないと生活ができない。カートがないと気力がわかず、うつ状態になりやすいのだ。
 ただしソマリ世界を離れてカートが手に入らなくなっても、私は酒のある場所なら、特に苦もなくカートを忘れることができる(というより、アルコール依存に戻るだけかもしれないが)。
 ただ、半年や1年という単位で噛んでいると話はちがうのかもしれない。それに私とちがって、ランボーは酒が容易に入手できる環境にいた。バートンが報告したハラルの状況さながらだが、「カートをやって酒を飲む」のが可能だったのだ。
 カートは覚醒し、酒は酩酊する。アッパーとダウナーであり、両方に依存すると、それは楽しいだろうが、そこから抜け出すのは難しいだろう。
 酒とちがい、カートは栽培地から離れた場所に持って行けないというデメリットがある。酒なら容器に入れて持ち運びできるが、カートは木の葉っぱであるだけに、極めて難しい。新鮮な葉でないと食べにくいし、嵩張りすぎて持ち運べない。
 だからこそ、ランボーはザンジバルなどへ行くことができなかった。ザンジバルどころか象狩りにも行けなかった。一度だけアビシニアへ行ったが、悪印象しかなかった。キリスト教圏であるアビシニアではカートが入手できず、ひどい禁断症状に陥ったのかもしれない。現地の知り合いに「頼むからカートを買ってきてくれ」と頼んだらにべもなく断られたのかもしれない。
 そして、自分がカート中毒に陥っているなどということを母国の家族や知人に書き記すはずもない。
 最晩年の3年はハラルに定住し、アデンへも行かなかったのも不思議ではない。ハラルの方が涼しくて酒も入手しやすく、体調の悪い者にとってはずっと過ごしやすいからだ。
 ランボーはガンあるいは梅毒が悪化し、死にかけていながら、ハラルに戻りたがった。それだけみれば「不可解」かもしれないが、病気が悪化したからこそ、なおさら気力とヴィジョンの源であるカートがほしかったと考えれば、すんなりと納得できる。カートは痛みや苦しみを紛らわすこともできる。
 彼が離れられなかったのはハラルではなくカートだったのである。
 放浪の詩人ランボーはソマリ世界周辺でカートの魅力に取り憑かれ、以後は脳内ヴィジョンを旅していた──。
 というのが私の推理であり、今後ランボー研究者が真剣にこの推理を検討論証してくれることを祈っている。

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 はじめまして。2021年2月1日よりウェブマガジン「考える人」の編集長をつとめることになりました、金寿煥と申します。いつもサイトにお立ち寄りいただきありがとうございます。
「考える人」との縁は、2002年の雑誌創刊まで遡ります。その前年、入社以来所属していた写真週刊誌が休刊となり、社内における進路があやふやとなっていた私は、2002年1月に部署異動を命じられ、創刊スタッフとして「考える人」の編集に携わることになりました。とはいえ、まだまだ駆け出しの入社3年目。「考える」どころか、右も左もわかりません。慌ただしく立ち働く諸先輩方の邪魔にならぬよう、ただただ気配を殺していました。
どうして自分が「考える人」なんだろう―。
手持ち無沙汰であった以上に、居心地の悪さを感じたのは、「考える人」というその“屋号”です。口はばったいというか、柄じゃないというか。どう見ても「1勝9敗」で名前負け。そんな自分にはたして何ができるというのだろうか―手を動かす前に、そんなことばかり考えていたように記憶しています。
それから19年が経ち、何の因果か編集長に就任。それなりに経験を積んだとはいえ、まだまだ「考える人」という四文字に重みを感じる自分がいます。
それだけ大きな“屋号”なのでしょう。この19年でどれだけ時代が変化しても、創刊時に標榜した「"Plain living, high thinking"(シンプルな暮らし、自分の頭で考える力)」という編集理念は色褪せないどころか、ますますその必要性を増しているように感じています。相手にとって不足なし。胸を借りるつもりで、その任にあたりたいと考えています。どうぞよろしくお願いいたします。

「考える人」編集長
金寿煥

著者プロフィール

高野秀行

1966年東京都生まれ。早稲田大学探検部在籍時に執筆した『幻獣ムベンベを追え』でデビュー。辺境探検をテーマにしたノンフィクションを中心に『西南シルクロードは密林に消える』『ミャンマーの柳生一族』『アヘン王国潜入記『謎のアジア納豆 そして帰ってきた〈日本納豆〉』『幻のアフリカ納豆を追え! そして現れた〈サピエンス納豆〉など著書多数。『謎の独立国家ソマリランド』で第35回講談社ノンフィクション賞、第3回梅棹忠夫・山と探検文学賞受賞。

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